ぼくらはすこし死んでいる 1.レイモンド・チャンドラー
女から結婚を持ちかけられたが、
それを断ってしまった男。
その心境はどういうものか。
レイモンド・チャンドラーが書いた
小説『ロング・グッドバイ』の一場面。
私立探偵フィリップ・マーロウは、
女と別れた朝、
ベッドに残された1本の黒髪を見た。
その時、小説家は男にこんなセリフを吐かせる。
さよならを言うのは、
少しだけ死ぬことだ。
つらい別れにじっと耐え、
世界から切り取られたような男が
そこにいた。
Monosnaps
ぼくらはすこし死んでいる 2.ボブ・マーリー
ボブ・マーリー、
歌うことで国家を変えた男。
ジャマイカが混乱し、悲惨な時、
人々にこう訴えた。
おまえの口からついてでる言葉が、
おまえを生かすのだ。
おまえの口からついてでる言葉が、
おまえを殺すのだ。
レゲエの神様は教えてくれた。
自分の言葉が、自分に、世界に影響することを。
完全にポジティブになるまで
すこしのネガティブが、すこし殺していることを。
ほんとうに神様だったのかもしれない。
絶大な存在感で、世界を変えた。
ぼくらはすこし死んでいる 3.草野心平
草野心平は、蛙の詩人、である。
昭和3年の詩集『第百階級』は、
全篇、蛙がテーマ。
どうして蛙なのか。
心平によれば、
蛙は人類よりも古くから存在し、
総理大臣もいなくて全員庶民だから、となる。
『第百階級』には、ゲリゲという蛙が登場する。
蛇に呑み込まれたゲリゲが瀕死状態で叫ぶ。
それはこの世でもがく詩人、心平自身の分身。
ゲリゲは仲間に向かって
必死にこう伝えるのだ。
死んだら死んだで生きてゆくのだ。
肉体は滅びても、魂は生き残る。
心平は命の限り、晩年まで書き続けた。
その魂は、作品というかたちで、
死んだら死んだで生きてゆくのだ。
ぼくらはすこし死んでいる 4.高村光太郎
死ぬことに想いをめぐらし、
死に近づく。
すると、生きる言葉が浮かび上がる。
自分の最期にどんな言葉を刻むか。
高村光太郎の『ある墓碑銘』という詩は
こう始まる。
一生を棒に振りし男此処に眠る。
彼は無価値に生きたり。
光太郎の自嘲的なこの言葉は、逆説であるらしい。
話すこと。歩くこと。詩を書くこと。
そういう腹の足しにもならない無駄こそ
全身全霊、命がけでやる、という強い誇りが、
言葉にあふれている。
ぼくらはすこし死んでいる 5.小熊秀雄
女よ、
真実よ、
お前を先に突落して
逃げかへるやうな
私は薄情な男ではない
人生とは
その日、その日の、
情死の連続のやうなものさ
これは、戦前のプロレタリア詩人
小熊秀雄の詩の一節である。
人生とは、それぞれの状況で選択を迫られる。
それは自分を限定し、
他の可能性を死なせていくことでもある。
人生はそのくり返し。情死の連続。
と、詩人は記した。
この世に、情死しない男など
いないのだ。
ぼくらはすこし死んでいる 6.岡倉天心
明治時代の思想家、岡倉天心は
こう書いた。
堂々男子は死んでもよい。
死にもの狂いで新境地を開いていこうとする
渾身の男の言葉である。
現在の東京藝術大学の設立に奔走し、
日本美術院の創設者としても、
近代日本の美術界を築いてきた天心。
死を覚悟してはじめて、
人間の生命力は
ほとばしるのかもしれない。
tokushima2000
ぼくらはすこし死んでいる 7.松田優作
俳優松田優作が残した言葉がある。
人間は二度死ぬ。
肉体が滅びた時と、
みんなに忘れられた時だ。
その意味で、伝説になった彼は
二度死んでいない。
しかし、いま生きている自分の場合は
どう考えたらいいだろう。
まわりから忘れられた時が死ならば、
毎日死んだり、毎日生き返ったり、
ずいぶん忙しそうだ。
せめて自分で自分のことは
忘れずに気をつけていたいもの。
ぼくらはすこし死んでいる 8.ジェームズ・ディーン
もし、エレガンスな死に方があるとしたら、
どういうものだろう。
ある時、ジェームズ・ディーンは
こう言葉にしてしまった。
速く生き、若く死に、
美しい死体になろう。
この言葉がまるで予言となり、
死神がすこしずつ忍び寄ってきたのだとしたら。
24歳での衝撃的な自動車事故死。
その死は、はたして、美しかったのだろうか。
