酒が嫌いで、風呂も嫌い。
生ものは一切食べず、
ハマグリなどの貝類も受け付けない。
芥川龍之介は、作家であると同時に、偏食家でもあった。
唯一、好んで食べたのは、
鰤の照り焼きだったそうだ。
そんな芥川家のお正月。
小松菜、大根、里芋、くわい、タケノコ、鳥肉を並べ、
お雑煮は、切り餅を焼かずに、お湯で煮る。
驚くほど質素だが、
大晦日の晩には、昆布と小梅を入れたお茶を、福茶と呼んでたしなんだ。
新しい年に、福が来るように。
誰もが思う小さな願いは、この偏屈そうな男の心にも、ちゃんとある。
俳人、高浜虚子は長生きだった。
三十歳まで命があればいい、と思っていたそうだが、
実際は八十五歳で生きたし、そのあいだも俳句を詠み続けた。
晩年になっても正月を迎えるたびに、自分の気持ちを言葉にした。
揺らげる歯 そのまま大事 雑煮食ふ
酒もすき 餅もすきなり 今朝の春
斯くの如く 只ありて食ふ 雑煮かな
最後の句は、八十三歳の作。
高浜虚子先生、どうやらお雑煮がお好きだったようで。
源氏物語の一節。
「いとかたかるべき世にこそあらめ」
この言葉を、
「なるほど世間はむずかしい」
そう訳したのは、民族学者の折口信夫だ。
古典の口語訳を喜んで引き受けたのは、
同居する弟子たちの食事代を捻出するためだったという。
正月になるとさらに多くの弟子が集まるので
築地市場や百貨店をまわり
おでんの具に高級ハム、合鴨などを買い漁った。
弟子のひとりは、のちにこう語っている。
食べ物にかけては掏摸のように敏捷で貪欲な先生だった。
なるほど、世間は難しい。
生物学者、南方熊楠。
この人は、学者というよりも
野生児と呼んだほうが、しっくりくる。
普段は服など着ずに裸で暮らし、酒は浴びるように飲む。
ビールなら1ダース。
日本酒は茶碗でがぶがぶと飲んだ。
武勇伝も多い。
アメリカでは、得意の柔道で不良たちを投げ飛ばし、
イギリスの大英博物館に勤めていたころには
侮辱した白人を殴り倒し、入館禁止になった。
その反面、驚くべき記憶力を持つ。
読み漁った本の内容を鮮明に覚えており、
家に帰ってから完璧に写し書いた。
語学力も堪能で、十数カ国語を話したという。
そんな熊楠のお正月。
おせち料理とお雑煮を好んで食べたが、
「おめでとう」という言葉は禁じていた。
命が縮まるのに、なにがめでたいか。
なにからなにまで破天荒なこの男。
のちに民族学者の柳田國男が、
熊楠を「日本人の可能性の極限」と喩えたのも、よくわかる。
食事を味わうよりも、
この人は、食事を調べるほうが好きなのではないか。
民族学者、柳田國男の本をめくると、
ついそう思えてくる。
彼自身も美食を嫌い、質素な食事を好んだ。
正月にまつわる食べ物の記述は多いが、
美味しそうな話はなかなか見つからない。
たとえば鏡餅については、このように記している。
鏡餅の“カガミ”とは、各人に平等に向けられる鏡で、
ここに食物分配の本来の意義があるとする。
なるほど。
お正月から、背筋がぴんと伸びました。
日本人は立派な文明を持っていながら、
好んで野蛮人の真似をしたがる。
明治時代、欧米の文化に心酔する日本国民を
そう言って批判したのは、小泉八雲だ。
日本人よりも日本人らしいこの男は、
お正月のしめ飾りを気に入り、
一月の末までそのまま飾り続けていたそうだ。
明治時代の思想家、幸徳秋水。
日露戦争に異を唱え、鋭い論調で政府を批判したが
彼そのものは呑気な性格であり、
私生活では酒と女。放蕩に身を任せていた。
昼酒をあおり大切な帽子をなくす。
給料を前借りして飲みまわる。
そんなことを繰り返すと、
年の暮れには一銭も残らない。
家計にまわす金はなく、
母や妻に対し、不孝の子にして不仁の夫なりき、と自らを戒めている。
幸徳秋水の、ある元旦。
大逆事件の首謀者として疑われ、
獄中で最後の正月を迎えた。
友人への手紙には、こうつづられている。
弁当箱を取り上げると、急に胸が迫ってきて数滴の涙が粥の上に落ちた。
僕は始終、粥ばかり食ってる。
この数日後、死刑を宣告された。
今年は、それからちょうど100年。
のどかな正月を送れるのは、本当に幸せなことだと思う。
心配事は、いろいろあるけれど。