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東美歩 16年2月20日放送

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1億5千万のマグロ

すしざんまい創業者 木村清は
年初めの競りで
マグロを高値で競り落とすことで有名だ。
なかでも2013年の初競りは強烈だった。
1億5540万円。
史上最も高い金額でマグロを競り落としたのだ。
争ったのは、中国人オーナーの寿司屋。
無尽蔵の資金力を誇る中国チェーンと、
築地に育てられた日本の寿司屋の、
意地をかけた戦いだった。
身を引いたのは、相手だ。
1億5千万円を超えてなお、
勢いをゆるめぬ木村に、潔く負けを認めた。
「日本の寿司文化は、俺が守る。」
年の初めの築地。
木村は3億円を用意して競りに臨んでいたという。

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東美歩 16年2月20日放送

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消えた海賊

ソマリアの海は世界でもっとも危険とされる。
海賊がひしめき、襲われる船があとをたたない。
その海に、一人の寿司屋が乗り込んだ。
すしざんまい創業者
木村清だ。
「海賊の話を聞いてみたい」
通訳をつれて、
アフリカの海へと出向いていった。
そこにいたのは、
内戦で仕事を失い、
家族を養うために、
仕方なく海賊となった男達だった。
「俺が、仕事をつくるから」
漁業用の船をもちこみ
海賊に、マグロ業をたたきこんだ。
そして自ら仕入れ先となり、
安定した収入を確保した。
2015年、ソマリアの海から海賊が消えた。

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東美歩 16年2月20日放送

160220-03
kouji hamu
夢は破れるもの

戦闘機のパイロットになりたかった。
中学を出て自衛隊に入隊したが、
目に大けがを追い、夢は断たれた。
それからは
弁護士を目指した。
独学で中央大学法学部に合格。
しかし司法試験には受からなかった。
そして
会社経営をはじめた。
商売は順調に大きくなっていった。
しかしバブルとともに、すべてを失った。
夢は、かなわないことの方が多かった。
木村清。
その後手元に残ったわずかな金で、
寿司屋をはじめた男は、
一代で全国に名を馳せる寿司チェーンを築くことになる。
やってみること。
それが木村の、人生のルールなのだ。

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東美歩 16年2月20日放送

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m-louis
天才

すしチェーン経営者、木村清。
彼は電話帳や住所録を利用したことがない。
何百という相手の番号と住所を、
すべて頭のなかに記憶しているという。
語学も、学んだ経験は無い。
しかし現地に3日もいれば、
どんな言葉も話せるようになる。
貧しい家庭で育った木村は、
8歳から新聞配達にいそしむ苦学生だった。
限られた時間で学習せざるをえない環境が、
木村のなかに驚異的な記憶力と判断力を育ませた。
経営者となった今、
好んで読むのは量子や素粒子など、
物理学の本だ。
「原理を理解すれば、簡単なんです。」
そうやって独学で身につけた知識から、
経理部が1ヶ月かけてつくった決算書も
5分で読み切ってしまう。
築地に寿司屋を開いたのは
とんでもない天才かもしれない。

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東美歩 16年2月20日放送

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築地の復活

東京、築地市場。
世界から観光客の集まるこの場所は、
ほんの十数年前まで、
暗いシャッター商店街のような市場だった。
昼にはほとんどの店が暖簾をしまい、
人々は行くあてなく、踵をかえした。
そこに店を立ち上げたのが、木村である。
24時間営業の寿司屋。
斬新な経営で、
昼は観光客、夜はサラリーマン、
そのあとは深夜便で羽田に到着した外国人が
築地に足を運ぶようになった。
150万人に落ち込んでいた観光客は
木村が店を出したその年から盛り返しはじめる。
そして現在600万人に至るという。