時が過ぎ、美しい伝説のように語ることは、
生き残った者の勝手なのかもしれない。
名雪祐平
名雪祐平 12年1月29日放送
名雪祐平 11年11月27日放送
肉体コンプレックス チャールズ・ブコウスキー1
父が失業した。
そして、息子への虐待が始まった。
息子の精神は追い詰められ、
全身が悪性のニキビに襲われた。
その酷さは整形手術を受けるほどだった。
写真など撮られたくもない。
人に近づきたくもない。
ぽつんと孤独な学生時代。
やがて大学を中退し、アメリカ放浪の旅に出た。
肉体労働で稼ぎ、酒びたりになりながら。
安いモーテルで、いつもいつも詩を書いた。
それが、いま世界中でカルト的人気を誇る作家
チャールズ・ブコウスキーの
若い日々だった。
肉体コンプレックス チャールズ・ブコウスキー2
若いときから、
女にまったくモテなかった。
肌はでこぼこ、醜く、孤独な作家
チャールズ・ブコウスキーの小説や詩は
労働者たちに愛された。
ロサンゼルスの郵便局を辞め、
やっと作家一本でやれるようになったのは
50歳のとき。
作品が売れ出したとたん、
いままで無視していた女たちが次々と寄ってきた。
それはまるで甘い砂糖水にたかる虫。
そんな女たちを、恨みでも晴らすかのように抱き、
インタビューでは
「一晩で6人の女と寝た」と笑った。
73歳で亡くなるまでパンクな人生を貫いた
ブコウスキーの墓には、こんな言葉が刻まれてる。
DON’T TRY.
やめておけ。
肉体コンプレックス 三島由紀夫1
肉体は、人生を左右する。
文豪・三島由紀夫の
子どものころのあだ名は、アオジロ。
青白い顔、貧弱な体のせいでイジメられた。
肉体にコンプレックスを抱えた三島は、
作家になってからボディビル、剣道、水泳に通い、
肉体改造にいそしんだ。
そして見事な、
筋肉隆々になった三島はこう書いている。
私はようやくこれを手に入れると、
新しい玩具を手に入れた子供のように、
みんなに見せ、みんなに誇り、
みんなの前で動かしてみたくてたまらなくなった。
私の肉体はいわば
私のマイ・カーだった。
1963年、そのマイ・カーを撮影した
前衛的なヌード写真集『薔薇刑』が発表された。
当代きっての人気作家が世の中に
センセーショナルな裸を突きつけたのだ。
この写真集は、三島の死後、
世界の代表的な写真集として
「20世紀101冊の名作」に選ばれている。
筋肉とは何だろう。
強いものこそ美しいという哲学か。
肉体コンプレックス 三島由紀夫2
三島由紀夫といえば、
数々の名作とともに、ボディビルの印象が強い。
幼いころから
か細かった体を大人になって鍛え上げ、
頑健な肉体に改造した。
作家なのに、なぜそんなに鍛えるのか。
三島はニヤリと答えた。
ぼくは切腹して死ぬからだよ。
本当に切腹するとき脂身が出ないよう、
腹筋だけにしようと思っているんだ。
この強烈なナルシストは用意周到に、
自決する日に向かって
自らの姿をイメージをしていたのだろう。
1970年11月25日、クーデターに失敗し、
三島は本当に腹筋を引き裂いた。
肉体コンプレックス カレン・カーペンター
神から授かった美声の持ち主
カレン・カーペンター。
兄リチャードとのポップ・デュオ、
カーペンターズのヴォーカリストとして、
世界中でメガヒットを飛ばし続けた。
すべてが順調のようにも見えた。
幼いころから兄を崇拝するがために、
自己評価が低いカレン。
すこしぽっちゃりした体型も
ステージ中央に立つことになってしまったことで、
コンプレックスになってしまったのか。
よくあるダイエットは、
狂気の拒食症へと変貌していった。
歌のツアーで非常に激しい仕事をしながら、
下剤を一晩に80錠以上も服用していたという。
身長163cmに対して、
体重はたった35kgに落ち込んだ。
享年32歳。
何がカレンをそうさせたのか。
いまは、美しい歌声が聞こえるだけ。
肉体コンプレックス ゲーテ
文豪、ゲーテ。
ワインを1日2~3リットル吞み、
肉料理や甘い菓子が大好きな大食漢だったという。
74歳のとき、心筋梗塞を患い、
死の危機に直面するが、復活した。
ゲーテは医者に聞いた。
自分の年齢で結婚は体に毒か?
