2012 年 のアーカイブ

五島のはなし(169)

ふつうの温泉では子どもが泳いだりすると
非常に嫌な顔されますが、
ここでは子どもが初対面のおじさんに
「よーし、おじさんのところまで泳いでくるんだ!こい!どーした!ほら!こい!」
と言われてました。

その昔、山下という名の少年が見つけたという荒川温泉。
「山下という名の少年が」っていうのがアバウトで五島っぽい。

五島には温泉もあるよー、というお知らせでした。
あ、ちなみに子どもたちが
ばっしゃんばっしゃんやっているようなお風呂ではありません。
たまたま子どもがいて、まわりに人が少なかったら
上記の様な光景になっただけでありまして、
五島の人というのはけっこう空気を読む人たちのなのです。
ゆっくり静かに湯につかることができます。

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佐藤理人 12年1月21日放送


rknickme
ジェームズ・ブラウンの『少年時代』

子ども時代の貧しさをバネに、成功をつかむスターは多い。
中でもこの男ほど「たたき上げ」と呼ぶのに
ふさわしい人物はいない。

掘立小屋で生まれ、母親はすぐに家出。
父親はいつも仕事でおらず、暮らしは食べるので精一杯。
唯一の友だちは父親が買ってくれたハーモニカだけ。
孤独のあまり、父親が聴いていたブルースを吹いたのが、

 ゴッドファーザー・オブ・ソウル

後に「ソウルの帝王」と呼ばれる
ジェームズ・ブラウンが音楽に目覚めた瞬間だった。

しかし幼いジェームズにとって、
ブルースは決して好きな音楽ではなかった。
一人ぼっちで夜を過ごす子どもにブルースは、
その名の通りあまりに悲しすぎる音楽だったのだ。



ジェームズ・ブラウンの『キング牧師』

ソウルの帝王、ジェームズ・ブラウン。
60年代、彼は公民権運動を支持し、
マーティン・ルーサー・キング牧師と親交を深めた。

1968年4月4日、キング牧師が暗殺され、
全米各地で暴動が起きると、
ジェームズはすぐに自分のラジオ局から、

 平静を保つことでキング牧師の名誉を称えよう

とメッセージを流し続けた。

翌日ボストンで予定されているコンサートもあえて敢行。
その模様をテレビで生中継して、人々を外出させないようにした。

キング牧師を称え、

暴力に訴えることは彼の魂を救うことにならない

と人々に自制を求めたこのコンサートは何度も再放送され、
結果ボストンでは一度も暴動が起きなかったという。


Heinrich Klaffs
ジェームズ・ブラウンの『仕事術』

 The hardest working man in showbusiness.

ショービジネス界一の働き者といえば、
ソウルの帝王、ジェームズ・ブラウンだ。

遅刻を認めず、演奏でミスをしたら罰金をとるなど、
最高のステージをつくるためにメンバーに妥協は一切許さなかった。
その容赦なさにメンバーとは常に諍いが絶えなかったという。

1970年のそんなある日、事件は起きた。
ギャラのアップを求めてメンバー全員がストライキを始めたのだ。

ライブ当日にも関わらず要求を撤回せず、
演奏準備を始めようとしないメンバーたち。
怒ったジェームズはその場で全員をクビにしてしまった。

しかしコンサートを中止するわけにはいかない。
無名の若手バンドを急きょ自家用ジェットで呼び寄せ、
どうにかコンサートは開催された。

そんな彼らとジェームズが初めて作った曲が、
ファンクの歴史的名曲「Sex Machine」になることは、
このとき誰も想像しなかったに違いない。

転んでもただでは起きないのが、帝王の帝王たるゆえんなのである。


Erik K Veland
ジェームズ・ブラウンの『東京』

2006年3月4日、東京国際フォーラム。
そのステージにジェームズ・ブラウンは立っていた。

ソウルの帝王と呼ばれた男もすでに73歳。
一年前には前立腺癌の手術をしたばかり。
正真正銘、病み上がりの老人だった。

癌を公表したときジェームズは、

 人生で多くのことを克服してきた。
癌も同様に乗りこえてみせる。

と語った。
そしてその言葉が嘘ではないことを彼は証明してみせた。

ミラーボール1個だけのシンプルなステージに、
ピンクの衣装を着て現れたジェームズ。
それから2時間。
彼は一度も止まることなく歌い、踊り、動きつづけた。
緻密で流れるようなそのステージを掌握しているのは、
まぎれもなく生きる伝説本人だった。


