2011 年 のアーカイブ

五島のはなし(143)

Visionの書き手のひとりである三島邦彦くん。
おばあさんが五島の富江出身という。
それはまあいいとして
彼が貸してくれた「日本の漁師」が相当よい。

各地の漁師さんに話を聞いてまとめたものです。
大事なことがいっぱい書いてます。
作者(というか「聞き書き手」である)塩野米松さんの文章もよいです。

マーケティングとかも大事かもしんないけど
こういう本も学校の必須の教科書にしたらどうかなあ。

新成長戦略とかなんとかそんな言葉に踊らされて、
やんなくていいこといっぱいやってんじゃないのかなあ。
そしてそのやんなくていいことをめいっぱい
後押しするような仕事を自分はやってるのではないかなあ。
新成長しない戦略のほうが、いま、もっと大事なんじゃないかなあ。
わからん。ほんと、わからんことばっかり。

五島の海を思いつつ。

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五島のはなし(142)

魚の釣れない日が続くと、
五島に帰るべきなんじゃないかと
真剣に悩んでしまう。

五島じゃない海のゆーやけ

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長崎がいない!



メッセージを書き込むだけなんだけどな〜。
長崎がいない。
長崎がゼロだ。

五島って長崎じゃなかったっけ(玉子)

福島応援隊:
https://sites.google.com/site/exactfukushima/47cheerfukushima

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蛭田瑞穂 11年6月6日放送

ロッティ・ドッド

1887年のウィンブルドン選手権。
女子シングルスで優勝したロッティ・ドッドは
その時弱冠15歳と9ヶ月。

これは現在も破られていない、
ウィンブルドン女子シングルスの最年少優勝記録である。

この年を皮切りに、ウィンブルドンで5度の優勝を成し遂げた
ロッティ・ドッドはその後ゴルファーへ転向する。

そこでも才能を発揮し、
1904年には「全英女子ゴルフ選手権」も制覇した。

その圧倒的な万能ぶりに、
人々はロッティ・ドッドを“The Little Wonder”、
「小さな奇跡」と呼んだ。

フレデリック・ジョン・ペリー

1929年の世界卓球選手権ブダペスト大会。
男子シングルスで優勝した
イギリスのフレデリック・ジョン・ペリーは、
ほどなくテニスプレイヤーに転向した。

テニスでも彼の才能は遺憾なく発揮された。

1934年に全豪オープン、ウィンブルドン選手権、
全米オープンに優勝すると、
35年には全仏オープンも制覇。
「キャリア・グランドスラム」を達成した
史上初の選手となった。

