
新年の歌④「お正月」
明治の作曲家、滝廉太郎。
15歳で現在の東京芸術大学に入学すると、
4年後に首席で卒業。
「荒城の月」「箱根八里」など
23歳で亡くなるまでに
数々の名曲をつくった夭逝の天才作曲家。
お正月が待ち遠しい子どもの心を表現した
童謡の「お正月」も彼の手によるもの。

新年の歌⑤「美しく青きドナウ」
1866年にプロイセン王国とオーストリア帝国の間で起こった
「普墺戦争」はプロイセン王国の勝利で終結した。
敗戦したオーストリアの国民は悲しみに沈んだ。
そんな国民を励まそうと、
ウィーン男声合唱協会の指揮者ヨハン・ヘルベックは
ヨハン・シュトラウス2世に合唱曲を依頼する。
それまで合唱曲を書いたことがなかったシュトラウスは
一度はその依頼を断るが、ヘルベックの熱意に押され曲を書き上げる。
そして生まれたのがワルツ『美しく青きドナウ』。
最初は男声合唱曲だったが、
のちにシュトラウスが管弦楽曲に書きなおすと人気を博し、
「シュトラウスの最高傑作」とまで賞讃されるようになった。
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が新年に開催する
ニューイヤーコンサートではこの『美しく青きドナウ』が
アンコール曲として演奏される。
アンコールでは、曲の序奏部を演奏したあと、
拍手によって曲をいったん打ち切り、
指揮者や団員の新年の挨拶が行われることが恒例となっている。

新年の音楽⑥「クレメンス・クラウス」
ウィーンのお正月の風物詩といえば、
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が開催する
ニューイヤーコンサート。
1939年に始まったこのコンサートの初代指揮者が
クレメンス・クラウス。
1893年、ウィーンに生まれたクラウスは
その貴族的な容姿と優雅な演奏スタイルで人気を博し、
世界的な指揮者へと登り詰めた。
1954年に亡くなるまで、
ニューイヤーコンサートの指揮者を7度も務めた
クレメンス・クラウス。
その生涯に渡る業績が讃えられ、
現在では「最後のウィーンの巨匠」と呼ばれている。

新年の歌⑦「オールド・ラング・サイン」
『蛍の光』はスコットランドに古くから伝わる民謡。
原題は『オールド・ラング・サイン』という。
作者は不明だが、歌詞を現代に伝わる形に変えたのが、
18世紀のスコットランドの詩人ロバート・バーンズ。
旧友と再会し、思い出話を語りながら酒を酌み交わす。
その歓びが歌詞に綴られている。
その詞の内容もあり、スコットランドで
『オールド・ラング・サイン』は新年を祝う歌としてうたわれる。

新年の歌⑧「春の海」
琴演奏家、宮城道雄が作曲した『春の海』。
1930年の歌会始の勅題「海辺の巌」にちなんで作曲された。
8歳で失明した宮城道雄はこの曲を
幼い頃祖父母と暮らしていた瀬戸内の風景を
思い浮かべてつくったという。
この曲を有名にしたのが、
フランス人のヴァイオリニスト、ルネ・シュメー。
この曲の旋律に魅せられた彼は
尺八のパートをヴァイオリンに変え、
宮城道雄とアンサンブルした。
その演奏を収録したレコードは日本だけでなく、
アメリカ、フランスでも発売された。
宮城道雄の脳裏に焼きついた瀬戸内の美しい春は、
海を越えて、人々の耳に届けられることになった。
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蛭田瑞穂 11年01月02日放送
蛭田瑞穂 10年12月12日放送
ブシコーとボン・マルシェ①
世界で最初に生まれたデパート「ボン・マルシェ」。
1874年に完成した新しい建物の中には
1階から天井までが吹き抜けになった巨大なホールがあった。
昼間はガラスの天井から陽の光が降り注ぎ、
夜になると巨大なシャンデリアが、
豪華絢爛たる灯りでホールを照らした。
「ボン・マルシェ 」の創業者アリスティッド・ブシコーは、
パリ万博のパビリオンをヒントにこのホールをつくった。
日常と切り離された特別な空間で買い物を楽しんでもらいたい。
それが彼の狙いだった。
クリスマスが近づくこの時期、
世界中のデパートが華やかに彩られる。
ブシコーの思い描いた祝祭の空間がそこにはある。
ブシコーとボン・マルシェ②
世界で最初のデパート「ボン・マルシェ」の創業者
アリスティッド・ブシコー。
彼には、消費者を豊かにするには、
まずデパートの従業員が豊かでなくてはならない
という考えがあった。
そのため利益はできるだけ従業員に還元し、
無料の社員食堂や独身寮、退職金制度など、
福利厚生を充実させた。
現在もパリに存在する「ボン・マルシェ」の入り口には
「アリスティッド・ブシコーの店」と書かれた
昔ながらの看板がかかっている。
それはブシコーがいかに
従業員に愛されていたかを示す証でもある。
ブシコーとボン・マルシェ③
19世紀のパリ市民にとって、日々の買い物は苦痛であった。
当時はまだ値札というものがなく、
価格はすべて店員との値段交渉によって決められた。
その上、商品を買うまで店を出てはいけないという
暗黙のルールさえ存在した。
やがて「マガザン・ド・ヌヴォテ」と呼ばれる
新しい形態の小売店が生まれ、その状況を劇的に変える。
しかし真の変化はアリスティッド・ブシコーと
その妻マルグリットがつくった世界初のデパート
「ボン・マルシェ」によって起こされた。
オペラ座のように美しい建物。
宮殿のように華やかな館内。
そして、百花繚乱の品ぞろえ。
「ボン・マルシェ」の誕生によって買い物は快楽へと変貌し、
店はモノを売る場から、夢を売る場へと昇華した。
「ボン・マルシェ」、
それはブシコー夫妻が起こした商業の革命だった。
ブシコーとボン・マルシェ④
19世紀の半ば、世界で最初のデパートをつくった
アリスティッド・ブシコーは、
商業の天才であると同時に宣伝の天才でもあった。
当時生まれたばかりの新聞広告に目をつけ、
大量の折り込みチラシをパリ中にばら撒いた。
そのチラシを制作するために、
彼はデパート内に専用の印刷所まで設けたという。
やがて大衆による爆発的な消費社会が来ることを
見抜いていたアリスティッド・ブシコー。
その慧眼には驚くしかない。
ブシコーとボン・マルシェ⑤
19世紀に創業された世界最古のデパート「ボン・マルシェ」。
創業者のアリスティッド・ブシコーは冬のある日、
ひとり物思いに耽っていた。
バーゲン期間が終わった後も、
売り上げを落とさないようにするには
どうすればいいのだろう?