実はこのとき、
ゲーテははるか年下の17歳の少女に
熱烈な恋をしていたのだった。
医者には止められなかった。
しかし、少女の母親からは猛反対され、
結婚は叶わなかった。
肉体コンプレックス 松田優作
1970年代、テレビに松田優作がいた。
人気抜群だったゆえに
固まってしまった自分のイメージに
苦しめられた。
自分自身を壊せ。
映画『野獣死すべし』では
奥歯を4本抜き、体重を10kg減量する。
185cm近い身長も高すぎる、と感じた。
骨を削って低くできないか、
足を5cm切ろうかと思ったという。
ものすごい役者魂。
足が短い人には、
考えもつかない話である。

肉体コンプレックス サミー・デービスJr.
美貌の女優マイ・ブリッドを妻に射止めた
歌手サミー・デービスJrが言った。
いまの自分に不満は一つもない。
すると、底意地悪いインタビュアーが聞いた。
あなたのつぶれた鼻や、
片方しかない目や、
醜さについても?
サミーはこたえた。
ぼくみたいな完璧に醜い男は、
かえって魅力的なのさ。
並みの男くらいなら醜いほうが目立ち、
そのうち魅力にも気づいてくれる、
という持論だった。
なるほど。
きっと、並みのインタビュアーが
足元にもおよばないくらい
モテたに違いない。
名雪祐平 11年10月30日放送
監督 溝口健二1
好きな映画監督を3人挙げるとすれば
だれですか?
質問されたフランスの
ヌーベル・ヴァーグの旗手、
ゴダールはこたえた。
ミゾグチ、ミゾグチ、ミゾグチ。
日本映画界の巨匠、溝口健二は
クロサワ、オヅとともに、
海外の映画作家たちに多大な影響をあたえた
世界的監督であった。
ゴダールは、来日した折、
京都満願寺にある溝口の墓を訪れ、
お参りしたという。
監督 溝口健二2
1952年、『西鶴一代女』でベネチア国際映画祭監督賞。
翌年は『雨月物語』で、翌々年も『山椒大夫』で
ベネチア国際映画祭銀獅子賞。
映画監督・溝口健二は、
3年連続受賞という快挙を手にした。
白黒の映像美は、抜きんでて素晴らしく、
カラーより美しいモノクロ映像がこの世にあると
評価された。
そのモノクロは、真っ赤な血のにじむような執念から
生まれたものだった。
完璧な撮影を徹底的に追求する、
それが溝口の真骨頂であった。
監督 溝口健二3
映画監督・溝口健二は、スタッフに対し、
小道具、セット、衣装のすべてに完璧を求めた。
「文句を言う、ゴテるばかり」だと
“ゴテ健”とあだ名が付くほど、非常にうるさい監督だった。
女優・田中絹代は、
やせ衰えた感じを出したいからと、なるべく食べないように
監督から命じられた。
痩せた姿で出番を撮り終え、
あとは別室でセリフを吹き込むだけ。
田中はこれでひと安心と、
内緒でお昼にステーキを食べた。
そして田中のせりふを聞いたとたん、
監督は首を振った。
肉を食べましたね。声につやがある。ダメです。
容赦ない完璧主義は、溝口自身にも向けられた。
撮影の空気が中断されるのを嫌い、
休憩になっても撮影セットから出なかった。
溲瓶をもちこんで、用を足した。
「監督の溲瓶」は
映画人の語り草になっている。
監督 落合博満1
2007年、
プロ野球日本シリーズ第5戦、
9回表にそれは起こった。
8回まで一人のランナーも許さず、
完全試合という大記録達成を目前にしていた
中日・山井投手を
落合監督はあっさり
おさえのエースに交代させてしまった。
結果、中日は日本ハムに勝ち、
じつに球団創設以来53年目で初の
日本一の栄冠を手にした。
でもなぜ、落合はあれができたのだろう。
タブーともいえるピッチャー交代が。
監督 落合博満2
2007年プロ野球日本シリーズ。
中日・落合監督が決断した
完全試合目前のピッチャー交代劇。
試合後も賛否両論を巻き起こした。
もし交代したピッチャーが打たれ、
試合に負けてしまったら、
大批判が監督に集中していただろう。
それでも落合は
けろりと、勝負に出た。
なぜ?