その後ウィンブルドンの3連覇も成し遂げ、
「テニスの神様」と讃えられた
フレデリック・ジョン・ペリー。

引退後、彼は自らの名前を冠した
スポーツウェアブランドを設立する。
それが月桂樹のマークで知られる
「フレッド・ペリー」である。

ボー・ジャクソン

大学時代、野球とアメリカンフットボールの
花形選手だったボー・ジャクソンは
1986年、メジャーリーグのカンザスシティ・ロイヤルズに
入団した。

翌年、アメリカンフットボールのドラフトで、
ロサンゼルス・レイダーズがボー・ジャクソンを指名する。

ロイヤルズではレギュラーに定着していたが、
彼はレイダーズからのオファーを受け入れた。

こうしてジャクソンは野球とアメリカンフットボールの、
ニ足のわらじを履くことになった。

4月から9月までは野球選手としてプレーし、
9月から1月まではアメフト選手としてプレーした。
シーズンが重なる9月は野球を優先した。

1989年には打者として32本のホームランを打ち、
ランニングバックとして950ヤードを獲得した。

史上初めて、メジャーとNFLの両方で
オールスターにも選ばれたボー・ジャクソン。
人気と実力を兼ね備えた、偉大なプレイヤーだった。

ベーブ・ディドリクソン

1932年のロサンゼルスオリンピックに出場した
アメリカの女子陸上選手、ベーブ・ディドリクソン。

やり投げと80メートルハードルで金メダルを獲得し、
走り高跳びでも銀メダルを獲得した。

オリンピックの後、彼女はゴルファーへ転向。
そこでも才能を発揮し、「全米女子オープン」を3度制覇。
生涯で4度の賞金王に輝いた。

陸上競技とゴルフというまったく異なるスポーツで
頂点を極めたベーブ・ディドリクソン。

“天は二物を与えず”という言葉は、彼女には当てはまらない。

ボブ・ヘイズ

弾丸と呼ばれた男、ボブ・ヘイズ。

1964年の東京オリンピックに出場し、
100メートルと4×100メートルリレーで金メダルを獲得した。

オリンピックが終わると、
ヘイズはアメリカンフットボールに転向し、
NFLのダラス・カウボーイズに入団した。

俊足のワイドレシーバーとして活躍し、
1971年にはスーパーボウルの優勝も経験。
オリンピックの金メダルとスーパーボウルの両方を手に入れた
史上初の選手となった。

彼の足はまた、NFLの戦術を変えた。

どんなディフェンダーも世界最速のヘイズに追いつけない。
対戦するチームはマンツーマンディフェンスから
ゾーンディフェンスに変えて彼を止めにかかった。

そのためNFLのゾーンディフェンスの技術は、
ヘイズの活躍した1960年後半に大きく向上したといわれる。

ダニー・エインジ

1981年のNCAA男子バスケットボールトーナメント。
ブリガム・ヤング大学のダニー・エインジは、
試合終了の7秒前、自陣でリバウンドを奪うと、
相手ゴールまでドリブルで持ち込み、
劇的な逆転シュートを決めた。

「NCAA史上最高のシュート」とも謳われる
このシュートを決めたダニー・エインジ。
彼は大学バスケットボールのスターとして活躍する一方で、
トロント・ブルージェイズにも所属し、
メジャーリーガーとしてプレーした。

大学卒業後はボストン・セルティックスに入団し、
バスケットボールに専念することになったが、
ダニー・エインジはメジャーリーグとNBAを経験した
史上稀な選手となった。

ディオン・サンダース

プレーもファッションも言動も、
すべてが派手だったことから「ネオン・ディオン」の
愛称で呼ばれたディオン・サンダース。

1989年から97年まで、
アメリカンフットボールとメジャーリーグのチームを掛け持ちし、
ワールドシリーズとスーパーボウルの両方に出場する
快挙を成し遂げた、史上唯一の男。

同じ週にホームランとタッチダウンの両方を記録するという
離れ業をやってのけたこともある。

ディオン・サンダース。
さすがは「ネオン」と呼ばれるだけの派手な活躍ぶりである。

ジム・ソープ

陸上競技のアメリカ代表としてオリンピックに出場し、
五種競技と十種競技で金メダルを獲得した。

メジャーリーガーとして289試合に出場し、
通算2割5分2厘の打撃成績を残した。

プロフットボール黎明期のスタープレイヤーとして活躍し、
のちに全米プロフットボール殿堂に選ばれた最初のひとりとなった。

すべてひとりの選手が成し遂げたことである。

彼の名はジム・ソープ。
20世紀初頭に陸上競技、野球、アメリカンフットボールで
活躍した伝説の選手。

その功績は今に語り継がれ、
1999年にAP通信が発表した
「20世紀の最も偉大なスポーツ選手」では
第3位に選ばれた。

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五島のはなし(141)

魚が釣れなくてもたのしい
というのが
いちばん楽しい釣りなのかもしれない。

よいです。
五島の海は。
海に行くだけでいいもんなー。
たとえ釣れなくても。

あ、いや、釣れるにこしたことはないのだけれど。

五島の海を愛するクウルさんと、タコヤキさんの日々は、
http://khulmann.blogspot.com/
http://takoyanikki.blogspot.com/