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東美歩 15年10月10日放送

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森和夫 ノモンハンからの帰還

1939年。
モンゴル国境で
日本と旧ソビエトとの紛争が勃発した。
ノモンハン事件。
大量の戦闘員と武器を投入し、
旧ソビエトは、日本軍を壊滅へ追いやった。
生存率4%。
生き残ることが奇跡と言われた。
森和夫。
東洋水産の創業者は、その貴重な生存兵だ。
戦後、わずか四名の従業員とともに会社を起こすと、
一代で日本屈指の食品企業へと成長させる。
看板商品は、「赤いきつね」。
真っ赤なカップうどんにつけられた名は、
実は、日本軍を撃破したソビエト軍の俗称である。
ノモンハンにくらべれば、どんな苦労も苦労ではない。
「赤いきつね」にこめられたのは、
森の不屈の精神だった。

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東美歩 15年10月10日放送

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森和夫 社長の給料

「社長の給料は、おいくらですか?」
労働組合協議会に呼び出された森和夫は、尋ねられた。
働く者の権利が見直されはじめた昭和30年代、
東洋水産でも労働組合がつくられ、
待遇改善が訴えられ始めた。
「私の給料は、2万5千円です。」
森が答えると、どよめきが起こった。
現代の価値で37万円。
森の月給は、一般社員と変わらぬものだったのだ。
私欲よりも、消費者の利益を優先するのが、経営哲学だった。
その姿勢に社員は惚れなおし、
労使紛争は自然に解消してしまったという。
東洋水産のオーナー社長は、
戦闘的だった当時の労働組合協議会においてさえ、
あきれるほどの実直な人間だった。

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東美歩 15年10月10日放送

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森和夫 共有の精神

マティス、ヴランマンク、片岡球子(かたおかたまこ)。
東洋水産の受付フロアを訪れると、
名だたる画家の傑作を目にすることができる。
誰でも出入りできる場所に
芸術作品を置くのは、
創業者 森和夫の意向によるものだ。

「毎日のように本物の名画を目にしていると
 自然と美意識が養われる。
 美術に対する感性を磨いてもらいたいから
 多くの人が目にできる場所に飾るのだよ。」

いいものを一人占めすることを極端に嫌い、
世の中に還元しようとする男だった。
新製品ができた時も、
あえて他のメーカーが真似できるように
特許をとらなかった。
日本のインスタント食品のレベルが、
世界でも際立って高いのは、
きっとこの男が理由の一つだ。

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東美歩 15年10月10日放送

151010-04
Orange County Archives
森和夫 アメリカ

累積赤字500万ドル。
アメリカへ進出した東洋水産だったが、
その経営は難航を極めていた。
一流歌手を起用した派手なコマーシャル。
バラマキに近い安売りセール。
誠意とやる気の日本式営業を封印し、
アメリカ流のやり方で、販路の拡大を試みたが、
負債はふくらむばかりだった。

乗り込んだのは、
創業者森の懐刀、取締役の深川だった。
「生産のスピードアップ」「仕入れ価格の見直し」。
販売促進への資金投入をやめ、
製造ラインの無駄を徹底的に排した。
日本のやり方で、経営の立て直しを試みた。
赴任1年後、
お荷物と呼ばれていたアメリカでの営業が初めて黒字に転換した。

1984年ロサンゼルスオリンピックで、
東洋水産は麺製品のオフィシャルサプライヤーになる。
苦難続きだったアメリカ進出が、
成功へと大きく舵を切りはじめた。

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東美歩 15年5月30日放送

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下澤理如(まさゆき)① 最初のエピソード

「僕といっしょにギリシャに来てくれませんか」
2004年アテネオリンピック。
野球日本代表監督だった長嶋茂雄が、
口説き落とした男がいる。
日本料理「分とく山」の総料理長・野崎洋光(ひろみつ)。
長嶋茂雄が何度も店へ足を運び、
チームの料理長にと直訴するほど惚れ込んだ男だ。

彼が最も得意とする料理が、
土鍋で炊き上げる、白いご飯。
大の男がひと口で胃袋を掴まれるおいしさだという。

そんな野崎が、
「私の炊き方に似ている」と褒めた、
ただひとつの電気炊飯器がある。
開発したのは、下澤理如(まさゆき)。
「ごはんの神様」と呼ばれた
技術者である。

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