2013 年 4 月 7 日 のアーカイブ

大友美有紀 13年4月7日放送


よっちん
「自由律俳句・尾崎放哉」一人

 咳をしても一人

寂しい句である。けれど、あっけらかんとしている。
作者は尾崎放哉。自由律俳句を極めた表現者。
東京帝国大学卒業、生命保険会社勤務。
エリートサラリーマンだった。
束縛された人生を嫌い会社を辞め、妻と別れ、
自由を求め、寺男となり、一人きりであることを望んだ。

 たった一人になり切って夕空

4月7日は放哉忌。

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大友美有紀 13年4月7日放送



「自由律俳句・尾崎放哉」帽子

自由律俳句の尾崎放哉。
帽子が嫌いで嫌いでしかたなかった。
学生時代は、いつも着物の懐に押し込んでいた。
厳格な父のもとに育った彼は、
帽子を、頭を押さえつける不自由なもの、
と感じていた。

 冬帽かぶってだまりこくって居る

そのうえに或る、空を望む気持ちがあった。

 大空の ました帽子かぶらず

帽子に象徴される、束縛があって、
そこから逃れようとする表現が生まれてくる。

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大友美有紀 13年4月7日放送



「自由律俳句・尾崎放哉」即物的

 入れものがない両手で受ける

放哉の句は、即物的で客観的だ。
ひとりよがりや自己陶酔を嫌い、
感情や抽象的な表現を削り落とした。

理屈も嫌い、ぐずぐずしたことも嫌い。
自分がいかに大胆で、きっぱりした性格かを
友人、知人に表明している。

 あらしがすっかり青空にしてしまった

 すたすた行く旅人らしく晩の店をしまう

削ぎ落としたからこそ、
「すっかり」「すたすた」に放哉の感情が表れる。

ツイッターやフェイスブックでのコミュニケーションに
慣れ始めた私たちも、簡潔にして、なお、心を伝える、
放哉の表現に学ぶところがあるだろう。

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大友美有紀 13年4月7日放送



「自由律俳句・尾崎放哉」母

尾崎放哉は、鳥取の士族の出の家に
生まれた。
裁判官書記の父は、非常に厳格。
それを支える母は、慈愛に満ちていた。
待望の跡継ぎとして、甘やかされ、
大切に育てられた。

 漬物桶に塩ふれと母は産んだか

孤独を求める放哉の、甘えん坊が見えている。

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大友美有紀 13年4月7日放送


きんちゃん
「自由律俳句・尾崎放哉」山と海

 分け入っても分け入っても青い山

種田山頭火、尾崎放哉と並び称される自由律俳句の詩人。
山頭火の山好きに対して、放哉は海が好きだった。

 何か求むる心海へ放つ

海は慈母のように自分をあたたかく包んでくれる。
海を見ていると心が休まると言う。

山頭火が自らを追い込むように放浪に出たのに対し、
放哉は束縛から逃れ、自由と孤独と安住の地を求め彷徨った。
晩年、彼が移り住んだ庵は、全て海のそばだった。

 障子あけて置く海も暮れ来る

放哉は、山頭火より3歳年下であったが、
14年も早く亡くなっている。
放哉へのオマージュともいえる、
山頭火の句がある。

 鴉(からす)啼いてわたしも一人

孤独の魂は、孤独を惹き付ける。

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大友美有紀 13年4月7日放送


Molly Des Jardin
「自由律俳句・尾崎放哉」窓

海が好きだった尾崎放哉は、
心を解き放ってくれるものとして、
窓も好んだ。

 窓あけた笑い顔だ

晩年の作。
子どもを詠んだとも、
笑い合う気持ちを詠んだとも
解釈されている。
この句のリズム、その開放感を
楽しむだけでいいのかもしれない。

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大友美有紀 13年4月7日放送



「自由律俳句・尾崎放哉」恋

世俗を捨て、妻とも別れ、
孤独の淵に身を沈めていった尾崎放哉。
けれど、女性らしさ、女性の美しさから
目をそらすことはできなかった。

 わかれを云いて幌おろす白いゆびさき

凝縮した言葉、その奥にある物語、切なさ。

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大友美有紀 13年4月7日放送



「自由律俳句・尾崎放哉」ユーモア

厭世的で自由と孤独を渇望した尾崎放哉。
乾いた寂しさの中に、くすりと笑えるような句もある。

 銅像に悪口ついて行ってしまった
 
 底が抜けた杓で水を飲もうとした

 ねそべって書いて居る手紙を鶏に覗かれる

放哉は肺を病み
大正15年4月7日小豆島にて、没する。
望んでいた一人っきりの時間を手に入れて、
海のそばで句作に明け暮れた晩年、
放哉は幸福だったのかもしれない。

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