2016 年 12 月 4 日 のアーカイブ

大友美有紀 16年12月4日放送

161204-01
sabamiso
天才意匠家 小村雪岱 『デビュー作』

小村雪岱(こむらせったい)をご存知だろうか。
明治20年、埼玉県川越市生まれ。
東京美術学校で日本画を学び、
泉鏡花「日本橋」の装幀を手がける。

 この小説は起稿されましてから
 お書き上げになりますまでに
 1年近くおかかりであった様に
 記憶しております。
 装幀は先生のお言葉で私がいたしました。

 
本の装幀は、これが初めて。
しかし大胆かつ繊細。息を呑むほどの美しさ。
これ以降、鏡花本の装幀のほとんどを雪岱が引き受けた。

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大友美有紀 16年12月4日放送

161204-02

天才意匠家 小村雪岱 『泉鏡花』

小村雪岱という人物を伝えるのは難しい。
「装幀家」「挿絵画家」「舞台美術家」「日本画家」。
大正、昭和にかけて活躍した。
東京美術学校時代に泉鏡花の小説を知り、夢中で読んだ。
その後、縁あって泉鏡花本人と知り合う。

 しばらくの間、誠に丁寧なお言葉で様々のお話が
 ございましたが、有頂天の私は何も覚えておりません。

 
この時、鏡花から「遊びにおいで」と言われた雪岱は、
嬉しさのあまり生来の引っ込み思案も忘れ、
木彫りの地蔵菩薩を持って泉宅を訪れる。
そして雪岱の装幀家としてのキャリアが始まったのだ。
大胆にして繊細な作風を思わせる行動だった。

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大友美有紀 16年12月4日放送

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天才意匠家 小村雪岱 『女性像』

「装幀家」「挿絵画家」「舞台美術家」「日本画家」として
大正、昭和にかけて活躍した、小村雪岱。
その作風は、大胆にして繊細。極限まで要素を削り、
必要最小限の線描と着色を行う。
雪岱の描く女性は、無機質でセクシャルな雰囲気がほとんどない。
幼少期に母親と生き別れた経験のせいかもしれない。

 たとえていえば私は幼いころ見たある時ある場合の
 母の顔が瞼の裏に残って忘れられません。
 口では言い現せない憧れに似た懐かしさを感じて
 懐かしさを感じてこれが私の好きな女の顔の一つなのです。

 
雪岱は仏像や人形を手本にして絵を描く。
自分の書く人物には個性がないという。
それは能面の持つ力に似たものをこいねがっているからだ。
能面は唯一の表情だが、演技によって
泣いているようにも笑っているようにも見える。

 個性のない表情のなかにかすかな情感を現したいのです。

晩年になってもその念願を達成したことはないという。

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大友美有紀 16年12月4日放送

161204-04

天才意匠家 小村雪岱 『資生堂』

鏡花本の装幀で一躍有名になった小村雪岱は、
大正7年、資生堂意匠部に招聘される。
従来の仕事を自由に続けてよいという破格の条件だった。
海外の名士への贈呈品となる、香水「菊」をデザインする。
同時に里美弴(さとみとん)の新聞小説「多情仏心」の挿絵も手がけ始める。
多忙のようだが実際はのんびりしたものだった。

 当時暇が多かった資生堂に10時に出勤して
 一枚挿絵を描いては帰りに届けた。

 
大正12年、資生堂ロゴの制作を開始。
しかし、関東大震災で作業中の資料はすべて焼けてしまう。
資生堂書体は昭和2年に完成するが、
雪岱がどう関わったかは不明のままである。

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大友美有紀 16年12月4日放送

161204-05

天才意匠家 小村雪岱 『挿絵画家』

鏡花本の装幀、資生堂の意匠部とキャリアを積んできた小村雪岱を、
さらに有名にしたのは新聞小説の挿絵だった。
邦枝完二作「おせん」。
江戸三美人と呼ばれた谷中の「笠森お仙」を
モデルにした悲恋物語だ。
画面に大きな余白を取る構成、
線の数を絞りキリリとした硬質な直線を引く。
新聞紙面全体の煩雑さの中に置かれる挿絵が、
如何に独自の空間を確保できるか考えぬいたかのようだ。

 挿絵の仕事はいわゆる「白と黒」だけの世界であるから
 彩色画とは違った何か特殊なものがあるのではいかという
 質問をしばしば受けるが、私はそれについて
 特別の苦心をした覚えはない。

雪岱は至って淡々としている。
静謐だが内に秘めた激しい情念を感じさせる。
彼の描く挿絵そのもののように。

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大友美有紀 16年12月4日放送

161204-06

天才意匠家 小村雪岱 『舞台美術』

鏡花本の装幀、香水瓶のデザイン、新聞小説の挿絵、
幅広いジャンルで活躍した小村雪岱は、歌舞伎の舞台装置も手がけていた。
昭和6年初演の「一本刀土俵入」は、今でも雪岱の舞台装置原画を踏襲している。
考証にこだわる雪岱は、茨城県取出周辺まで現地取材に出かけたという。

 大勢でやる仕事だけに色々な無理も出ますし、
 相当難しいものです。

そう語った雪岱だか、他にも「娘道成寺」や「藤娘」など
雪岱の残した原画を再現した舞台は数多い。
雪岱本人の新作は見ることができないが、
その美へのこだわりを鑑賞することはできる。

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大友美有紀 16年12月4日放送

161204-07

天才意匠家 小村雪岱 『着物デザイン』

装幀家、意匠家、挿絵画家、舞台美術家、小村雪岱は、
歌舞伎役者のために舞台衣装図案を考えたり、
芸妓のために絵柄を描き入れた帯を作ったりしていた。
雪岱デザインの着物は、一般向けにも販売されていた。
展示販売会に際して発行された小冊子に雪岱が寄稿している。

 能い物は昔の物だけではなく現在出来ます物の中にも
 傑作はあると思ひます。
 今日出来ます物の中にも、百年の後には
 昭和美人の梯(かけはし)を見る様な衣裳も
 少しは必ず残っていることゝ思つてをります。

この随筆が掲載されたのは昭和12年。
まだ百年は立っていないけれど、良いものは残っているだろうか。

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大友美有紀 16年12月4日放送

161204-08

天才意匠家 小村雪岱 『忘れられた存在』

昭和14年、泉鏡花が亡くなった。
小村雪岱もあとを追うように翌年この世を去る。
そしてすぐに太平洋戦争が始まり、雪岱は忘れられてしまう。
資料や原画を継ぐ、子孫もいなかった。
鏡花本の装幀、新聞小説の挿絵、舞台美術、着物デザイン、
日本画も描いた小村雪岱。
今ならスーパマルチアーティストといったところか。
 
 それでもどうしてもまだ小村君とは、
 本当に別れた感じがしないのである。

 
木村荘八の言葉。雪岱が倒れたあと、仕事を引き継いだ画家である。
雪岱の影響はそこここにある。
ぜひ一度、調べて、出会って、虜になってほしい。

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