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佐藤延夫 11年01月01日放送



ある正月/芥川龍之介

酒が嫌いで、風呂も嫌い。
生ものは一切食べず、
ハマグリなどの貝類も受け付けない。

芥川龍之介は、作家であると同時に、偏食家でもあった。
唯一、好んで食べたのは、
鰤の照り焼きだったそうだ。

そんな芥川家のお正月。
小松菜、大根、里芋、くわい、タケノコ、鳥肉を並べ、
お雑煮は、切り餅を焼かずに、お湯で煮る。
驚くほど質素だが、
大晦日の晩には、昆布と小梅を入れたお茶を、福茶と呼んでたしなんだ。

新しい年に、福が来るように。

誰もが思う小さな願いは、この偏屈そうな男の心にも、ちゃんとある。





ある正月/高浜虚子

俳人、高浜虚子は長生きだった。

三十歳まで命があればいい、と思っていたそうだが、
実際は八十五歳で生きたし、そのあいだも俳句を詠み続けた。
晩年になっても正月を迎えるたびに、自分の気持ちを言葉にした。


  揺らげる歯 そのまま大事 雑煮食ふ

  酒もすき 餅もすきなり 今朝の春

  斯くの如く 只ありて食ふ 雑煮かな


最後の句は、八十三歳の作。
高浜虚子先生、どうやらお雑煮がお好きだったようで。








ある正月/折口信夫

源氏物語の一節。
「いとかたかるべき世にこそあらめ」
この言葉を、
「なるほど世間はむずかしい」

そう訳したのは、民族学者の折口信夫だ。
古典の口語訳を喜んで引き受けたのは、
同居する弟子たちの食事代を捻出するためだったという。

正月になるとさらに多くの弟子が集まるので
築地市場や百貨店をまわり
おでんの具に高級ハム、合鴨などを買い漁った。

弟子のひとりは、のちにこう語っている。

  食べ物にかけては掏摸のように敏捷で貪欲な先生だった。

なるほど、世間は難しい。





ある正月/南方熊楠

生物学者、南方熊楠。
この人は、学者というよりも
野生児と呼んだほうが、しっくりくる。

普段は服など着ずに裸で暮らし、酒は浴びるように飲む。
ビールなら1ダース。
日本酒は茶碗でがぶがぶと飲んだ。

武勇伝も多い。
アメリカでは、得意の柔道で不良たちを投げ飛ばし、
イギリスの大英博物館に勤めていたころには
侮辱した白人を殴り倒し、入館禁止になった。

その反面、驚くべき記憶力を持つ。
読み漁った本の内容を鮮明に覚えており、
家に帰ってから完璧に写し書いた。
語学力も堪能で、十数カ国語を話したという。

そんな熊楠のお正月。
おせち料理とお雑煮を好んで食べたが、
「おめでとう」という言葉は禁じていた。

  命が縮まるのに、なにがめでたいか。

なにからなにまで破天荒なこの男。
のちに民族学者の柳田國男が、
熊楠を「日本人の可能性の極限」と喩えたのも、よくわかる。





ある正月/柳田國男

食事を味わうよりも、
この人は、食事を調べるほうが好きなのではないか。

民族学者、柳田國男の本をめくると、
ついそう思えてくる。
彼自身も美食を嫌い、質素な食事を好んだ。

正月にまつわる食べ物の記述は多いが、
美味しそうな話はなかなか見つからない。
たとえば鏡餅については、このように記している。

  鏡餅の“カガミ”とは、各人に平等に向けられる鏡で、
  ここに食物分配の本来の意義があるとする。

なるほど。
お正月から、背筋がぴんと伸びました。





ある正月/小泉八雲


  日本人は立派な文明を持っていながら、
  好んで野蛮人の真似をしたがる。


明治時代、欧米の文化に心酔する日本国民を
そう言って批判したのは、小泉八雲だ。

日本人よりも日本人らしいこの男は、
お正月のしめ飾りを気に入り、
一月の末までそのまま飾り続けていたそうだ。





ある正月/幸徳秋水

明治時代の思想家、幸徳秋水。

日露戦争に異を唱え、鋭い論調で政府を批判したが
彼そのものは呑気な性格であり、
私生活では酒と女。放蕩に身を任せていた。

昼酒をあおり大切な帽子をなくす。
給料を前借りして飲みまわる。
そんなことを繰り返すと、
年の暮れには一銭も残らない。

家計にまわす金はなく、
母や妻に対し、不孝の子にして不仁の夫なりき、と自らを戒めている。

幸徳秋水の、ある元旦。
大逆事件の首謀者として疑われ、
獄中で最後の正月を迎えた。
友人への手紙には、こうつづられている。

  弁当箱を取り上げると、急に胸が迫ってきて数滴の涙が粥の上に落ちた。
  僕は始終、粥ばかり食ってる。

この数日後、死刑を宣告された。
今年は、それからちょうど100年。
のどかな正月を送れるのは、本当に幸せなことだと思う。
心配事は、いろいろあるけれど。