Heinrich Klaffs
ジェームズ・ブラウンの『命日』

 力がなければ自由は手に入らない。
 そして、自由がなければ創れない。

そう語ったソウルの帝王、ジェームズ・ブラウン。
貧困や差別と闘い、ライバルや時代の流れとも闘いながら、
自らの才能と努力で自由を掴んだ男。

マイケル・ジャクソンやプリンスに師と崇められる一方で、
度重なる暴力事件、麻薬所持、警官とのカーチェイスなどで
有罪判決を受けたことは数知れず。

そんな彼も、病魔には勝てなかった。

2006年12月25日、
才能と狂気が服を着て歩いている男、
ジェームズ・ブラウンは心不全で
その73年の破天荒な人生に幕を閉じた。

決して信心深かったとは思えない彼だが、
その命日は偶然にもキリストが生まれた日であった。


jbspec7
クリス・バングルの『Z8』

映画「007」シリーズでジェームズ・ボンドが乗る車、
通称「ボンドカー」はどれも超高級車でありながら、
いつも無残に大破する。

中でもシリーズ第19作
「ワールドイズノットイナフ」で使われたBMWのZ8は悲惨だった。
大型チェーンソーで真っ二つにされてしまうのだ。

そのZ8をデザインしたのが、
BMWのデザイン責任者を18年間務めたクリス・バングルだ。

その奇抜なデザインは大きな物議を醸し、
バングルはBMWを潰すために
メルセデスが差し向けた刺客ではないか、
と言いだす者さえ現れた。

しかし彼のデザインは爆発的な成功を収め、 
彼自身も世界3大カーデザイナーの一人
という最高の評価を手に入れる。

多くの批判にさらされながらも、
決して意見を曲げることのなかったバングル。
彼は自らのデザイン哲学をこう述べる。

いくらよく走るBMWでもその生涯の80%は停止している。
だから車は、そのものとして美しくなければならない。

そんな彼にとって「完璧」と思えた車が、
あの真っ二つにされたZ8であったのは何とも皮肉な話だ。


Jaidn
ブライアン・メイの『レッドスペシャル』

世界的ロックバンド、クイーン。

そのサウンドの特徴である
クラシックのようなギターオーケストレーションは、
実はたった1本の手作りギターでできていた。

 レッドスペシャル

という名のそのギターは、
ギタリストのブライアン・メイが
100年以上前の暖炉の木で作ったもの。

彼はそのギターを100回以上重ねて録音し、
あの荘厳な音を生み出した。

アルバムには

 No synths

シンセサイザーは使っていない
と誇らしげに書かれている。

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もらわれていった

我が家のお向かいさんの従姉妹の家で猫が生まれて
写真がまわってきた(上の写真左)
里親を募集中だという。
私のまわりはすでに猫飽和状態だった。
たいていの人が複数飼っている。
しかしインパクトのある顔をしていたので
もしやと思ってfacebook に出してみた。

「いいね」ボタンがいっぱい、コメントもかなり。
飼おうかなと悩む人1名、実物見ないでいいから飼う!という人1名。
飼う!と力強く宣言した人と話が進んだ。

そのうち、お向かいさんから相談のように
実は妹猫がいるという報告があった。
ええええ〜〜〜〜、びっくりしたが写真を見るとこれもかわいい。
ともかく再びfacebookに写真を載せた。

兄猫を飼うことになっていた人から
「兄妹一緒の方がいいですよね」とメールがきた。
それはもう相談というより飼うぞという意思表明だった。

里親になってくれた佐藤さんのfacebookに
毎日兄妹猫の写真がアップされる。
なぜか兄妹猫のfacebook もできた(ファンがつくったらしい)
名前はトラジ(兄)とハイジ(妹)よろしくお願いします。

