2011 年 1 月 のアーカイブ

五島のはなし(122)

間があいちゃいました。
考え事してました(ながい)。

今年の正月は寒かった、と日本中で
言われてることでしょうが、五島もでした。

帰省した日、2℃ですよ。

さらに雪は降り積もり・・・

作り慣れてない感じがでてる。

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厚焼玉子 11年01月02日放送


詩家の晴景

 詩家晴景在新春(しかのせいけいは 新春にあり)

詩人が愛でるべき晴れやかな景色は新春である、と
うたったのは中国の詩人、楊巨源(ようきょげん)。

花の頃になると人でいっぱいになってしまうから
わずかな春のきざしを愛でようという意味だ。

なるほど、言われてみると
葉を落とした木々はもう新しい芽をつけている。
はこべの緑も鮮やかだ。

春はもうそこにある。


年賀はがき

年賀葉書というアイデアを思いついたのは
大阪で洋品雑貨の店を経営していた林 正治(まさじ)さんだった。

戦争以来の苦しい生活のなかで
手紙のやりとりも途絶えてしまった人たちがいる。
もし年賀状が復活すれば
お互いの消息を知らせることができるのではないだろうか。

このアイデアは郵政省に持ち込まれ、実現した。

昭和24年の12月には「お年玉くじつき年賀葉書」が売り出され
日本の年賀葉書の第一号になる。

ちなみにそのときのお年玉賞品は
特等がミシン、1等が純毛洋服地だった。

いまはすっかり定着した年賀状、
俳句や短歌の自信作を挨拶代わりに書く人も多い。


大伴家持

万葉集を編纂した大伴家持は
そのいちばん最後をみずからの新春の歌で締めくくっている。

 あたらしき 年のはじめの初春の 今日降る雪のいや重(し)け吉事(よごと)

大伴家持は少年時代に父を失っている。
そのせいだろうか、
若いときは出世の糸口をつかみかけては
地方に飛ばされることが多かった。
富山に鳥取、九州…それから関東にも下った。

それが幸いだったのだ、という意見がある。
万葉集におさめられた多彩な地方の歌は
家持の左遷がなければ
きっと集まっていなかったのだから。

 あたらしき 年のはじめの初春の 今日降る雪のいや重け吉事

新年に降り積もる雪のように
良いことがかさなりますように。

そんな願いを込めて詠まれた歌の通り
晩年の家持は順調に昇進していった。

あたらしい年に良いことがかさなりますように。

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蛭田瑞穂 11年01月02日放送


新年の歌④「お正月」

明治の作曲家、滝廉太郎。

15歳で現在の東京芸術大学に入学すると、
4年後に首席で卒業。

「荒城の月」「箱根八里」など
23歳で亡くなるまでに
数々の名曲をつくった夭逝の天才作曲家。

お正月が待ち遠しい子どもの心を表現した
童謡の「お正月」も彼の手によるもの。


新年の歌⑤「美しく青きドナウ」

1866年にプロイセン王国とオーストリア帝国の間で起こった
「普墺戦争」はプロイセン王国の勝利で終結した。

敗戦したオーストリアの国民は悲しみに沈んだ。

そんな国民を励まそうと、
ウィーン男声合唱協会の指揮者ヨハン・ヘルベックは
ヨハン・シュトラウス2世に合唱曲を依頼する。

それまで合唱曲を書いたことがなかったシュトラウスは
一度はその依頼を断るが、ヘルベックの熱意に押され曲を書き上げる。

そして生まれたのがワルツ『美しく青きドナウ』。

最初は男声合唱曲だったが、
のちにシュトラウスが管弦楽曲に書きなおすと人気を博し、
「シュトラウスの最高傑作」とまで賞讃されるようになった。

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が新年に開催する
ニューイヤーコンサートではこの『美しく青きドナウ』が
アンコール曲として演奏される。

アンコールでは、曲の序奏部を演奏したあと、
拍手によって曲をいったん打ち切り、
指揮者や団員の新年の挨拶が行われることが恒例となっている。


新年の音楽⑥「クレメンス・クラウス」 

ウィーンのお正月の風物詩といえば、
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が開催する
ニューイヤーコンサート。