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名雪祐平 10年12月26日放送



チャールズ・M・シュルツ1


子どもの頃の自分をモデルに、
ストーリーを作り続けることは、
楽しいだろうか。
苦しいだろうか。

それを50年間続けた漫画家がいる。

チャーリー・ブラウンと
スヌーピーの生みの親、
チャールズ・シュルツ

描き続け、
彼自身が老人になればなるほど
どんどん子どもに戻って
漫画の中で遊んでいたのだとしたら、

やっぱり、なんだか楽しそうだ。





チャールズ・M・シュルツ2


スヌーピーの生みの親、
チャールズ・シュルツは、
内気でダメな子どもだった自分を
忘れていなかった。

漫画に登場する
小学生チャーリー・ブラウンたちは、

やれやれ。

お手上げだよ。

と、よく愚痴や弱音をこぼす。

でも必ず、
困った問題を乗り越えようと悩んだり、
一歩一歩進もうと、がんばるのだ。

スーパーマンはいない。
でも、内気だった漫画家だけが描ける
主人公たちは、
世界中のアイドルになった。





ムハマド・ユヌス1


バングラデシュの大学教授が、
貧しい農村に調査に行った。

42人の村人の話を聞き、
いま必要なお金はいくらかを
訊ねてみた。

合計、たった27ドル。

竹のカゴをつくる材料を買うための、
わずかな現金さえなかったのだ。

教授はポケットマネーから
27ドルを貸した。
少しずつ返してくれればいい、と。

のちに全額きれいに返済された。

お金を借り、貧しい人たちは
自分の仕事と活力を手に入れた。
食料を買った。
石鹸や鉛筆も買えたかもしれない。

これはとても良いことだ。
貧困を救うための画期的な銀行を作ろう。

ムハマド・ユヌスは大学教授を辞め、
グラミン銀行を創設した。








ムハマド・ユヌス2


そんなもの、誰も見向きもしない、
ということに世界で初めて取り組む人がいる。

ムハマド・ユヌスはグラミン銀行を作り、
ほんの少ないお金を貧困に苦しむ人たちに
無担保で貸すことを始めた。

どうせ返せっこないさ。

そんな偏見も、見事にひっくり返った。
返済率は99%に達するほどだった。

グラミン銀行は
世界の貧困で苦しむ人々の向上心を信じ、
救い続けている。

誰も見向きもしなかった事業に、
いま、世界中が注目している。




ムハマド・ユヌス3


世界一尊敬されている銀行家は誰か。

数百億円という年収をふところに入れた
アメリカの銀行家より、
数ドルがなくて困っている人たちを救った
この人かもしれない。

ムハマド・ユヌス
グラミン銀行総裁。

彼の言葉がある。


 どんなことでもいい。
 きみのすぐ目の前にある問題から
 はじめればいいんだよ。
 どんなことでもいい。
 きみの手の届く範囲ではじめればいい。


目の前の貧しい人たちに自分の27ドルを貸したこと。
その小さな一歩が、
グラミン銀行のきっかけとなり、
いま、約10万カ所に上る相談センターで
貧しい人たちにお金を融資している。





ハーブ・リッツ1


ある日、無名の2人の若者が
ドライブに出かけた。

途中、タイヤがパンクしてしまった。

修理中のひまつぶしに
1人がもう1人を撮影した写真が
全米の雑誌に掲載されることになった。

写真に写った若者、リチャード・ギア
写真を撮った若者、ハーブ・リッツ

俳優としてギアが成功するにつれ、
リッツも大人気のプロカメラマンとなった。

タイヤのパンクから、
運が走り始めた。




ハーブ・リッツ2


クリスマスから一夜明けた
何でもない、12月26日。

アメリカの写真家ハーブ・リッツが
50歳で他界した。2002年のこと。
エイズだった。

「最も写真を撮ってもらいたい写真家」
そう呼ばれた。

ずばり、それは
自分を美しく撮ってくれるから。
マドンナを筆頭に、
セレブたちからオファーが殺到した。

逆にリッツが
「最も写真を撮りたかったモデル」は、
誰だったのか。

未発表の彼の傑作を
モデルとなった恋人だけが、
眺めているかもしれない。





ゴルバチョフ


クリスマスから一夜明けた
何でもない、12月26日。

ソビエト連邦は崩壊した。1991年のこと。


 蒔けるだけ種を蒔いておきたい。


その言葉の通り、
国家改革ペレストロイカを進めていた
ゴルバチョフだったが、
ソ連崩壊前日には大統領を辞任した。

それが本望でなくても
怒濤の時代の真ん中に彼はいた。

40年以上続いた冷戦を終結させた
その名前は、
とっくに教科書に載っている。




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坂本和加 10年12月25日放送



モーリス・ユトリロ(1883.12.26生まれ)