釣り師はおしなべて知的なのである

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佐藤延夫 11年6月4日放送



エラ・フィッツジェラルド1

恵まれない幼少期。
この特殊な環境が、ときに大きな才能を開花させる。

アメリカのジャズシンガー、
エラ・フィッツジェラルド。

七歳のときから
売春宿の見張りをし、
違法カジノではノミ屋となり、
ほんのわずかなお金を稼いだ。
ときどきレコードを買い、
同じ曲ばかりを繰り返し歌った。
裕福ではないから、音楽だけが生きる全てになった。

1929年代のニューヨーク。
どこにでもいそうな内気な少女は、
歌が抜群に上手かった。



エラ・フィッツジェラルド2

どんなに才能があっても、歌が上手くても、
肌の色が違えば、ステージでは成功できない。

そんな時代にも関わらず、
エラ・フィッツジェラルドの周りでは、
多くのミュージシャンがこんな噂をしていた。

  まるで管楽器のような声を出す女の子がいる。

  ハーレムをぶらぶらしていたら、背筋がぞくぞくするような声が聴こえてきた。

  そこにいるのは十五か十六の、驚異的な才能を持った女の子だった。

やがて彼女は、ひとつのバンドに誘われる。

才能がある人の元には、
必ずそれを磨く人が現れる。
差別や偏見に邪魔されることなく。



エラ・フィッツジェラルド3

管楽器のような輝きを持つ、二オクターブ半の声域。
それは、どんなに教えても生み出すことのない響きだった。

エラ・フィッツジェラルドの才能をどう育てていくべきか。
幼い彼女の保護者まで引き受けた
バンドリーダーのチック・ウェッブは言った。

  早く昇りたがってはいけない。
  同じように早く落ちてしまうから。
  きみが昇るとき、先に昇った人たちが落ちてくるのに出会うだろう。

それは、一流の歌手にだけ与えられる、
超一流のアドバイス。



エラ・フィッツジェラルド4

歌よりもダンスが好きだったある少女は、
十代のとき、友達とアマチュアコンテストに参加する。

ステージの上に立ったのはいいが、
緊張のあまり体は氷のように固まり、
客席がにじんで見えた。
ダンスも踊れないみすぼらしい少女に、
観客は苛立ち始める。

そのとき彼女は、ひらめいた。
「動けなくても、歌うことができる。」

彼女の澄みきった声に、
客席は、ぴたりと静かになった。
歌い終わると、喝采に包まれていた。
少女の名前は、エラ・フィッツジェラルド。
彼女は、のちに語っている。

  その舞台で、自分は生涯、人々の前で歌いたいんだとわかったんです。

私はあがり症だから、歌手なんかできない。
そう思ったことのある人は、
エラ・フィッツジェラルドを参考にすればいい。



エラ・フィッツジェラルド5

1941年。
ついに始まってしまった戦争は、
エラ・フィッツジェラルドの環境を大きく変えていく。

バンドメンバーの何人かが徴兵され、
ヨーロッパ巡業のチャンスは消えた。
レコードの吹き込みも禁止となり、エラは孤立する。
でも、逃げなかった。
米軍ラジオで歌い、
軍隊のキャンプをまわり、
兵隊の心を慰めた。

