大友美有紀 18年11月4日放送

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「泉鏡花」潔癖性

今日は、小説家・泉鏡花の誕生日。
鏡花は30歳の頃、赤痢にかかってしまった。
そのせいで、刺身のような
生ものは見たくもない。
酒もグツグツと煮立てて飲む。
アンパンは表、ウラ、ヨコ、すべて
火で炙ってから食べる。
とにかくばい菌が怖い。

 関東大震災のときには麹町の自宅で被災した。
 食料を買うために店にいくが
 魚の総菜にハエがたかっているのを見て
 帰って来てしまう。

震災時は外で用も足せないほどだった。
それでも10日後には体験記「露宿」を執筆した。
それは単なる被災談ではなく随筆として成立している。
潔癖性だが作家としては完璧だったのだ。

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大友美有紀 18年11月4日放送

181104-08

「泉鏡花」結婚のし直し

今日は、小説家・泉鏡花の誕生日。
亡き母すずと同じ名を持つ神楽坂の芸妓、
桃太郎と恋仲になった。ところが
死を目前にした師匠の尾崎紅葉に叱責され、
ふたりは別れさせられる。明治36年のことだった。
大正15年の1月5日の読売新聞に
「泉鏡花さんが結婚のし直し」という記事がでる。

 妻の名は、すず子。
 別れさせられたはずの芸妓・桃太郎だった。

師匠に反対されても、鏡花は桃太郎を見捨てなかった。
読売新聞の記事で、元桃太郎のすず子夫人は、
鏡花が面倒くさがりで入籍しなかっただけと語る。
すずは、ずっと鏡花に寄り添って看取った後も、
68歳まで生きたのだった。
めでたし、めでたし。

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佐藤延夫 18年11月3日放送

181103-01
c.keiskei
紅葉の名所へ 太平山

栃木県南部、標高341メートルの太平山は、
春から夏にかけてさまざまな花が咲き誇る。
桜、ツツジ、アジサイ。
そしてこの季節になると、山は紅葉で色づき始める。
山頂近くの謙信平は、かつて上杉謙信が
関東平野を見渡し、その広さに驚いたという逸話が残っている。
例年、紅葉の見頃は11月下旬。
最盛期は、400mにわたって、
赤く染まったモミジを見ることができる。
さっそく、スケジュールをチェックしておこう。

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佐藤延夫 18年11月3日放送

181103-02

紅葉の名所へ 中津峡

荒川の源流に位置する中津峡は、
埼玉県の名勝地にも指定され、
奥秩父随一と言われる景観を誇る。
紅葉の季節は、
例年10月の下旬から始まり、
モミジ、カエデ、ナナカマド、ウルシなど
赤く色づく木が多いのが特徴だ。
高さ100メートルにも及ぶ絶壁。
秋の澄んだ青空。
川のせせらぎ。
想像しただけでも、安らかな気持ちになりそうだ。

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佐藤延夫 18年11月3日放送

181103-03
shinohal
紅葉の名所へ 妙義山

むき出しになった荒々しい岩肌や、
奇妙な形の岩が並ぶ、美しい渓谷。
日本三大奇景のひとつに選ばれているのが、
群馬県の妙義山だ。
赤やオレンジ色に染まるモミジやカエデに白い山肌、
そして、深い緑をたたえる常緑樹。
見事な色のコントラストが、
見る人の足をいつまでも止める。
紅葉の季節は、例年11月中旬あたりまで。
絶景には、不思議な岩がよく似合う。

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佐藤延夫 18年11月3日放送

181103-04
Σ64
紅葉の名所へ 袋田の滝

日光、華厳の滝。
那智勝浦町の、那智の滝。
日本三名爆のもうひとつは、
茨城県大子町にある袋田の滝だ。
例年、紅葉の季節は11月中旬。
落差120メートル、
豊富な水量で流れ落ちていく大迫力の滝も
このときばかりは、秋色に染まる。
数々の文人墨客がこの地を訪れたが、
西行法師は、こんな歌を残した。