その時、窓の外に降る雪を見たブシコーの頭に、
突然「白」という言葉が浮かんだ。
ワイシャツやシーツなど白い生地を使った商品を
集中的に売り出すというのはどうだろうか。
そう思いついた彼は、売り上げの落ちる2月に
「白の展覧会」と銘打ったセールを大々的におこなった。
店内は白い生地を使ったありとあらゆる商品に包まれ、
さながら白銀の世界と化した。
この「白の展覧会」が、現在も続く
デパートの大売り出しのはじまりである。
もしあの日、窓の外に雪が降っていなかったら、
デパートの大売り出しはなかったかもしれない。
ブシコーとボン・マルシェ⑥
今もパリに存在する世界最古のデパート「ボン・マルシェ」。
創業者のアリスティッド・ブシコーは、
デパートの売り上げの鍵を握るのは女性客だと考えていた。
そのため「ボン・マルシェ」の1階には
女性向けの目玉商品を山積みにし、
女性客の人だかりが自然とできるようにした。
さらに、婦人服や生地などをあえて別々のフロアに配置し、
デパート全体を女性客の活気で溢れるように工夫をした。
現在、多くのデパートの1階には化粧品などの
女性向けの商品が並べられている。
19世紀に生まれたブシコーのアイデアは
こうして今も脈々と受け継がれているのである。
ブシコーとボン・マルシェ⑦
19世紀の半ばに創業された世界最古のデパート「ボン・マルシェ」。
創業者のアリスティッド・ブシコーは12月になると、
おもちゃと本を売り場に並べ、
店中をプレゼント一色に塗りつぶした。
これが現在のデパートでおこなわれる
大規模なクリスマスセールの先駆けといわれる。
さて、もうすぐクリスマス。
あなたのプレゼントはもう決まりましたか?
ブシコーとボン・マルシェ⑧
世界で最初のデパート「ボン・マルシェ」は
もとは小さな商店だった。
1835年にアリスティッド・ブシコーとその妻マルグリットが
「ボン・マルシェ」の共同経営権を買うと、
さまざまな改革を行ない、店を大きく成長させた。
大量に仕入れ安い価格で売る薄利多売方式。
季節のバーゲンセール。
カタログによる通信販売。
これらはブシコー夫妻がつくりだし、
現在でも多くのデパートで行なわれている事業である。
ブシコー夫妻の功績、
それは単に「ボン・マルシェ」というデパートを
つくっただけではない。
デパートという仕組みそのものを発明し、
消費の文化を創造したのである。
蛭田瑞穂 10年11月27日放送

ミステリーの夜①エドガー・アラン・ポー
アメリカ人作家エドガー・アラン・ポーが
1841年に発表した小説『モルグ街の殺人』。
これが史上初の推理小説と言われる。
今日、推理小説で使われるさまざまなトリックは、
そのほとんどがポーによって発明されたと言ってもいい。
密室殺人、暗号のトリック、
探偵自身が犯人だったというドンデン返し。
探偵の活躍を探偵自身ではなく、
友人役が語るというシャーロック・ホームズでお馴染みの手法も
ポーが最初に使った。
エドガー・アラン・ポー。
彼こそが推理小説の父である。

ミステリーの夜②ヴァン・ダイン
ミステリーの巨匠ヴァン・ダインがつくった、
推理小説を書く上で作者が守らなければならない20のルール。
通称「ヴァン・ダインの二十則」。
たとえば、
「事件の謎を解く手がかりは、
すべて明確に記述されていなくてはならない」。
あるいは、
「探偵は論理的な推理によって
犯人を決定しなければならない」。
それからこんなことも。
「占いや心霊術、読唇術などで
犯罪の真相を告げてはならない」。
推理小説とはいわば、作者と読者の謎解きゲーム。
ゲームをおもしろくするには厳格なルールがなければならない。

ミステリーの夜③コナン・ドイル
1882年、スコットランドの若い医者が
眼科を専門とする診療所を開いた。
しかし、客足はさっぱりだった。
暇をもてあました彼は、
小遣い稼ぎのために小説を書き始める。
探偵が主人公の推理小説だった。
小説を書き上げると原稿をいくつかの出版社に送った。
しかし、出版社からはことごとく掲載を拒否され、
数カ月後にようやく採用されたものの、
原稿料はたった25ポンドだった。
その小説が『緋色の研究』。
アーサー・コナン・ドイルのデビュー作にして、
探偵シャーロック・ホームズを生み出した作品である。
まったく、人生には何が起きるかわからない。

ミステリーの夜④シャーロック・ホームズ
かの名探偵シャーロック・ホームズは一度殺害されたことがある。
犯人は誰あろう、作者のコナン・ドイルである。
ホームズの一連の作品によって
人気作家となったコナン・ドイルだが、
彼が本来書きたかったのは推理小説ではなかった。
そこで、ドイルはシリーズに終止符を打つべく、
『最後の事件』という小説を執筆し、
水煙を上げる滝壺の中にホームズを突き落とした。
ところが、事の顛末はドイルの目論見どおりに進まなかった。
シャーロック・ホームズの死に納得のいかない読者から、
抗議の手紙が出版社に殺到する。
その声におされてドイルはホームズの復活を決心するのである。
作者に殺され、読者に命を救われる。
名探偵の人生はじつに波乱に満ちている。

ミステリーの夜⑤フィリップ・マーロウ
作家レイモンド・チャンドラーが生みだした探偵、
フィリップ・マーロウ。
古今東西、さまざまな探偵がいるけれど、
彼ほど魅力にあふれる探偵はいないだろう。
貧しいけれど、誇り高い。
男らしく正義感が強いが、
女性らしい繊細さも持ち合わせている。
そんな彼だけに、粋なセリフがよく似合う。
「さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ」
「タフでなければ生きて行けない。
優しくなければ生きている資格がない」
フィリップ・マーロウ。
その名はハードボイルドの代名詞。

ミステリーの夜⑥刑事コロンボ
くたびれた背広に、着古したレインコート。
櫛の通っていないボサボサの髪の毛。
いつも安物の葉巻を持ち歩き、
ところかまわず吹かそうとする。
口癖は「うちのカミさんがねぇ」。
テレビドラマから生まれ、
俳優ピーター・フォークが演じた刑事コロンボ。
風貌は冴えないが、
鋭い推理で知能犯の犯行を暴き、人気を博した。
あのー、ちょっといいですか?
コロンボにそう声をかけられたが最後、
犯人はもう落ちるしかない。

ミステリーの夜⑦ヒッチコック
サスペンスの神様、アルフレッド・ヒッチコックは、
「サスペンス」と「スリル」と「ショック」の違いについて、
こう説明している。
乗るべき汽車の時刻に間に合うかどうかと必死に駅に駆けつける。
これがサスペンス。
ホームに駆け上がり、発車間際の列車のステップにしがみつく。
これぞスリル。
座席に落ち着き、ふと考えなおしてみると、
自分が乗るはずの列車じゃなかった、と悟るその一瞬がショック。
夜の長いこれからの季節。
ヒッチコックの映画を観て、ドキドキしてみませんか?