しかし、他人のものになった猫はかわいく見えるな〜(玉子)

トラジ・ハイジ facebook:http://www.facebook.com/torajihaiji

飼い主佐藤さんのfacebook :http://www.facebook.com/tomoyastipo

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石橋涼子がACCクラフト賞

ただいま産休のさなかの薄組の石橋涼子ですが
さすがに受賞式には出てきました。
たまにメールなどくるとかなり親バカになりつつあることが伺えますが
そんなこととは思えないあでやかさでありました。

クラフト賞にはいろいろありますが
石橋がもらったのは下記のラジオCMのコピーに対する賞です。

パナソニック マッサージソファ/ネックリフレ/デイカロリー
お料理教室「煮込み」/「干物」/「スフレ」

とにかくよかったよかった、おめでとう(玉子)

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古居利康 12年1月15日放送


Festival Karsh Ottawa
グレン・グールドというピアニストが、いた。 ①

1964年以降に生まれたひとは、
グレン・グールドが
生でピアノを弾く姿を見たことがない。

なぜなら、1964年、このピアニストは、
コンサート活動のいっさいから
身を引いてしまったから。

かれは、1946年、まだ14歳のとき、
トロント交響楽団と共に舞台に立った。

クラシックの世界において、
早熟の天才は決してめずらしいものでは
ないけれど、しかし、かれの場合、
早くから芽生えた
コンサートに対する疑問が、
その後の生きかたを
きわめてユニークなものにした。


Piano Piano!
グレン・グールドというピアニストが、いた。 ②

32歳のとき、ライヴ演奏から
ドロップアウトしたグレン・グールドは、
50歳で亡くなるまで、
どんなに請われてもコンサートへの
出演を断わりつづける。

けれども、こんにち、
われわれは、スタジオにおかれた
一台のスタンウェイに向かうかれの姿を、
映像で見ることができる。

何本もドキュメンタリー映画ができるくらい、
グールドが残した映像は数多く存在する。

床上35.6cmという、異様に低い椅子。
猫背で前のめりになったグールドの
顔と手の距離がきわめて近い。
ピアノにすがりつくように構えた両肘は、
鍵盤よりも下に位置している。

その独特のフォームについて、
レナード・バーンスタインはこう言った。

「まるでかれ自身がピアノになろうと
 しているように見えた」


patte-folle
グレン・グールドというピアニストが、いた。 ③

1955年、
22歳のグレン・グールドは、
コロムビアレコードで
バッハの『ゴルトベルグ変奏曲』を録音する。
これがレコードデビューとなった。

よりによって、『ゴルトベルグ』か。
なんの山場もない、ややこしいだけの
アリアの変奏曲じゃないか。

プロデューサーは選曲に反対した。
ピアニストは、この曲にこだわった。

グールドは、6月にもかかわらず
マフラーを巻いてオーバーを着込み、
手袋をして録音スタジオにあらわれた。

いきなり洗面所にこもって、
両手を30分もお湯につけたまま出てこない。
ピアノの前に坐ったかと思えば
いきなり奇声を発したり、
スタジオの中をうろうろと歩き出して、
ぷいっと外へ出てしまう。

やがて首を激しく振りながら戻ってきて、
何の前触れも合図もなく演奏が始まる。
その手首が、飛び魚のように鍵盤上を
飛び跳ね、うつくしい音がやってきた。

録音室にいた誰もが唖然として、
音に酔いしれた。



グレン・グールドというピアニストが、いた。 ④

グレン・グールドは、
聴衆の存在は、音楽の邪魔である。
とまで言い切った。

そんなかれについて問われた、
ほかのピアニストたちは、
たいてい、やや当惑ぎみに小声で言い添える。

けれど、観客との一体感から生まれる歓びは
ピアニストにとってなにものにも代えがたい、と。

グレン・グールドは違った。
やりなおしのきかないライヴ演奏では、
理想の音楽がつくれない。
スタジオなら、納得いくまでテイクを録って、
最良の演奏が選べるではないか。