ノンフィクション作家・山際淳司は、
かつて落合をこう評したことがある。
どこへ行ったって一人前以上の仕事をしてみせるという
自信のあわられでもあるけれど、それだけじゃない。
彼は、いつか、どこかで一度、
自分を放り投げてしまったことがあるのではないか。
どうだっていいのさ、と。
だから、世間も自分も、野球をも、冷たく見つめている
もう一つの目が彼の中に棲んでいる。
監督 落合博満3
中日ドラゴンズ・落合監督。
そう呼べるのも、あと何日もない。
9月、首位ヤクルトとの決戦を前に、
落合監督は本社に呼ばれた。
乗り込んだ新幹線の始発は満席。
2時間立ったまま、名古屋に向かったという。
そして、解任を告げられた。
この件でチームが一丸となり、
逆転優勝の原動力となったのかもしれない。
でも、ある選手はこう言った。
普通にやれているのがいい。
監督解任が決まっても、優勝争いをしていても、
こんな平常心で野球ができることが、
落合が育ててきた強さかもしれない。
監督 杉山登志1
1971年、高度経済成長のまっただなか、
こんな詩のCMが大ヒットした。
気楽に行こうよ おれたちは
あせってみたって 同じこと
のんびり行こうよ おれたちは
なんとかなるぜ 世の中は
CMディレクターは、
天才と呼ばれた杉山登志。
発想も、技巧も、ズバ抜け、
現場では全部門の最終権限を握り、
部下を育てることができる
絶対的リーダーだった。
すべてが杉山を中心にまわっている。
時代さえも。
しかしこのCMからわずか2年後、
あまりにも衝撃的に終わりは来るのだった。
監督 杉山登志2
1973年、一人のCMディレクターが自殺した。
37歳という若さだった。
テレビ草創期から500本以上のCMを制作し、
国内外の賞も数多く受賞した
伝説のCMディレクター・杉山登志。
机の上に、原稿用紙の遺書があった。
リッチでないのに
リッチな世界などわかりません
ハッピーでないのに
ハッピーな世界などえがけません
「夢」がないのに
「夢」をうることなどは・・・・・・とても
嘘をついてもばれるものです。
これは38年前の過去の話だけれど、
いま、CMは何をうっているのだろう。
名雪祐平 11年9月25日放送
山と死 ジョージ・マロニー 1
なぜ、あなたはエベレストを目指すのか?
そこに山があるからだ。
この有名な言葉は、
1923年、ニューヨーク・タイム紙の記者の問いかけに、
イギリス人登山家ジョージ・マロニーが
こたえたものとされている。
そのわずか1年後、
彼はエベレストの頂上付近で消息を絶ち、
二度と帰らなかった。
果たして彼は、
頂上にたどりついたのかどうか。
登山史上最大のミステリーは、
いまも結論が出ていない。
山と死 ジョージ・マロニー 2
登山家ジョージ・マロニーが
残した言葉。
そこに山があるからだ。
この言葉には、
もうひとつ別の意味がひそんでいないだろうか。
そこに死があるからだ。
命を賭けるほどの魔力をもつ山が、
登山者を引き寄せていく。
エベレストで遭難した
ジョージ・マロニーの遺体が発見されたのは、
行方不明になってから実に75年後のことだった。
その姿は、まるで山肌に取り憑いたような
うつぶせの状態だったという。
山と死 エドモンド・ヒラリー
地球上に、3つの点がある。
北極点、南極点、
もうひとつは、標高の最高地点である
エベレスト山頂。
20世紀初頭、
北極点と南極点到達の競争に敗れた
イギリスは、国の威信を
エベレスト征服にかけようとした。
1921年に第一次エベレスト遠征隊を派遣してから、
いくつもの遭難事故や、戦争をはさみ、
とうとうその時が来るまで、32年間かかった。
1953年5月29日午前11時30分、
イギリス隊のエドモンド・ヒラリー、
そしてチベット人シェルパ、テンジン・ノルゲイが
人類初のエベレスト登頂に無事成功。
のちに、ヒラリーはこんな言葉を残している。
もし山に登っても、
下山中に命を落としたら何もならない。
登頂とは、登って
また生きて帰ってくることまでをふくむのだ。
山と死 加藤文太郎
大正・昭和期の革命的登山家、
加藤文太郎。
それまで非常識とされた単独行によって、
登攀記録を次々と打ち立て、