蛭田瑞穂 10年10月10日放送
1.東京オリンピックを支えた人々「北出清五郎」
1964年の今日、東京オリンピックの開会式が開かれた。
敗戦から19年、オリンピックの開催は日本国民の悲願だった。
テレビから流れる開会式の模様を、
多くの日本人が万感の思いで見つめる中、
中継を担当したアナウンサー北出清五郎は、
こんな言葉で実況を始めた。
世界中の青空を全部日本に持ってきてしまったような、
素晴らしい秋日和でございます。
1964年10月10日の青空。
それは日本の復興を祝うかのような美しい青空だった。
2.東京オリンピックを支えた人々「亀倉雄策」
日本を代表するアートディレクター、亀倉雄策。
彼の名を世界に広めたのが、
1964年の東京オリンピックのポスターである。
亀倉は真夜中の競技場に4台のカメラと
50台のストロボを運び込み、
陸上選手の撮影をおこなった。
スタートダッシュと、シャッターを切るタイミングを
完璧に合わせるために、選手たちは肉体の限界を超える
30回ものダッシュを繰り返したという。
オリンピック競技の躍動感と緊迫感が
凝縮された一枚のポスター。
それはオリンピックの本質を
見事に表現しているだけでなく、
日本のグラフィックデザインのレベルを
世界に示すポスターだった。
3.東京オリンピックを支えた人々「フレッド・和田勇」
東京オリンピックの成功の裏にひとりの日系人の尽力があった。
彼の名は、フレッド・和田勇。
和田とオリンピックの関わりは、
1949年にロサンゼルスで開かれた全米水泳選手権に始まる。
当時まだ戦争の禍根の残るアメリカで、
日本人選手団が泊まれるホテルはなかった。
その時、和田は自宅を宿泊場所として提供し、
親身に選手たちの世話をした。
それが縁となり、のちに東京オリンピックの準備委員に就任。
南米の国々を訪問し、各国のオリンピック委員たちに
東京開催の協力を依頼してまわった。
その渡航費用などはすべて自費でまかなったという。
1964年10月10日。
東京オリンピックの開会式をロイヤルボックスから眺めていた和田は、
止めどなく涙を流しながらこう言った。
日本はこれで一等国になったのや。
戦争に敗れて四等国になったが、よう立ち直った。
日本人は皆よう頑張った。
4.東京オリンピックを支えた人々「勝見勝」
オリンピックの競技種目や、
会場内の施設を案内するためのサインマークを
ピクトグラムという。
初めて採用されたのは1964年の東京大会。
美術評論家の勝見勝をディレクターに、
30人ほどのデザイナーが集まって制作された。
世界中からやってくる言葉の異なるお客さまに、
一目で情報がわかるように。
オリンピックのピクトグラムには
そんな日本人のもてなしの心が隠されている。
5.東京オリンピックを支えた人々「平沢和重」
1959年5月26日。
次期オリンピック開催地を決めるIOC総会が
ドイツのミュンヘンで開かれた。
開催地に名乗りを上げていたのは、
東京など4都市。
各都市が順にプレゼンテーションをおこなう中、
東京を代表してスピーチをおこなったのが、
当時テレビ局の解説委員を務めていた、平沢和重だった。
45分の持ち時間があったにもかかわらず、
平沢は15分でスピーチを終わらせた。
その簡潔な内容に、彼が話し終えると
会場から大きな拍手が湧き上がった。
東京の未来を決めたわずか15分のスピーチ。
その中で彼はこう訴えた。
西欧の人々は、日本をファーイーストと呼びますが、
ジェット機時代を迎えたいま、ファーではありません。
国際間の人間同士のつながり、接触こそが
平和の礎ではないでしょうか。
6.東京オリンピックを支えた人々「安川第五郎」
1964年10月10日に開催された東京オリンピックの開幕式。
前日までの東京は暴風雨が吹く荒れた空模様だった。
開幕式の中止さえ危ぶまれる中、
東京オリンピック組織委員会会長の安川第五郎は、
天に向かって、ひたすら晴れを祈り続けた。
その甲斐あってか、当日は抜けるような青空になった。
後年、安川は事あるごとにこんな言葉を人に贈ったという。
「至誠通天」。
心を持って祈れば天に通じる、という意味である。
7.東京オリンピックを支えた人々「坂井義則」
オリンピックの聖火を運ぶ最終ランナーは、
過去のメダリストなど、
著名なスポーツ選手が務めることが通例になっている。
しかし、1964年の東京オリンピックの最終ランナーは、
酒井義則という、早稲田大学競走部の学生だった。
輝かしい実績があるわけでもない学生が
最終ランナーに選ばれた理由。
それは彼が1945年8月6日に広島に生まれた若者だったから。
原爆投下直後に生を受けた聖火ランナー。
それは平和の祭典にふさわしい人選だった。
8.東京オリンピックを支えた人々「市川崑」
巨匠、市川崑が総監督を務めた
ドキュメンタリー映画『東京オリンピック』。
市川崑は監督を任命されると、
谷川俊太郎など3人の作家に協力を依頼し、脚本づくりを始めた。
そこで生まれたのが「人類の平和」というテーマだった。
完成した映画は、単なる記録映画を超えた芸術性の高い作品になり、
カンヌ映画祭の国際批評家賞も受賞した。
映画の最後はこんなメッセージで締めくくられる。
聖火は太陽へ帰った。
人類は4年ごとに夢を見る。
この創られた平和を夢で終わらせていいのであろうか。
蛭田瑞穂 10年09月19日放送
宇宙のはなし①「ムーンイリュージョン」
ビルや山の合間にあらわれた月が、
いつもより大きく見えたことはありませんか?
地平線の近くにある月が、
真上にある月より大きく見えるこの現象。
名前を「ムーンイリュージョン」という。
なぜ大きく見えるのか。
アリストテレス、プトレマイオス、デカルト、ガウス、
古代から名だたる賢人たちがこの不思議の解明を試みた。
目の錯覚、光の屈折、心理作用。
さまざまな説があるけれど、
こんな幻想的な謎は、できれば謎のままにしておきたい。
宇宙のはなし②「レイリー卿」
空はどうして青いの?
そんな質問をされたら、あなたはなんて答えますか?
