小林慎一

波多野三代 16年6月19日放送

160619-03
Kentaro Ohno
南極に行った猫 三毛猫のタケシ

第一次南極地域観測隊に同行したオスの三毛猫は、
隊長の永田武の名をとって、「タケシ」と命名された。

隊員達は隊長に腹が立つと「おいタケシ!」「こらタケシ!」と
隊長の名前を呼び捨てにしては
南極までの航海を楽しんだという。

「キオツケ!」と言うと食卓に前足を揃えて出し、
後ろ足でたって頭をまっすぐ前へ向ける芸は砂田隊員が仕込んだ。

食事の時は誰かの膝の上に乗っていることが多かった。
零下30°の気温でも外に出て遊ぶ頑健さと、
持ち前の人なつっこさを持ったこの猫は、

隊員達にはなくてはならない存在になって行った。

特別に作ったタケシ専用の小さな救命胴衣を着た写真が残っている。

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波多野三代 16年6月19日放送

160619-04

南極に行った猫 三毛猫のタケシ

今は南極への生き物の持ち込みは禁止となっているが
第一次南極地域観測隊には仕事をもった生き物が同行していた。
タロ、ジロをはじめとした樺太犬は
犬ぞりを引くために連れてゆかれた。

カナリヤもいた。
空気の異常にびんかんなカナリヤは、
締め切りになることの多い昭和基地の
空気のチェックという重要な役割があった。

物資が限られる南極観測に、
「縁起物」というだけで実用的な役に立たない
猫のタケシの同行が許された
その理由は
どんな小さな縁起でも担ぎたくなる程
南極は遠く危険な世界だったからだろう。

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波多野三代 16年6月19日放送

160619-05
Dial
南極に行った猫 三毛猫のタケシ

昭和基地にはこたつが無かった。
酷寒の世界で、佐久間隊員の部屋の大型通信機器は
かなりの熱を発していた。
そこに猫のタケシが目をつけたとしても不思議ではない。

ある日タケシは通信機のケースの中に潜り込んだ。
大きな音とともに毛皮の焼ける匂いがした。
高圧線に触れてしまったのだ。

昏睡状態が続き、
皆がもう駄目かと思っている中、
佐久間隊員の必死の看病で、一命を取り留めた。

自分の子供のような気がしたと、
佐久間隊員は新聞に語った。

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波多野三代 16年6月19日放送

160619-06
pingnews.com
南極に行った猫 三毛猫のタケシ

通信室の佐久間隊員は
南極物語の中では横峰新吉として描かれている。

彼は昔から動物に好かれやすかった。
昭和基地でタケシと顔を合わせた途端、
お互いが親しみを覚え
近寄ったという。

タケシは佐久間隊員を親だと思っていたらしい。

ある日気晴らしに歩いていた時
タケシは南極の氷の上を、
肉球を真っ赤に凍えさせ
2キロも3キロも付いて来た。

夜は寝袋に潜り込み、お腹の上で眠った。

佐久間隊員の南極の夜の思い出は
お腹の上のやわらかい重みとともにあった。

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波多野三代 16年6月19日放送

160619-07

南極に行った猫 三毛猫のタケシ

1957年12月。
昭和基地に居る第一次隊員と、第二次越冬隊を入れ替えるため
「宗谷」は南極に戻って来た。
しかし、悪天候のため昭和基地へ到着することが出来ず、

翌年2月11日、セスナ6便に分けて第一次隊員の脱出が行われた。
2月24日。本部より第二次越冬、本観測を放棄せよとの命が下り、
セスナの厳格な重量制限のため、
15頭の樺太犬が現地に残された。
断腸の思いでの決断だった。

重量制限は一人につき20キロまで。
佐久間隊員は迷わずタケシを抱き上げ乗り込んだという。

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波多野三代 16年6月19日放送

160619-08
hansworld
南極に行った猫 三毛猫のタケシ

日本に帰った南極観測隊の猫、
タケシは佐久間隊員の自宅で
穏やかな余生をすごす予定だった。
しかしふらりと姿を消し、2度と戻ってこなかった。

佐久間さんは、
たけしは「南極」を探しにいったのだ、と信じている。
自分が育った昭和基地に戻る為に、
家を出て行ってしまったのだと。

そして佐久間さんはこう語った。

「タケシの魂は南極に行ったはずですから、
 ぼくも命が終えるときにはタケシに会えますよ。
 そうしたら、氷の上を歩いていって、
 ずっと探して待っていたんだよって言って抱き上げてやりますよ。」