「不死身の加藤」として名をはせた。
しかし1936年、槍ヶ岳での猛吹雪によって
わずか30歳で、その命は燃え尽きた。
孤立することを常に不安を感じながら、
しかし、究極的にはいつも孤立することを選んだ、
と評された加藤。
その劇的な生涯は、
新田次郎著『孤高の人』のモデルとなり、
いまも読み継がれている。
山と死 トッド・スキナー
その登山家が書いたのは、
一流といえるビジネス書だった。
著者は、
26カ国で300本以上の初ルートを開拓した
伝説のフリークライマー、トッド・スキナー。
究極の山から得た教訓が並ぶ。たとえば。
怖くないのだとしたら、
選んだ山が楽すぎるのだろう。
山を低くするのは無理なのだから、
あなたは自分を高めなければならない。
あなたの経歴など山の知ったことではない。
著書『頂上の彼方』は、
アメリカのビジネスマンに根強い人気となった。
しかし、当の本人に悲劇は起こる。
クライミング中、
身体を確保するハーネスというベルトが
劣化のため破断し、
150m以上落下してしまったのだ。
神がかった業績を持つトッド・スキナーさえ、
滑落死するとは・・・。
彼が書いた教訓のひとつひとつが、
より強い意味を帯びてくる。
山と死 杉本光作
明治生まれの登山家で、
谷川岳の登山道を開拓した杉本光作。
当時は、軽量化された化学繊維や素材もなく、
登山の装備は、非常に重いものだった。
ある日、谷川岳に向かうとき、
杉本は仲間にこう言った。
梅干の種は抜いてきたか。
必要ないものは徹底的に削いで、削いで、
命がけで山に向かう覚悟。
装備が軽量化されたいまでも、
学ぶことが多い言葉ではないだろうか。
山と死 富山県警 山岳警備隊
3000m級の北アルプスを抱える
富山県警 山岳警備隊。
1965年結成。
延べ救助者数3000名。
殉職者数2名。
日本最高峰の救助隊のひとつである
彼らの言葉がある。
苦しくても、苦しくない。
人命救助という厳しい使命と、
崇高な精神性をもつ
この言葉が胸につきささる。
山と死 ラインホルト・メスナー
世界の8000m峰14座。
そのすべてを無酸素で完全制覇した
イタリアの登山家、ラインホルト・メスナー。
偉業のあとに書き上げた本のタイトルは、
『生きた、還った』
『登った』と、業績を誇るニュアンスではなかった。
目の前で弟が雪崩にのみこまれ、死なせた過酷な経験や、
崖を墜落した時の自らの臨死体験もあり、
メスナーはこう語っている。
人間は実は2つの違う次元を生きています。
私は「死」こそ生を充実させる最も重要な
要素だと考えています。
山、死、そして生きることに直面した男の
掛け値なしの言葉。
名雪祐平 11年8月28日放送
訃報 ニコライ・ペトロフ
8月3日
ロシア屈指の名ピアニスト
ニコライ・ペトロフが亡くなった。
まるまると太った体で、
鋼鉄のタッチと、万華鏡のような音色をくりだし、
ロシアが誇る精密大型重戦車と呼ばれた。
音楽においてミスタッチほど劣悪なものはない
と言い切る完璧主義者。
リストのパガニーニ練習曲の初版という、
最も難しいといわれる楽曲も、
人間業とは思えない技巧でノーミスに奏でた。
けれども、健康については
完璧主義者にはなれなかったようだ。
多くのファンが彼の太りすぎを心配していたのだが・・。
演奏旅行中に脳卒中で倒れ、
68歳で亡くなった。
訃報 ジョー山中
ジョー山中 8月7日 永眠
アメリカ兵の父親のことを知らずに育ち、
小学校時代には母を亡くし、
自宅まで火事で全焼した。
何もかもなくした。
でも、彼には、
3オクターブの美しい声があたえられた。
母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね
♪『人間の証明のテーマ』Mama~
1977年、彼は西条八十の詩『帽子』を英語に訳し、
歌ったこの『人間の証明のテーマ』は、
50万枚を超える大ヒットとなった。
彼が亡くなっても、
魂の叫びが伝わってくるような歌声は
時代に刻まれている。
訃報 松田直樹
あるサッカー選手が戦力外通告を受けた。
練習が休みの日にロッカーを整理するために、
独りクラブに来た。
それを手伝い、見送る男がいた。