かれは、繰り返し、そう主張した。



グレン・グールドというピアニストが、いた。 ⑤

映画『羊たちの沈黙』に登場した殺人鬼、
ハンニバル・レクター博士が、
娘を誘拐された上院議員に情報を提供する
見返りに、ある音楽テープを要求する場面がある。

レクターが欲しがったのは、
グレン・グールドの『ゴルトベルグ変奏曲』。

ヨハン・セバスチャン・バッハが
2段鍵盤付きのチェンバロのためにつくった
『アリアと種々の変奏曲』。
不眠症に悩んでいたある貴族の依頼で作曲し、
バッハの愛弟子であるゴルトベルグが
演奏したため、『ゴルトベルグ変奏曲』という
通称で知られるこの曲。

おなじアリアが、30もの変奏で、
微妙に描き分けられる複雑さと長大さ。
ピアノではなく、チェンバロのための曲だった
こともあって、弾きこなすのは容易ではない。

あるピアニストは、こう言う。
誰もグレン・グールドのように
『ゴルトベルグ』を弾くことはできない。
せめて、指が6本ほしい、と。

ちなみに、映画では描写が避けられたが、
『羊たちの沈黙』の原作となったトマス・ハリスの
小説において、レクターは左手だけ、
指が6本あったとされている。



グレン・グールドというピアニストが、いた。 ⑥

グレン・グールドは、
夏目漱石の『草枕』の愛読者だった。
ラジオの番組で朗読までしているから、
相当な入れ込み方だ。

「四角な世界から常識と名のつく一角を
 摩滅して、三角のうちに住むのを
 芸術家と呼んでもよかろう」

といった部分に、グールドは深く共感していた。

「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。
 意地を通せば窮屈だ。とかくこの世は住みにくい。
 住みにくさが高じると、安い所へ引っ越したくなる。
 どこへ越しても住みにくいと悟った時、
 詩が生まれて、 画(え)が出来る」

冒頭の、あまりに有名なこの一節は、
グレン・グールドの生きかたそのものに
思えてくる。



グレン・グールドというピアニストが、いた。 ⑦

グレン・グールドの録音に
耳を澄ますと、うなり声が聞こえる。
うなり声というより、主旋律を歌う、
グレン・グールドの鼻歌だ。

グレン・グールドのスタジオ録音は、
聴衆のいないライヴ録音のようなものだ。
かれの息づかいが生々しく刻まれている。

CDジャケットの裏に、こう書いてある。
『グールド自身の歌声など、一部ノイズが
 ございます。どうかご了承ください』



グレン・グールドというピアニストが、いた。 ⑧

グレン・グールドは、よくひととぶつかった。

レナード・バーンスタインとは、
ブラームスの協奏曲第一番の解釈をめぐって対立。
演奏会の冒頭で、バーンスタイン自身が、
じぶんはグールドの演奏に賛成しかねる、と
表明してから指揮をはじめる、異例の事態を招いた。

クリーブランド管弦楽団の指揮者、
ジョージ・セルは、リハーサルのとき、
30分間も椅子の高さを調整していたグールドに、
激怒。指揮棒を放り投げてしまう。

けれど、バーンスタインはその後、
「グールドより美しいものを見たことがない」
と、グールドの才能を認め、
セルも、「あいつは変人だが、天才だよ」と脱帽。

グレン・グールドとの
うつくしい共演盤を残したヴァイオリニスト、
ユーディ・メニューインは、こう言った。

「結局、かれは正しかった。」

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大友美有紀 12年1月14日放送


Elke Wetzig
ヘルマン・ヘッセ「老いることの美学」1

青春の詩人として知られるヘルマン・ヘッセは、
幼少時代、空想力が豊かで、聡明で、音楽好きだった。
そして動物や植物を愛していた。
その一方で、とてもわがままで反抗心が強かった。

