2011 年 のアーカイブ

三國菜恵 11年12月04日放送



男たちは旅をする/椎名誠

本場のラーメンを求め、中国へ。
プロレスを観に、メキシコへ。
犬ぞりをしに、アラスカへ。
海を見に、ベトナムへ。

さまざまな理由を見つけては
あちこちに旅へと出かけてしまう作家、椎名誠(しいなまこと)。
自らを「旅する作家」と称するほど旅好きの彼に、
いままで行った中でいちばん好きな場所を聞いてみた。

いちばん好きなところは
やっぱりパタゴニアと新宿の居酒屋だなあ

あたらしい場所であたらしいものと出会えるのも、旅のいいところ。
いっぽうで、いつもの場所の大切さに気づけるのも、
旅のいいところかもしれない。



旅と男/倉岡裕之

山岳ガイド、倉岡裕之(くらおかひろゆき)。
世界の山々を旅した彼だが、
何度登っても山への不安は消えないのだという。
けれど、この不安感こそが大切なのだという。

心配するからこそ、
すべての危険を乗り越える解決策を見出す

不安は、試練を大胆に乗り越えるために必要なものなのだ。



男たちは旅をする/沢木耕太郎

「深夜特急」などの代表作で知られる作家、
沢木耕太郎(さわきこうたろう)。
彼は、あるときユーラシア大陸を旅した。
目的をもたず、期限も設けず。
いつを旅の終わりにするかは自分次第だった。

沢木は、旅を終えるにふさわしい場所を探していた。

そこが夢のような景勝地や桃源郷である必要はないが、
どこか心に深く残る土地であってほしい

そう思っていた。

そして、沢木の旅は
ユーラシア大陸のいちばん端、
ポルトガルのサグレスという町で終わりをむかえる。

水平線にはいままさに昇ろうとする朝日が輝いていて、
そこで朝食を食べていたときに、
ふと「帰ろう」と思ったのだという。

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佐藤延夫 11年12月03日放送



アル・カポネという男1

「高貴な実験」。

のちに世間の嘲笑を浴びたアメリカの禁酒法は、
1920年からおよそ14年も続いた。

この法律のおかげで、
酒の密造や密輸、犯罪が爆発的に増えていった。
密造酒ビジネスで巨万の富を得た暗黒街のボス、アル・カポネは語る。

「禁止というものは、トラブル以外、何も産み出さない」

国民が健全になるはずの法律で、アメリカは不健全を覚えた。

いつの時代も、国家が迷走すると
闇の男が主人公になる。



アル・カポネという男2

「家具販売業者」。

これが、アル・カポネの表の顔だった。
本業は、密造酒ビジネスに違法カジノ、売春宿の経営。

稼いだ金は、1927年の1年間だけで、
日本円に換算して、180億円とも言われている。
現在の貨幣価値では、10兆円を超えるという。
カポネは語る。

「私がしていることは、ほかの人と変わらない。
 需要に対して供給をしているだけだ」

悪い奴ほど、悪びれない。



アル・カポネという男3

「シカゴの夜の市長」

暗黒街のボス、アル・カポネはそう呼ばれていた。
秘密酒場や違法カジノの経営で儲けた金は、
自分の仕事をしやすくする場所に出資する。
その投資先は、政治家、警察、裁判所。
中でも禁酒法に関わる捜査官は、一人残らず買収したと言われている。
彼の言葉を拝借すると、

「やさしい言葉に銃を添えれば、
 やさしい言葉だけのときよりも
 多くのものを獲得できる」

正しい者よりも、強い者が正義になる。



アル・カポネという男4

「ムーンシャイン」

アメリカで禁酒法の時代に密造された酒は、
すべてスラングで語られた。

月明かりでこっそり酒を造るから、ムーンシャイン。
ブーツに酒を隠す密売業者は、ブートレガー。
もぐりの酒場は、スピークイージーと呼ばれた。
こっそり酒を注文できる、という意味だ。
また、ギャングたちが当時流通し始めたトンプソン・マシンガンを乱射することから、
この機関銃は、シカゴ・タイプライターという異名を持つ。

