2018 年 11 月 4 日 のアーカイブ

大友美有紀 18年11月4日放送

181104-01

「泉鏡花」金沢生まれ

今日は小説家、泉鏡花の誕生日。
1873年、明治6年の11月4日に
石川県金沢に生まれた。本名は鏡太郎。
生家は今、記念館になっている。
主計茶屋街、ひがし茶屋街にほど近い場所。
父は金細工の職人、母は江戸、下谷の生まれ。
能楽に関係のある家の出だった。

 鏡花が数えで10歳の時、
 母が28歳で亡くなる。
 この母の死が鏡花の文学に
 大きな影響を与えている。
 
彼の物語には、母の面影を感じる女性が多く描かれる。
そして、能や狂言をモチーフにした小説も多い。
明治から昭和に生きた作家の
雅で妖艶な作品の源流を感じる。

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大友美有紀 18年11月4日放送

181104-02

「泉鏡花」謡(うたい)

今日は小説家、泉鏡花の誕生日。
金沢に生まれた鏡花の父は、
金細工の職人だった。
金沢は、今も昔も能が盛んな地。
加賀藩の藩祖、前田利家も能に傾倒していた。
能楽を武家の式楽として育成し、保護し、
武士のたしなみとした。
そして庶民、職人にも身につけるよう奨励していた。

 ひがし茶屋街を歩くと
 高いところで作業する大工や
 植木職人が謡(うたい)を口ずさむ声が聞こえ
「空から謡が降ってくる」と言われたほどだった。

鏡花の父も職人だった。
謡のたしなみがあったのかもしれない。
鏡花の作品には謡曲や、謡が登場するものも多い。

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大友美有紀 18年11月4日放送

181104-03

「泉鏡花」尾崎紅葉

数え10歳で母親を亡くした、泉鏡花。
幼少期から、母が残した江戸後記の小説類、
草双紙(くさぞうし)を読んでいた。
そして長じて尾崎紅葉の小説に出会い、耽読した。
尾崎紅葉のように小説家になりたいと
志を決め、上京するのである。
1919年、明治23年、鏡花18歳のときのことだった。
しかし紅葉を訪ねる勇気はない。
知り合いを頼って、居候のような生活をし、
1年ほどは、東京のあちこちをさまよっていた。

 万策尽き果てて、金沢に帰ろうとしたが、
 せめて帰る前にひと目でも紅葉先生に会いたいと
 牛込の尾崎宅を訪ねた。

玄関先で、鏡花は紅葉に挨拶をした。
先生の小説を読んで小説家になりたいと思って上京したのだが、
もうとてもやっていけないので、これから帰郷すると告げた。
紅葉は、そんなに小説家になりたいのなら
俺のところにおいてやると即座に答えたという。
なぜ、尾崎はそんなことを言ったのか。
鏡花の中になにか、ただならぬものを感じたのか。
ともあれ、鏡花はそのまま尾崎紅葉の内弟子となったのだ。

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大友美有紀 18年11月4日放送

181104-04

「泉鏡花」母の面影

今日は、小説家・泉鏡花の誕生日。
生涯で300余りの作品を残した。
そのほとんどが男女の物語。
それも女が中心の物語だ。

 遊女や芸者のような美しく幸薄い女、
 伯爵夫人のような可憐な女、
 しかしながら心の奥底に
 強さや、やさしさをも備え持っている。
 
鏡花の母は、28歳で亡くなっている。
彼にとって母親は、いつまでも若く美しい。
彼の物語に登場する女には、どこか母親の面影がある。
泉鏡花の中には、お母さんを求める少年が
ずっとずっと生きていたのだろう。

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大友美有紀 18年11月4日放送

181104-05

「泉鏡花」すず

今日は、小説家・泉鏡花の誕生日。
鏡花の筆名は師匠であった尾崎紅葉が名づけた。
紅葉の内弟子だった鏡花は、やがて
新進小説家として認められ尾崎の家を出る。
そして神楽坂の芸妓、桃太郎と出会い、恋に落ちてしまう。
先生には内緒で一緒に住むようになった。
その師匠の紅葉は、胃がんを患っていた。
 
 紅葉は病床で烈火の如く怒った。
 まだ結婚できる分際ではないと言うのだ。
 鏡花は桃太郎と別居せざるを得なくなる。

紅葉はその叱責のあと、38歳で亡くなってしまう。
このときの苦しみが小説「婦系図(おんなけいず)」となる。
芸妓・桃太郎の本名は「すず」といった。
鏡花の母と同じ名前だった。

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大友美有紀 18年11月4日放送

181104-06

「泉鏡花」うさぎ

今日は、小説家・泉鏡花の誕生日。
鏡花の生家は、今では記念館になっている。
そのロゴマークは鏡花とうさぎのイメージが
一筆書き風に騙し絵のようにデザインされている。
鏡花はうさぎグッズのコレクターでもあった。
彼は酉年である。
自分の干支から7番目の干支、
つまり十二支を時計のように並べたとき、
向かい側に来る干支の動物を集めると縁起がいいと
言われている。酉年の向かい干支は「うさぎ」だ。
 
 鏡花は最愛の母から水晶の兎の置物を
 お守りとして授けられた。
 それをきっかけとして、兎のものを
 熱心に集めていた。

ここにも母への渇望を感じる。
自分の干支と向かい干支は、正反対の性質を持つという。
鏡花の師匠である尾崎紅葉の干支は、うさぎだった。

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大友美有紀 18年11月4日放送

181104-07

「泉鏡花」潔癖性

今日は、小説家・泉鏡花の誕生日。
鏡花は30歳の頃、赤痢にかかってしまった。
そのせいで、刺身のような
生ものは見たくもない。
酒もグツグツと煮立てて飲む。
アンパンは表、ウラ、ヨコ、すべて
火で炙ってから食べる。
とにかくばい菌が怖い。

 関東大震災のときには麹町の自宅で被災した。
 食料を買うために店にいくが
 魚の総菜にハエがたかっているのを見て
 帰って来てしまう。

震災時は外で用も足せないほどだった。
それでも10日後には体験記「露宿」を執筆した。
それは単なる被災談ではなく随筆として成立している。
潔癖性だが作家としては完璧だったのだ。

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大友美有紀 18年11月4日放送

181104-08

「泉鏡花」結婚のし直し

今日は、小説家・泉鏡花の誕生日。
亡き母すずと同じ名を持つ神楽坂の芸妓、
桃太郎と恋仲になった。ところが
死を目前にした師匠の尾崎紅葉に叱責され、
ふたりは別れさせられる。明治36年のことだった。
大正15年の1月5日の読売新聞に
「泉鏡花さんが結婚のし直し」という記事がでる。

 妻の名は、すず子。
 別れさせられたはずの芸妓・桃太郎だった。

師匠に反対されても、鏡花は桃太郎を見捨てなかった。
読売新聞の記事で、元桃太郎のすず子夫人は、
鏡花が面倒くさがりで入籍しなかっただけと語る。
すずは、ずっと鏡花に寄り添って看取った後も、
68歳まで生きたのだった。
めでたし、めでたし。

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