空の青さ。
それは光の性質に関係がある。
太陽の光は地球に届くと、大気中の塵にぶつかって反射をする。
あらゆる色が存在する光の中でも、青色の光は波長が長く、
さまざまな角度に反射して拡散する。
そのため、空一面が青く見えるのだという。
この原理を発見したのは
イギリスの物理学者ジョン・ウィリアム・ストラット。
男爵だった彼は、「レイリー卿」の通称で呼ばれていたため、
この光の作用も「レイリー散乱」と名づけられた。
空が青い理由。
それは、つまり、こういうわけなのです。
宇宙のはなし③「川口淳一郎」
2003年に打ち上げられた惑星探査機「はやぶさ」。
そのミッションは地球から3億キロ離れた
小惑星イトカワに着陸し、表面のサンプルを持ち帰ること。
そのサンプルには46億年前、
太陽系誕生の秘密を解く鍵が隠されているという。
月以外の惑星からサンプルを持ち帰る、人類初の壮大な試み。
それだけに度重なる危機がはやぶさを襲った。
姿勢制御装置の故障、通信機能の不能、イオンエンジンの停止。
しかし、その度にはやぶさは危機を乗り越え、
ついに2010年6月13日、再びその姿を地球にあらわす。
最後の大仕事は、サンプルを入れたカプセルの切り離し。
それに無事成功すると、はやぶさはそのまま大気圏に突入。
花火のように燃え尽きた。
はやぶさプロジェクトのマネージャー、川口淳一郎はこう語る。
絶望的な危機を何度となく乗り越え、
カプセルを地球に送り返す大役を成し遂げたあとで、
みずからは日本国民の心に残る“不死鳥”になったのです。
宇宙のはなし④「ジョージ・ガモフ」
宇宙のはじまりは超高密度で、超高温の小さな火の玉だった。
1946年にアメリカの物理学者
ジョージ・ガモフが提唱した「ビッグバン理論」。
だが当時の科学者の多くはその説に否定的だった。
「ドカンという爆発から宇宙が生まれたとでもいうのかね?」。
「ビッグバン」という名前もそんな皮肉からつけられた。
しかし現在、ビッグバン理論は
宇宙の起源に関するもっとも有力な説。
コペルニクスの昔から、
常識を覆す発見はなかなか理解されないらしい。
宇宙のはなし⑤「オルバースとハッブル」
どうして夜空は暗いのだろうか。
太陽が出ていないから?
どうやら話はそう簡単ではないようだ。
19世紀の天文学者ハインリヒ・オルバースは
こんな疑問を投げかけた。
もし宇宙が無限であり、無限の星が存在するなら、
無限の星の輝きで夜空は明るくなるはずだ。
これを「オルバースのパラドクス」という。
あきらかな矛盾とわかりながらも、
誰も矛盾を解決できなかった。
このパラドクスに答えが出たのは、
20世紀になり、天文学者エドウィン・ハッブルが
「ハッブルの法則」を発表してから。
すべての銀河が私たちから遠ざかり、
しかも、遠くにある銀河ほどより速い速度で遠ざかる。
つまり、宇宙は光より速い速度で膨張している。
そのため、すべての星の輝きが地球に届かないのだ。
夜空の暗さ。
それはこの瞬間も宇宙が膨張を続けていることの
たしかな証なのである。
宇宙のはなし⑥「小柴博士」
「この世に摩擦がなければどうなるか?」
こんな問題を出されたら、あなたはなんと答えますか?
ニュートリノの検出による多大な功績で、
ノーベル物理学賞を受賞した、小柴昌俊博士。
博士が大学院時代、高校の試験に出題したのが、
「この世に摩擦がなければどうなるか?」という問題。
答えは、「白紙の答案」。
摩擦がなければ、鉛筆の先が滑って答えが書けない。
ゆえに白紙の答案が正しい解答なのだと言う。
科学者の頭はやはり型破りである。
宇宙のはなし⑦「アルベルト・アインシュタイン」
宇宙観測の歴史は、
17世紀の初めに、ガリレオ・ガリレイが
手づくりの望遠鏡を覗いたことがはじまりと言われている。
それ以来、人間は地球という小さな星の中から
広大な宇宙を眺め、その謎を突き止めようとしてきた。
相対性理論を完成させ、
「現代宇宙論の生みの親」と呼ばれる、
アルベルト・アインシュタインは言う。
この宇宙でもっとも理解不能なこと、
それはこの宇宙が理解可能であることだ。
宇宙のはなし⑧「カール・セーガン」
作家、カール・セーガン。
地球外生命体との接触を描いたSF映画『コンタクト』の原作者。
彼はフィクションの中だけでなく、
現実の世界でも宇宙との交信を試みた。
1972年、セーガンは地球と人類に関する情報を金属板に描き、
木星探査機パイオニア10号の機内に取り付けた。
それは人類が初めて送った宇宙への手紙だった。
残念ながらセーガンは
その成果を見届けることなく1996年に他界する。
だが、木星の探査を終えたパイオニア10号は、
地球から53光年離れた恒星アルデバランに向かって
現在も旅を続けている。
私たちの知らない誰かに見つけられるために。
蛭田瑞穂 10年08月29日放送
イングリッド・バーグマンを偲んで①
「アルフレッド・ヒッチコック」
アルフレッド・ヒッチコックは
『山羊座のもとに』という映画で
カメラの長回しを多用する撮影手法を試みた。
すると、主演のイングリッド・バーグマンが彼に詰め寄った。
「どうしてそんな面倒な撮影をしなければならないの?」
口論の嫌いなヒッチコックは最初黙って聞いていた。
しかし「なぜ?」「どうして?」という
彼女の度重なる追及に辟易し、しまいにはこう言い放った。
イングリッド、たかが映画じゃないか。
サスペンスの神様ヒッチコックに
「たかが映画」と言わせたイングリッド・バーグマン。
その女優魂には畏れ入るしかない。
イングリッド・バーグマンを偲んで②
「エレットラとイザベラ」
2007年、コスメティクスブランドのランコムは、
ブランドの美の象徴であるミューズに、
イタリア人モデルのエレットラ・ロッセリーニを選んだ。
エレットラ・ロッセリーニの母親は、
イザベラ・ロッセリーニ。
映画『ブルーベルベット』の主演女優として知られる彼女は、
やはりランコムのミューズを長い間務めた。
そして、イザベラ・ロッセリーニの母親が、
イングリッド・バーグマン。
イングリッドの残した美の遺産は、
こうして脈々と受け継がれている。
イングリッド・バーグマンを偲んで③
「ティ・アーモ」
1948年、イングリッド・バーグマンは
ブロードウェイの小さな映画館で、
イタリアの巨匠ロベルト・ロッセリーニ監督の
『戦火のかなた』という映画を観た。
衝撃的だった。
ロマンス映画にばかり出演してきたイングリッドにとって、
戦争の悲劇を克明に描いた『戦火のかなた』こそ
本物の芸術だと思えた。
この監督の作品に出たい。
その一心でイングリッドはロッセリーニに向けて手紙を書く。
もしスウェーデン人の女優が必要でしたら、
わたしは「ティ・アーモ」しかイタリア語は知りませんが、
喜んでイタリアへ行って、
あなたといっしょに映画を作るつもりです。
イングリッドがロッセリーニに対して抱いた気持ちは
最初、純粋に尊敬の念だった。