1939年に始まったこのコンサートの初代指揮者が
クレメンス・クラウス。

1893年、ウィーンに生まれたクラウスは
その貴族的な容姿と優雅な演奏スタイルで人気を博し、
世界的な指揮者へと登り詰めた。

1954年に亡くなるまで、
ニューイヤーコンサートの指揮者を7度も務めた
クレメンス・クラウス。

その生涯に渡る業績が讃えられ、
現在では「最後のウィーンの巨匠」と呼ばれている。


新年の歌⑦「オールド・ラング・サイン」 

『蛍の光』はスコットランドに古くから伝わる民謡。
原題は『オールド・ラング・サイン』という。

作者は不明だが、歌詞を現代に伝わる形に変えたのが、
18世紀のスコットランドの詩人ロバート・バーンズ。

旧友と再会し、思い出話を語りながら酒を酌み交わす。
その歓びが歌詞に綴られている。

その詞の内容もあり、スコットランドで
『オールド・ラング・サイン』は新年を祝う歌としてうたわれる。


新年の歌⑧「春の海」

琴演奏家、宮城道雄が作曲した『春の海』。
1930年の歌会始の勅題「海辺の巌」にちなんで作曲された。

8歳で失明した宮城道雄はこの曲を
幼い頃祖父母と暮らしていた瀬戸内の風景を
思い浮かべてつくったという。

この曲を有名にしたのが、
フランス人のヴァイオリニスト、ルネ・シュメー。

この曲の旋律に魅せられた彼は
尺八のパートをヴァイオリンに変え、
宮城道雄とアンサンブルした。

その演奏を収録したレコードは日本だけでなく、
アメリカ、フランスでも発売された。

宮城道雄の脳裏に焼きついた瀬戸内の美しい春は、
海を越えて、人々の耳に届けられることになった。

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佐藤延夫 11年01月01日放送


ある正月/芥川龍之介

酒が嫌いで、風呂も嫌い。
生ものは一切食べず、
ハマグリなどの貝類も受け付けない。

芥川龍之介は、作家であると同時に、偏食家でもあった。
唯一、好んで食べたのは、
鰤の照り焼きだったそうだ。

そんな芥川家のお正月。
小松菜、大根、里芋、くわい、タケノコ、鳥肉を並べ、
お雑煮は、切り餅を焼かずに、お湯で煮る。
驚くほど質素だが、
大晦日の晩には、昆布と小梅を入れたお茶を、福茶と呼んでたしなんだ。

新しい年に、福が来るように。

誰もが思う小さな願いは、この偏屈そうな男の心にも、ちゃんとある。


ある正月/高浜虚子

俳人、高浜虚子は長生きだった。

三十歳まで命があればいい、と思っていたそうだが、
実際は八十五歳で生きたし、そのあいだも俳句を詠み続けた。
晩年になっても正月を迎えるたびに、自分の気持ちを言葉にした。

  揺らげる歯 そのまま大事 雑煮食ふ

  酒もすき 餅もすきなり 今朝の春

  斯くの如く 只ありて食ふ 雑煮かな

最後の句は、八十三歳の作。
高浜虚子先生、どうやらお雑煮がお好きだったようで。


ある正月/折口信夫

源氏物語の一節。
「いとかたかるべき世にこそあらめ」
この言葉を、
「なるほど世間はむずかしい」

そう訳したのは、民族学者の折口信夫だ。
古典の口語訳を喜んで引き受けたのは、
同居する弟子たちの食事代を捻出するためだったという。

正月になるとさらに多くの弟子が集まるので
築地市場や百貨店をまわり
おでんの具に高級ハム、合鴨などを買い漁った。

弟子のひとりは、のちにこう語っている。

  食べ物にかけては掏摸のように敏捷で貪欲な先生だった。

なるほど、世間は難しい。


ある正月/南方熊楠

生物学者、南方熊楠。
この人は、学者というよりも
野生児と呼んだほうが、しっくりくる。

普段は服など着ずに裸で暮らし、酒は浴びるように飲む。
ビールなら1ダース。
日本酒は茶碗でがぶがぶと飲んだ。

武勇伝も多い。
アメリカでは、得意の柔道で不良たちを投げ飛ばし、
イギリスの大英博物館に勤めていたころには
侮辱した白人を殴り倒し、入館禁止になった。

その反面、驚くべき記憶力を持つ。
読み漁った本の内容を鮮明に覚えており、
家に帰ってから完璧に写し書いた。
語学力も堪能で、十数カ国語を話したという。

そんな熊楠のお正月。
おせち料理とお雑煮を好んで食べたが、
「おめでとう」という言葉は禁じていた。

  命が縮まるのに、なにがめでたいか。

なにからなにまで破天荒なこの男。
のちに民族学者の柳田國男が、
熊楠を「日本人の可能性の極限」と喩えたのも、よくわかる。


ある正月/柳田國男

食事を味わうよりも、
この人は、食事を調べるほうが好きなのではないか。

民族学者、柳田國男の本をめくると、
ついそう思えてくる。
彼自身も美食を嫌い、質素な食事を好んだ。

正月にまつわる食べ物の記述は多いが、
美味しそうな話はなかなか見つからない。
たとえば鏡餅については、このように記している。

  鏡餅の“カガミ”とは、各人に平等に向けられる鏡で、
  ここに食物分配の本来の意義があるとする。

なるほど。
お正月から、背筋がぴんと伸びました。


ある正月/小泉八雲

  日本人は立派な文明を持っていながら、
  好んで野蛮人の真似をしたがる。

明治時代、欧米の文化に心酔する日本国民を
そう言って批判したのは、小泉八雲だ。

日本人よりも日本人らしいこの男は、
お正月のしめ飾りを気に入り、
一月の末までそのまま飾り続けていたそうだ。


ある正月/幸徳秋水

明治時代の思想家、幸徳秋水。

日露戦争に異を唱え、鋭い論調で政府を批判したが
彼そのものは呑気な性格であり、
私生活では酒と女。放蕩に身を任せていた。

昼酒をあおり大切な帽子をなくす。
給料を前借りして飲みまわる。
そんなことを繰り返すと、
年の暮れには一銭も残らない。

家計にまわす金はなく、
母や妻に対し、不孝の子にして不仁の夫なりき、と自らを戒めている。

幸徳秋水の、ある元旦。
大逆事件の首謀者として疑われ、
獄中で最後の正月を迎えた。
友人への手紙には、こうつづられている。

  弁当箱を取り上げると、急に胸が迫ってきて数滴の涙が粥の上に落ちた。
  僕は始終、粥ばかり食ってる。

この数日後、死刑を宣告された。
今年は、それからちょうど100年。
のどかな正月を送れるのは、本当に幸せなことだと思う。
心配事は、いろいろあるけれど。

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2011年もよろしくお願いいたします

脱兎の如く・兎に角・兎死すれば狐これを悲しむ・兎に祭文(効果がない)
兎の登り坂(順調)・兎の糞(長続きしないこと)・兎兵法(実用性がない)
兎の股引(持続しない)・始めは処女の如く後は脱兎の如し
二兎を追うものは一兎をも得ず

ウサギ年もチームVisionをよろしくお願いいたします。

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