画家、モーリス・ユトリロ。
その人気とは裏腹に、
ユトリロの生涯は、
なんと不幸だったのだろうと
ひとは、思うことだろう。

母に愛されず、
10代でアルコール依存症になり、
治療のために始めた絵画が、うけた。
その後、ユトリロは
母に言われるがまま
軟禁状態で画を描くことになる。

クリスマスの画も描いている。
きっと、母親に乞われるままに。

けれどユトリロは
母が、世界のすべてだった。

「シュザンヌ・ヴァラドンと呼ぶわが母は、
 気高く、美しく、善良な女である」

幸福か不幸か。それは他人が決めることではない。








クララ・バートン(1821.12.25生まれ)

アメリカでは
戦場の天使と呼ばれた
クララ・バートン。
その肖像はみな、
シンプルな黒いワンピース。
彼女に、一度でも
華やかなクリスマスが
あったのだろうか。

そう思わせるほどクララは、
その生涯を「人を救うこと」に費やした。

30代で南北戦争に赴き
負傷者救済の経験から後、
アメリカ赤十字の創始者となる。

引退後は、応急手当協会を設立。
自宅を改装してまで
応急処置法と救急箱の普及進めた。
90歳で亡くなるまで。

クリスマスに生まれた
彼女の職業は、慈善事業家。
生き方そのものが、
サンタクロースだった。





アイザック・ニュートン(1642.12.25生まれ)

忘年会にクリスマス、
12月は、なにかとお酒を
飲む機会が多いけれど、
「12時までには寝た方がいい」
と、客観的に自己分析し実行していた
18世紀の自然科学者がいる。

アイザック・ニュートンが、そのひとだ。

それは、12時以降に起きていると
一日中研究をしていた日よりずっと
翌日の疲れが残っていると、
ある日気づいたため。

朝は、紅茶の代わりに
オレンジの皮を煮出した湯に
お砂糖を入れたものを飲むことが
ニュートンのもうひとつの健康法で、
実際、彼は、85歳まで生きた。

きょうは、クリスマス。
ニュートンの誕生日でもある日です。





カール・ユーハイム(1886.12.25生まれ)

クリスマスの
ドイツ菓子といえば、
シュトレン。けれど
日本人にもっと馴染みのある
ドイツ菓子は、バームクーヘンだろう。

それを日本に広めたのは、
ドイツ生まれの菓子職人
カール・ユーハイム。
洋菓子メーカー、ユーハイムの創業者。

戦前にやってきたバームクーヘンが
日本で長く愛されつづけたのは、
あの切り株の年輪のような見た目に
縁起を担いだからに違いない。

けれど残念ながら、
本国ドイツには、そういった
縁起のいい「いわれ」はない。


平和を作り出す人たちは、幸いである。


神戸にあるユーハイムの墓石には、
日本語で、そう書かれている。





クリスマス生まれ

とある占いによると、
12月25日に生まれたひとは、
さっぱりとオープンな性格で、
責任感も強く、直感力があり、
ひとづきあいが得意なひとだそうです。
向いている職業に、医者や公務員、
研究職など。恋愛は、調和や平和を
強く求める傾向にあるのだとか…。

同じ日に生まれた偉人には、
乃木希典、植木等、
コンラッド・ヒルトン、
ハンフリー・ボガードなどがいます。


きょう、12月25日に生まれた方、
おめでとうございます。

そして、メリークリスマス。





コンラッド・ヒルトン(1887.12.25生まれ)

海外のヒルトンホテルの客室には必ず、
聖書と一緒に「be my guest」という
一冊の本が置いてあるのだそうだ。

それは、ホテル王、
コンラッド・ヒルトンの自伝。
ビジネスマン必読の書、
ということになっているらしい。

ところで、この本、
日本でも翻訳され
書店で手に入るのだが、
そのタイトルは、
『ホテル王の告白』。

商売がうまいとは、このことか。

きょうは、クリスマス。
東京のヒルトンは、
ほぼ満室だそうですよ。





金子光晴(1895.12.25生まれ)

若かりし頃は反戦の、
晩年では、家族愛の詩人。
金子光晴は、
クリスマスギフトに
ぴったりな詩集を出している。

題名は「若葉のうた」。
生まれたばかりの孫娘、
若葉ちゃんのために、
72歳の金子が書き下ろした。

そこには、
まるで恋する若者のような、
みずみずしく繊細なことばがある。
けれどそれは、
長く言葉と格闘しつづけた
老齢の詩人だからこそ
出会えたことば。

クリスマスにことばを贈るなら。

あなたは、家族に
どんなことばを贈りますか?