当時横浜マリノスの不動のレギュラー、
松田直樹だった。
プロは厳しい世界だけれど、
プロだから優しくしたいとも思う。
そう繊細に語った。
日本代表で活躍し、ミスターマリノスとまでいわれた
その松田自身が戦力外通告を受けるとは
本人も思いもしなかったのかもしれない。
2011年、松田は松本山雅FCに移籍。
J1より、J2より下位組織のJFLのチームを選んだ。
長くマリノスの同志だった中村俊輔が訊いた。
チームをJ2に上げるのか、と。
松田は力強くこたえた。
バカ、J1だよ。
40歳を超えても現役でいたかった男の
34歳という早すぎる死。
松田が旅立った8月4日を
サポーターは決して忘れないだろう。
訃報 平光清
平光清は、
26歳でプロ野球の審判として採用され、
それから54歳まで続けた。
1992年の阪神対ヤクルト戦では、
幻のホームラン事件が起こった。
平光の微妙なホームランの判定が、
選手の抗議により二塁打に覆った事件だった。
もめにもめ、ゲームは37分中断した。
二塁打とされた阪神側の監督に、平光が言った。
俺がやめるから、どうにかおさえてくれ。
誤審の責任を取るかたちで、
このシーズン限りで審判を引退した。
しかし、通算3060試合に出場した功績は
失われるものではない。
平光清 8月9日 永眠
訃報 前田武彦
昔、テレビの司会といえば、
台本通りに読み上げる人だった。
そんな司会の常識をひっくり返したのが、
フリートークの天才、前田武彦。
台本を無視したトークは、
1960年代当時は斬新で大人気となった。
歌番組の司会では、
毒舌のせいで若い女性歌手を泣かせることもあった。
前田は予定調和でないやりとりによって、
遠い存在だったスターの人間性をあぶり出し、
視聴者の目の前に差し出したのだ。
ある日、前田は自らもさらけ出した。
番組のエンディングで、
支持する政党の立候補者の当選に対して
万歳をしたのだった。
それが問題となり、
番組を司会を降ろされた。
その後の数年間にわたって、
前田がテレビに出る機会はほぼなくなってしまった。
昔、テレビがおもしろくておもしろくて
たまらない時代があった。
そのまん真ん中にいた希代の司会者が、
8月5日永眠した。
それは、地上アナログ放送が終了して
まもなくのことだった。
訃報 日吉ミミ
恋人にふられたの
よくある 話じゃないか
どこか投げやりな詞で始まる歌が
1970年にヒットした。
歌ったのは、日吉ミミ。
独特の鼻にかかった声と
見た目のかわいらしさのギャップで
人気者になり、
その後もヒット曲がつづいた。
2009年、すい臓癌がみつかった。
私は強く生きるのよ
と、病床でもデビュー45周年に向けて、
活動再開を強く願っていたが
かなわなかった。
8月10日、夫や親族に見守られながら
息を引き取った。
訃報 正力亨
8月15日終戦の日、
実業家で、読売ジャイアンツの元オーナー
正力亨が亡くなった。
ジャイアンツを愛してやまない男だった。
バックネット裏から
「長嶋くん、次はバントだ」
と大声で指示を出すなど純粋すぎるほどだった。
一番のジャイアンツファンでもあったのだろう。
しかし純粋ではすまされない事件も起こした。
1978年、ドラフト前日の「空白の一日」を悪用した
江川事件では、世の中から厳しく批判された。
日米野球やアジア各国との交流など、
国際的な視野ももっていた。
まちがいなく、野球の黄金時代を気づいた
名物オーナーだった。
訃報 髙城淳一
8月18日、一人の名脇役が亡くなった。
俳優、高城淳一。享年86歳。
映画『戦争と人間』『華麗なる一族』『不毛地帯』
ドラマ『事件記者』『西部警察』などで活躍した。
腹に一物ありそうな、
知的でクールな悪役がよく似合った。
ジャン・ギャバンがひいきだったのも、
うなずける。
演技だけでなく、日本俳優連合の理事として、
失業保険や労災もなかった俳優の地位向上のために
積極的に貢献してきたという。
私のこれまでの役者人生、
これっぽっちも後悔してないさ。
晩年のインタビューで、
そうきっぱりこたえていた。
名雪祐平 11年7月31日放送
見る モンドリアン
世界は、最低いくつの色で
あらわせるだろうか。
オランダの抽象画の巨匠、
