薄組・薄景子

石橋涼子 11年01月15日放送


女優の素顔 高峰秀子

先日、86歳で息を引き取った女優 高峰秀子は
5歳で天才子役としてデビューしてからずっと
日本映画界の黄金期を支え続けた。

その輝かしい経歴に比べて私生活には恵まれず、
子役として売れると、親戚中から収入を頼られ続け
学校にも満足に通うことができなかった。
30歳になるまで引き算ができず、
辞書の使い方も知らなかったという。

そんな彼女が書くエッセイは瑞々しく潔い文章で、
文豪・谷崎潤一郎が驚いたというほどだった。
どう書くのかと問われると、本人は軽やかに

文章というよりも、恥をかくつもりで書いたの。

と答えるのだった。

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熊埜御堂由香 11年01月15日放送


女優の素顔 原節子

日本人離れした顔立ちで、神秘の女優といわれた原節子。

大女優まで登りつめながら、43歳で静かに引退する。
もっとも信頼した監督、小津安二郎の葬儀以降、
ふっつり公の場から身を引いてしまったのだ。
復帰を願う署名活動や、鎌倉の実家に
押し掛けるマスコミにも沈黙を続けた。

原節子は言った。
生まれつき欲が少ない性格なんです。
好きなものを順に言えば、まず読書、次が泣くこと、
その次がビール、それから怠けること。

彼女は、誰かの人生を演じることよりも
自分の暮らしを味わうことに
人生の後半を捧げたのだ。


女優の素顔 菅井きん

21歳の女優の卵に、与えられた芸名は、
菅井きんだった。
おばあさんみたい・・・と思いつつ、
尊敬する演出家の前ではイヤだと言えなかった。

女優、菅井きんの初舞台はトメという農家の娘役。それ以降も
地味な役が続いた。
芸名のせいだわ。そう思っていた。

そして数十年。
年齢とともに、芸名が
自身に寄り添ってきたと感じるようになる。
だから、今、自信を持って言える。
得意な役どころは、
わき役、ふけ役、いびり役。

女優は美人がなるものだ。
そう父親に猛反対され、家を飛び出すように女優になった
菅井きんの素顔は、朗らかで力強い。

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石橋涼子 11年01月15日放送


女優の素顔 原田美枝子

女優、原田美枝子は
3人の子どもの母親でもある。

38歳で3人目を出産した直後に、
映画の出演依頼がきた。
小さな村に住む双子の母親役だった。
脚本には、入浴シーンがあった。

原田美枝子は10代の頃から
作品のために裸になることをためらうことはなかった。
しかし、3人の子どもを産んだ体で
スクリーンに映ることに、初めて不安を覚えた。

一週間悩んだ結果、こう考えることにした。

現実に、子どもを産んだ母親なのだから
このままの自分でいいじゃないか。

低予算で製作されたこの映画は
ベルリン国際映画祭などで
高い評価を受けることになった。

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薄景子 11年01月15日放送


女優の素顔 岸恵子

どんな女優になりたいか。
若いころ、記者たちに聞かれると
岸恵子は言った。

私は、私になる。

海外旅行がまだ自由化されていない時代に、
トップ女優の座を捨てて、パリに移住。

フランス人の映画監督との結婚は18年で終わり、
その後も、政情が不安定な国をめぐっては
民族紛争や人種差別と向き合った。

危うく刑務所に入れられそうになったことも、
過激派に襲われたこともある。
そんな事態に遭遇しても、彼女は度胸を据えて、
世界の現実から目をそむけることはなかった。