戦争になると、バラードが流行るという。
エラの歌声は、人々が求めるものと見事に重なった。

  わたしはバラードが大好きなんです。
  人がなんと言おうと、それは決して変わりません。



エラ・フィッツジェラルド6

1950年代の半ば、
エラ・フィッツジェラルドは困惑した。
彼女だけでなく、
フランク・シナトラや
ナット・キング・コールも
口々に、この音楽を批判した。

あるムーブメントは社会現象となり、
もうすでに誰も抑えることのできない存在に変わっていた。
若者は熱狂し、踊り狂った。

ロックンロールは、
世界を相手に中指を立てて挑発する。
予想よりも遥かに深く、激しく。



エラ・フィッツジェラルド7

100枚を超えるアルバムを出し、
グラミー賞を13回も手に入れ、
3つの大学から名誉博士号を授与された。

それでもエラ・フィッツジェラルドは、
いつも不安そうな少女であり、
バンドのメンバーにさえ
自分の心をさらすことはなかったという。

巨匠。
大御所。
伝説。

ある年齢を過ぎると、
メディアの多くは、エラを究極の存在に導く。
でも、彼女はそれを拒んだ。
過去の遺物になったように思えたから。

ステージで歌えればいい。
お客さんの喜ぶ顔が見られたらいい。
愛する家族と過ごす時間があればいい。

78歳で亡くなるまで、
エラの心の中は少女のままだったのかもしれない。

変わることがもてはやされる世の中だけど、
人はそう簡単に変われない。
変わらないほうがいいことも、多い。

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薄組・茂木彩海、参戦します

7月から茂木彩海が参戦します。

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五島のはなし(140)

20110531夕刻。
五島上空。
気持ちを投影したような。
惑星ゴトリス。

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佐藤延夫 11年5月29日放送



幕末の人々/ヘボン

明治時代に、ヘボン式ローマ字を作った
アメリカ人宣教師、
ジェームス・カーティス・ヘボン。

医者でもあった彼は、
一切の報酬を受け取ることなく
私財を投じて患者の治療にあたった。
多いときでは一日で百人の診察をしたそうだ。

もともとヘボンの専門は、眼科。
それにもかかわらず、
直腸炎、脳水腫の手術まで
やってのけたというから恐れ入る。
のちに和英辞書の編纂も手掛けるヘボンだが、
彼が日本にやってきてすぐに覚えた言葉は、

   アブナイ
   コラ
   シカタガナイ

という3つの言葉だったという。
最後の一言は、いかにも日本人らしい。



幕末の人々/若尾逸平(わかおいっぺい)

財をなすには機を逃さぬこと。
そう教えてくれるのは、
幕末の商人、若尾逸平だ。

40里も離れた甲州と江戸を何度も往復し
桃、葉煙草、真綿を運んでいたが、
黒船来航の噂を聞くと、外国人との商売に目をつける。

生糸や真綿が売れるとわかれば真っ先に買い占め、
地元の鉱山で捨てられていた水晶の屑石も売り捌いた。
そして稼いだ1500両。
いつの間にか、水晶大尽と呼ばれるようになる。

ビジネスチャンスは、道端に転がっていた。



幕末の人々/岸田吟香(きしだぎんきょう)

幕末の横浜。
そこはまだ発展途上の街であり、
道は舗装などされていなかった。
風が吹くと土埃や馬糞が舞い上がり、
人々は目の病に苦しんだという。

幕末の事業家、岸田吟香もそのひとり。
横浜で名医と評判の宣教師、ヘボンの治療を受ける。
ところがヘボンは、吟香をひと目見るなり、
助手にならないかと持ちかけた。

のちにヘボンから与えられたのは、目薬の処方箋だった。
硫酸亜鉛を主成分とするこの薬を
「精錡水(せいきすい)」と名付け売り出したところ、
日本初の点眼薬として一躍評判になった。

岸田吟香は新聞の創始者として名を馳せたが、
商品を宣伝する方法にも創意工夫を見せた。
錦絵を用いたポスター広告、
新聞では初めてとなる連載広告、
架空の読者の質問に答える手法など、
広告プランナーとしても一流だったようだ。



幕末の人々/堤磯右衛門(つつみいそえもん)

人生の分岐点は、
どこで待ちかまえているかわからない。

江戸時代末期のこと。
堤磯右衛門という男の場合、
運命の瞬間は、油で汚れた手を洗っているときに訪れた。

フランス人の知り合いが渡してくれた四角い物体。
これを使うと、しつこい汚れが魔法のようによく落ちた。
さっそく作り方を聞き出し
磯右衛門は、石鹸の製造を決意する。

  大いに感慨する所あり、輸入を防ぎ国益を興すの一端

新たなビジネスを生む原動力は、感動にあり。



幕末の人々/中川嘉兵衛(なかがわかへえ)