しかし、それがいつしか愛へと変わる。
そしてついには仕事も家庭も捨て、
ロッセリーニのもとへ走ることになる。
「ティ・アーモ」。
彼女が唯一知っていたイタリア語は、
奇しくも「あなたを愛しています」という言葉だった。
イングリッド・バーグマンを偲んで④
「君の瞳に乾杯」
「君の瞳に乾杯」。
映画『カサブランカ』でハンフリー・ボガードが
イングリッド・バーグマンに囁く有名なセリフ。
もとの英語は“Here’s looking at you, kid.”、
直訳すると「君を見つめることに乾杯」という意味になる。
このセリフを「君の瞳に乾杯」と訳したのは、
昭和の名翻訳家、高瀬鎮夫。
彼は原文にはない「瞳」という言葉を加えて、あえて意訳をした。
そうすることで、このセリフの持つ甘美で切ないニュアンスを
日本人にも伝わるようにしたのだ。
『ゴッドファーザー』や『サタデーナイト・フィーバー』など、
数々の字幕制作に携わり、洒落た翻訳で知られた高瀬鎮夫。
映画『ある愛の詩』の名セリフ、
「愛とは決して後悔しないこと」も彼によるものである。
イングリッド・バーグマンを偲んで⑤
「後悔」
1957年1月19日。
ニューヨークのアイドルワイルド空港に降り立った
イングリッド・バーグマンを待ち受けていたのは、
大勢の新聞記者とカメラのフラッシュだった。
映画監督ロベルト・ロッセリーニとの
不倫スキャンダルによって、
イングリッドは長らくハリウッドを追われていた。
その彼女が、ロッセリーニとの破局の末、
再びアメリカに戻ってきたのだ。
記者から辛辣な質問が飛ぶ。
「ミス・バーグマン、
あなたは自分の行動を後悔してないのですか?」
その質問に対して、
イングリッドは微笑みを浮かべてこう答えた。
いいえ。
わたしが後悔しているのは、
しなかったことに対してであって、
したことを後悔してはいません。
スキャンダルを乗り越え、
のちにオスカーも獲得したイングリッド・バーグマン。
彼女は美しいだけでなく、強い女性だった。
イングリッド・バーグマンを偲んで⑥
「As Time Goes By」
その日、ロンドンの
聖マルタン・イン・ザ・フィールズ教会には
亡くなったイングリッド・バーグマンにお別れを言うために、
200人の人々が集まった。
追悼の言葉と歌が捧げられると、
教会の片隅からバイオリンの音色が聴こえてきた。
それは彼女の代表作『カサブランカ』のテーマ曲
“As Time Goes By”だった。
知性的な美貌と、オスカー主演女優賞に2度も輝く演技力で、
世界中の映画ファンを魅了したイングリッド・バーグマン。
彼女は1982年の今日、67年の生涯に幕を閉じた。
この世から去った後も、
イングリッドは人々の思い出の中で輝き続ける。
“As Time Goes By”
どんなに時が流れても。
イングリッド・バーグマンを偲んで⑦
「薔薇の名前」
2000年に開催された第16回世界バラ会議で、
「イングリッド・バーグマン」という品種が
史上10番目の「バラの殿堂」に選ばれた。
その薔薇の名はもちろん
女優のイングリッド・バーグマンに由来する。
深紅の花びらが醸し出す高い気品と燃えるような情熱。
それは彼女の魅力そのもの。
かつて銀幕の花として、多くの人々を魅了した
イングリッド・バーグマン。
彼女はいま薔薇となって人々を魅了し続ける。
イングリッド・バーグマンを偲んで⑧
「カサブランカ」
映画史上最高の脚本は何か?
アメリカ脚本家協会によれば、
それは『カサブランカ』である。
2006年、アメリカ脚本家協会は
「史上最高の映画脚本ベスト101」の第1位に、
『カサブランカ』を選出する。
この脚本を執筆したのは、ジュリアス・エプスタイン、
フィリップ・エプスタイン、ハワード・コッチの3人の脚本家。
「ゆうべはどこにいたの?」
「そんなに昔のことは憶えてないね」
「今夜は会えるの?」
「そんなに先のことはわからない」
イングリッド・バーグマンと
ハンフリー・ボガードが交わす男と女の粋な会話。
1943年のアカデミー脚本賞も受賞した『カサブランカ』には
珠玉のセリフが溢れている。
蛭田瑞穂 10年07月04日放送
7月4日にちなんで① フェレンツ・プスカシュ
1954年の7月4日に行なわれた
ワールドカップスイス大会、
ハンガリー対西ドイツの決勝戦。
ハンガリー代表チームのキャプテンは、
今なおハンガリー史上最高の選手として語り継がれる
フェレンツ・プスカシュ。
18歳で代表にデビューしたプスカシュは、
29歳で代表を退くまで84試合に出場し、
83ものゴールを決めた。
1度ボールを蹴っただけで2点を奪う。
とチームメイトが賞賛するほど
圧倒的な決定力だった。
スイス大会の決勝戦。
前半の6分にハンガリーの先制ゴールを挙げたのも
やはりプスカシュだった。
7月4日にちなんで② シュベシェ・グスターヴ
「マジック・マジャール」。
1950年代の始めに、世界を席巻した
サッカーハンガリー代表チームを、人々はそう呼んだ。
「魔法のハンガリー人」という意味である。
1950年からの4年間で32戦無敗。
ヘルシンキオリンピックでは金メダルを獲得し、
サッカーの母国イングランドを
聖地ウェンブリーで破るという快挙も遂げた。
マジック・マジャールの強さの秘密。
そのひとつが監督シュベシェ・グスターヴの
構築したサッカーシステム。
試合中に選手が臨機応変にポジションを変える、
当時としては画期的なシステムだった。
1954年の7月4日に行なわれた
ワールドカップスイス大会、
ハンガリー対西ドイツの決勝戦。
シュベシェ率いるハンガリーは
前半わずか8分で2点を奪い、その強さを見せつけた。
7月4日にちなんで③ ゼップ・ヘルベルガー
1954年の7月4日に行なわれた
ワールドカップスイス大会、
ハンガリー対西ドイツの決勝戦。
両チームはその2週間前にも
予選リーグで顔を合わせていた。
結果は8対3でハンガリーの圧勝。
西ドイツの監督、ゼップ・ヘルベルガーは、
マスコミから「国家の裏切り者」という汚名を着せられた。
しかし、この負けは彼の計算だった。
ハンガリーに敗れて予選を2位で通過すれば、
強豪国との対戦が少ない組み合わせで
決勝トーナメントを戦うことができる。
先の勝負を読んだヘルベルガーは
ハンガリー戦であえて主力選手を温存して戦った。
一方、西ドイツに勝利し、
予選を1位で通過したハンガリーは
ブラジルなど強豪国との死闘を勝ち抜いて
決勝戦まで進んだものの、
主力選手は満身創痍の状態だった。
そして決勝戦。
前半の8分に2点目を奪われた西ドイツは
2分後に1点を返す。
それは西ドイツが上げた反撃の狼煙だった。
7月4日にちなんで④ 西ドイツ代表チーム
それは「ゲルマン魂」を
初めて世界に見せつけた試合だった。
1954年7月4日、スイスのベルンで行なわれた
ワールドカップ決勝戦、ハンガリー対西ドイツ。