不条理がルールとなり、
非常識が、常識になる時代。

シカゴ暗黒街のボス、アル・カポネは
こんな言葉を残している。

「俺が酒を売ると密造と呼ばれるのに、
 パトロンの連中が銀のお盆に載せて出すと、それは「もてなし」と呼ばれるんだ」

この男は、アメリカの黒い歴史を謳歌した。



アル・カポネという男5

「スカーフェイス」

これは、アル・カポネの若かりしころのニックネーム。
傷のある顔、という意味だ。
喧嘩で顔に傷を付けられたことから、
チンピラ仲間が、からかい半分に名付けた。

それから数年、
カポネは暗黒街のボスになった。
スカーフェイス。
シカゴ中を探しても、誰もそう呼ぶ者はいなくなったそうだ。

権力は、暗い過去を消してしまう。



アル・カポネという男6

「38口径のコルト・ポリスポジティブ」

それは、暗黒街のボスと呼ばれたアル・カポネが
実際に使用した拳銃だ。

彼が暗躍したおよそ90年後の今年、
この銃はロンドンのオークションで落札された。
日本円で、870万円の値がついた。

当時シカゴでは、
何人の男が、銃口を向けられたのだろうか。



アル・カポネという男7

「囚人85号」

1931年、アル・カポネは23件の脱税容疑で逮捕され、
アルカトラズ刑務所に叩き込まれる。

全盛期には、配下の殺し屋が700人。
経営するもぐりの酒場は、2万軒を越えたという。

自宅には、三カ所に門番を配し、
裏手の桟橋にはモーターボートとクルーザーが停泊する。
そして愛車のキャデラックには、厚い装甲が施された。

のちにシカゴの高級ホテル、レキシントンを住まい兼事務所にし、
ギャングとして初めてアメリカの雑誌、タイム誌の表紙を飾った。
カポネは語る。

「他人が汗水たらして稼いだ金を
 価値のない株に変える悪徳銀行家は、
 家族を養うために盗みを働く気の毒な奴より、
 よっぽど刑務所行きの資格がある」

悪を突き詰めると、男はセクシーになる。

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名雪祐平 11年11月27日放送



肉体コンプレックス チャールズ・ブコウスキー1

父が失業した。
そして、息子への虐待が始まった。

息子の精神は追い詰められ、
全身が悪性のニキビに襲われた。
その酷さは整形手術を受けるほどだった。

写真など撮られたくもない。
人に近づきたくもない。
ぽつんと孤独な学生時代。

やがて大学を中退し、アメリカ放浪の旅に出た。
肉体労働で稼ぎ、酒びたりになりながら。

安いモーテルで、いつもいつも詩を書いた。

それが、いま世界中でカルト的人気を誇る作家
チャールズ・ブコウスキーの
若い日々だった。



肉体コンプレックス チャールズ・ブコウスキー2

若いときから、
女にまったくモテなかった。

肌はでこぼこ、醜く、孤独な作家
チャールズ・ブコウスキーの小説や詩は
労働者たちに愛された。

ロサンゼルスの郵便局を辞め、
やっと作家一本でやれるようになったのは
50歳のとき。

作品が売れ出したとたん、
いままで無視していた女たちが次々と寄ってきた。
それはまるで甘い砂糖水にたかる虫。

そんな女たちを、恨みでも晴らすかのように抱き、
インタビューでは
「一晩で6人の女と寝た」と笑った。

73歳で亡くなるまでパンクな人生を貫いた
ブコウスキーの墓には、こんな言葉が刻まれてる。

DON’T TRY.
やめておけ。



肉体コンプレックス  三島由紀夫1

肉体は、人生を左右する。

文豪・三島由紀夫の
子どものころのあだ名は、アオジロ。

青白い顔、貧弱な体のせいでイジメられた。

肉体にコンプレックスを抱えた三島は、
作家になってからボディビル、剣道、水泳に通い、
肉体改造にいそしんだ。

そして見事な、
筋肉隆々になった三島はこう書いている。

 私はようやくこれを手に入れると、
 新しい玩具を手に入れた子供のように、
 みんなに見せ、みんなに誇り、
 みんなの前で動かしてみたくてたまらなくなった。

 私の肉体はいわば
 私のマイ・カーだった。

1963年、そのマイ・カーを撮影した
前衛的なヌード写真集『薔薇刑』が発表された。

当代きっての人気作家が世の中に
センセーショナルな裸を突きつけたのだ。

この写真集は、三島の死後、
世界の代表的な写真集として
「20世紀101冊の名作」に選ばれている。

筋肉とは何だろう。