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石橋涼子 10年12月19日放送



ヴィクトル・ユゴーの手紙


作家、ヴィクトル・ユゴーは、
恋人との間に、生涯で2万通にも及ぶ
手紙を交わしたというくらい筆マメだけれど、
一方で、世界一短い手紙を書いたことでも有名だ。

それは、「?(クエスチョンマーク)」が
一文字書かれただけの手紙。

「レ・ミゼラブル」の売れ行きを
出版社へ問い合わせる手紙だった。

返事は、「!(ビックリマーク)」が一文字だけ。

つまり、驚くほど売れてますよ、ということ。









野口英世の母の手紙


野口英世が研究のためにアメリカに渡ったとき、
読み書きのできない母が手紙を出せるように、
住所を刻印したスタンプをプレゼントした。

特に便りのないまま数年が経ったが、
ある日、一通の手紙が届いた。

息子の出世を喜ぶあいさつから始まる手紙は、
やがて、息子に一目会いたいという母の願いに変わる。


 はやくきてくだされ
 いつくるとおせてくだされ
 このへんじをまちておりまする
 ねてもねむられません


早く帰ってきてほしいという願いが
たどたどしいひらがなで綴られた手紙に
英世は激しい衝撃を受け、
忙しい研究の合間を縫って、すぐに帰国したという。

手紙は、文章の上手さではなく、
伝えたい気持ちの強さでしか、伝わらない。





斎藤茂吉の手紙


歌人として、精神科医として、
名を馳せた斎藤茂吉は、50歳を過ぎて恋をした。

相手は、アララギ派に参加したばかりの
若手歌人、永井ふさ子24歳。

茂吉は、この親子ほど歳が離れた恋人に夢中になり、
会えない時はひたすらラブレターを書いて過ごした。
それは、1年余りの交際期間で150通以上にのぼり、
一日に7通も書いた日もあった。

手紙で茂吉は、
ふさ子の写真がほしいと懇願し、
ふさ子の体をすばらしいと誉めたたえ、
愛の歌を惜しみなく詠み贈った。

人々の尊敬を集める歌人が書いたラブレターは、
恥ずかしいくらいウブで赤裸々で、
まるで初めて恋をした若者のようだった。

手紙の最後にはいつもこのような内容が書かれていた。


 読み終わったらただちに焼き捨ててほしい。
 そうすれば次々と心のありたけを申し上げられる。


妻子ある茂吉の立場を考えたふさ子は、
30通ほどを素直に焼いたが、
手紙が灰になった後の言いようのない寂しさから、
つい、残り100通余りを焼かずに手元に残してしまった。

それらの手紙が茂吉の死後に公表され、
物議をかもしたのは少し先の時代のこと。





サンタクロースへの手紙


もうすぐクリスマス。
この時期は、世界中の子どもたちが
サンタさんにせっせと手紙を書く季節でもある。

日本の子どもたちの手紙は、プレゼントのお願いだけでなく
「サンタさん」へのメッセージが多いという。

たとえばこれは、5歳の男の子の手紙。


 サンタさんへ
 ぼくはおとうさんとおかあさんと
 カレーライスのつぎに
 サンタさんがだいすきです


プレゼントのリクエストを書くのも
忘れてしまうくらい子どもに好かれるなんて、
さすがはサンタさんです。





プリニウスの手紙


あの人に手紙を書こう。
そう思っても、何を書いたらいいのかわからず
筆を置いてしまうことがある。

そんなときは、ローマ時代の文人、
プリニウス2世の言葉を思い出そう。
彼は、友人・知人・果ては皇帝までに書き送った
200通余りの手紙をまとめた書簡集の中で
こう語っている。


 汝は書くことがないという。
 ならば「書くことがない」ことを書け。


たしかに。
大切な人からの手紙は、
ポストに入っているだけでもう、立派なギフトなのだ。





一休さんの手紙


とんちで有名な一休和尚は、死の直前、
本当に困ったときに見るように、と
弟子たちに一通の手紙を残した。

やがて、今こそ一休和尚の知恵が必要だという事態になり、
弟子たちが手紙を開けると、そこにはこう書かれていた。


 大丈夫。心配するな。なんとかなる。



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熊埜御堂由香 10年12月19日放送



恋文代筆業フィッシュ兄弟


19世紀のおわりごろ、パリの街で
小さな芝居小屋の劇作家をしていたフィッシュ兄弟は
食うに困ってある商売を思いついた。
恋文代筆業….
それはのちに彼らをまねて恋文横丁という代筆業者が
机をならべる小道ができたほど、繁盛した。