当時「魔法のハンガリー人」と呼ばれ、
無敵の強さを誇ったハンガリーを
西ドイツは3対2で下し、初優勝する。
2点差を覆す、見事な逆転劇だった。
その勝利はまだ第2次世界大戦敗戦の傷が癒えていない
西ドイツ国民に勇気と自信を与えた。
その後、敗戦からの奇跡的な復興を遂げ、
ワールドカップでも3度の優勝を果たしたドイツ。
1954年7月4日の勝利を人々は
「ベルンの奇跡」と呼び、今に語り継ぐ。
7月4日にちなんで⑤ アルフレッド・ディ・ステファノ
今も昔もサッカー好きが集まると口にする
「史上最高のサッカー選手は誰か?」という話題。
サッカーの王様ペレはこう答えている。
史上最高の選手はペレかマラドーナだと
みなさんは言うが、わたしにとって最高の選手は
アルフレッド・ディ・ステファノだ。
アルフレッド・ディ・ステファノ。
1943年、17歳でアルゼンチンの名門
リバープレートと契約した彼は、
すぐに頭角を現し、2度の得点王に輝く。
その後コロンビアリーグに籍を移し、得点王を2度獲得。
そして27歳でスペインのレアル・マドリードに移籍する。
彼の移籍を巡っては、
レアル・マドリードとバルセロナの間で
当時の最高権力者フランコ将軍が仲裁に乗り出すほど
熾烈な争奪戦が繰り広げられたという。
チームに在籍した11シーズンで
決めたゴールは466。8度のリーグ優勝、
そしてヨーロッパNo.1のクラブチームを決定する
チャンピオンズカップの5連覇という偉業も遂げた。
現在、レアル・マドリード名誉会長にして、
今なおチーム歴代最高の選手といわれる男、
アルフレッド・ディ・ステファノ。
彼は1926年の今日、ブエノスアイレスに生まれた。
7月4日にちなんで⑥ モード・ワトソン
テニスのウィンブルドン選手権には
白い衣服を着てプレーしなければならない
という決まりがある。
これは1844年、女子シングルス初代王者
モード・ワトソンが白い衣服で
プレーしたことに由来する。
白い帽子、白いブラウス、
そしてくるぶしまである白のロングスカート、
モード・ワトソンのテニスウェアは、
鮮やかな白でまとめられていた。
2010年のウィンブルドン選手権は
イギリス時間の今日7月4日、最終日を迎える。
ウィンブルドンの緑の芝が
ひときわ美しく感じられるのは、
名物の雨と、白いウェアのおかげかもしれない。
7月4日にちなんで⑦ シュテフィ・グラフ
1996年7月4日。
ウィンブルドンの女子シングルス準決勝、
シュテフィ・グラフ対伊達公子。
2セット目の第7ゲーム。
グラフがサーブの態勢に入ると、
突然、観客のひとりが大声で叫んだ。
「シュテフィ、僕と結婚して!」
笑い声に包まれる場内。
緊張の糸が切れてもおかしくない状況に、
しかし彼女はこう応えた。
あなたお金は持ってるの?
野次に動揺するどころか、
ユーモアで切り返したシュテフィ・グラフ。
あまりに見事なリターンエースだった。
7月4日にちなんで⑧ スザンヌ・ランラン
「テニスの女神」スザンヌ・ランラン。
1920年代にウィンブルドンを5連覇し、
全仏選手権も6度制覇した伝説の選手。
彼女の偉業はそれだけではない。
その時代、テニスは社交のための優雅な遊び。
女性は長いスカートを穿いてプレーしていた。
しかし、ランランはそんな恰好では動きにくいと、
スカートを膝の高さで切ってしまった。
それ以降、女性のテニスウェアは短いスカートが主流となり、
テニスの競技性が一気に増したといわれている。
今日7月4日は、スザンヌ・ランランが
39歳で亡くなった日。
短い生涯で彼女が残した功績はあまりに大きい。
現在、全仏オープンテニスの
女子シングルス優勝者に贈られるカップには
スザンヌ・ランランの名前が刻まれている。
蛭田瑞穂 10年06月06日放送
ブライアン・ウィルソンとペット・サウンズ①
ビーチ・ボーイズのリーダー、ブライアン・ウィルソンと
ポール・マッカートニーにはいくつかの共通点がある。
才能あるメロディーメーカーであること。
ベースを担当していること。
そしてふたりとも1942年の6月に生まれていること。
互いに影響を与え合い、ロックの歴史を変えた
ブライアン・ウィルソンとポール・マッカートニー。
この一致は偶然か、それとも必然か。
ブライアン・ウィルソンとペット・サウンズ②
ビーチ・ボーイズのリーダー、ブライアン・ウィルソンは
初めてビートルズを見たときのことをよく覚えている。
それは1964年2月9日のことで、ビートルズはテレビ番組
「エド・サリバンショー」に出演していた。
ブライアンにとってビートルズのすべてが衝撃的だった。
音楽性もステージ衣装もファンの熱狂も。
このときの衝撃がブライアンとビーチ・ボーイズの音楽性を
大きく変えることになる。
それはカリフォルニアの陽気なポップスグループが
音楽史に名を残す偉大なロックバンドに変わった瞬間だった。
ブライアン・ウィルソンとペット・サウンズ③
1966年の初め、ビーチ・ボーイズのリーダー、
ブライアン・ウィルソンのもとに友人が訪ねてきた。
「このアルバムを聴いた感想を聴かせて欲しい」。
それはビートルズのニューアルバム『ラバー・ソウル』だった。
そのときのことをブライアンはこう振り返る。
感想を言うのは簡単だった。
ただただ感激した!
『ラバー・ソウル』を聴いた彼は
ビーチ・ボーイズの最高傑作をつくることを決意し、
すぐに制作に取りかかる。
そして1966年5月、ニューアルバムをリリースする。
ロック史に燦然と輝くアルバム、
『ペット・サウンズ』の誕生である。
ブライアン・ウィルソンとペット・サウンズ④
ビーチ・ボーイズの最高傑作『ペット・サウンズ』は
リーダーのブライアン・ウィルソンが、
ほとんどひとりでつくりあげたアルバム。
彼は言う。
僕はそのアルバムに魂を注いだ。
心の痛み、喜び、葛藤、悲しみ、愛を。
その音楽は僕のすべて、生身の僕自身だった。
ブライアン・ウィルソンという人間のすべてが
むき出しで表れる『ペット・サウンズ』。
その音色は透き通るほどに無垢で美しい。
ブライアン・ウィルソンとペット・サウンズ⑤
1966年、ビーチ・ボーイズが発表したアルバム『ペット・サウンズ』。
その中に収録された「God Only Knows」というラブソング。
この曲にはポピュラーミュージック史上初めて、
「God」という言葉が使われたと言われている。
作曲をしたブライアン・ウィルソンは最初、
その言葉を使うのをためらった。
「神」という単語が入っている曲を、
ラジオ局が流さないのではないかと。
しかし、歌詞を書いたトニー・アッシャーは、
「アートとは妥協するものではない」と断固として譲らなかった。
のちにロックの名曲と呼ばれ、ポール・マッカートニーが
「実に偉大な曲」と賛辞を贈った「God Only Knows」。
もし、この曲に「God」という言葉が使われなかったとしても、
やはり同じような評価を受けただろうか?
