2010 年 のアーカイブ

五島のはなし(120)

杉山レストランさんからの、よいニュース。
紹介します。

以前、この「五島のはなし」でも紹介されていた
ベベンコビッチ・オーケストラがスゴイことやってくれました。
全国ナイスミドル音楽祭の決勝大会にコマを進めたのです!

TOYOPET MUSIC SESSION 全国ナイスミドル音楽祭
11月3日(水・祝)午後3時開場
恵比寿 ザ・ガーデンホール(東京都目黒区三田1-13-2)

九州大会では惜しくも準優勝だったのですが
参加全バンドの中からたった1組だけの「敗者復活枠」に選ばれました。

五島出身・東京組のみなさん!
宣伝&応援よろしくお願いします。

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「敗者復活枠でただ一組選ばれた」ってとこが
良いじゃあないですか。
ほんとグッド・ニュースです。
がんばってほしい。
いや、あんまりがんばんないほうが五島っぽいのかな。

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五島のはなし(119)

10円おじさんのことを紹介したら、
10円おばさんもいたよ!と2号さんからコメントがありました。
厚焼玉子さんからもするどい指摘を受けましたが、
五島人は10円へのこだわりが強いようです。
以下、10円おばさん。

『10円おばさん』もいたよ。
そのおばさんにつかまり「10円玉を磨け!」と言われ、
ピカピカになるまで磨いた経験有り。
もちろん全く知らないおばさんで、
下校中の小学生を言葉巧みに家に連れ込み10円玉を渡す。
磨き具合をチェックされて、合格しないと帰してもらえない。
(合格しても10円はくれなかったけど・・・)

今だから笑えるけど、当時は周りの子達もみんなビビってて、
『10円おばさん』ちの前は猛ダッシュで通り抜けて帰ってたよ。

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蛭田瑞穂 10年10月10日放送



1.東京オリンピックを支えた人々「北出清五郎」

1964年の今日、東京オリンピックの開会式が開かれた。
敗戦から19年、オリンピックの開催は日本国民の悲願だった。

テレビから流れる開会式の模様を、
多くの日本人が万感の思いで見つめる中、
中継を担当したアナウンサー北出清五郎は、
こんな言葉で実況を始めた。


 世界中の青空を全部日本に持ってきてしまったような、
 素晴らしい秋日和でございます。

1964年10月10日の青空。
それは日本の復興を祝うかのような美しい青空だった。



2.東京オリンピックを支えた人々「亀倉雄策」

日本を代表するアートディレクター、亀倉雄策。
彼の名を世界に広めたのが、
1964年の東京オリンピックのポスターである。

亀倉は真夜中の競技場に4台のカメラと
50台のストロボを運び込み、
陸上選手の撮影をおこなった。

スタートダッシュと、シャッターを切るタイミングを
完璧に合わせるために、選手たちは肉体の限界を超える
30回ものダッシュを繰り返したという。

オリンピック競技の躍動感と緊迫感が
凝縮された一枚のポスター。

それはオリンピックの本質を
見事に表現しているだけでなく、
日本のグラフィックデザインのレベルを
世界に示すポスターだった。



3.東京オリンピックを支えた人々「フレッド・和田勇」

東京オリンピックの成功の裏にひとりの日系人の尽力があった。
彼の名は、フレッド・和田勇。

和田とオリンピックの関わりは、
1949年にロサンゼルスで開かれた全米水泳選手権に始まる。

当時まだ戦争の禍根の残るアメリカで、
日本人選手団が泊まれるホテルはなかった。
その時、和田は自宅を宿泊場所として提供し、
親身に選手たちの世話をした。

それが縁となり、のちに東京オリンピックの準備委員に就任。
南米の国々を訪問し、各国のオリンピック委員たちに
東京開催の協力を依頼してまわった。
その渡航費用などはすべて自費でまかなったという。

