Vision

藤本宗将 17年2月11日放送

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ぬいぐるみの話 マーガレット・シュタイフ

1847年、ドイツのある小さな町に、
マルガレーテという女の子が生まれた。
1歳半のとき病気で両足と右手が不自由となり、
一生を車椅子で過ごすことになった彼女。
その人生を変えたのは、
洋裁という仕事との出会いだった。

左手だけで扱えるようにミシンを逆向きで使うなど
工夫しながら技術を身につけ、
30歳の時には家族の助けもあって洋裁店をひらく。

あるとき、甥や姪たちのために彼女がつくった
フェルト製のぬいぐるみが大評判に。
そこから会社はどんどん大きくなっていく。

彼女の会社の代表作となったクマのぬいぐるみは、
いまでも「テディベア」と呼ばれ愛されている。

そのクマは、19世紀という時代にあって
障害をものともせず、
自立した女性がいたことの証なのだ。



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福宿桃香 17年2月11日放送

170211-03 steeljam
ぬいぐるみの話 マイケル・ボンド

今から60年前のクリスマスイブのこと。
マイケル・ボンドはお店で売れ残っていた
クマのぬいぐるみを可哀想に思い、
妻へのプレゼントとして買って帰ることにした。

ぬいぐるみにパディントンと名付けると、
ボンドの頭の中に自然と物語が浮かんだ。
拾われるのを待っていたクマ、夫婦との出会い…
思うままに筆をすすめ、10日で本を書き上げた。

こうして生まれた童話『くまのパディントン』。
今日までに26作のパディントンシリーズを執筆したボンドは
インタビューにこう答えている。

 これはクマのぬいぐるみの持つ力。
 一緒にいるとぬいぐるみがちゃんと生きていて、
 動いたり喋ったりしているような気がしてくるんだ。
 僕はただそれを書くだけ。もし今のが本当だとしたら、って。


ぬいぐるみを愛する者にしか書けないストーリーが、
今日も世界中の人々を魅了する。



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村山覚 17年2月11日放送

170211-05 Christopher Hsia
ぬいぐるみの話 ジム・ヘンソン

カエルのカーミット。
世界で一番有名なカエルのキャラクター。

テレビにデビューしたのは1955年。
後に『セサミ・ストリート』で一世を風靡する
ジム・ヘンソンが生み出した、世界初のマペットだ。

ある日、カーミットはオックスフォード大学に
招待された。アインシュタインやマザー・テレサ、
歴代の大統領など多くの著名人が立った演壇で、
彼はいつも通りに大きな口を開けて語った。

 兄弟もたくさんいたし、
 両親は私を大学に進学させられなかったんだ。
 他のカエルみたいに生物学部に入って
 解剖学を専攻することもできたけど……
 まぁ向いてなかったんだろうね。


もし彼が大学に進んでいたら、
ぬいぐるみの歴史が大きく変わっていただろう。



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村山覚 17年2月11日放送

170211-04 thotfulspot
ぬいぐるみの話 ジム・ヘンソン

世界中から今も愛されている番組『セサミ・ストリート』。
登場するマペットたちの生みの親として知られるのが
ジム・ヘンソンだ。

今から60年以上前、操り人形のマリオネットと、
パペットを組み合わせて「マペット」という言葉を
使いはじめたのも彼である。

ジムは亡くなる前に、2つの遺言をのこした。
1つは、自分のお葬式で黒い喪服を着ないでほしい。
そして、ジャズバンドを入れてほしい。

追悼式当日。ニューヨークの大聖堂にカラフルな
キャラクターたちが集まった。エルモ、ビッグバード、
クッキーモンスター…。そして、番組では一切顔を
見せない人形師たちが、泣いたり、笑ったりしながら、
たくさんの歌を捧げた。

その日、ジムの手紙も読み上げられた。

「みんなと愛し合い、許し合って、いい人生にしよう」
「生きている間にこんな手紙を書いているのは妙な感じがするけど…
 死んじゃった後に書くのは簡単じゃないからね」