強いものこそ美しいという哲学か。



肉体コンプレックス 三島由紀夫2

三島由紀夫といえば、
数々の名作とともに、ボディビルの印象が強い。

幼いころから
か細かった体を大人になって鍛え上げ、
頑健な肉体に改造した。

作家なのに、なぜそんなに鍛えるのか。
三島はニヤリと答えた。

 ぼくは切腹して死ぬからだよ。

 本当に切腹するとき脂身が出ないよう、
 腹筋だけにしようと思っているんだ。

この強烈なナルシストは用意周到に、
自決する日に向かって
自らの姿をイメージをしていたのだろう。

1970年11月25日、クーデターに失敗し、
三島は本当に腹筋を引き裂いた。



肉体コンプレックス カレン・カーペンター

神から授かった美声の持ち主
カレン・カーペンター。

兄リチャードとのポップ・デュオ、
カーペンターズのヴォーカリストとして、
世界中でメガヒットを飛ばし続けた。

すべてが順調のようにも見えた。

幼いころから兄を崇拝するがために、
自己評価が低いカレン。
すこしぽっちゃりした体型も
ステージ中央に立つことになってしまったことで、
コンプレックスになってしまったのか。

よくあるダイエットは、
狂気の拒食症へと変貌していった。

歌のツアーで非常に激しい仕事をしながら、
下剤を一晩に80錠以上も服用していたという。

身長163cmに対して、
体重はたった35kgに落ち込んだ。

享年32歳。

何がカレンをそうさせたのか。
いまは、美しい歌声が聞こえるだけ。



肉体コンプレックス ゲーテ

文豪、ゲーテ。

ワインを1日2~3リットル吞み、
肉料理や甘い菓子が大好きな大食漢だったという。

74歳のとき、心筋梗塞を患い、
死の危機に直面するが、復活した。

ゲーテは医者に聞いた。

 自分の年齢で結婚は体に毒か?

実はこのとき、
ゲーテははるか年下の17歳の少女に
熱烈な恋をしていたのだった。

医者には止められなかった。
しかし、少女の母親からは猛反対され、
結婚は叶わなかった。



肉体コンプレックス 松田優作

1970年代、テレビに松田優作がいた。

人気抜群だったゆえに
固まってしまった自分のイメージに
苦しめられた。

自分自身を壊せ。

映画『野獣死すべし』では
奥歯を4本抜き、体重を10kg減量する。

185cm近い身長も高すぎる、と感じた。
骨を削って低くできないか、
足を5cm切ろうかと思ったという。

ものすごい役者魂。

足が短い人には、
考えもつかない話である。



肉体コンプレックス サミー・デービスJr.

美貌の女優マイ・ブリッドを妻に射止めた
歌手サミー・デービスJrが言った。

 いまの自分に不満は一つもない。

すると、底意地悪いインタビュアーが聞いた。

あなたのつぶれた鼻や、
片方しかない目や、
醜さについても?

サミーはこたえた。

 ぼくみたいな完璧に醜い男は、
 かえって魅力的なのさ。

並みの男くらいなら醜いほうが目立ち、
そのうち魅力にも気づいてくれる、
という持論だった。

なるほど。
きっと、並みのインタビュアーが
足元にもおよばないくらい
モテたに違いない。

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坂本仁 11年11月26日放送



ジョー・ストラマー

パンクとは何かという命題に、
答えてくれる言葉がある。

月に手を伸ばせってのが、俺の信条だ。
たとえ届かなくても。

ピストルズと並んでUKパンクの雄と称される
The Clashのボーカリスト、
ジョー・ストラマーの言葉だ。

来日コンサートの際には、
ファンからの膨大なプレゼントを、
多額の超過荷物料金を支払ってすべて持って帰った。

ファンを大切にする。
そんな彼の姿勢も、パンクだった。



ザック・デ・ラ・ロッチャ

レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンは、
政治的メッセージを歌う反体制のバンドだった。
搾取される先住民の悲劇、
画一的な教育の恐怖など、
そのメッセージはいつも過激で、
アルバムが合衆国政府の要注意著作リストになったこともある。

けれど、ボーカルのザックは次のように語る。
「全ての革命的行動は愛の行為。
俺がこれまでに書いた曲は全てラヴ・ソングだ。」と。
弱者への強い愛が彼らの、強烈なパフォーマンスの源泉だった。



