2011 年 8 月 のアーカイブ

小野麻利江 11年8月7日放送



「夏」のはなし 淀屋辰五郎

氷も電気もなかったころに
粋な涼み方を考えだした男がいる。

江戸前期の豪商であり遊び人でもあった
五代目淀屋辰五郎。
その広大な邸宅の夏座敷には
金魚が泳ぐ大きな水槽を天井にとりつけ、
それを下から眺めて、暑気払いをしたという。

それから数十年
丸い小さなガラスの器に金魚を泳がせ
風鈴のように軒先に吊るす金魚玉が
庶民の間にもひろまったのだが
ガラスの涼しさと金魚の涼しさを組み合わせるアイデアは
淀屋辰五郎のおかげといえそうだ。



「夏」のはなし 清少納言

清少納言も、かき氷を愛していた。

『枕草子』の中の、「あてなるもの」。
上品なもの・良いものを挙げるくだりで、
こんな記述がでてくる。
削り氷にあまづら入れて、
新しき金鋺(かなまり)に入れたる

金属製の器に盛られた、削り氷。
その上に、アマチャヅルの茎の汁をかけた、
平安時代のかき氷。

氷の入った金属の器を手に持つと
当時ならそれだけで汗が引くほど冷たかっただろう。

クーラーなんてなかった夏の「女子の愉しみ」は、
現代にもしっかり、受け継がれている。

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茂木彩海 11年8月7日放送



「夏」のはなし 山下清

「裸の大将」山下清。

3歳になる年に重い病にかかり、
言語障害・知的障害の後遺症が残った。
まわりの子どもたちよりどうしても勉強が遅れてしまう清は、
知的障害児の施設へ預けられた。
ここでのちの画家人生を支える、ちぎり絵と出会う。

驚異的な記憶力の持ち主だった清は、
日本中を放浪しながら、情景を心に焼き付け
帰宅してからその瞬間を思い出して描いたという。

そんな清がとりわけ好んで描いたのが、夏の風物詩、花火。
夜空の黒いキャンバスに、
様々な色彩を浮かびあがらせては消え去る危うさは、
記憶を瞬間でとどめる清に
もっとも適した題材だったのだろう。

あるとき、彼は花火について、こんな言葉を残した。

大人は、もう花火をそんなに好かないものだが 
子供は大好きだと聞いて、僕は、まだ子供なのかもしれないと
少し恥かしくなりました。しかし、何といわれても花火はきれいなので、
僕はこれからも夏になったら見物に行こうと思っています。

清が最期まで描きつづけた鮮やかな花火は、
少年のように純粋でありつづけた
彼の命のきらめきだったのかもしれない。



「夏」のはなし 太宰治

暑い日が暮れる頃
庭に打ち水をして行水を使い
涼やかに風の通る着物を着て縁側に座ったら
どんなに気持がいいだろう。

そんな夏の魅力に、思いがけず救われた命がある。

 死のうと思っていた。今年の正月、
 よそから着物一反もらった。
 着物の布地は麻であった。
 鼠色の細かい縞目が織り込まれていた。
 これは夏に着る着物であろう。
 夏まで生きていようと思った。

太宰治。夏に生かされた男の最期は、
結局、新しい夏を待てなかったが。

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熊埜御堂由香 11年8月7日放送



「夏」のはなし 風鈴職人 篠原儀治

風鈴職人、篠原儀治(よしはる)。

大正13年、東京の下町、向島の風鈴職人の家の
長男としてうまれる。
職人たちが2交替で24時間風鈴を作る大きな工房で
儀治も12歳のころから風鈴作りを学び始めた。

戦時中は資材が手に入らず儀治の親が、
ふかし芋を売って生計を立てたりしていたが、
戦争から復員した儀治は、ガラス工房の復興に乗り出した。

職人が型を使わず空中でふくらます、宙吹き(ちゅうぶき)でガラスを成形し
汚れを防ぐため絵付けは中からする。
東京の下町の風鈴を「江戸風鈴」と名づけブランドにしたのも儀治の才覚だった。
デパートに営業し、販路を広げ、風鈴の売れない冬は、
アメリカに渡りクリスマスツリーの飾りとして売った。
儀治は頑固な職人であると同時に、
柔軟なビジネスマンでもあったのだ。

彼は言う。
 作った物を売る技術を知らないとダメだよ。
 家計が苦しいのに俺の跡をやろうって誰が思います?

12歳から風鈴を作り始めた少年は、
87歳になった今も息子たちと日本の夏の伝統を
守り続けている。



「夏」のはなし 上山英一郎と妻ゆき

 あなた!倉の中で
 ヘビがとぐろまいているの!

