2017 年 4 月 のアーカイブ

澁江俊一 17年4月16日放送

170416-04

現実を見る力

今日はクラーク博士が
「ボーイズ ビー アンビシャス」
の言葉を残した日。

映画監督、黒澤明は
幼い頃、兄に連れ出されて
関東大震災の焼け野原を見に行った。

おびただしい遺体の数。
思わず目をそむけ、怯える弟に、
「よく見るんだ、明」と兄は言った。

「怖いものに眼をつぶるから怖いんだ。
 よく見れば、怖いものなんかあるものか」

のちに世界を驚かせる映画を
次々と撮ることになる明少年。
彼に大志を抱かせたのは、
現実の中の真実を見つめろ、という
兄の哲学だったのだ。

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澁江俊一 17年4月16日放送

170416-05

太陽だけが友達

今日はクラーク博士が
「ボーイズ ビー アンビシャス」
の言葉を残した日。

芸術家岡本太郎は
数奇な少年時代を過ごした。

一斉を風靡した漫画家である父一平と
小説家・歌人である母かの子との間に
太郎は生まれた。

家庭を顧みることのない父と、
子どもを育てようとせず
愛人を家に住まわせていた母。
家にも学校にも居場所のなかった
小学1年生の太郎の話し相手は
青空に毎日顔を出す「太陽」だけだった。

世界を照らす太陽の大きさと、
自らを燃やし、輝き続けるエネルギーは
どれほど勇気をくれたことだろう。

太郎少年に大志を抱かせた
熱く燃えさかる太陽は、
生涯に渡って芸術の重要なモチーフとなった。

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松岡康 17年4月16日放送

170416-06

喜劇王の少年時代

今日はクラーク博士が
「ボーイズ ビー アンビシャス」
の言葉を残した日。

見るものすべてを笑顔にする、喜劇王チャップリン。
彼の少年時代は笑顔とはかけ離れたものだった。

1歳のときに両親が離婚。
貧乏な舞台女優だった母親のもとで育てられ、貧しい生活を送る。
5歳のときには、舞台に立っていた母が喉をつぶしてしまう。

母親は二度と舞台に立つことができず、のちに精神に異常をきたし
施設に収容された。

貧しいチャップリンは子供ながらに職を転々とし、
時にはコソ泥まで働いたという。

チャップリンは言う。

 無駄な一日。それは笑いのない日である。

つらい少年時代が作りあげた信念
それは人を笑顔にし続けることだった。

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礒部建多 17年4月16日放送

170416-07

天才的音楽家

今日はクラーク博士が
「ボーイズ ビー アンビシャス」
の言葉を残した日。

稀代の音楽家、ヨハン・セバスチャン・バッハ。
彼の才能は、幼い頃から光り輝いていた。

ヨハン少年が11歳の時のこと。
初めてオルガンに触れたのにも関わらず、彼は完璧に演奏してしまったのだ。

有名な音楽一家に生まれたが、
その家族全員からも一目置かれた存在だった。
音楽の先生であった兄は教育のために、
ヨハンにあえて楽譜を一切見せないようにした。
下手に他の音楽家の癖や影響を受けて、創造性を損なわせないためだ。
ヨハン少年は、誰よりも純粋に自分の音楽と向き合っていった。

そうして後に、「近代音楽の父」と呼ばれるまでに成功を収めることになる。
音楽の境地へと辿り着いたヨハンは、こう述べたと言う。

 「音楽の究極的な目的は、神の栄光と魂の浄化に他ならない。」

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松岡康 17年4月16日放送

170416-08

建築家の少年時代

今日はクラーク博士が
「ボーイズ ビー アンビシャス」
の言葉を残した日。

水平に長く伸びる薄い屋根。
構造から独立した石の壁が自由に配置され、流動的な空間を作っている。
近代建築の最高傑作ともいわれるバルセロナパビリオン。
この作品を設計したのが
20世紀を代表する建築家ミース・ファン・デル・ローエだ。