たとえば、初々しい恋のはじまりに、2通の手紙を用意する。
1通目は、引き裂さかれた紙に、乱れた文字で想いが綴られる。

ああ、この気持ちをどうすれば・・・
そして直後にもう一通の手紙が届く。
今度は上等な便箋に丁寧な文字で謝罪の言葉が綴られている。

誤って、日記の一部を投函してしまいました。破棄してください。
こんな具合に彼らのラブレターには、さまざまな恋の罠が仕掛けられていた。

ここで、彼らが、恋文の効果的な書き出しと結びを
一覧化したリストから、おすすめの締めの句をひとつ。
君がうなじに、接吻の雨。

ちょっと吹き出してしまうほど情熱的な言葉が並んでいて、
再出版すれば、今どきの淡白な男の子たちに、
つけるいい薬になるかもしれない。





おしゃべりな手紙 向田邦子


数々の会話の妙で、ひとを惹きつけてきた脚本家、向田邦子は嘆いた。


 男の手紙が、とくに若いひとの手紙が、
 おしゃべりになってきた。字や文章だけでは男か女かわからない。


しゃべりすぎの時代を、ホームドラマのせいだど自省する。

さらにメール時代の現代。
中性的なメールが飛び交う。
そっけないと思われると、
みんな気遣いで賑やかな絵文字を散らす。

おしゃべりは虚飾。
沈黙が味わえるようになったとき、
男と女の時間がはじまるのかもしれない。


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宮田知明 10年12月18日放送



日本人宇宙飛行士1 毛利衛

日本人宇宙人飛行士の応募条件の中に、
「美しい日本語」という項目がある。

人類を代表して宇宙に行く以上、
ミッションを達成するのはもちろん、
その稀有な宇宙飛行体験を伝えることも大事な役割。

宇宙飛行士、毛利衛は言う。

僕は2回、宇宙へ行かせてもらった。
その経験を広く伝える役割を担っていると思うんです。
僕自身の言葉を発することで、
より多くの人たちにメッセージを届けることができますから。

そんな毛利が宇宙から帰ってきて、最初のインタビューで伝えた言葉。

「地球には、国境線はありませんでした。」

その言葉の、何と美しいことか。




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渋谷三紀 10年12月18日放送



日本人宇宙飛行士2 向井千秋

宇宙に行って感動したことはなんですか?

多くの宇宙飛行士が「宇宙から見た地球の美しさ」と答えるこの質問に
日本人初の女性宇宙飛行士、向井千秋は「地球の重力」と答える。

宇宙から戻った夜は、驚きの連続だった。
無重力に慣れたからだは、一枚の名刺にさえ重みを感じた。
上下左右のない空間では見られない
ものが落ちていく姿や描く放物線の美しさに目を奪われた。

彼女はいう。

 私たちは、物が落ちること、雨が降ることを
 当たり前だと思ってしまいますが、
 実は地球で起こるこの現象のほうが不思議なのです。

私たちが常識と呼んでいるものの多くは、
広い宇宙に浮かぶ小さな惑星でしか通用しない
ちっぽけな常識にすぎないのかもしれない。

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宮田知明 10年12月18日放送



日本人宇宙飛行士 3 土井隆雄

宇宙飛行士試験に受かっても、
誰もがすぐに宇宙に行けるわけではない。

毛利衛、向井千秋と一緒に、
最初の日本人宇宙飛行士試験に合格した人、土井隆雄。

毛利や向井が宇宙へ行くのを、土井は地上でサポート。
そして向井のサポート中に、
後輩である若田光一が先に宇宙へ旅立ち、
土井に初フライトのチャンスがめぐってきたのは
試験に合格してから12年めのことだった。

土井が宇宙から帰還したときのインタビューの言葉。

わたしは、すでに宇宙ステーションを恋しく思っている。
明日にでも宇宙に戻りたい。

地上にいても
土井が宇宙を愛する気持は誰よりも強い。

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渋谷三紀 10年12月18日放送



日本人宇宙飛行士4 若田光一

宇宙飛行士、若田光一。

宇宙ステーションでの長期滞在を終えた若田は、
138日ぶりの地球の印象をこんなことばで表現した。

 スペースシャトルのハッチが開くと、
 草の香りが入ってきて、
 地球に優しく迎えられたようでした。

その瞬間、どんな詩人にも書けないような詩が
宇宙飛行士から生まれた。

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宮田知明 10年12月18日放送



日本人宇宙飛行士5 野口聡一

宇宙飛行士、野口聡一。
宇宙への初フライトまで29日に迫ったその日、
彼の耳に飛び込んできたのは、衝撃的なニュースだった。

2003年2月1日、7名の搭乗員を乗せたスペースシャトル、
コロンビア号が宇宙から帰還する途中、
テキサス上空で空中分解、
乗員全員が死亡するという大事故だった。

NASA全体が、ショックに覆われた。
その後のシャトル計画に「待った」がかかり、
野口のフライトも白紙になった。

本当に自分は宇宙に行けるのか。
そんな不安を抱えながら、
普通の人が100時間かける訓練を、
彼は400時間行い、その時を待った。
それは訓練時間の新記録だった。