いつも愛とユーモアに満ちたジム・ヘンソンが生み出した
マペットたちは、これからもずっと生き続ける。



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大友美有紀 17年2月5日放送

170205-01
「愛の手紙」夏目漱石

 おれのような不人情なものでも頻りに御前が恋しい。

ロンドン留学中の夏目漱石が
妻・鏡子に送ったラブレターは有名だ。
このとき鏡子は何を思っていたか。

 いろんな男の人を見てきたけど、
 あたしゃお父様がいちばんいいねぇ。


もし船が沈没して漱石が戻って来なかったら、
 
 あたしも身投げでもして死んじまうつもりでいたんだよ

悪妻と言われる鏡子だけれど、
彼女なりの愛し方で漱石を思っていた。



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大友美有紀 17年2月5日放送

170205-02
「愛の手紙」川端康成

川端康成は、執筆のため逗留していた群馬の旅館から
妻・秀子に、怒りに満ちた手紙を出した。

 新潮と文藝7月号送れ、
 なぜ報告の手紙をよこさんのだ、馬鹿野郎、
 手がくさつたつて代筆されることも出来るだらう、
 さういふ投げやりな、きちんと片付けない、
 ずるずる延ばしの性質が、とても助からん気をさせるのだ。

 
罵倒の言葉が延々と続く。
怒鳴りに帰ろうかと思った、とか、
仕事の疲れで気もまぎれないので
「婆さんのような顔」になった、とか。
怒ってはいるが、どこかしら可愛げのある文章だ。
妻に甘えているのかもしれない。
そんな文豪の素顔が垣間見える。



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大友美有紀 17年2月5日放送

170205-03
「愛の手紙」梶井基次郎

宇野千代をめぐって梶井基次郎と尾崎士郎が決闘をした。
という噂があった。
このとき尾崎と千代は結婚していた。29歳と30歳。
それぞれ作家としてすでに世に出ていた。
梶井は「檸檬」をはじめいくつかの短編を同人誌に発表していたが、
まだ無名の存在だった。伊豆の湯が島で千代に出会い恋をした。
では、千代はどうだったのか。

 私は梶井を尊敬していたのでせうか。
 或ひは梶井を恋ひしていたのでせうか。

 
あるインタビューでは、
面食いの私が梶井基次郎に惚れるはずもない、
と言っている。
梶井は妻をめとらず、恋人ももたず、
女性との情交を小説に書くこともないまま、
独特の世界を作り上げ、31歳で早世してしまった。
千代に大量の手紙を書いているが、
千代はそれらをすべて捨てたという。
ほんとうのところは、もう誰にもわからない。



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大友美有紀 17年2月5日放送

170205-04
「愛の手紙」森鴎外

森鴎外は日露戦争のとき、約2年の間に
出征先の満州から妻・しげ子や
家族に宛てて、140通におよぶ手紙を送っている。

 茉莉ちゃん。お前は病気の時
 かあさんにくツついてこまらせたというふことだね。
 親だものをくツつくのはあたりまへだ。
 病気でない時もくツついてこまらせておやりよ。あばよ。


小説とは違うやわらかな言葉。おどけた文章。
当時、妻と鴎外の母の仲は険悪であった。
自分の留守の間、妻の気持ちを引き立てようと
手紙を書き送っていたのかもしれない。



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大友美有紀 17年2月5日放送

170205-05
「愛の手紙」山口瞳

直木賞作家・山口瞳が妻となる治子に出会ったのは19歳の時。
ある時、仲間内で治子の誕生日を祝う集まりがあった。
その夜、山口は治子に初めての手紙を書く。

 ・・・今、洋服を浴衣に取り変へます時、
 貴女とブツケツコしたブドウの一粒がつぶれた儘で
 おヘソの辺りから出て来たのですが、
 その一粒のグチャグチャな果実を見て居りますと
 今日の一日が偲ばれて・・・・・


治子と一緒にボートに乗っていた仲間が憎らしくて
ブドウをぶつけたり、ボート競争をしたりしたが、
山口はかなわず、ヤリキレナイ気持ちになったという。
そのことがユーモアたっぷりに書かれている。
正確には、これは手紙ではない。
治子のためにお祝いの寄せ書きをした手帳を
山口は持って帰っていた。
手帳が返されたときに書かれていたのだ。
治子は、この文章を読んだときに甘酸っぱいような気持ちが胸にあふれ、
すぐに返事を書いた。ここからふたりの恋愛がはじまった。



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大友美有紀 17年2月5日放送

170205-06
「愛の手紙」中島敦

「山月記」といえば、多くの高校教科書に採録されている、
中国の古典を題材にした物語だ。
その作家、中島敦は次男が生まれた頃、ミクロネシアでの仕事を得る。
南洋の気候が持病のぜんそくにもいいだろうと単身赴任した。
子煩悩だった中島は、子どものことを思うと仕事が手につかない。

 何か、人事不詳になるやうな
 劇しい(はげしい)病気にでもなって、
 フト、目が覚めてみたら、お前達の傍にいた、
 といふやうなことになればどんないいだらう。


漢文調の物語を書いた人物とは思えない。
家族とはなれた寂しさからか中島は体調を崩し、
9ヶ月足らずで帰国した。



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