2009 年 11 月 1 日 のアーカイブ

五島のはなし(59)

口が五島を離れたのは18歳のとき、
大学に進学するためでした。
飛行機に乗って五島の空港を飛び立つと
飛行機はぐるっと島をめぐるように上昇し、
「なにこれパイロットが口を泣かせようとしてる?」と思うほど
島の姿をじっくり見せつける(そんな風に感じられた)ので
口は思わずぼろぼろと涙を流したのでした。

あ、ちなみに「口」が読みにくいでしょうが、
これ、今日から「私」の代わりに使うことになった一人称です。
「ハコ」という読み方をします。
以前、口のコピーライターの師匠であるKさんが
転勤の挨拶のときに

「自分というものはからっぽの箱みたいなもので、
 その箱に知り合った人たちや出来事が
 どんどん入って、それが自分をつくってるんだと思います」

ということを言っていて、
いいこと言うなあ、ほんとそうだよなあ、と思ったことを思い出し、
それで、「私」も「僕」も「俺」もしっくりこない口は、
口を口の一人称として使っていこうと(さっき)決めました。
(五島のはなし58参照)

口はいま36歳なので
口の半分のスペースが
島以外の年月と人と出来事で埋められたとも言えます。
この月日の境目って言うのはちょっと感傷的になるなあと
思って今日のはなしを書きだしてみましたが
実際はそんなに感傷的気分もわいてこず、
いまはただ、
この「口」という一人称がやっぱ使いにくいなあ、
という気持ちでいっぱいです。

これ五島の写真ですけど、五島のイメージとしてこの写真がふさわしいかは疑問。

これ五島の写真ですけど、五島のイメージとしてこの写真がふさわしいかは疑問。

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佐藤延夫  09年11月1日放送

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サイレンススズカと武豊1

「もしも、あの馬が無事に走っていたら」

今でも競馬ファンが、そう考えてしまうレースがある。

平成10年、11月1日。天皇賞。
一番人気で先頭を走っていたサイレンススズカは
レース中に左前脚を骨折、安楽死となった。
ジョッキーの武豊は語る。

「夢が一瞬にして消えてしまった。」

11年前の天皇賞の話になると
悲しそうな顔をする人は多い。

02-silencesuzuka


サイレンススズカと武豊2

1997年、2月1日。
京都競馬場。
芝1600mの新馬戦。

サイレンススズカのデビューは、
強烈なものだった。

スタート良く飛び出したら、
そのままゴールまで影も踏ませない。
騎手は道中、慌てず騒がず、
手綱さえ動かさなかった。
まるで他の馬は歩いているようだ、と誰かが言った。
終わってみれば、7馬身差の圧勝。
競馬場は、溜息に包まれた。

「凄い馬が出た。」

別の馬に乗っていた武豊は、
初めて見るサイレンススズカのスピードに舌を巻いた。

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サイレンススズカと武豊3

スピードは速いけど、誰も制御できないクルマ。
4歳当時のサイレンススズカは、まさにそんな馬だった。

幼さと気性の激しさが悪い方向に傾くと、
ことごとくレースを台無しにした。
弥生賞では騎手を振り落とし、ゲートをくぐり抜けてしまう。
ダービーは、ちぐはぐな競馬で惨敗。
秋のマイル戦も、見せ場すら作れなかった。

その年の12月、
香港遠征で、初めて武豊に身を任せる。

5着に敗れはしたものの、
気持ち良さそうにターフを駆ける姿は、
関係者を唸らせた。
持ち前のスピード、ダイナミックな足の運び、後半の粘り。
並の馬ではない。
一流馬となる素質は、随所に感じられた。
レース後、武はぽつりと言った。

「恐ろしい馬になるかもしれない。」

その予言は、思うより早く現実のものとなる。

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サイレンススズカと武豊4

多くの競走馬は、自分のスタイルを持っている。
逃げ、先行、差し、追い込み。
宿命的に「一か八か」という言葉がつきまとうのは、逃げ馬だ。

たとえば2000mのレースで、
1000mを通過するタイムが
58秒というのは明らかにオーバーペースであり、
やがて後続の馬に一気に追い抜かれてしまう。

でもサイレンススズカに限っては、それがマイペースだった。

栗毛の逃亡者。
音速の貴公子。
異次元の快速馬。

のちに、さまざまな異名がつけられた。

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サイレンススズカと武豊5

1998年。
5歳になったサイレンススズカは、
圧倒的な強さを見せつける。

2月のバレンタインステークスを皮切りに、
中山記念、小倉大賞典でも勝ち星を重ねた。
圧巻だったレースは、5月の末、中京競馬場で行われた金鯱賞(きんこしょう)。
スタート直後に飛び出したら、最後まで一人旅。
どの馬も、彼のペースについて行けなかった。

去年負かされたライバルたちは、遠くに霞んで見えるだけ。
4コーナーを過ぎると、観客は拍手を送り、
ゴール前では、笑いがこぼれた。
誰もがその強さに呆れてしまうようなレースだった。

終わってみれば、2着に11馬身の差をつけて圧勝。
レコードタイムを軽々と塗り替えていた。
これで、年が明けて4連勝。
武豊は語る。

「今日のサイレンススズカなら、どんな馬が来ても負けない。」

慎重な彼がこんなに強気な発言をするのは、珍しい。

06-silencesuzuka


サイレンススズカと武豊6

1998年、7月。
サイレンススズカは無傷の4連勝で、
春競馬最後のGI(ジーワン)レース、宝塚記念に挑む。

このときに限り、武豊には先約があり、
南井(みない)騎手に乗り替わった。

距離の延長が不安視されたが、
始まってしまえばいつも通り。
最後までどの馬も、並ぶことさえできなかった。

武は、エアグルーヴに跨がり3着。
サイレンススズカの後ろ姿を見つめるだけだった。
レースを終えて、南井騎手は言う。

「この馬の能力は、ナリタブライアンに匹敵する。」

それはかつて、怪物と言われた馬だった。

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サイレンススズカと武豊7

1998年、秋。
天皇賞の前哨戦、毎日王冠は
東京競馬場で行われた。

サイレンススズカは、
淡々と自分のペースを守り、レースを進めていく。
しかしリードはそれほど大きくない。
最後の直線、他の馬が近づいたところで、一気に引き離した。

「これが理想だと思いました。」

武豊は、誇らしげに言う。
サイレンススズカがスターホースになった瞬間だった。

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サイレンススズカと武豊8

やけに数字の1が目につく日だった。
平成10年11月1日の第11レース、秋の天皇賞。
サイレンススズカは、1枠1番にゲートインした。

芝が西日を浴び、ターフは黄金色に輝く。
彼はいつものように、後続に大差をつけて逃げる。
府中名物、大欅(おおけやき)を越え
まもなく第4コーナー、というあたりで躓くように失速。
左前脚の粉砕骨折。
この日が、サイレンススズカの命日となった。

翌年の7月11日、宝塚記念。
実況アナウンサーは、レースが始まる前に言った。

「あなたの夢は、スペシャルウイークか、グラスワンダーか。
 私の夢は、サイレンススズカです。」

人々の記憶の中で、彼は走り続けている。

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