Vision

四宮拓真 16年12月11日放送

161211-07
天才絵師 河鍋暁斎「絵日記」

酒好きで知られた絵師・河鍋暁斎。
明治3年、暁斎は酒に酔って政府を批判する画を書き、
投獄されてしまった。

翌年釈放された暁斎は、
まるで世間に反省を示すように雅号(がごう)を改めて
創作を再開したが、
酒をやめることは、もちろんなかった。

そんな暁斎を、
弟子のコンドルはユーモアあふれる表現で
こう擁護している。

 彼は、その極めて奔放な空想、最も新鮮なる構図、
 および大胆不敵な筆致が、
 酒神(しゅしん)バッカスの力によって生み出されたものであることを
 「わきまえて」いたのだ。


と。


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四宮拓真 16年12月11日放送

161211-08
天才絵師 河鍋暁斎「河鍋暁斎記念美術館」

天才絵師・河鍋暁斎の作品は、
埼玉県蕨市にある、
河鍋暁斎記念美術館で見ることできる。

静かな住宅街の中の小さな美術館は、
あの濃密な作風と比べると、
ややアンバランスな印象さえ受ける。

暁斎は、過激で豪快な人柄というイメージがあるが、
実のところ、真面目で気の小さい男だったと言われる。
晩年には狩野派(かのうは)に再入門し、
伝統技法の遵守・継承にも力を注いだ。

喧騒を離れたところに、本質がある。
暁斎は、いまも静かな場所であなたを待っている。


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永久眞規 16年12月10日放送

161210-01
1702年12月14日の雪

 あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる
 浮き世の月に かかる雲なし


忠臣蔵で有名な大石内蔵助の辞世の句である。

ドラマや映画では雪の降る日に描かれる
吉良邸への討ち入りだが、
実際は前日までに雪は止み、
夜明けの空に月が輝いていたそうだ。

 「浮き世の月に かかる雲なし」

まさに内蔵助の晴れ晴れとした気持ちのような
空だったのだろう。

だが忠臣蔵のイメージといえば、やはり雪なのだ。
復讐の炎が似合うのは、
凍てつくような雪の降る日なのである。


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福宿桃香 16年12月10日放送

161210-02
1626年4月9日の雪

知は力なり。
この名言で知られる哲学者、フランシス・ベーコンは、
雪によって運命を狂わされてしまった一人である。

晩年、彼は冷凍技術に興味をもっていた。
そしてある雪の日。
思いつくまま外に飛び出し、
鶏のお腹に雪を詰め込むという冷凍実験を行ったところ、
なんと、身体を冷やしてしまったベーコンは
そのまま帰らぬ人となってしまったのだ。

残念な最期だが、
雪を見て胸を躍らせた彼の気持ちには、共感してしまう。


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福宿桃香 16年12月10日放送

161210-03
1860年3月3日の雪

1860年3月3日。
季節外れの大雪に見舞われたその日、
井伊直弼は、水戸浪士らによって暗殺された。

彼の護衛は五十名を超え、普段であれば負けるはずもない戦い。
ところが雪に備えた重装備であったため
すぐに刀を抜くことができず、わずか十数名の敵によって、
井伊直弼は首を落とされてしまったのである。

知らせを聞いて駆け付けた武士は、そのときの光景をこう語った。

「雪は桜の花を散らしたように血染となっていました。」

桜田門外の変ー。
もしも雪が降っていなければ、歴史は変わっていたかもしれない。


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村山覚 16年12月10日放送

161210-04
1998年1月8日の雪

その日は雪が降っていた。
1998年1月8日。全国高校サッカー決勝。

試合開始時の気温は0.8℃。湿度は94%。
一面まっ白に染まった国立競技場は
まともなプレーができる状態ではなかった。

前半終わって1-1。ハーフタイム中に
ゴール手前の雪がとりのぞかれた。
結果的に、そのことが試合の流れを変えた。

後半5分。東福岡高校の10番・本山が
ほんの少しだけ緑が見えるペナルティエリアに
ドリブルで切り込む。帝京のディフェンダーが
いなくなったスペースに9番・青柳が飛び込んで
逆転ゴール。

後に本山はこう語った。

「みんな覚えてくれている。
 雪があったおかげだと思います」


まっ白な雪は、
ドラマを色鮮やかにする舞台装置でもある。


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藤本宗将 16年12月10日放送

161210-05
1936年2月26日の雪

1936年2月26日。
雪の東京は、その日クーデターで血に染まった。
世に言う2・26事件。

作家の尾崎士郎はこの日のことを回想し、
こう書き残している。

「雨でなくてよかった。小春日和でなくてよかった。
 雨だったらどんなに陰惨な記憶を残したであろう。
 小春日和であったら私は生きることに望みをうしなったかも知れぬ。
 しかし、幸いにも雪の日であった。」


雪で覆ってしまいたいような日が、
歴史には存在する。


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大友美有紀 16年12月4日放送

161204-01 sabamiso
天才意匠家 小村雪岱 『デビュー作』

小村雪岱(こむらせったい)をご存知だろうか。
明治20年、埼玉県川越市生まれ。
東京美術学校で日本画を学び、
泉鏡花「日本橋」の装幀を手がける。

 この小説は起稿されましてから
 お書き上げになりますまでに
 1年近くおかかりであった様に
 記憶しております。
 装幀は先生のお言葉で私がいたしました。

 
本の装幀は、これが初めて。
しかし大胆かつ繊細。息を呑むほどの美しさ。
これ以降、鏡花本の装幀のほとんどを雪岱が引き受けた。


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大友美有紀 16年12月4日放送

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天才意匠家 小村雪岱 『泉鏡花』

小村雪岱という人物を伝えるのは難しい。
「装幀家」「挿絵画家」「舞台美術家」「日本画家」。
大正、昭和にかけて活躍した。
東京美術学校時代に泉鏡花の小説を知り、夢中で読んだ。
その後、縁あって泉鏡花本人と知り合う。

 しばらくの間、誠に丁寧なお言葉で様々のお話が
 ございましたが、有頂天の私は何も覚えておりません。

 
この時、鏡花から「遊びにおいで」と言われた雪岱は、
嬉しさのあまり生来の引っ込み思案も忘れ、
木彫りの地蔵菩薩を持って泉宅を訪れる。
そして雪岱の装幀家としてのキャリアが始まったのだ。
大胆にして繊細な作風を思わせる行動だった。


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大友美有紀 16年12月4日放送

161204-03
天才意匠家 小村雪岱 『女性像』

「装幀家」「挿絵画家」「舞台美術家」「日本画家」として
大正、昭和にかけて活躍した、小村雪岱。
その作風は、大胆にして繊細。極限まで要素を削り、
必要最小限の線描と着色を行う。
雪岱の描く女性は、無機質でセクシャルな雰囲気がほとんどない。
幼少期に母親と生き別れた経験のせいかもしれない。

 たとえていえば私は幼いころ見たある時ある場合の
 母の顔が瞼の裏に残って忘れられません。
 口では言い現せない憧れに似た懐かしさを感じて
 懐かしさを感じてこれが私の好きな女の顔の一つなのです。

 
雪岱は仏像や人形を手本にして絵を描く。
自分の書く人物には個性がないという。
それは能面の持つ力に似たものをこいねがっているからだ。
能面は唯一の表情だが、演技によって
泣いているようにも笑っているようにも見える。

 個性のない表情のなかにかすかな情感を現したいのです。

晩年になってもその念願を達成したことはないという。


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