14歳で神学校に入るが、教員と衝突して寄宿舎を脱走。そして自殺未遂。
次に入った高等学校も退学、商店員や父の仕事の手伝い、
機械工、どれも長くは続かなかった。

のちに『デミアン』で書いている。
 
 僕は、僕の内部からひとりでに出てこようとするものだけを、
 生きてみようとしたにすぎない。


 それがなぜ、あれほど難しかったのだろうか。

複雑で傷つきやすい。
夭折してもおかしくない気質だ。

けれども、彼は違った。


Ako
ヘルマン・ヘッセ「老いることの美学」2

26歳の時『郷愁』で大きな成功を収めたヘッセは、
結婚をし、こどもにも恵まれた。
そして『車輪の下』など青春文学を世に出していく。
その平和は、第一次世界大戦によって一変。
二度の徴兵検査に落ち、兵役不適格者となる。
戦時奉仕した新聞でも寄稿した論説が非難される。
父の死、こどもの病気、妻の精神病、自身の神経障害。
ついには、座骨神経痛とリューマチを患ってしまう。

ところが治療のために訪れた湯治場・バーデンでの新しい生活が、
ヘッセにとって興味深い、新しい経験となり、発見をもたらした。
 
 彼は待つことを学ぶ。
 彼は沈黙することを学ぶ。
 彼は耳を傾けることを学ぶ。
 そしてこれらのよき賜物を
 幾つかの身体的欠陥や衰弱という犠牲を払って
 得なくてはならないにしても、
 彼はこの買い物を利益と見なすべきである。

ヘッセ46歳の秋のことだった。



ヘルマン・ヘッセ「老いることの美学」3

ある夏、ヘッセはスイスの森を散歩していた。
ふと感じる。
美しく輝かしかった夏が、
何日も続く、たちのわるい雷雨の後、劇的な終焉を迎える。
それは、たくましく元気に見えた50代の男が、
ある病気のあと、ある苦しみのあと、ある失望のあと、
突然、筋ばった、すべてのしわの中に風雪に耐えたあとのある顔に
なってしまうのと似ていると。

そして思う。
侵入してくる衰弱と死に抵抗し、
ささやかな生にしがみつき、
おののきながら死を迎える技術を学ぶのだと。
 
 再び冬が来る前に、私たちの行く手には、
 まだ多くのよいことが待っている。
 次の満月を楽しめる事を期待しよう。
 そして、たしかにみるみるうちに老いるけれど、
 やはり死はまだかなり遠方にあるのを知ろう。

その時、ヘッセ。49歳。


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ヘルマン・ヘッセ「老いることの美学」4

1924年、スイス国籍を得たヘッセは、別居中の妻と離婚。
その後スイスの女性と結婚するも、3年で離婚してしまう。
この時の苦悩を吐露した作品が『荒野の狼』である。

心身ともに危機を迎えていたこの時期、
ヘッセにはひとりの女友達がいた。
彼女の名は、ニーナ。ヘッセより30ほど年上だった。
彼が住むスイス・ティッスーンの、辺鄙な小さな村に住んでいる。
ニーナの家に向かう道は美しい。
ブドウ山と森を通って山を下り、緑の狭い谷を横切って、
谷の向こう側の、急な斜面を登っていく、
そこは、
夏はシクラメンの花でいっぱいになり、
冬はクリスマスローズに満ちあふれる。

ニーナの家は朽ち果て、台所の中をヤギやニワトリたちが歩き回っている。
魔女やおとぎ話に近い場所。
ゆがんだブリキのやかんで淹れるコーヒは、たき木の煙でほのかに苦い。
ここで2人は、世界と時代の外側に生きている。
 
 情熱は美しいものである。
 若い人には情熱がとてもよく似あう。
 年配の人々には、ユーモアが、微笑みが、
 深刻に考えないことが、
 世界をひとつの絵に変えることが、
 ものごとをまるではかない夕雲のたわむれで
 あるかのように眺めることが、
 はるかにずっとふさわしい。


unbekannt
ヘルマン・ヘッセ「老いることの美学」5

ヘッセが53歳で出版した『知と愛』は、
それまでの彼の苦悩に和解を示すことが出来た作品だった。
そして再びの結婚を経て、ようやく彼の安定した晩年がはじまる。

ある時、妻に無理矢理カーニバル見物に連れ出される。
笑いさざめく顔、人々が笑ったり叫んだりする楽しげな様子。
ひときわ目を引いたのは、ひとつの美しい姿だった。
自分が仮装していることも、周囲の雑踏も忘れて、
カーニバルの何かに心奪われて、静かに立っている少年。
ヘッセは、カーニバルの喧噪のただ中にいる少年のあどけなさ、
美しいものに対する感受性に魅了されていた。

