小林組・東未歩

東美歩 15年10月10日放送

151010-01
森和夫 ノモンハンからの帰還

1939年。
モンゴル国境で
日本と旧ソビエトとの紛争が勃発した。
ノモンハン事件。
大量の戦闘員と武器を投入し、
旧ソビエトは、日本軍を壊滅へ追いやった。
生存率4%。
生き残ることが奇跡と言われた。
森和夫。
東洋水産の創業者は、その貴重な生存兵だ。
戦後、わずか四名の従業員とともに会社を起こすと、
一代で日本屈指の食品企業へと成長させる。
看板商品は、「赤いきつね」。
真っ赤なカップうどんにつけられた名は、
実は、日本軍を撃破したソビエト軍の俗称である。
ノモンハンにくらべれば、どんな苦労も苦労ではない。
「赤いきつね」にこめられたのは、
森の不屈の精神だった。


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東美歩 15年10月10日放送

151010-02
森和夫 社長の給料

「社長の給料は、おいくらですか?」
労働組合協議会に呼び出された森和夫は、尋ねられた。
働く者の権利が見直されはじめた昭和30年代、
東洋水産でも労働組合がつくられ、
待遇改善が訴えられ始めた。
「私の給料は、2万5千円です。」
森が答えると、どよめきが起こった。
現代の価値で37万円。
森の月給は、一般社員と変わらぬものだったのだ。
私欲よりも、消費者の利益を優先するのが、経営哲学だった。
その姿勢に社員は惚れなおし、
労使紛争は自然に解消してしまったという。
東洋水産のオーナー社長は、
戦闘的だった当時の労働組合協議会においてさえ、
あきれるほどの実直な人間だった。


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東美歩 15年10月10日放送

151010-03
森和夫 共有の精神

マティス、ヴランマンク、片岡球子(かたおかたまこ)。
東洋水産の受付フロアを訪れると、
名だたる画家の傑作を目にすることができる。
誰でも出入りできる場所に
芸術作品を置くのは、
創業者 森和夫の意向によるものだ。

「毎日のように本物の名画を目にしていると
 自然と美意識が養われる。
 美術に対する感性を磨いてもらいたいから
 多くの人が目にできる場所に飾るのだよ。」


いいものを一人占めすることを極端に嫌い、
世の中に還元しようとする男だった。
新製品ができた時も、
あえて他のメーカーが真似できるように
特許をとらなかった。
日本のインスタント食品のレベルが、
世界でも際立って高いのは、
きっとこの男が理由の一つだ。



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東美歩 15年10月10日放送

151010-04 Orange County Archives
森和夫 アメリカ

累積赤字500万ドル。
アメリカへ進出した東洋水産だったが、
その経営は難航を極めていた。
一流歌手を起用した派手なコマーシャル。
バラマキに近い安売りセール。
誠意とやる気の日本式営業を封印し、
アメリカ流のやり方で、販路の拡大を試みたが、
負債はふくらむばかりだった。

乗り込んだのは、
創業者森の懐刀、取締役の深川だった。
「生産のスピードアップ」「仕入れ価格の見直し」。
販売促進への資金投入をやめ、
製造ラインの無駄を徹底的に排した。
日本のやり方で、経営の立て直しを試みた。
赴任1年後、
お荷物と呼ばれていたアメリカでの営業が初めて黒字に転換した。

1984年ロサンゼルスオリンピックで、
東洋水産は麺製品のオフィシャルサプライヤーになる。
苦難続きだったアメリカ進出が、
成功へと大きく舵を切りはじめた。


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東美歩 15年5月30日放送

150530-01
下澤理如(まさゆき)① 最初のエピソード

「僕といっしょにギリシャに来てくれませんか」
2004年アテネオリンピック。
野球日本代表監督だった長嶋茂雄が、
口説き落とした男がいる。
日本料理「分とく山」の総料理長・野崎洋光(ひろみつ)。
長嶋茂雄が何度も店へ足を運び、
チームの料理長にと直訴するほど惚れ込んだ男だ。

彼が最も得意とする料理が、
土鍋で炊き上げる、白いご飯。
大の男がひと口で胃袋を掴まれるおいしさだという。

そんな野崎が、
「私の炊き方に似ている」と褒めた、
ただひとつの電気炊飯器がある。
開発したのは、下澤理如(まさゆき)。
「ごはんの神様」と呼ばれた
技術者である。



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東美歩 15年5月30日放送

150530-02 Creativity103
下澤理如② 神様と呼ばれる所以

1990年代後半、
下澤理如の炊飯器開発は、大きく遅れをとっていた。
チームの焦りが募るある日、
リーダーの下澤が突然、
カナヅチを手に工場を飛び出した。
彼は工場の脇に小屋をたてると、何日も出てこなかった。

「何をやっているのだ」と同僚がのぞきにいくと、
小屋の中では、大きな釜が火をふいていた。
「釜で炊いたご飯が一番うまい」
下澤はそう言って、炊きたての白米をほおばった。

そう。
彼のライバルは、他社の炊飯器ではなく、
あくまでも釜で炊いたご飯だったのだ。

その後下澤が生み出した電気炊飯器は、
爆発的なヒットを記録する。
「ごはんの神様」
彼のニックネームも、その時、誕生した。



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東美歩 15年5月30日放送

150530-03 yuichi.sakuraba
下澤理如③ 研究への熱意

一台の炊飯器を作るために、
下澤理如が炊く米は、
開発の常識を大きく上回る。
その量、3トン。
一家族が、20年以上かけて食べる米を
開発のたびに費やした。

ホームベーカリー開発においても
その姿勢は変わらなかった。

一般には手に入りづらい米粉ではなく、
家庭にある米をそのまま使ってパンをつくる。
自腹で8台のホームベーカリーを購入し、
毎日3度、パンを焼き続けた。
しかも、下澤は、
直接の開発担当ではなかったのだ。

定年を迎えた後は、
食のコンサルタント企業を設立した。
職場は改装した自宅のキッチン。
下澤の経験と知恵は、
小さな台所で、
今なお膨らみつづけている。


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東美歩 15年5月30日放送

150530-04 t-miki
下澤理如④ 開発エピソード

炊飯器や、ホームベーカリーなど、
数々のヒット家電を開発してきた下澤理如。
家電の街、秋葉原に出向くことは
ほとんどなかったという。

かわりに彼が足を向けたのは、銀座だった。
高級ブランドショップやアート作品を眺め、
流行のレストランを食べ歩いた。

ある日の、ショットバーでのこと。
下澤の前に、黒ビールが運ばれてきた。
粒がそろった、きめ細かくクリーミーな泡が印象的だった。
その秘密は、缶に仕掛けられていた小さな玉。
プルトップを空けると、ビールの中を飛び回り、
泡を発生させていたのだ。

工場に帰るやいなや、
下澤は、炊飯器のふたに、玉を仕掛けてみた。
炊飯器の中で、米がおどりだした。
できあがったご飯は、今までとは比べ物にならないくらい、
ふっくらと炊きあがった。

「だから、僕は銀座に通うんだ」
そして、下澤は、こう付け加えた。
「電気屋を眺めていたって、新しいアイデアは生まれない。
 だって、そこに並んでいる家電は、すでに過去のものじゃないか」



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