ベン・E・キング

何かをつくることは、孤独な作業だ。
つらい暗闇の中で、もがき、苦しみ、
自分が納得する作品をつくりあげる。

「ダンスウィズミー」、「ラストダンスは私に」などで知られる
ミュージシャン、ベン・E・キングは、
曲作りに関して次のように語る。

「Good」が「Better」になるまで、
「Better」が「Best」になるまで、決して気を抜いてはいけない。

完璧になるまで妥協しない。
そんな自分を追い込む曲作りのつらい状況の中で、
キングは、彼のヒット曲、
「スタンドバイミー」を思いついたのかもしれない。



BONO

1971年、ジョンレノンは「イマジン」という名曲を書いた。
そして、わたしたちはみな、想像することで、世界は変わると信じた。

けれどそんなジョンレノンの「イマジン」に異を唱えるロックスターがいる。
全世界のアルバムセールスが一億三千万枚を超えるモンスターバンド
U2のリードボーカル、ボノ。
彼は言う。

夢見る時代は終わったんだ。
これからは行動する時代だ。
すべては夢見ることから始まるけど、
夢で終わるなら寝てる方がましだ。と。

数々のチャリティーコンサート、
貧困救済を目的とするOne Campaignへの参加、
売上げをエイズ救済基金にするREDの新設など。
そして、その功績から3度ノーベル平和賞の候補となった。

世界を行動で変えるロックスター、ボノ。
彼のような人がきっと21世紀をしあわせな世紀にしていく。



サーストン・ムーア

80年代のアンダーグランドシーンを牽引した、
ソニックユースのボーカル、
サーストン・ムーア。
パンクの概念をアメリカに植え付けた人だ。

新生児の泣き声。
これこそがバンクロックに対する僕の定義だ。

サーストン・ムーアに言わせれば、
僕らは皆パンクの魂を持って生まれてくる。



ポール・マッカートニー

イエスタデイ、
ヘイ・ジュード、
レットイットビー。

数々の名曲を残したボール・マッカートニーは言う。

「努力することより、しないことの方が、難しいんだよ」

彼にとって
あれほど多くの愛すべき美しいメロディを書くことは
むしろ努力をしないことだったのだろうか。

ちなみにポール・マッカートニーは
ポピュラー音楽史上もっとも成功した作曲家として
ギネスブックに認定されている



ベック・ハンセン

多くの成功したミュージシャンがそうであるように、
ベック・ハンセンも若い頃は経済的に貧しかった。

10代の頃はゲットー暮らし。
ロスの中学卒業後は、家具の運搬、芝刈り
衣料工場などなど仕事を転々としながら、
生計をたてた。
18歳の頃、ニューヨークへ。
ホームレスをしながら、曲をつくった。

けれど、ベックは若い頃を「昔は貧しかった」と
懐かしむようなことはしない。
むしろ、次のように語る。

ホームレスをやっていても悲惨だと思ったことはない。
僕には音楽があったから、いつも裕福だった。と。

人からみたらつらい時代も、
彼には音楽性を育んでくれたハッピーな時代だったのである。

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三國菜恵 11年11月20日放送



言葉のはじまり/ある映画の翻訳チーム

1953年公開のハリウッド映画『Terminal Station』は
恋愛映画の名作として知られている。
この作品が日本で公開になる際、
原題の雰囲気にふさわしい日本語が当時見あたらなかった。

そこで翻訳チームの面々が頭をひねって、
こんなことばをつくりだした。

Terminal Station.
“終着駅”。

映画らしい情感あふれるその言葉は、
のちに歌謡曲や小説のタイトルとしても
多く使われるようになる。



言葉のはじまり/吉田松陰

自分のことを“僕”と呼び、
相手のことを“君”と呼ぶ。

この“僕”と“君”ということばを最初に使ったのは、
松下村塾をつくった吉田松陰であると言われている。

「下僕」ということばがあるように、
“僕”は自分のことをへりくだって言う表現。

いっぽう“君”は、
「君主」ということばがあるように、相手を立てた表現。

松下村塾出身の高杉晋作は、
奇兵隊を結成した際、この考え方を導入した。
ひとりひとりがどんな身分であろうと、
自分のことを“僕”と呼び、相手を“君”と呼ぶことでお互いに敬意を表す。

武士と町人、農民が
身分にとらわれず共に戦う奇兵隊にとって
身分を超えた呼びかたはぜひとも必要なものだった。

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中村直史 11年11月20日放送



言葉のはじまり/池田菊苗

「うま味」という言葉を英語で言うと・・・?
答えは、UMAMI。
世界には、UMAMIに相当する言葉がない。
そもそも旨味という概念がなかった。
帝国大学理学部教授 池田菊苗(いけだきくなえ)が、世紀の大発見をするまでは。