ピエト・モンドリアンは、
赤・青・黄のみで世界を見ることができた。
三原色と
垂直線と水平線を用いた
徹底的にストイックなスタイル。
あたりまえのように
はめられていた額縁からも、
絵を取り出し、解放した。
見えるこの世界に、
額縁など存在しないのだから。
見る ドガ
フランスの印象派の天才、
エドガー・ドガ
特にバレエの踊り子を
好んで描き、
なかでも『エトワール』は傑作とされる。
大胆な構図。
瞬間的な肉体の躍動感。
衣装の絶妙な表情。
奥にはパトロンの姿も描かれ、
シビアな現実も容赦なく表現している。
その絵は、
物の形の見方があり、
社会の形の見方がある、一枚の芸術。
見る アンディ・ウォーホル
ポップアートの鬼才、
アンディ・ウォーホルは、
機械になりたい。
と言った。
アトリエをファクトリーと呼び、
工場の流れ作業のように、
アート作品を大量に生産した。
難解な芸術ではなく、
選んだモチーフも、日常的なもの。
キャンベルスープの缶詰、
コカ・コーラ、
ドル紙幣、
有名人など、
ありふれたものたちが、逆に衝撃的だった。
これはいったい…何なのか。
とまどい、深読みしようとするインタビュアーに、
ウォーホルはこたえた。
表面だけを見てればいい。
それが僕だ。
裏には何もかくされていない。
つまり、
スープは、スープ。
見る マネ
フランス印象派の大スター、
エドゥアール・マネは語った。
不必要なものはすべて、
私に吐き気をおこさせる。
しかし、必要な存在だけを
見るのはむずかしい。
真実を見つけ出す、たった一つの方法は
他人の意見にまどわされずに
己の意志をつらぬくことだ。
なぜ、マネはその思いに至ったのか。
女性のヌードの描き方が不道徳だと
激しい反感を生んだ作品
『草上の昼食』『オリンピア』によって
社会に辟易した末の達観だったのかもしれない。
現在、その2作はまぎれもなく、
傑作と評価されている。
見る イサム・ノグチ
ただの石、
自然のままの石が、
すでにできあがった彫刻なのであると、
彫刻家イサム・ノグチは言う。
しかし、と彫刻家はつづける。
肝心なのは見る観点だ。
どんな物をも、一足の古い靴さえも
彫刻となるものは
その見方と置き方なのである。
それはおそらく、
マルセル・デュシャンが
男性用便器を横に置き、
『泉』と名付けたようなことなのだろう。
ふと、目の前のある物が
彫刻になるだろうかと
あれこれ思考をめぐらせてみるのも
おもしろい。
見方と置き方、
ミカタトオキカタ…
なかなかむずかしいけれども。
見る クレー
芸術の本質は
見えるものをそのまま
再現するのではなく
見えるようにすることにある。
スイスの画家、パウル・クレーの言葉である。
音楽一家に生まれ、
クレー自身も才能あふれるバイオリニストであったため、
たびたび色を音にたとえて、
色彩の理論研究をすすめていた。
たしかに、クレーの『魚たちのまじない』からは、
色の和音が幻想的に聴こえてきそう。
見えないものを見えるようにする、だけでなく、
聴こえるようにする。
クレーはそれができた
唯一の芸術家だったのかもしれない。
見る フランシス・ベーコン
アイルランド出身の孤高の画家、
フランシス・ベーコン
グロテスクな人物画を多く描いた。
歯をむきだし、絶叫する表情。
激しくゆがめられた肉体。
でも、彼は語る。
ぼくの絵は
いまの世界の恐怖にはかなわないよ。
見て学ぶことだ。
なすべきことは
ただひたすらに見ることだけなのだ。
世界で何が起こっているか。
ぼくはただその恐怖を
再現しようとしたんだ。
きっと彼は、
描かずにはいられなかった。
世界の叫びを
代弁するかのように。
見る サヴィニャック
フランスのポスター作家、
レイモン・サヴィニャックが
たいせつにしていたこと。
ポスターは、見られなくてはいけない。
通りを行く人に、ほんの一瞬のうちに、
伝えたいことがわかるかどうか。
そのためにサヴィニャックは
大胆に本質だけを表現した。
薄切りハムのポスターでは、
豚の胴体をそのまま輪切りにしたハムに。
ユーモアたっぷりに一目でわかる。
大絶賛された。
さて。
情報ぎゅう詰めの近ごろ、
気になるポスターはありましたか?