1886年ミースは石工一家の息子として生まれ、
幼いころから父の傍らで仕事を手伝った。

当時、建築家になるには大学で建築学を学ぶことがあたりまえの時代。
そんな時代にあって、ミースは正規の建築教育を一切受けていなかった。
彼は「ものを作る」ということを、体で学んでいったのだった。

ミースは言う。

 神は細部に宿る。

机の上で学ぶのではない。手で学ぶことで、得られる境地がそこにはあった。

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厚焼玉子 17年4月15日放送

170415-01

遺言の日 ノーベル

 全財産はつぎの通り処理すること


 遺言執行者は基金を安全な有価証券に投資し、
 毎年その前年度に人類に最も貢献をした者に、
 その利子を賞金の形で与える。

 (利子は5等分し、物理学の分野で最も重要な発見または発明をした者、
 化学の分野で最も重要な発見または改善をした者、
 生理学または医学の分野で最も重要な発見をした者、
 文学で最も傑出せる理想主義的傾向の作品を書いた者、
 諸国間の融和・常備軍の廃止もしくは削減・
 または和平会議の開催および推進に最も貢献せる者に、
 それぞれ一部を与えること。)

 右の賞は、候補者の国籍を問わず、
 最も賞すべき者に授与するのが自分の希望である

 1895年11月27日 アルフレッド・ノーベル

この遺言のおかげでノーベル賞ができた。
4月15日は遺言の日

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厚焼玉子 17年4月15日放送

170415-02

遺言の日 ナポレオン

1821年、ナポレオンは遺言の補足として
こんな言葉を残した。


 「わたしの遺体はセーヌ河畔に葬ってほしい。
  わたしが深く愛するフランス国民の中にありたいからである。」

これを書いた4月16日、
ナポレオンの健康状態は悪化する一方で、
わずかな食べ物も戻すようになっていた。
ナポレオンはそんな中でも
自分の遺言書が破棄されることを恐れ
用心深く数通の複製を作っていた。

2013年、パリの競売でこの遺言補足書が落札された。
35万7千ユーロ、日本円でおよそ4700万円だった。
ナポレオンは自分の遺言書の価値が
わかっていたのだろうか。

4月15日は遺言の日

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厚焼玉子 17年4月15日放送

170415-03

遺言の日 本居宣長

江戸の国文学者、本居宣長の遺言には
葬式と墓についての細かい指示がある。

 墓地7尺四方、真ん中を少し後へ寄せて塚を築くように。
 そのうえに桜の木を植えるように。
 塚の前には石碑を建てること。
 塚の高さは三四尺ばかり。
 芝を植え土を固くして崩れないようにする。
 のちのち、もし崩れているところがあれば、
 ときどき見回って直しておく。
 植える桜の種類は山桜の花のよいのを選んで植えてほしい。

本居宣長はその墓の設計図も残している。
そして墓についての指示の後には
墓参りについての指示が続くのである。

遺族の心境を伺ってみたい。

4月15日は遺言の日

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厚焼玉子 17年4月15日放送

170415-04

遺言の日 カール・マルクス

カール・マルクスは家政婦に遺言を求められたときに
こう言った。

 出て行ってくれ!
 最後の言葉なんてものは、

 充分に言い足りなかったバカ者達のためにあるのだ。

皮肉なことに、この言葉が
いまではマルクスの最後の言葉として伝えられている。

4月15日は遺言の日

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厚焼玉子 17年4月15日放送

170415-05

遺言の日 ガンディ

 束縛があるからこそ、

 私は飛べるのだ。


 悲しみがあるからこそ、
 私は高く舞い上がれるのだ。

 逆境があるからこそ、
 私は走れるのだ。



 涙があるからこそ、
 私は前に進めるのだ。

これはマハトマ・ガンディが
暗殺される3か月前に書いた詩だ。

ガンディは胸に3発の銃弾を打ち込まれたとき
暗殺者を許すという意味のジェスチャーをしたと伝えられている。

4月15日は遺言の日

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