それは、神のみぞ知る。
ブライアン・ウィルソンとペット・サウンズ⑥
ビーチ・ボーイズのアルバム『ペット・サウンズ』。
作曲を手がけたブライアン・ウィルソンは
作詞をトニー・アッシャーというコピーライターに依頼した。
彼だったら自分の感じていることを
的確に歌詞に表現してくれると思ったのだ。
承諾したトニー・アッシャーはアルバムの制作に参加する。
ただし、当時彼は広告会社の社員。
会社には3週間の休暇届けを提出した。
ブライアン・ウィルソンとペット・サウンズ⑦
1966年、ビーチ・ボーイズが発表したアルバム『ペット・サウンズ』。
作曲を手がけたブライアン・ウィルソンはアルバムの中で
「テルミン」という電子楽器を取り入れた。
それだけではない。
彼はなんと自転車のベルの音まで楽器代わりに使ってみせた。
天才の創造性。
それはあらゆるものの可能性を簡単に広げてしまう。
ブライアン・ウィルソンとペット・サウンズ⑧
1966年、ビーチ・ボーイズが発表したアルバム『ペット・サウンズ』は、
リーダーのブライアン・ウィルソンがほとんどひとりでつくりあげた作品。
レコード会社はそれまでのビーチ・ボーイズとは
イメージが違いすぎるという理由で「失敗作」と評価した。
しかし2003年、ローリングストーン誌は
史上もっとも偉大なアルバムの第2位に『ペット・サウンズ』を選ぶ。
ブライアン・ウィルソン。
彼は早すぎる天才、だったのかもしれない。
蛭田瑞穂 10年05月02日放送
知られざる発明家たち①「ナイロン」
合成繊維「ナイロン」を発明したのは、
ウォーレス・カロザースという研究者。
しかし、1939年にナイロンが発表された時、
彼はもう、この世にいなかった。
「ナイロン」という名前の由来は“no run”。
「伝線しない」という意味。
ほかの候補に“ワカラ(Wacara)”という
変わった名前があった。
“a tribute to Wallace Carothers”を略して「ワカラ」。
「ウォーレス・カロザースに捧ぐ」
という意味が込められていた。
知られざる発明家たち②「合成ゴム」
1844年、アメリカ人の発明家、
チャールズ・グッドイヤーは合成ゴムを考案した。
しかし、彼の人生にとって、それは早すぎる発明だった。
合成ゴムの特徴は強い耐久性。
だが当時の社会にはその特徴を活かす製品がなかった。
1860年、グッドイヤーは多額の負債を抱えたままこの世を去る。
合成ゴムが本当に必要になるのはそれから数十年後。
自動車が発明されてから。
現在、世界有数のタイヤメーカーに
「GOODYEAR」という名前の会社がある。
しかし、それはチャールズ・グッドイヤーが
つくった会社ではない。
彼の功績を讃え、グッドイヤーの名を社名につけたのだ。
知られざる発明家たち③「ポスト・イット」
1969年、アメリカの化学メーカーに勤める技術者、
スペンサー・シルバーが接着剤の開発をしていると
粘着力は強いのに、すぐに剥がせてしまう
変わった性質の接着剤ができあがった。
完全な失敗作だったが、
不思議な可能性を感じたシルバーは、
サンプルをつくって社内に見せて回った。
そのサンプルを見た者の中に、
アート・フライという技術者がいた。
5年後のある日曜日。
フライが教会で賛美歌を歌っていると、
歌集に挟んであったしおりが床に落ちた。
その瞬間、フライの頭に浮かんだのが
シルバーのつくった接着剤。
あの接着剤を使えば、落ちないしおりがつくれるはずだ。
こうしてできあがったのが「ポスト・イット」。
今やどのオフィスでも見かける世界的ヒット商品。
「失敗は成功のもと」というけれど、全くその通り。
知られざる発明家たち④「万年筆」
現在の万年筆の原型をつくったのは、
ルイス・エドソン・ウォーターマンというアメリカ人。
保険の外交員をしていた彼は、
ある時、ペンから漏れ出したインクで、
契約書を汚してしまう。
大口の契約を取り逃がした彼は、
これをきっかけにインクの漏れない
万年筆の開発に乗り出す。
そして1883年に毛細管現象を応用した
ペン芯を考案する。
「必要は発明の母」とは、こういうこと。
知られざる発明家たち⑤「ゼムクリップ」
第2次世界大戦中、ドイツ占領下のノルウェーでは
服に付けられたゼムクリップが
国民団結のシンボルだった。
なぜゼムクリップなのか。
それは、ノルウェー人ヨハン・バーラーが
ゼムクリップを考案したことに由来する。
ところが。
誰がゼムクリップを発明したのか、
実ははっきりしない。
古代ローマの時代にすでに存在していたという話もある。
しかし、それはそれ。
ノルウェーの人々にとって、
ヨハン・バーラーは特別な存在。
戦後、彼の功績を讃え、首都オスロの郊外に
巨大なゼムクリップのオブジェがつくられた。
知られざる発明家たち⑥「カッターナイフ」
戦後間もない大阪。
印刷会社の社員田岡良男は
いつものようにカミソリの刃で
紙を裁断していた。
しかし、カミソリの刃はすぐにボロボロになる。
ボロボロになった刃は捨てるしかない。
この無駄をどうにかできないか。
その時、田岡の頭に、
進駐軍の兵士からもらった板チョコが浮かんだ。
駄目になった刃を、板チョコのように折って使えばいい。
こうして世界で初めて、
刃を折って使う仕組みのカッターナイフが生まれた。
知られざる発明家たち⑦「消しゴム」
1770年、イギリス人のジョゼフ・プリーストリーが、
ゴムに鉛筆の字を消す性質があることを発見した。
これが消しゴムの始まりといわれている。
消しゴムが可能にしたのは、
単に字を消すことだけではない。
人の誤りを訂正し、
書きなおせることも可能にしたのだ。
蛭田瑞穂 10年04月11日放送
ヌーヴェル・ヴァーグの作家たち①
ゴダール、
トリュフォー、
エリック・ロメール。
ヌーヴェル・ヴァーグの監督たちは、
もともとは映画の批評家だった。
伝統的な映画づくりを否定し、
今までにない映画の在り方を主張した。
そうして実際、そのとおりに映画を撮ったのだ。
「有言実行」とは、つまりこういうこと。
ヌーヴェル・ヴァーグの作家たち②
フランスの映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ」。
その初代編集長、アンドレ・バザン。
彼はその雑誌に、
映画への情熱にあふれる若者たちを集め、
自由に批評を書く場を与えた。
のちに、その若者たちの中から、
ゴダールやトリュフォーといった
映画の歴史を変える監督があらわれる。
アンドレ・バザン。
