2011 年 1 月 2 日 のアーカイブ

厚焼玉子 11年01月02日放送


詩家の晴景

 詩家晴景在新春(しかのせいけいは 新春にあり)

詩人が愛でるべき晴れやかな景色は新春である、と
うたったのは中国の詩人、楊巨源(ようきょげん)。

花の頃になると人でいっぱいになってしまうから
わずかな春のきざしを愛でようという意味だ。

なるほど、言われてみると
葉を落とした木々はもう新しい芽をつけている。
はこべの緑も鮮やかだ。

春はもうそこにある。


年賀はがき

年賀葉書というアイデアを思いついたのは
大阪で洋品雑貨の店を経営していた林 正治(まさじ)さんだった。

戦争以来の苦しい生活のなかで
手紙のやりとりも途絶えてしまった人たちがいる。
もし年賀状が復活すれば
お互いの消息を知らせることができるのではないだろうか。

このアイデアは郵政省に持ち込まれ、実現した。

昭和24年の12月には「お年玉くじつき年賀葉書」が売り出され
日本の年賀葉書の第一号になる。

ちなみにそのときのお年玉賞品は
特等がミシン、1等が純毛洋服地だった。

いまはすっかり定着した年賀状、
俳句や短歌の自信作を挨拶代わりに書く人も多い。


大伴家持

万葉集を編纂した大伴家持は
そのいちばん最後をみずからの新春の歌で締めくくっている。

 あたらしき 年のはじめの初春の 今日降る雪のいや重(し)け吉事(よごと)

大伴家持は少年時代に父を失っている。
そのせいだろうか、
若いときは出世の糸口をつかみかけては
地方に飛ばされることが多かった。
富山に鳥取、九州…それから関東にも下った。

それが幸いだったのだ、という意見がある。
万葉集におさめられた多彩な地方の歌は
家持の左遷がなければ
きっと集まっていなかったのだから。

 あたらしき 年のはじめの初春の 今日降る雪のいや重け吉事

新年に降り積もる雪のように
良いことがかさなりますように。

そんな願いを込めて詠まれた歌の通り
晩年の家持は順調に昇進していった。

あたらしい年に良いことがかさなりますように。

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蛭田瑞穂 11年01月02日放送


新年の歌④「お正月」

明治の作曲家、滝廉太郎。

15歳で現在の東京芸術大学に入学すると、
4年後に首席で卒業。

「荒城の月」「箱根八里」など
23歳で亡くなるまでに
数々の名曲をつくった夭逝の天才作曲家。

お正月が待ち遠しい子どもの心を表現した
童謡の「お正月」も彼の手によるもの。


新年の歌⑤「美しく青きドナウ」

1866年にプロイセン王国とオーストリア帝国の間で起こった
「普墺戦争」はプロイセン王国の勝利で終結した。

敗戦したオーストリアの国民は悲しみに沈んだ。

そんな国民を励まそうと、
ウィーン男声合唱協会の指揮者ヨハン・ヘルベックは
ヨハン・シュトラウス2世に合唱曲を依頼する。

それまで合唱曲を書いたことがなかったシュトラウスは
一度はその依頼を断るが、ヘルベックの熱意に押され曲を書き上げる。

そして生まれたのがワルツ『美しく青きドナウ』。

最初は男声合唱曲だったが、
のちにシュトラウスが管弦楽曲に書きなおすと人気を博し、
「シュトラウスの最高傑作」とまで賞讃されるようになった。

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が新年に開催する
ニューイヤーコンサートではこの『美しく青きドナウ』が
アンコール曲として演奏される。

アンコールでは、曲の序奏部を演奏したあと、
拍手によって曲をいったん打ち切り、
指揮者や団員の新年の挨拶が行われることが恒例となっている。


新年の音楽⑥「クレメンス・クラウス」 

ウィーンのお正月の風物詩といえば、
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が開催する
ニューイヤーコンサート。

1939年に始まったこのコンサートの初代指揮者が
クレメンス・クラウス。

1893年、ウィーンに生まれたクラウスは
その貴族的な容姿と優雅な演奏スタイルで人気を博し、
世界的な指揮者へと登り詰めた。

1954年に亡くなるまで、
ニューイヤーコンサートの指揮者を7度も務めた
クレメンス・クラウス。

その生涯に渡る業績が讃えられ、
現在では「最後のウィーンの巨匠」と呼ばれている。


新年の歌⑦「オールド・ラング・サイン」 

『蛍の光』はスコットランドに古くから伝わる民謡。
原題は『オールド・ラング・サイン』という。

作者は不明だが、歌詞を現代に伝わる形に変えたのが、
18世紀のスコットランドの詩人ロバート・バーンズ。

旧友と再会し、思い出話を語りながら酒を酌み交わす。
その歓びが歌詞に綴られている。

その詞の内容もあり、スコットランドで
『オールド・ラング・サイン』は新年を祝う歌としてうたわれる。


新年の歌⑧「春の海」

琴演奏家、宮城道雄が作曲した『春の海』。
1930年の歌会始の勅題「海辺の巌」にちなんで作曲された。

8歳で失明した宮城道雄はこの曲を
幼い頃祖父母と暮らしていた瀬戸内の風景を
思い浮かべてつくったという。

この曲を有名にしたのが、
フランス人のヴァイオリニスト、ルネ・シュメー。

この曲の旋律に魅せられた彼は
尺八のパートをヴァイオリンに変え、
宮城道雄とアンサンブルした。

その演奏を収録したレコードは日本だけでなく、
アメリカ、フランスでも発売された。

宮城道雄の脳裏に焼きついた瀬戸内の美しい春は、
海を越えて、人々の耳に届けられることになった。

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