そこに知るべき何かがあるかぎり、
岸恵子の旅に終わりはない。
拠点はどこかと聞かれれば、

国は関係ありません。
魂の在り処は自分です。


女優の素顔 江波杏子

何かあったら、この人に相談したい。
女優、江波杏子にはすべての女性を包み込む
姉御的なオーラがある。

一番苦しかったのは、仕事と男だと公言し、
苦しんだ人は、あとで絶対幸せになれると断言する。

感情を抑制することに慣れた現代女性に、江波は言う。

泣きなさい。
涙だって血なんだから。

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熊埜御堂由香 11年01月15日放送


女優の素顔 田中絹代

厳しい監督の先生にたたかれ続けてきたから、
私、身長が止まってしまったのね。
身長150㎝の彼女はわらって言った。
数々の名監督に愛された女優、田中絹代。

役作りのストイックさでは、逸話にことかかない。
監督の注文どおり、太ったり、痩せたり、「風船」とあだ名された。
おば捨て山を題材にした木下恵介監督の楢山節考では役作りのため
若いころにした差し歯を4本、医者に無理やり抜いてもらった。
49歳のときだった。
小さな体で女優として成長を続けた。

一生独身だった彼女はこういった。
私は映画を夫として選んだのです。
そして、私が映画を捨てなかったのではなく
映画が私という女を見捨てないでいてくれたのです。

素顔が、女優である。田中絹代はそんなひとだった。

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石橋涼子 10年12月19日放送



ヴィクトル・ユゴーの手紙

作家、ヴィクトル・ユゴーは、
恋人との間に、生涯で2万通にも及ぶ
手紙を交わしたというくらい筆マメだけれど、
一方で、世界一短い手紙を書いたことでも有名だ。

それは、「?(クエスチョンマーク)」が
一文字書かれただけの手紙。

「レ・ミゼラブル」の売れ行きを
出版社へ問い合わせる手紙だった。

返事は、「!(ビックリマーク)」が一文字だけ。

つまり、驚くほど売れてますよ、ということ。



野口英世の母の手紙

野口英世が研究のためにアメリカに渡ったとき、
読み書きのできない母が手紙を出せるように、
住所を刻印したスタンプをプレゼントした。

特に便りのないまま数年が経ったが、
ある日、一通の手紙が届いた。

息子の出世を喜ぶあいさつから始まる手紙は、
やがて、息子に一目会いたいという母の願いに変わる。


 はやくきてくだされ
 いつくるとおせてくだされ
 このへんじをまちておりまする
 ねてもねむられません

早く帰ってきてほしいという願いが
たどたどしいひらがなで綴られた手紙に
英世は激しい衝撃を受け、
忙しい研究の合間を縫って、すぐに帰国したという。

手紙は、文章の上手さではなく、
伝えたい気持ちの強さでしか、伝わらない。



斎藤茂吉の手紙

歌人として、精神科医として、
名を馳せた斎藤茂吉は、50歳を過ぎて恋をした。

相手は、アララギ派に参加したばかりの
若手歌人、永井ふさ子24歳。

茂吉は、この親子ほど歳が離れた恋人に夢中になり、
会えない時はひたすらラブレターを書いて過ごした。
それは、1年余りの交際期間で150通以上にのぼり、
一日に7通も書いた日もあった。

手紙で茂吉は、
ふさ子の写真がほしいと懇願し、
ふさ子の体をすばらしいと誉めたたえ、
愛の歌を惜しみなく詠み贈った。

人々の尊敬を集める歌人が書いたラブレターは、
恥ずかしいくらいウブで赤裸々で、
まるで初めて恋をした若者のようだった。

手紙の最後にはいつもこのような内容が書かれていた。


 読み終わったらただちに焼き捨ててほしい。
 そうすれば次々と心のありたけを申し上げられる。

妻子ある茂吉の立場を考えたふさ子は、
30通ほどを素直に焼いたが、
手紙が灰になった後の言いようのない寂しさから、
つい、残り100通余りを焼かずに手元に残してしまった。

それらの手紙が茂吉の死後に公表され、
物議をかもしたのは少し先の時代のこと。



サンタクロースへの手紙

もうすぐクリスマス。
この時期は、世界中の子どもたちが
サンタさんにせっせと手紙を書く季節でもある。

日本の子どもたちの手紙は、プレゼントのお願いだけでなく
「サンタさん」へのメッセージが多いという。

たとえばこれは、5歳の男の子の手紙。


 サンタさんへ
 ぼくはおとうさんとおかあさんと
 カレーライスのつぎに
 サンタさんがだいすきです

プレゼントのリクエストを書くのも
忘れてしまうくらい子どもに好かれるなんて、
さすがはサンタさんです。



プリニウスの手紙

あの人に手紙を書こう。
そう思っても、何を書いたらいいのかわからず
筆を置いてしまうことがある。

そんなときは、ローマ時代の文人、
プリニウス2世の言葉を思い出そう。
彼は、友人・知人・果ては皇帝までに書き送った
200通余りの手紙をまとめた書簡集の中で
こう語っている。