妻は夫のもとへ飛んで来た。
そして思いついた。

 あなた、
 蚊取り線香の形状、うずまき型はどうかしら?
 燃焼時間もかせげるし、お線香みたいに倒れないし。

KINCHOの創業者である上山英一郎とその妻ゆき。
夫婦のくらしのひとこまから蚊取り線香の
あの渦巻きの形は生まれた。

渦巻きはのばせば75センチ、6時間から7時間は燃えている。
それまでの棒のような、40分しか持たない製品とは
格段の違いがあった。

渦巻きの蚊取り線香は、
MOSQUITO COILと呼ばれ、世界中で
夏の日の必需品となっている。

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薄 景子 11年8月7日放送



「夏」のはなし 糸井重里

 遊んでばかりいる「夏休みの子ども」が、
 人生の理想的な生き方のように思えます。
 その夏の終わりの悲しみの味わいも含めてね。

言葉の天才、糸井重里さんは、
たとえの天才だと思う。
ぼやぼやしていると、
人生も、夏休みのようにあっという間。
さあ、遊ばなきゃです。



「夏」のはなし 茨木のり子

茨木のり子さんの若い時代の作品に、
「くだものたち」という詩がある。

杏、葡萄、長十郎梨、蜜柑など、
季節のくだものを描いた
4行ずつのオムニバス。
中でもプラムの詩が好きだ。

 夏はプラムを沢山買う
 生きているのを確かめるため
 負けいくさの思い出のため 1個のプラムが
 ルビィより貴かった頃のかなしさのため

彼女は19歳の夏、敗戦を経験する。
その1個のプラムにこめた夏の記憶は、
たぶん本物のプラムより、
いつまでたっても、みずみずしい。

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佐藤延夫 11年8月6日放送



幸田文1

いつも机の前に座り、
万年筆を走らせ、
原稿用紙を破り捨て
酒をあおるのが小説家だとしたら、
この人は何者だろうか。

彼女が文章を書き始めたのは43歳のとき。

60代の半ばには、法輪寺の三重塔を再建するため
奈良の斑鳩に住み込み、自ら寄付を集めた。

70歳を過ぎてからは、
日本の山々の崩壊を危惧し、各地を見て回った。

明治生まれの小説家、幸田文には、
まっすぐで強烈なエネルギーがあふれている。



幸田文2

「きれいになりたい頃、私は鏡から失望と悲しみをうけとった」

幸田文は、思春期だったころを回想して
こんな文章を書いた。
父親の幸田露伴は、慰めることなどしなかったそうだ。

お前は美人ではないし、醜くもない。
まして悪女になれる力量もない。
親から見れば、哀れなやつに尽きる。

そして渡されたのは、ドイツ製のカメラだった。
ファインダーを覗くと、
この世にはさまざまな美が存在することに気がついた。

美しさを計る物差しがひとつではないと知ったとき、
人生は輝きを増す。



幸田文3

自分のやりたいことが見つからない、
という悩みを抱えるのは
明治生まれの小説家も同じだった。

机の前の勉強は大嫌い。
絵画、音楽、茶の湯、生け花、踊り、
どれも悪くないと思ったが、
心から求めるものではなかった、と幸田文は語る。

「いろんなものがよかった。
 でも、どっと駈けだして行きたいほど好きな道とは思われなかった。
 そうなのだ。駈けだして行きたさ、それなのだ。」

無理に走り出しても、やがて足は止まる。
どっと駆け出したいものが、いつか見つかればいいのです。



幸田文4

幸田文の周りには、才能豊かな人が多かった。

父親は小説家で、親戚には芸術家が何人もいる。
だから自分の結婚相手は商売人が望ましいと思っていた。

婚約した相手は望み通り、商家の末っ子のお坊ちゃんで
大学を卒業後、アメリカへ留学していた。

彼に恋文を送ると、返事の代わりに
ヨーロッパの高級な自動車が迎えにきた。
そしてステーキを食べたあと、芝居に誘われたという。

嬉しくもあり、悲しくもあった。
自分が出した恋文には、恋文で返してほしかったから。

これがアメリカ流の洗練さなのか、それとも気持ちが通じていないのか。
思い悩む乙女に、父親の露伴は歌を贈った。

「黄にやせめ 紅にやせめと しら糸を 染めまどひたる ほそき心や」

嫁ぐ相手には、こちらから心を馴染ませなさいと
娘の背中を押すための歌だった。



幸田文5

34歳のとき、幸田文は離婚した。
そのあと太平洋戦争が終わり、
43歳のとき、父親の露伴がこの世を去った。

いろんなものを失ったが、
大切ななにかを手に入れた。
そう思える言葉が残っている。

「配給のろうそくが一寸ほどあまっていたことが、鉛筆を走らせた。
 一寸のろうそくの尽きないうちに、
 今夜の家事雑用を片付けてしまおうとするそれと同じ気持ちで、
 学校以来の作文を書いた」

どっと駈け出して行きたくなるものが、
ろうそくの明かりに照らされていた。



幸田文6

幸田文は、突然に筆を置いた。

親しい人にも事情を打ち明けず、
知り合いを通じて職探しを始める。
パチンコ屋、中華料理屋、犬屋の飼育場など闇雲に応募し、
ようやく、置屋の住み込み手伝いに落ち着いた。

「たださがしてあるきました。
 自分のいどころを、どこかに求めたいと思って。」

それは父親、幸田露伴という重い鎧を脱ぎ捨てるための、
自分探しの旅だった。



幸田文7

幸田露伴は厳しい父親で、
幼い娘に掃除、洗濯、薪割りなど家事の一切を徹底的に仕込んだ。

生活の基本が軸となる。
そこへ自ら取り組むことで移りゆく季節を感じ、
人の生き方、道理をわきまえることができるという独特の哲学だった。

「親に小言をくらって口返答のひとつもできないような奴はろくでなしだ」

「おまえは赤貧洗うがごときうちへ嫁にやるつもりだ」

「松も桧も一緒くたの女になってくれるな」

「人には運命を踏んで立つ力があるものだ」

「薪割りをしていても女は美でなくてはいけない、
 目に爽やかでなくてはいけない」

年端もいかない少女には、酷い言葉でしかなかったが、
のちに幸田文は随筆の中でこう振り返っている。

「畢竟(ひっきょう)、父の教へたものは技ではなくて、
 これ渾身といふことであった」

親子の間の渾身という真剣勝負。
あとで気付いた親心は、ずっしりと心に残る。

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