 成熟するにつれて人はますます若くなる。
 すべての人に当てはまるとはいえないけれど、
 私の場合は、とにかくその通りなのだ。
 私は自分の少年時代の生活感情を
 心の底にずっと持ち続けてきたし、
 私が成人になり老人になることを
 いつも一種の喜劇と感じていたからだ。


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ヘルマン・ヘッセ「老いることの美学」6

戦争も終わり、経済が発展すると、
ヘッセの住む穏やかな村にも開発の大きな波がやってくる。
住みはじめた頃の自然と平和は奪われ、
無傷ではいられないと嘆いている。

 
 老境に至ってはじめて人は
 美しいものが稀であることを知り、
 工場と大砲の間にも花が咲いたり、
 新聞と相場表の間にも、まだ詩が生きていたりすれば、
 それがどんな奇跡であるかを知るようになる。


Kiril Kapustin
ヘルマン・ヘッセ「老いることの美学」7

75歳を間近に迎えた時期、ヘッセは少年時代の友人の訪問を受ける。
その人は『車輪の下』で描いた修道院時代の友だった。
友人の土産は、ヘッセが姉にあてた手紙。
それをきっかけに、過去の生活の記憶が鮮やかによみがえり、
語り合い、亡くなった人たちと再会を果たした気持ちを味わう。
おたがい白髪で、しわのよった瞼を持ちながら、
その奥にいる14歳の仲間を見つけだす。
教室の机に座っていた姿、目を輝かせて球技や競争をした姿、
そして精神と美に初めて出会ったときの
興奮、感動、畏敬の念の最初の暁光を見つけだした。

 私たち老人がこれをもたなければ、
 追憶の絵本を、体験したものの宝庫を持たなければ、
 私たちは何であろうか!

友人は帰郷後、知人やヘッセの妹に訪問の報告の葉書を書き、
ヘッセにも便りを送った。そして日々の仕事に戻った。
数日後、苦しむこともなくあっさり亡くなってしまった。

ヘッセはその損失を悲しみはしたが、
友人が最後の日まで誠実に仕事をし、
病床にもつかず、あっさりと穏やかに息をひきとったことを、
立派な調和ある終末として受け止めた。

 老いた人びとにとってすばらしいものは
 暖炉とブルゴーニュの赤ワインと
 そして最後におだやかな死だ
 しかし もっとあとで 今日ではなく!

ヘッセは85歳のある日、モーツァルトのピアノソナタを聴いて床につき、
そのまま翌朝、脳溢血で永遠の眠りについた。

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五島のはなし(168)

五島福江島の鬼岳。
子どもの頃は、年に2,3回は遠足で行ってた場所で、
小学一年生から高校三年生までずーっと続いた
(しかも高校時代は部活で走らされたりしてた)ので、
鬼岳はもういいよ、腹いっぱいだよ、みたいな状態だったわけですが、
最近また帰省するたびに行くようになりました。
なにがいいってわけじゃないんですが、なーんか、いいんですよ。
五島人にとっては「ゆる~い聖地」だと思うんですけど。

五島で生活していたころにはなかった「ココロの球」なるものが
鬼岳の中腹にできてました。なにやら説明文がついています。読んでみます。

あなた自身が
かけがえのない唯一のものであるように
あなたのふるさとが
心の中ではいつも世界の中心であるように
私たちは描く
この地を中心とする世界の地図を
この地球上のどこかをふるさととするすべての人々のために
そうです
ここが地球の真ん中です
ここから発信する平和への願いが
やがて地球の隅々までを
おおいつくすことを願って
「平和都市福江」宣言記念
福江市

・・・ちた。

(ちなみに「ちた」は、五島弁で「ですって」の意味です)
なんて書きながら、さっき書いた「ゆる~い聖地」っていうのが
言い得て妙だったんじゃないかと急に思えてきた。 
いいね! +1(自分で押した分)

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五島のはなし(167)

「あじのすりみ」であります。
もしくは「あじのてんぷら」とも言います。
鯵の身だけを使ったさつま揚げ、と言えば想像しやすいでしょうか。
これが、うまい!