野口聡一は言う。

長い間がんばって、しっかりと能力を高めて、
あきらめずに食らいついて、あとは運を信じる。
書いてしまうとあっけないことですが、それだけのことです。

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渋谷三紀 10年12月18日放送



日本人宇宙飛行士5 山崎直子

ママさん宇宙飛行士、山崎直子。

職業人として、女性として、
誰もがうらやむ幸せを手に入れた彼女を
メディアは華々しくとりあげた。

そんな中、一冊の本が出版される。
直子の夫、山崎大地の著書「宇宙主夫日記」。

そこには宇宙飛行士訓練にかかりきりの妻と
仕事に子育てにと苦悩しつづける夫の姿が
生々しく描かれていた。

この本をいったいどんな思いで直子は手に取るのだろう。
そんな心配も、「宇宙主夫日記」の隣りに
平積みされた本を見れば、吹き飛んでしまう。

そのタイトル「何とかなるさ!」。
著者は山崎直子その人だった。

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宮田知明 10年12月18日放送



日本人宇宙飛行士7 星出彰彦

星出彰彦は宇宙飛行士になるまで、
3度も宇宙飛行士試験を受けた。

1回目は学生時代のこと。実務経験が必要という、
条件を満たしていないことを承知での応募。
彼曰く、「意欲を見せるためだった」。

2回目の試験は最終選考まで行った。
でも受かったのは野口聡一、ただ一人。
3回目の試験でようやく採用され、
2007年3月23日、ついに彼は宇宙へ旅立った。

星出には、こんなエピソードもある。
「宇宙飛行士になりたい」と、
小学4年生の時に書いた文集のタイトルは、「きぼう」。
宇宙ステーションの、日本が保有する実験棟の名前も、「きぼう」。

それはきっと、偶然の一致。
でもなぜか、運命のように思わせる、
合格した時を振り返っての、彼の言葉。

たとえこのとき落ちても、 
また次に応募しようと思っていました。

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蛭田瑞穂 10年12月12日放送



ブシコーとボン・マルシェ①


世界で最初に生まれたデパート「ボン・マルシェ」。

1874年に完成した新しい建物の中には
1階から天井までが吹き抜けになった巨大なホールがあった。

昼間はガラスの天井から陽の光が降り注ぎ、
夜になると巨大なシャンデリアが、
豪華絢爛たる灯りでホールを照らした。

「ボン・マルシェ 」の創業者アリスティッド・ブシコーは、
パリ万博のパビリオンをヒントにこのホールをつくった。

日常と切り離された特別な空間で買い物を楽しんでもらいたい。
それが彼の狙いだった。

クリスマスが近づくこの時期、
世界中のデパートが華やかに彩られる。

ブシコーの思い描いた祝祭の空間がそこにはある。









ブシコーとボン・マルシェ②


世界で最初のデパート「ボン・マルシェ」の創業者
アリスティッド・ブシコー。

彼には、消費者を豊かにするには、
まずデパートの従業員が豊かでなくてはならない
という考えがあった。

そのため利益はできるだけ従業員に還元し、
無料の社員食堂や独身寮、退職金制度など、
福利厚生を充実させた。

現在もパリに存在する「ボン・マルシェ」の入り口には
「アリスティッド・ブシコーの店」と書かれた
昔ながらの看板がかかっている。

それはブシコーがいかに
従業員に愛されていたかを示す証でもある。





ブシコーとボン・マルシェ③


19世紀のパリ市民にとって、日々の買い物は苦痛であった。

当時はまだ値札というものがなく、
価格はすべて店員との値段交渉によって決められた。
その上、商品を買うまで店を出てはいけないという
暗黙のルールさえ存在した。

やがて「マガザン・ド・ヌヴォテ」と呼ばれる
新しい形態の小売店が生まれ、その状況を劇的に変える。

しかし真の変化はアリスティッド・ブシコーと
その妻マルグリットがつくった世界初のデパート
「ボン・マルシェ」によって起こされた。

オペラ座のように美しい建物。
宮殿のように華やかな館内。
そして、百花繚乱の品ぞろえ。

「ボン・マルシェ」の誕生によって買い物は快楽へと変貌し、
店はモノを売る場から、夢を売る場へと昇華した。

「ボン・マルシェ」、
それはブシコー夫妻が起こした商業の革命だった。





ブシコーとボン・マルシェ④


19世紀の半ば、世界で最初のデパートをつくった
アリスティッド・ブシコーは、
商業の天才であると同時に宣伝の天才でもあった。

当時生まれたばかりの新聞広告に目をつけ、
大量の折り込みチラシをパリ中にばら撒いた。

そのチラシを制作するために、
彼はデパート内に専用の印刷所まで設けたという。

やがて大衆による爆発的な消費社会が来ることを
見抜いていたアリスティッド・ブシコー。

その慧眼には驚くしかない。





ブシコーとボン・マルシェ⑤


19世紀に創業された世界最古のデパート「ボン・マルシェ」。
創業者のアリスティッド・ブシコーは冬のある日、
ひとり物思いに耽っていた。

バーゲン期間が終わった後も、
売り上げを落とさないようにするには
どうすればいいのだろう?