1964年10月10日。
東京オリンピックの開会式をロイヤルボックスから眺めていた和田は、
止めどなく涙を流しながらこう言った。


 日本はこれで一等国になったのや。
 戦争に敗れて四等国になったが、よう立ち直った。
 日本人は皆よう頑張った。



4.東京オリンピックを支えた人々「勝見勝」

オリンピックの競技種目や、
会場内の施設を案内するためのサインマークを
ピクトグラムという。

初めて採用されたのは1964年の東京大会。
美術評論家の勝見勝をディレクターに、
30人ほどのデザイナーが集まって制作された。

世界中からやってくる言葉の異なるお客さまに、
一目で情報がわかるように。

オリンピックのピクトグラムには
そんな日本人のもてなしの心が隠されている。



5.東京オリンピックを支えた人々「平沢和重」

1959年5月26日。
次期オリンピック開催地を決めるIOC総会が
ドイツのミュンヘンで開かれた。

開催地に名乗りを上げていたのは、
東京など4都市。

各都市が順にプレゼンテーションをおこなう中、
東京を代表してスピーチをおこなったのが、
当時テレビ局の解説委員を務めていた、平沢和重だった。

45分の持ち時間があったにもかかわらず、
平沢は15分でスピーチを終わらせた。

その簡潔な内容に、彼が話し終えると
会場から大きな拍手が湧き上がった。

東京の未来を決めたわずか15分のスピーチ。
その中で彼はこう訴えた。


 西欧の人々は、日本をファーイーストと呼びますが、
 ジェット機時代を迎えたいま、ファーではありません。
 国際間の人間同士のつながり、接触こそが
 平和の礎ではないでしょうか。



6.東京オリンピックを支えた人々「安川第五郎」

1964年10月10日に開催された東京オリンピックの開幕式。
前日までの東京は暴風雨が吹く荒れた空模様だった。

開幕式の中止さえ危ぶまれる中、
東京オリンピック組織委員会会長の安川第五郎は、
天に向かって、ひたすら晴れを祈り続けた。

その甲斐あってか、当日は抜けるような青空になった。
後年、安川は事あるごとにこんな言葉を人に贈ったという。

「至誠通天」。

心を持って祈れば天に通じる、という意味である。



7.東京オリンピックを支えた人々「坂井義則」

オリンピックの聖火を運ぶ最終ランナーは、
過去のメダリストなど、
著名なスポーツ選手が務めることが通例になっている。

しかし、1964年の東京オリンピックの最終ランナーは、
酒井義則という、早稲田大学競走部の学生だった。

輝かしい実績があるわけでもない学生が
最終ランナーに選ばれた理由。
それは彼が1945年8月6日に広島に生まれた若者だったから。

原爆投下直後に生を受けた聖火ランナー。
それは平和の祭典にふさわしい人選だった。



8.東京オリンピックを支えた人々「市川崑」

巨匠、市川崑が総監督を務めた
ドキュメンタリー映画『東京オリンピック』。

市川崑は監督を任命されると、
谷川俊太郎など3人の作家に協力を依頼し、脚本づくりを始めた。

そこで生まれたのが「人類の平和」というテーマだった。

完成した映画は、単なる記録映画を超えた芸術性の高い作品になり、
カンヌ映画祭の国際批評家賞も受賞した。

映画の最後はこんなメッセージで締めくくられる。


 聖火は太陽へ帰った。
 人類は4年ごとに夢を見る。
 この創られた平和を夢で終わらせていいのであろうか。

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渋谷のあらかぶ

「あらかぶ」ですが渋谷の飲み屋の名前です。
しかもノドグロはあったけどアラカブはなかったぞ。
飲み代は安かった。
おでんはうまくなかった。
でも午前4時までやっている。
少なくとも便利な店ではあった(玉子)

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三國菜恵 10年10月09日放送


ジョン・レノンと、バンジョー

バンジョーはアメリカ生まれの楽器。
ギターよりも弦の数が少なく
まるい形をしている。

それが、ジョン・レノンが初めておぼえた楽器だった。

手ほどきをしたのは、生みの母である、ジュリア。
訳あって離ればなれに暮らしていた二人だったが
コードを覚えたくて仕方なかったジョンは、
バンジョーが得意だった母のもとへ通った。

母と子の絆になったバンジョーがきっかけで
ジョンはミュージシャンへの道を歩きはじめるが
同時にそれは、ギタリスト ジョン・レノンに
ある癖を残すことになった。
その頃の演奏についてジョン自身が語る。

 6本めの弦の使いかたがわからないままギターを弾いていた

正しく弾けることが、人を魅了する音楽になるとは限らない。


ジョン・レノンと、主夫業。

ジョン・レノンは、
ロックスター最初の「主夫」でもあった。

1975年、35歳の時に
息子 ショーン・レノンが誕生。
彼は、音楽活動を休止して
育児にいそしむことを選んだ。

僕には、仕事と家庭は両立しないように思えた。
ヨーコとの関係や子どものことの方が
ずっと大事に思えたんだ。

息子の骨格の変化を気づかったり、
どんなテレビを見せようか悩んだり。
パンを焼いてヨーコの帰りを待つ日もあったという。

そんな「主夫」生活にも、ピリオドが。
きっかけは、5歳になった息子が
友だちの家から帰ってきた時に発した、こんなひと言だった。

パパって、ビートルズだったの?