ふつう、こういった魚の練り物は、いろんな魚の身を使ってつくられています。
でも五島で食べられる「あじのすりみ」は、鯵オンリー。
家庭でもつくれます。つくりかたは・・・

●鯵をそのへんの漁港で釣ってきます。100匹くらい。
●一匹一匹はらわたととりのぞいていきます。
●尻尾を落としたら、あとは、ばあちゃんに手渡します。
●ばあちゃんは、鯵を骨ごとミンチですりおろします。いまはフードプロセッサでやるのでしょうが
 ぼくのばあちゃんは手動のミンチ器を使ってた。
●すりおろした身を、すり鉢に入れ、塩、お酒などで味付けをしながら、
 すりこぎでさらに身を細かく練っていきます。
●練ったものを、適当な大きさに丸めて油で揚げればできあがり。

揚げたてのあじのすりみはほっぺがとろけそうなうまさです。
噛んだ瞬間、鯵の濃縮されたうま味がじゅわ~っと広がり
次の瞬間、老若男女とわず、思わずこう叫びます。
「すげー!鯵、お前すげーよ!」と。
ちなみにぼくの父いわく、
「揚げるのもうまいが、お味噌汁の具にするのが世界最高」だそうです。

こんど、五島からあじのすり身をとりよせて
「揚げたてを食す会」を開催したいと思います。
(みたいなこと言っておいてやったためしがないんだよなあ・・・でもやる!)

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薄景子 12年1月8日放送



表現する男 レオ・レオーニ

芸術家、レオ・レオーニが生んだ初の絵本作品
「Little Blue and Little Yellow」

幼いブルーとイエローの玉が遊んでいるうちに、
グリーンになってしまうというシンプルなストーリーは、
彼が孫たちをあやそうとして
紙と絵具で遊んでいるうちに、偶然生まれたもの。

やがて世界中のロングセラーになった
絵本の元本にはこう記されている。

ピポとアンとその友達に捧げる

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小野麻利江 12年1月8日放送


Ako
表現する男 アル・ジョルスン

1927年に公開された、
史上初のトーキー映画『ジャズ・シンガー』。

主演のアル・ジョルスンが発した冒頭のセリフは、
その後のジョルスンの舞台でも挨拶がわりに使われ、
終生、彼のトレードマークとなった。

“You Ain’t Heard Nothin’ Yet”
「お楽しみは、これからだ」

トーキー映画時代の幕開けを告げた、このひと言。
映画という「お楽しみ」は、
ここから本当にはじまったと言っても
言い過ぎではないかもしれない。



表現する男 周防正行

「困ったら伊丹さんを撮っとけ」
と思って、撮影していました。
現場にいる監督の姿は
何の抑えにでもなるだろうと思っていたからです。

映画監督の周防正行が
伊丹十三の「マルサの女」の現場に入り、
メイキング番組「マルサの女をマルサする」を監督したのは、
デビュー作を撮って、少し経ったぐらいの頃。
ドキュメンタリー性と娯楽性を見事に融合させた
この番組は、高い評価を得た。

それから、20年あまり。
周防は映画「ダンシング・チャップリン」の中で、
世界的な振付家ローラン・プティに
演出を拒否されて困惑する自分自身の姿を登場させた。

現場にいる監督の姿は
何の抑えにでもなるだろうと思っていたからです。

「抑え」とは、つまり素材のこと。
現場にあるものはすべて、自分自身さえ
映画をつくるための素材とみなすクールな眼が
美しく叙情的な「ダンシング・チャップリン」に
サスペンスな風味をもたらしている。

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