その時、窓の外に降る雪を見たブシコーの頭に、
突然「白」という言葉が浮かんだ。

ワイシャツやシーツなど白い生地を使った商品を
集中的に売り出すというのはどうだろうか。

そう思いついた彼は、売り上げの落ちる2月に
「白の展覧会」と銘打ったセールを大々的におこなった。

店内は白い生地を使ったありとあらゆる商品に包まれ、
さながら白銀の世界と化した。

この「白の展覧会」が、現在も続く
デパートの大売り出しのはじまりである。

もしあの日、窓の外に雪が降っていなかったら、
デパートの大売り出しはなかったかもしれない。





ブシコーとボン・マルシェ⑥


今もパリに存在する世界最古のデパート「ボン・マルシェ」。

創業者のアリスティッド・ブシコーは、
デパートの売り上げの鍵を握るのは女性客だと考えていた。

そのため「ボン・マルシェ」の1階には
女性向けの目玉商品を山積みにし、
女性客の人だかりが自然とできるようにした。

さらに、婦人服や生地などをあえて別々のフロアに配置し、
デパート全体を女性客の活気で溢れるように工夫をした。

現在、多くのデパートの1階には化粧品などの
女性向けの商品が並べられている。

19世紀に生まれたブシコーのアイデアは
こうして今も脈々と受け継がれているのである。





ブシコーとボン・マルシェ⑦


19世紀の半ばに創業された世界最古のデパート「ボン・マルシェ」。

創業者のアリスティッド・ブシコーは12月になると、
おもちゃと本を売り場に並べ、
店中をプレゼント一色に塗りつぶした。

これが現在のデパートでおこなわれる
大規模なクリスマスセールの先駆けといわれる。

さて、もうすぐクリスマス。
あなたのプレゼントはもう決まりましたか?





ブシコーとボン・マルシェ⑧


世界で最初のデパート「ボン・マルシェ」は
もとは小さな商店だった。

1835年にアリスティッド・ブシコーとその妻マルグリットが
「ボン・マルシェ」の共同経営権を買うと、
さまざまな改革を行ない、店を大きく成長させた。

大量に仕入れ安い価格で売る薄利多売方式。
季節のバーゲンセール。
カタログによる通信販売。

これらはブシコー夫妻がつくりだし、
現在でも多くのデパートで行なわれている事業である。

ブシコー夫妻の功績、
それは単に「ボン・マルシェ」というデパートを
つくっただけではない。
デパートという仕組みそのものを発明し、
消費の文化を創造したのである。


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坂本仁 10年12月11日放送



フランク・ミュラー

若い頃の挑戦より、年をとってからの挑戦のほうが難しい。

もし失敗したら自分はどうやって生きていこう。
家族は食べていけるだろうか。
様々な不安が自分を襲ってくる。

けれど、スイスでブレゲの再来と言われ、
精密で美しい時計を製作しつづけているフランク・ミュラーは
次のように言う。

 人生に挑戦するのに年齢なんて関係ない。
 そもそもこの世に時間などない。
 それは人間が勝手に作ったものだ。
 私は時計師だからそのことがよくわかる。

今、何かをはじめようとしている人、
そして自分の年齢を考えて不安になっている人は、
時計をはずしてみると、
新しい一歩を踏み出せるかもしれない。





ベーブ・ルース

野球において、ホームランは時間を止める。
ピッチャーは肩を落とし、
野手はボールを見送ることしかできず、
ただ1人打った人だけが、
ゆっくりとベースランニングする自由を許される。

そのホームランを生涯で714本も打った世界のホームラン王、
ベーブ・ルースは次のように語る。

 守備の甘いところへ打つのがコツだ。
 だから俺は場外へ打つ。

ベーブ・ルースにとっては、
ホームランを打つのは、
ヒットを打つより簡単だったのか。
そんな風に思ってしまうほど
単純で説得力のある偉大な発言だ。





中川翔子

あなたが生まれてから何日たったことでしょう。

例えば、
20歳の人は7300日。
40歳の人は14,600日になります。

歌手、タレント、女優、声優など、
さまざまな活動を楽しむ中川翔子さんは言います。

人生は3万日しかない。と。

自分が重ねていく年月を、
何歳と数えるではなく、
何日と数えてみる。
そうすると私たちはもっと毎日を大事に生きていける気がする。
もっと今を大切にできる。

中川翔子さんはそう胸に刻むことで、
きっと毎日をギザ楽しんでいるのでしょう。

あなたは今、何日めですか?