いまから100年以上も前、
甘味、酸味、塩味、苦味以外に、
味覚の基本となる物質があると信じ、探し求めた池田。

日本で長らく「ダシ」として使われてきた昆布に着目し、
ある物質を分離することに成功した。
物質の名は、グルタミン酸ナトリウム。

この発見に日本中が驚いた。
けれど、池田のすばらしい仕事は、成分の発見にとどまらなかった。
それは「うま味」というネーミング。
たった3文字のこのすばらしい名前が生み出されたために
この発見は、科学界だけでなく、みんなのものとなったのだ。

わたしたちがおいしい料理に舌鼓をうつとき、
何気なく使ってる「うま味」という言葉。
そこには、味わい深いストーリーがかくされていた。

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三島邦彦 11年11月20日放送



言葉のはじまり/ 伊東忠太

建造物の造に、家と書いて、造家(ぞうか)。
明治のはじめ、今でいう建築には
この造家という言葉が使われていた。

その時代、伊東忠太(いとうちゅうた)という一人の若者がいた。
造家学の研究で博士課程を満了したエリートだったが、
ひとつだけ不満があった。
それは、造家という言葉に、美意識が感じられないこと。

画家を志したこともあった伊東にとって、
美意識は何よりも大切なものだった。
伊東は、建築という言葉にその思いを込め、
造家をすべて建築と言い換えることを訴えた。

  建築は世のいわゆる純粋芸術に属すべきものにして、
  工業芸術に属すべきものにあらざるなり。

この若き伊東の宣言は、大きな波紋を生み、
学会や大学の学科の名前はやがて、
建築学会や建築学科へと変わっていった。

それまでの仏教建築とは一線を画す築地本願寺の建立など、
伊東はそれからも日本の建築界に新しい美意識を打ち出し続けた。
日本の近代建築の出発点。
それは、「建築」という言葉そのものだった。

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中村直史 11年11月20日放送



言葉のはじまり/鈴木昭

「激辛」という言葉はあるお店から生まれた。
そう聞くと、カレー屋かラーメン屋を想像する。
けれど激辛の発祥はせんべい屋だった。

東京の老舗、神田淡平(かんだあわへい)。
店主、鈴木昭(すずき あきら)がつくりだした新しいせんべいは
まるで唐辛子の塊のようだった。その名も「激辛」。

ネーミングのインパクトもあり、いつしか激辛せんべいは大ヒット。
その後の激辛カレーや激辛ラーメンへとつながり、
1986年には流行語大賞銀賞にも選ばれた。

激辛せんべいの燃えるような味とネーミングが、
まさに、ブームに火をつけたのである。

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三島邦彦 11年11月20日放送



言葉のはじまり/ 大宅壮一

クチコミという言葉の生みの親は、
昭和を代表するジャーナリスト大宅壮一(おおやそういち)。

もともとは、ラジオとテレビをクチコミュニケーション、
略してクチコミといい、
新聞と雑誌を手コミュニケーション、
略して手コミといったのが始まりだった。

クチコミという言葉は人々の口を介して広まるうちにもとの意味を離れ、
大宅が意図していなかった意味が、まさにクチコミによって生まれた。
これは、その大宅が残した言葉。

 最終のそしてもっとも有力な審判者は、目に見えない大衆だと信じている。



言葉のはじまり/ 福地源一郎

社会という言葉は
明治時代、society(ソサエティ)の翻訳として生まれた。

最初に使われたのは新聞記事。
書いたのは東京日日新聞の主筆、福地源一郎。
新聞記者の地位を劇的に高めた人物である。
これは福地が新聞社に入った時の決意の言葉。

  新聞記者が戯作者なみというのなら、
  私の手によってそこから引きあげてみようではないか。

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三國菜恵 11年11月20日放送



言葉のはじまり/城戸四郎

映画会社「松竹」の元社長・城戸四郎(きどしろう)。
小津安二郎や山田洋二らを映画界におくりだした彼は、
まさに映画の黄金時代を築きあげた、名プロデューサー。
いわゆる、先見の明がある人物だった。

1928年、城戸はアメリカへ渡り
「トーキー」をはじめとするたくさんの映画を目にする。
そのとき、こんなことを思ったという。

これからの女優は顔だけではなく、
からだ全体のプロポーションがよくなくてはいけない。
なかでも脚がポイントだ。

城戸は帰国後、女優のオーディションを開催。
こんなことばで呼びかけた。

“脚線美女優”募集。

“脚線美”ということばがこのとき生まれた。
ミニスカートブームが起こる、はるか30年も前に
城戸は「女性の新しい魅力」について見ぬいていた。

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