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三島邦彦 10年10月09日放送


ジョン・レノンと、ユーモア。

ビートルズとその他のバンドを決定的に分けたもの。
それは、「ユーモアのセンス」だったのかもしれない。

ある時、インタビューを受けたジョン・レノン。

「フランス人はビートルズに関して
はっきりした意見を持っていないようですが、
 あなた方はどう思いますか?」

という質問に、こう答えた。

  ああ、僕らはビートルズが好きだよ。あいつら、かっこいいもの。

ものの見方を変えれば、状況は一変する。
ジョンはやがて、ユーモアの力を
世界の暴力に立ち向かう武器へと変えていった。


ジョン・レノンと、メディア。

ギターとベースとドラム。
シンプルな構成で、一時代を築いたビートルズ。
ジョン・レノンはビートルズの初期を振り返ってこう言った。

  私たちはアーティストと呼べるようなものではなくて、
単なるロックン・ローラーだったのです。

しかし、その音楽に人々は熱狂した。
ステージでの演奏は観客の叫び声でほとんど聞き取れなかった。

そこで、レコーディングを活動の中心にすえる。
楽器によるシンプルな演奏から、機械を駆使した実験的な音楽づくりへ。
それはビートルズが、ロックミュージシャンから、
アーティストへと変わることでもあった。

この対応能力に関しては、ジョン自身も誇りに思っていたようだ。
後に、こんな言葉を残している。

私たちは有能でした。どんなメディアのなかに置かれても、
なにか価値のあるものをつくり出すことができますから。

もし、まだ、ジョンがこの世にいたならば。
進化するインターネットの世界で
どんな驚きを見せてくれていただろう。

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中村直史 10年10月09日放送


ジョン・レノンと、オノ・ヨーコ。

ジョン・レノンとオノ・ヨーコの
行動はいつも具体的だった。

戦争に反対して、
ふたりでベッドにこもりつづけたときも。
人種差別の愚かさを示すため、
袋に入ったままインタビューを受けたときも。

奇をてらいたかった訳ではなく、
具体的に、世界を変えたかったのだと思う。

ジョンが亡くなってからというもの、
ほぼ毎年、オノさんは、
ジョンの誕生日に
木を植えて過ごしているという。

今日、10月9日、世界のどこかに木がふえる。
ふたりの具体的な行動が、
今年もまた、ほんのすこし世界を変える。

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三國菜恵 10年10月09日放送


ジョン・レノンと、俳句。

わび、さびを理解しようとしたジョン・レノン
仏教の修業もこころみたジョン・レノン
日本との結びつきはそれだけではなかった。

俳句は僕が今まで読んだ詩の形式のなかでいちばん美しいものだと思う。

自然、且つ簡潔な言葉で
自分も詞を書こうとしたジョン・レノン。
1969年に発表された「ラヴ」という曲には、
俳句の美意識が生きている。

愛とは感じること
感じることが愛

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三島邦彦 10年10月09日放送


ジョン・レノンと、厳しさ。

ジョン・レノンは、自分たちの音楽について厳しく語った。

ビートルズがいままでにつくったレコードすべてに不満でもあります。
つくり直したくないと思うレコードなんて、ひとつもないのです。

ジョン・レノンは、平和について厳しく語った。

暴力は暴力しか生みません。それは不変の法則です。
しかし国によって状況はまちまちだし、
ときには状況が暴力の行使を正当化することだってあるのだよ、
と言う人がいるかもしれません。妥協とは、そういうことをいうのです。
平和に妥協はない、と私ははっきり言っておきます。