オードリーヘップバーン

 人間性の暗い側面、わがまま、強欲、不幸、そんなものが、
 私たちの空を汚し、空っぽの海にし、森を破壊し、
 何万もの美しい動物を絶滅に追い込みました。
 次は私たちの子供なのでしょうか。

1989年、ユニセフの親善大使に就任した
オードリー・ヘプバーンはそう語って
世界の痛ましい現実と戦いはじめた。

スーダン、ベトナム、バングラディシュ、南アメリカ。
安全な飲み水を確保する井戸の設置や地雷除去など、
子供たちを守るために世界中でユニセフの活動に身を捧げた。
ソマリアへは、自ら患っていた癌をおしてまで行ったという。

12月11日。今日はユニセフの創立記念日。
今もきっとオードリーヘップバーンは
天国で、世界の子供たちの未来を見守っている。








マイルス・デイビス

勉強は大切だ。
何か一つの道を決めて、
その世界を極めようと思ったら、
昼も夜も、寝ることも食べることも忘れて、
そのことを学びつづけなければならない。

けれど、それだけでは、足りないのである。

ジャズ界のピカソと言われ、
モダンジャズを牽引したトランペット奏者、
マイルス・デイビスはよいジャズを引く秘訣を問われて、
次のように言った。


 学べ。そして忘れろ。


マイルス・デイビスは、
学ぶことの重要性を説いた上で、
その先に行くためには、
ルールや常識から自らを解放しなければならないことを、
知っていた人だった。





アグネス・ゴンジャ・ボヤジュ

偉人とはなんだろう?
すごい発見をした科学者のこと?
すごい成績を残したスポーツ選手のこと?
それとも、すごい商品を作ってお金持ちになった人のこと?

カトリック教会の修道女、アグネス・ゴンジャ・ボヤジュは、
次のように言った。

 大きなことを出来る人はたくさんいますが、
 小さなことをしようとする人はごくわずかしかいません。

小さなことをしつづけたアグネス・ゴンジャ・ボヤジュ。
いつしか彼女は、マザー・テレサと呼ばれるようになった。





ノーマンメイラー

高価な靴を履いてる営業マンより、
歩き回って擦り切れた靴を履いている営業マンの方が素敵だと思う。

流行の服をいつも着ているクリエイターより、
一心不乱に絵を描く、
絵の具で汚れた服を着ている画家の方がクリエイティブだと思う。

美しく流暢な言葉で愛を告白するより、
言葉は拙くても誠実に大声で愛を告白する方が伝わると思う。

生涯で40を超える作品を残したアメリカの大衆作家、
ノーマン・メイラーは次のように言う。

 本当に大事なことのうち、
 格好をつけたままでやれることは、一つもない。

ノーマン・メイラーが、格好をつけることを忘れて打ち込んだ大事なこと。
それは、人々の記憶に残る数多くの小説を世に送り出すことだった。

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中村直史 10年12月05日放送



つくる人のことば/國中均さん

2003年5月に地球を飛び立ち、
7年を経て地球に帰ってきた
惑星探査機「はやぶさ」。

60億キロメートルを旅し、
全長わずか500メートルの小惑星に降り立ち、
そのかけらを持ち帰った。

技術者たちの快挙に、
「奇跡」との声もあがったが、
開発担当者の一人、國中均さんは
奇跡とは言いたくない、と言った。


 努力です。とても「おもしろかった」ので、みんな一生懸命努力したんです。


人間の努力が成し遂げられることは、
宇宙くらい大きいのかもしれない。









つくる人のことば/はやぶさの若き技術者たち


太陽系の星たちが
どんな風に生まれたのか。

その謎を解き明かす使命の下、
地球から遠く離れた小惑星「イトカワ」に降り立ち、
そのかけらを持ち帰った惑星探査機「はやぶさ」。

7年にも及んだその旅は、
「はやぶさ」にたずさわった技術者たちにとって
立ちはだかる困難との格闘の日々だった。

内之浦(うちのうら)宇宙センター元所長の
的川泰宣(まとがわ やすのり)さんは、
「はやぶさ」を小惑星へ着地させる世界初のミッションを回想し、
次のように記している。


 5回にわたる「イトカワ」への降下オペレーションは、
 思い出しても目頭の熱くなるような感動的な光景だった。
 そこでは、繰り返し襲ってくる人生で初めての試練と難題に、
 懸命に取り組む若い技術者たちの美しい姿があった。


困難の末に手にした
その小惑星のかけらは、
10ミクロン以下という微細なものだったけれど、
宇宙の秘密を解き明かす大きな存在となりえる。
その解明は、まだ始まったばかりだ。


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