名雪祐平 11年6月26日放送
北原白秋 1
二歳の男の子が
腸チフスにかかり、高熱にうなされた。
忙しい母の代わりに、
乳母がつきっきりで必死に看病した。
男の子の命は助かったけれど、
乳母が腸チフスに感染し、
亡くなった。
自分から出た、凄まじい熱で、
代理の母親を焼き殺してしまった。
いつか、
本当の母親にもそうしてしまうのか…。
母殺しの恐怖とコンプレックスを抱えた男の子、
北原隆吉は、やがて、
北原白秋となる。
北原白秋 2
文学に熱中する息子を
父親はけっして許さなかった。
酒造りの商売を継がせるために、
商業高校に進学させなくてはならない。
文学書を読むことを一切禁じてしまった。
それでも息子は、
石垣のすきまや砂の中に
本をかくして読んだ。
けれども、限界はくる。
父親に無断で卒業間近の中学を退学し、
福岡の柳川の家を出たのだった。
行き先は、東京。
北原白秋、十九歳の旅立ちだった。
北原白秋 3
二十二歳の北原白秋が、
師事する与謝野鉄幹、晶子夫婦を訪ねた。
便所を借りたとき、
信じられないものを見た。
自分たち若手の没原稿が、
落とし紙として箱に積まれていたのだ。
人が心血をそそいた原稿で、
あの夫婦は尻をぬぐっていたのか!
白秋は激しく怒った。
鉄幹に対しては、
ほかの疑惑もふくらんでいた。
若手が身を削って表現した中心部分が、
いつのまにか鉄幹に流用されているのではないか。
もう、冒涜されるのはたくさんだ。
白秋ら7人の若手は
鉄幹が主宰する文学雑誌から
一気に脱退したのだった。
世の中の、
師匠と呼ばれるみなさまへ。
こんな
紙のリサイクルと、表現のリサイクルは
最低です。
つつしみましょう。
北原白秋 4
母の乳は枇杷より温く
柚子より甘し
という出だしから、
母はわが凡て
と結ぶ最終行まで。
北原白秋の詩『母』には、
母の愛を求める情熱が示される。
けれども、白秋には
トラウマがあった。
幼い日、自分の病気が伝染し、
愛する乳母を死なせてしまったトラウマ。
自分の情熱によって、
相手を破滅させてしまうのではないか。
白秋にとって、恋愛の相手もそうだった。
北原白秋 5
明治時代、東京・原宿に
松下俊子という人妻がいた。
その隣りに暮らしていた、
独身、北原白秋。
憧れの美しい人妻と、
新進気鋭のハンサムな詩人。
恋に堕ちないわけがない。
けれど俊子の夫から、姦通罪で告訴され、
逮捕されてしまう。
輝く文壇から、
暗い牢屋の中へ、まっさかさま。
あとで示談が成立し、
二人は正式に結婚することになるが、
事件後の白秋は半狂乱になり、死まで考えたという。
雨は降る降る 城ヶ島の礒に
白秋作詞の『城ヶ島の雨』は、
俊子との新生活を
三浦半島の三崎でおくっていたころのもの。
雨のなかで、
失意と希望が混じり合う。
白秋の心情が浮かぶ。
北原白秋 6
君と見て
一期の別れする時も
ダリアは紅し
ダリアは紅し
不倫スキャンダルの直後、
北原白秋は歌集『桐の花』で
再び評価をえる。
けれど、正式に結ばれた
松下俊子との結婚は長く続かなかった。
自分の情熱は
相手を破滅させてしまうものなのか。
いや自分のほうも
相手に疲れ果てていたのだった。
それは、相手にさめる
という破滅の1種。
もう、ダリアは紅くない。
北原白秋 7
二度失敗した北原白秋の
三度目の正直。
その相手が、
佐藤菊子だった。
童謡『ゆりかごのうた』は、
二人の間に生まれてくる
わが子を思って
作ったとされる。
数々の童謡の傑作をのこした白秋。
菊子夫人の温かい人柄や
2人のこどもに恵まれたことが
動機ともいわれている。
北原白秋 8
青より白。
春より秋。
北原青春より、北原白秋。
白秋とは、
青春の逆の方位、逆の境地を
意味するといわれる。
ものすごく早熟な中学生は、
青春まっただ中で、
自分のペンネームとして
白秋とつけたのだった。
そして晩年に、
青春前の
童謡をたくさん書いた白秋。
五十七歳という若さで亡くなったが、
最期の言葉は、
「ああ素晴らしい」






