 花もみち 経緯にして 山姫の 錦織出す 袋田の瀧

4段になって流れていく袋田の滝は、
「四度の滝」とも呼ばれる。
紅葉と溶け込み変化する、
いくつもの表情を楽しみたい。

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佐藤延夫 18年11月3日放送

181103-05

紅葉の名所へ 榛名湖

火山の噴火で形成されたカルデラ湖は
栄養分に乏しく、その分、透明度が高く澄んだ湖が多い。
群馬県の榛名湖も、そんなカルデラ湖のひとつだ。
外輪山、榛名富士山頂からの眺めは圧巻で、
眼下には紅葉を映した榛名湖。
そして目を上げると、
遠くに雪をいただいた谷川連峰をのぞむ。
よく晴れた日なら、富士山まで見えるという。
紅葉の季節は、例年11月上旬まで。
思い立ったら、すぐ行こう。

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石橋涼子 18年10月28日放送

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パンダのはなし パンダの来日

46年前の今日は、何の日だかご存知だろうか。
それは、あの人気者が初来日をした日。

昭和47年10月28日夕方。
羽田空港に到着したのは、日中友好の動物親善大使である
ジャイアントパンダのカンカンとランラン。

当時、野生も含めて1000頭に満たないと言われた
希少動物である二匹に、日本中が夢中になった。
空港からはパトカーの先導で上野動物園へ向かい、
200人以上の報道陣が集まった。
11月の一般公開では長蛇の列が2キロも続いたと言う。

まだ2歳で、こどもっぽさの残る雄のカンカンは、
来日当時、体重たったの55キロ。
一方、雌のランランは4歳、体重は88キロ。

二頭は、日本の熱烈なパンダブームに圧倒され、
食事も進まず、すっかり疲弊してしまったという。
体調優先ということで公開時間は一日2時間に。
月曜と金曜はお休みの完全週休二日制となった。

平和の象徴であるパンダは、
40年以上前の日本でひっそりと
働き方改革の波も起こしていたのかも、とは言いすぎだろうか。

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石橋涼子 18年10月28日放送

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Photo by Blue Pylons
パンダのはなし パンダのごはん

パンダは中国の古い文献に存在を記されているが、
発見されたのは意外と最近、19世紀後半だ。
本格的な飼育が始まったのは1936年だと言われている。

謎に包まれながらひっそり生きていたパンダの
生物学的な研究が始まったのもその頃。
つまり、飼育法もこの数十年間の試行錯誤の
たまものだということ。

例えばパンダは竹や笹の葉を好んで食べる。
しかし、それ以外のものも食べるのか、
栄養にできるのか、逆に体に害を及ぼすのか。
研究とともに食事のメニューも変化している。

初めて来日したパンダの食事は、竹の他に
お粥やサトウキビ、サツマイモ、ナツメなどがあったが、
現在では竹を重視したメニューになっているという。

初代のカンカン・ランランの糞は
健康な状態で一日10キロ前後。
一方、竹をメインに食べるリーリーは
その倍、20キロ以上の糞をするそうだ。

パンダの語源は、「竹を食べるもの」を意味する
ネパール語だという説があるが、
たくさん食べてたくさん出して、すくすく育ってくれるなら
すこしくらい偏食でも、まあいいか。

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茂木彩海 18年10月28日放送

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Photo by Jballeis
パンダのはなし パンダ外交

「パンダ外交」という言葉があるように
昔からなにかと人はパンダに集まり、物事を動かしてきたふしがある。

この「パンダ外交」、初めて行われたのはなんと
さかのぼること中国、唐の時代。

初代皇帝の孫が二頭の生きたパンダと大量の毛皮を日本に贈り、
両国間の商取引が停止している間の友好のしるしとしたことから
始まったと言われている。

中国成立後は旧ソ連に対して親善大使としてパンダを贈ったことを皮切りに、
隣国である朝鮮に。ヨーロッパ諸国との関係が緩和されると、
国交を樹立した記念としてフランスに。

その後もイギリスに、メキシコに、スペインに、ドイツに…、
さらにはオーストラリアにまで。
中国生まれのパンダたちは次々と旅立って行った。

もしこの世界にパンダがいなかったら。
不要な争いや政治の衝突が世の中に増えていたのかもしれない。

そう思うと、何者もつい笑顔にしてしまうパンダパワーは、
意外にあなどれないものである。

動物園で寝ころびながら竹を食べるその姿につい、
世界を救うヒーローを重ね見る。

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