商売の才能とは、
目先の金勘定だけではない。
時代の先を読むこと。
いつだってこの結論に達する。

幕末の商人、中川嘉兵衛は
廃品回収の仕事を足がかりに、
アメリカ人医師の助手、
牛乳販売、イギリス軍の食料調達などに精を出す。
そのうちに、外国人が大量の牛肉や牛乳を消費することに注目した。

そして始めた牛鍋屋は繁盛するのだが、
嘉兵衛はすぐに次の商売に切り替える。
それは、食品の保存用、医療用として必要不可欠な氷の調達だった。
函館、五稜郭の外堀に張られた天然の氷を買い付け、船で横浜に運ぶ。
もちろん港には貯蔵庫を用意し、
道行く人にもコップ一杯八文の値段で売り出した。
横浜の馬車道では、この水欲しさに2時間待ちの行列ができたという。
水の名前は、五稜郭の氷。
その味に感動した九代目市川団十郎は、こんな句を残している。

  身に染むや夏の氷のありがたき

ミネラルウォーターは、明治時代にもあった。



幕末の人々/田中平八

相場師というのは、
生まれたときから相場師のようだ。

信濃生まれの商人、田中平八は
わずか14歳で大坂の堂島に乗り込んで
米相場に手を出したという。

彼がのちに巨万の富を築いたのは、生糸相場。
市場で生糸の値が上昇する気配を見極め、
直ちに産地で買い占めを行った。

度胸があり、
駆け引きもうまく、
押し出しもきく。
田中平八が「天下の糸平」と呼ばれるのも
生まれたときから決まっていたみたいだ。



幕末の人々/大谷嘉兵衛(おおたにかへえ)

幕末から明治時代にかけて
多く輸出されたのが、緑茶だった。
横浜には多くの産地から茶葉が集まったが
なにしろ人馬や船で運ぶため、
種類も鮮度も入り乱れる。
うまく調合しないと売り物にはならなかった。

その点、大谷嘉兵衛という商人は、
製茶の技術に秀でていた。

のちに嘉兵衛はアメリカの商社に雇われ、
大坂で茶葉の大量仕入れを命じられる。
わずか3ヶ月で26万8千両。
今でいう百数十億円の買い付けに成功した。

芸は身を助く。そして財を生む。



幕末の人々/快楽亭ブラック

スコットランド生まれの実業家、
ジョン・レディー・ブラックは数々の事業に失敗し、
幕末の日本に流れ着く。

日本では新聞事業に乗り出すが、
商売としては上手くいかなかった。

彼の後を追って来日した息子は、
なぜか芸の世界に身を置いた。
名前は、快楽亭ブラック。
流暢な日本語で話題を集めたものの、
人気は長続きしなかった。

生まれてくる時代が、少し早かったのだろうか。

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新幹線のマーク



いま東北地方へ行く新幹線はこんなマークがつきています。
新潟地方もついています。
関西や九州へ行く新幹線はしばらく乗っていないので
わかりません。
飛行機はどうなってるのかな…
それもわかりません。

飛行機は離陸してしまうと模様は見えないから
ペイントしていないかもですね。

英国のインディペンデント紙が震災直後に
日の丸をバックに「がんばれ日本。がんばれ東北。」
という記事を出しました。
英文の中に日の丸があるのってキレイだなと思いました。
そう思った人はたくさんいるらしく
なにかというとインディペンデント紙のデザインが
震災関係で使われています。
赤い丸ジルシって元気が出るのかもしれませんね。

それにしても「がんばれ」と「がんばろう」ですよね〜。
クリスティの探偵小説を読んでいたら
看護婦さんが「私たちは昼寝をしましょうね」とか
「私たちはお茶をいただきましょうね」と言うそのいいかたが
かえって老婦人をイライラさせているくだりがありました。
「がんばろう」は「一緒に」ということですよね、
つまり「We」ですね。

「We」といわれても
たとえば、私と「復興の狼煙」のSさん、「森は海の恋人」のHさん、
それぞれがんばる方法もがんばる立場も違うんで
どうも「We」にされたくない感じがするんですが
要するにこれは、
私が「老婦人」になりつつあるいうことでしょうか(玉子)

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