彼こそが「ヌーヴェル・ヴァーグの父」である。
ヌーヴェル・ヴァーグの作家たち③
1954年、フランスの映画批評誌
「カイエ・デュ・シネマ」に、
1本の評論が掲載された。
題名は「フランス映画のある種の傾向」。
執筆したのは21歳の若者、
フランソワ・トリュフォー。
評論の中でトリュフォーは伝統的な映画手法を否定し、
監督の作家性を押し出す「作家主義の映画」を主張した。
これがフランス映画界に波紋を起こす。
波紋はやがて大きな波へと変わり、
世界の映画人を飲み込むことになる。
「ヌーヴェル・ヴァーグ」。
日本語で「新しい波」を意味する
映画運動はこうして始まった。
ヌーヴェル・ヴァーグの作家たち④
処女作にはその作家のすべてがある。
映画監督フランソワ・トリュフォーの処女長編は
家族愛に恵まれない不幸な少年の物語。
両親に見捨てられ、孤独な少年時代を過ごした
トリュフォーの自伝的作品といわれる。
タイトルは“LES QUATRE CENTS COUPS”
邦題は、「大人は判ってくれない」。
ヌーヴェル・ヴァーグの作家たち⑤
ジャン=リュック・ゴダールの
長編デビュー作「勝手にしやがれ」。
ゴダールはこの作品で、
さまざまな新しい試みをした。
脚本のない即興演出。
手持ちカメラによる大胆な街頭ロケ。
「ジャンプカット」と呼ばれる革新的な編集技法。
そして映画史に残る衝撃のラストシーン。
批評家アレクサンドル・アストリュックはこう語る。
それは爆弾のように炸裂した。
たった1本の映画で、
ゴダールは「明日の映画」を発明したのである。
「勝手にしやがれ」の封切りから今年でちょうど50年。
未だ古びて見えないのは、
フィルムに「明日」が映っているから。
ヌーヴェル・ヴァーグの作家たち⑥
映画監督エリック・ロメールの
デビュー作「獅子座」。
その内容はというと。
事件はほとんど起こらない。
物語は淡々と進む。
興行的にも振るわなかった。
でも、それが彼のやり方。
ありきたりの手法を否定することで、
既存の映画に反抗した。
「獅子座」。
それはロメールが起こした、静かな革命だった。
ヌーヴェル・ヴァーグの作家たち⑦
今年1月、
89歳で亡くなった映画監督
エリック・ロメール。
彼の映画はタイトルだけで
瑞々しい映像が浮かんでくるようだ。
「海辺のポーリーヌ」
「緑の光線」
「春のソナタ」
「夏物語」
ロメールが天国で、次の映画を撮るとしたら、
どんなタイトルになるのだろう。
蛭田瑞穂 10年01月31日放送
武田百合子 1
武田百合子を語る時、まずその職業から、と思うのだが、
困ったことに彼女は肩書を極端に嫌う人だった。
夫、武田泰淳の死後、富士山麓での生活を綴った
『富士日記』を発表し、鮮やかに文壇デビューした後も、
「文筆家」と名乗るのを拒んだ。
ある原稿の肩書が「故武田泰淳夫人」となっていた。
それでは困ると編集者が言うと、彼女は笑って答えた。
じゃあ主婦にしてください
さて、武田百合子を何から語りはじめよう。
武田百合子 2
武田百合子夫妻が富士山麓に山荘を構えたとき、
夫泰淳は、百合子に日記を書くよう勧めた。
彼女は首を横に振って、それを渋った。
しかし泰淳はなおも説得を重ねた。
どんな風につけてもいい。
何も書くことがなかったら、
その日に買ったものと天気だけでもいい。
日記の中で反省はしなくてもいい。
反省の似合わない女なんだから。
後年、武田百合子の名を世に知らしめた『富士日記』は
夫の説得の末に生まれた作品である。
武田百合子 3
戦後間もない東京、神田に
「ランボオ」という名の喫茶店があった。
作家武田泰淳はその店の常連客だった。
泰淳は店の女に恋をしていた。
しかし、その恋の進展ははかばかしくなかった。
女は美人で、まわりにはいつも彼女目当ての客がいた。
あるとき泰淳は、女にチョコレートパフェをおごった。
女はうれしそうにそれを食べた。
アメリカ製のチョコレートパフェは当時高級品だった。
それ以来、泰淳は店に来ると
女にチョコレートパフェをおごるようになった。
好きなものを食べさせて、
自分は黙って、はずかしそうに焼酎を飲んでいる。
そんな泰淳を女はいつしか好きになった。
女の名は、鈴木百合子。
のちに武田泰淳と結婚し、武田百合子となるその人である。
もし、チョコレートパフェがなかったら、
武田百合子という稀代の文章家は
生まれていなかったかもしれない。
武田百合子 4
「美しい」という言葉を簡単に使わない。
武田百合子はそう決めていた。
景色が美しいと思ったら、どういう風かくわしく書く。
心がどういう風かくわしく書く。
「美しい」という言葉がキライなのではない。
やたらと口走るのは何だか恥ずかしいからだ。
美しい文章を書こうと思ったら、
美しいものを美しいと書いてはいけない。
勉強になります。
武田百合子 5
戦後間もない頃、「ランボオ」という喫茶店で
武田百合子は働いていた。
作家たちの溜まり場として繁盛していた店の常連客に、
のちに百合子の夫となる武田泰淳がいた。
痩せて元気がなく、女に話しかけるのが下手な人、
というのが百合子の印象だった。
泰淳からの求婚を受けたときも、
それをありがたく思う気持ちはなかった。
戦争で焼け野原になって、
ずっと酒を飲んでいる百合子に、
先のことは何も考えられなかった。
しかし、ともかく、ふたりは結婚する。
以後泰淳の死まで結婚は25年間続くことになる。
結婚することを、俗にゴールインと呼ぶ。
だが百合子と泰淳、ふたりにとってそれは、
ゴールではなく、スタートだった。
武田百合子 6
武田百合子は戦争を経験している。
空襲で家が焼け、親類を渡り歩いた。
裕福だった少女時代から一転、生活は貧窮の底に落ちた。
七月三十日(金) くもりのち晴れ、風涼し
朝起きぬけに、花畑のまんなかで
髪の毛をとかしているといい気持だ。
朝 麦飯、じゃがいもベーコン炒め、さばみりん干し、のり
夕食 麦飯豚ロース
『富士日記』に繰り返し綴られる、平凡な日々。
しかし、平凡な日々の中にこそ、幸せがある。
武田百合子 7
武田百合子の『富士日記』は、
富士山麓に山荘を建てた昭和39年に始まり、
夫武田泰淳が他界した昭和51年に終わる。
13年の間に、溜まった日記帳はじつに12冊。
「長い間よくあきずに書きましたね」
百合子はよくそう言われた。
その度に彼女は胸の内でつぶやくのだった。
私だってキョトンとしているのだ。
よくまあ、この私が書き続けたものだ。






