ジョン・レノンは、自分に厳しく働き続けた。

働いている限り、自分が何者なのかなんてことは問題じゃない。
それがぼくの学んだことだ。

亡くなる数時間前のインタビューでジョンが言った言葉は
「死ぬまでこの仕事をつづけたい」だった。

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坂本仁 10年10月03日放送



①ジョゼ・モウリーニョ


 自分が世界一の監督だとは思わない。
 しかし、私以上の監督がいるとも思わない。

そう語るのは、サッカー監督・ジョゼ・モウリーニョ。
ポルトガル、イングランド、イタリアでリーグ戦を制し
チャンピオンズリーグの優勝も勝ち取っている。

モウリーニョには、他の監督が持たない能力がある。
6カ国語を話せるというコミュニケーション能力である。

自ら「私は三流の選手だった」と語る彼は、選手を引退後、
語学を勉強し、さまざまなクラブチームで通訳として働いた。
その過程で世界のスター選手たちとコミュニケーションする
語学力が育っていったのである。

三流選手であったことが、
モウリーニョを超一流の監督にしたのかもしれない。



②ロバートキャパ

20世紀を代表する戦場カメラマン、ロバート・キャパ。
数多くの戦争の第一線に飛び込み、
戦争の悲惨さを痛烈に訴えつづけた。

ロバート・キャパの有名な写真に「崩れ落ちる兵士」がある。
兵士が頭を撃たれて倒れる決定的瞬間を記録したその写真は、
インパクトがありすぎて、
やらせではないかと疑われたほどであった。


 戦争写真家のいちばんの望みは、失業することだ。

そう語るロバート・キャパは、
ベトナム戦争の取材中に地雷に触れて死亡した。
カメラを手にしたままだった。



③ディオゲネス

古代ギリシアのコリントスに高名な哲学者が住んでいた。
その哲学者は質素を好み、禁欲生活を送っていた。

ある日、その哲学者が家の前で横になってひなたぼっこをしていると、
当時絶大な権力を保持していたアレクサンドロス大王が
数名の供を連れてたずねてきた。
王もまた、その哲学者を尊敬するひとりだった。

王は哲学者の前で言った。


 余はマケドニア王アレクサンドロスである。
 ディオゲネスよ、望みを一つ言え。
 いくらかかっても構わぬ。

しばし考えた後、その哲学者は言った。


 そこに立たれると日陰になるからどいてくれ

その哲学者の名は、ディオゲネス。
彼は、人生にとって大事なのは物質的なものではなく、
心の豊かさだと考えていた。



④ブルーノ・ムナーリ

美術作家ブルーノ・ムナーリは語る。


 子どもの心を一生のあいだ自分の中に持ち続けるということは、
 知りたいという好奇心やわかる喜び、
 伝えたいという気持ちを持ち続けることだ。

彼の作品を知る人々はこの言葉に
あっ、そうかと納得する。

持ち運んだり箱に詰めたりできる彫刻。
質感の違う紙を使ってつくった、指先で感じる絵本など
ブルーノムナーリの作品は「鑑賞する」というより、
「遊ぶ」という言葉がピッタリなのである。



⑤カエサル

賽は投げられた。

重大な決定を下し物事が動きだしたという意味で引用されるこの言葉は、
誰しもが知っているユリウス・カエサルの言葉だ。

カエサルは他にも有名な引用句を残している。
「来た、見た、勝った。」
「ブルータス、おまえもか。」

あまりに有名なこの言葉とは逆に、
ほとんど知られていないこともある。
それは、カエサルが現在の本の原型を発明したことだ。

巻物からページをめくる冊子へ。
この発明のおかげで
我々は電車のなかでページをめくりながら
カエサルのガリア戦記を読むことができる。



⑥ウルリッヒ・インダービネン

一年中白銀の雪を冠するアルプスの女王マッターホルン。
4000m級の山々が連なるスイス・アルプスの女王と言われている。

そのマッターホルンには伝説のガイドがいた。
ウルリッヒ・インダービネン。
370回以上もマッターホルンに登り、
96歳まで現役のガイドでありつづけた。

ウルリッヒ・インダービネンは
アルプスの王と呼ばれていた。

垂直の壁を持つ女王も
王である人の前ではやさしくおとなしかったのだろうか。



⑦野依良治

分子とか、モルとか、エントロピーとか
そんな言葉を聞いただけで、
難しくて頭が痛くなってしまう人は多い。

けれど2001年にノーベル化学賞を受賞した
野依良治は次のように言う。


 有機化学は麻雀よりも面白い。

そう、
医薬品の製造などに絶大なインパクトを与えた
野依良治の業績の最初の一歩は
面白いと思うことからはじまったのである。

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