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小林慎一 16年5月15日放送

160515-01

フェルマーの最終定理 300年間解けない問題

17世紀から20世紀にかけて。
あらゆる科学の分野は、飛躍的に発展した。
17世紀、
人の体質は4つの体液の配分で決まるという体液説が主流だった。
20世紀には遺伝子組み換えが可能になった。
ガリレオが月を望遠鏡ではじめて観測し、天体であることが分かり、
その300年後、人類は月に降り立った。

しかし、数学では、人類の知識の進歩に
300年間耐えてきた問題がある。

フェルマーの最終定理。

Xn+Yn=Zn

nが2以上の場合、nは整数の解を持たない。

この問題の起源は、ピタゴラスの時代にまで遡る。

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小林慎一 16年5月15日放送

160515-02

フェルマーの最終定理 ピタゴラスというはじまり

紀元前6世紀を生きたピタゴラスは
古代バビロニアとエジプトを20年間にわたり旅をし
当時の世界に存在した数学の規則をすべてを身につけた。

その後、ピタゴラス教団を設立し
600人の弟子とともに数論の研究を行った。

彼らは、数と数の関係を理解することが
宇宙を理解することにつながると信じていた。

例えば、約数の和とその自身の数が同じになる
完全数というものがある。

神が天地を6日間で創造したのは6が完全数だからであり、
月が28日で地球を周回するのは28が完全数だからとされた。

また、複数のハンマーの重さが整数の比である時、
調和した和音が生まれることを発見した。

ピタゴラスは、自然現象の背後に
数学的規則があることをはじめて明らかにした。

なかでも有名なのは直角三角形の斜辺の2乗は、
他の2辺の2乗の和に等しいことを示した式。

X2+Y2=Z2
だろう。

いわゆる、ピタゴラスの定理だ。

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小林慎一 16年5月15日放送

160515-03

フェルマーの最終定理 天才のアマチュア

ピエール・ド・フェルマーは1601年にフランスで生まれた。
彼は裁判所の仕事に忙殺されていたが
わずかな暇を見つけては数学の研究に没頭した。

数学者のどの団体にも属さず
自分が解いた証明を解いてみろと様々な数学者に手紙を送った。
そして、フェルマーは自分が解いた答えを誰にも明かさなかった。

フェルマーと定期的に親交があったのは
数学の最新の発見を伝えてくれたメルセンヌ神父と
確率論を一緒につくりあげたパスカルだけであった。

フェルマーは一冊の本も、論文も発表していない。
彼の長男であるクレマン・サミュエルが、
父の手紙やメモや「算術」という
数学書の余白にかかれた走り書きをまとめた。
それによりフェルマーの驚くべき数学的発見が明らかになる。

ニュートンに影響を与えた微積分法、
保険会社の基礎となった確率論。
新しい友愛数の発見。素数定理などなど。

フェルマーの発見した定理は
ひとつづつ検証され証明されていった。
しかし、ひとつだけガンとして証明を拒んだ定理があった。

Xn+Yn=Zn nが2以上の場合、nは整数の解を持たない。

フェルマーのメモにはこう書かれてあった。
私はこの命題の真に驚くべき証明を持っているが
余白が狭すぎてここには記せない。

フェルマーの最終定理。
人類300年の挑戦がはじまった。

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小林慎一 16年5月15日放送

160515-04

フェルマーの最終定理 200年間の攻防

フェルマーの最終定理において
フェルマーは、大きなヒントを残していた。
n=4の場合には解がないことを証明していた。

アルゴリズムを開発した18世紀最高の数学者オイラーは、
n=3の場合を証明した。

100年間で証明されたのはたったのひとつの数の場合だった。

19世紀に入り、ソフィー・ジェルマンがおおきな成果を上げる。
彼女は女性であるがゆえに大学で研究ができなかったが、
彼女の開発した方法を元に
n=5の場合とn=7の場合が証明された。

n=7の場合を証明したラメは、
その数年後に完全な証明を発表するが
クンマーにより重大な欠点を指摘されてしまう。

その指摘は、当時の数学テックニックでは
フェルマーの最終定理を証明できないことを
示すものだった。

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