 汝は書くことがないという。
 ならば「書くことがない」ことを書け。

たしかに。
大切な人からの手紙は、
ポストに入っているだけでもう、立派なギフトなのだ。



一休さんの手紙

とんちで有名な一休和尚は、死の直前、
本当に困ったときに見るように、と
弟子たちに一通の手紙を残した。

やがて、今こそ一休和尚の知恵が必要だという事態になり、
弟子たちが手紙を開けると、そこにはこう書かれていた。


 大丈夫。心配するな。なんとかなる。

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熊埜御堂由香 10年12月19日放送



恋文代筆業フィッシュ兄弟

19世紀のおわりごろ、パリの街で
小さな芝居小屋の劇作家をしていたフィッシュ兄弟は
食うに困ってある商売を思いついた。
恋文代筆業….
それはのちに彼らをまねて恋文横丁という代筆業者が
机をならべる小道ができたほど、繁盛した。

たとえば、初々しい恋のはじまりに、2通の手紙を用意する。
1通目は、引き裂さかれた紙に、乱れた文字で想いが綴られる。

ああ、この気持ちをどうすれば・・・
そして直後にもう一通の手紙が届く。
今度は上等な便箋に丁寧な文字で謝罪の言葉が綴られている。

誤って、日記の一部を投函してしまいました。破棄してください。
こんな具合に彼らのラブレターには、さまざまな恋の罠が仕掛けられていた。

ここで、彼らが、恋文の効果的な書き出しと結びを
一覧化したリストから、おすすめの締めの句をひとつ。
君がうなじに、接吻の雨。

ちょっと吹き出してしまうほど情熱的な言葉が並んでいて、
再出版すれば、今どきの淡白な男の子たちに、
つけるいい薬になるかもしれない。



おしゃべりな手紙 向田邦子

数々の会話の妙で、ひとを惹きつけてきた脚本家、向田邦子は嘆いた。


 男の手紙が、とくに若いひとの手紙が、
 おしゃべりになってきた。字や文章だけでは男か女かわからない。

しゃべりすぎの時代を、ホームドラマのせいだど自省する。

さらにメール時代の現代。
中性的なメールが飛び交う。
そっけないと思われると、
みんな気遣いで賑やかな絵文字を散らす。

おしゃべりは虚飾。
沈黙が味わえるようになったとき、
男と女の時間がはじまるのかもしれない。

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薄景子 10年11月21日放送



あの人の暮らし チャールズ・M・シュルツ

世界中で愛されているスヌーピーの生みの親、
チャールズ・モンロー・シュルツ。
彼の作品に、幸せとは何かを綴った絵本がある。


 しあわせは落ち葉の山。
 しあわせは自分のベッドで眠ること。

30にわたる幸せの定義は、
何気ない毎日の中の、ささやかなことばかり。

小さな幸せは、
気づいてあげると
かけがえのないものになってくれる。



あの人の暮らし 松浦弥太郎1

今日のランチはどこへ行く?
将来はどっちの道に進む?
人生は選択の連続といってもいい。

大切なのは、そのときどき、
自分の判断を信じられるか。

暮らしの手帖の編集長、松浦弥太郎さんは
日々、選ぶ訓練を続けているという。

電車に乗れば、あたりを見回して考える。


 この車両で一人友だちをつくるとしたら誰がいいだろう?

あのおばあさんの話をじっくりききたい。
この男性とは映画の趣味があいそうだ。

毎日、選ぶ訓練をかさねると、
直感力と想像力がきたえられ、
数ある中から、コレというお宝が
瞬時に見つけられるという。

さっそく、野菜売り場で考える。
今晩は、舞茸をてんぷらにするのと
大根をおでんにするのは、
果たしてどっちが幸せだろう。

選ぶ訓練は、
暮らしを楽しくする訓練でもある。



あの人の暮らし 松浦弥太郎2

雑誌編集長であり、
古本屋を営む松浦弥太郎さん。
彼のエッセイを読んで、
ハッとしたことがある。


 いつくしむ方法は、1日1回、さわること。

松浦さんはお店の商品や椅子の脚に
毎日一度さわるという。
家でも、さわれる量以上の服や本は
できるだけもたない。

たしかに、何年も着ていないスーツには生気がない。
人の行かない別荘はすぐに悪くなる
という話もよく耳にする。

ものに命を吹き込むのは人。
ていねいに暮らす人は、
もちすぎない豊かさを知っている。

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熊埜御堂由香 10年11月21日放送



あの人の暮らし 佐野洋子とシズコ

絵本「100万回生きたねこ」で
知られる作家、佐野洋子は、
母親、シズコとの親子関係に悩み続けた。
高校の担任に、母は長女との関係をこう言った。


 女同士ということで嫉妬、かもしれません。

洋子は自分にどこか近い父にだけ、なついた。
終戦後、シズコは未亡人になるが、
めそめそせず、いつもばっちり化粧していた。
そんな母を、下品だ、と洋子は思っていた。

シズコが80歳近くになる頃、洋子と二人で暮らし始める。
シズコには痴呆の症状がではじめていた。
自身も60代にさしかかり、苦しかった。洋子は、
結局、母を施設に預ける決意をする。

子どもの頃は、手をつなぐことさえ、嫌悪し合ったのに。
洋子は、施設でシズコの体をさすり、
1つの布団へ一緒に入り話をした。
それは母と娘の暮らしの、最後の形だった。

シズコさんは、洋子さんに、無邪気に言った。


 私とあなたの間には、いることも、いらないこともあったわねぇ。




あの人の暮らし 佐野洋子

作家、佐野洋子。
今月5日、72歳で、静かに息をひきとった。

彼女は言った。


 余命2年と云われたら
 人生が急に充実して来た。
 毎日が楽しくて仕方ない。

余命2年をゆうに超えて、
洋子さんは、暮らした。生きた。

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石橋涼子 10年11月21日放送



あの人の暮らし 永田昌民

住宅建築家の永田昌民(まさひと)には、
ひとつだけ、
どんな建て主にも必ず提案することがある。


 落葉樹を一本、植えませんか?

それは家の設計とはまったく関係ない提案だけれど。
窓から外を眺めるとき、
コンビニに出かけるとき、
疲れて家に帰ってくるとき、
落葉樹は、毎日ちがう表情を見せてくれる。

永田は、建築ではなく、暮らしの提案をしているのだ。


 落葉樹を一本、植えませんか?



あの人の暮らし 立原道造


 僕は室内にゐて、
 栗の木でつくつた凭れの高い椅子に坐つて
 うつらうつらと眠っている。
 夕ぐれが来るまで、一日、なにもしないで。

詩人であり建築家であった立原道造。
彼が考える理想の暮らしは、
手のひらにおさまりそうな小さなものだ。
自分のために設計した理想の家は、
フロもキッチンもない、たった5坪の家だった。

しかし、彼がそこで暮らすことは叶わなかった。
立原道造の人生は、わずか24年で幕を閉じた。

彼の家は、今、とある湖のほとりに建っている。
訪れる人はそこで、詩人が夢見た暮らしを味わい、
また自らの暮らしに戻ってゆく。



あの人の暮らし 阿部なを

素朴で丁寧なおばあちゃんの味で愛された
料理研究家の阿部なをは、
48歳で料理の道に入った。

戦中・戦後を体験した彼女の原点は
「粗末な材料のめいっぱいの味」
を引き出してあげることだ。

だから、得意な料理も、
メニューの中心になる豪華な一品より、
暮らしの食卓に欠かせない小鉢もの。

ある日、
阿部なをが営む料理屋にきたお客さんが、
料理は芸術だ、とアツく語り始めた。
彼女は、ふんわり笑って


 芸術を365日食べたらお腹を壊すわよ

と言ったという。

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