小山佳奈 09年10月10日放送
司馬さんとみどりさん 「原稿用紙」
作家、司馬遼太郎と、妻みどりさん。
二人は職場恋愛だった。
同じ新聞社の同じ部で
向かい合わせに座る二人。
かぎつけるのが仕事の記者たちの中で
ひそひそと恋を育んだ。
連絡はいつも机の隙間からするりとすべり込む
原稿用紙の切れ端。
サントス亭で待ってます。
原稿用紙から始まる作家の恋なんて
順当すぎてつまらないけど、
司馬さんとみどりさんには
ことのほか似合っている。
司馬さんとみどりさん 「四天王寺」
作家、司馬遼太郎と、
妻みどりさんがまだ恋人だった頃。
四天王寺をそぞろ歩きながら
司馬さんはこんなことを言った。
僕たちは弱点で結ばれたんだから、
壊れることはないよ。
そうして37年。
たしかに二人は歩き続ける。
一瞬も一片も壊れることなく。
司馬さんとみどりさん 「ピーマンの皮」
作家、司馬遼太郎と、妻みどりさん。
みどりさんは料理がさっぱりできない。
晩ご飯にバナナを一房だけ買ってくる。
ピーマンの皮をむいたら
中に何も入ってないと騒ぎ出す。
そんなみどりさんに司馬さんはプロポーズする。
「そんなことはどうでもいい」。
そういえば
司馬さんの小説に出てくる女性たちも
みんな男まさりでおてんば。
司馬さんの好みは
一貫している。
司馬さんとみどりさん 「風邪」
作家、司馬遼太郎と、妻みどりさん。
司馬さんは風邪をこの世で一番怖がった。
みどりさんは、夫が風邪を引くことを
この世で一番怖がった。
たった36度5分で
司馬さんは暴君のようになった。
そばにいれば「あっちへ行け」
あっちにいると「何してるんだ」
あげくお医者さんには
「大した風邪でもないのに
うちの家内が騒ぐもので」。
やれやれ。
新型インフルエンザなんて聞いたら
司馬さんの前にみどりさんが卒倒する。
司馬さんとみどりさん 「結婚記念日」
作家、司馬遼太郎と、妻みどりさん。
二人は晴れがましいことが大の苦手。
結婚式は本当に内輪で済ませたし
結婚記念日なんて祝うどころか
思い出すことすらしなかった。
ただ一度、何十回目かのその前の日、
ソファに寝転がりながら司馬さんが呟いた。
そうか、明日は俺たちの日なんだ。
たった一言が
何十年分の愛。
司馬さんは、ずるい。
司馬さんとみどりさん 「21世紀」
1996年。
夫の司馬遼太郎が亡くなっても
妻のみどりさんは泣かなかった。
蔵書を整理し記念館をつくり財団を立ち上げ、
息つく間もなく迎えた2001年のお正月。
21世紀に酔う街並を見て
みどりさんは唐突に司馬さんを思った。
この瞬間、いっしょにいたかった。
司馬さんが、愛し、憂えたこの国の21世紀を、
二人で見たかった。
みどりさんはその日、
司馬さんが亡くなってから
初めて泣いた。
司馬さんとみどりさん 「呼び方」
作家、司馬遼太郎の妻みどりさんは、
一度も夫を「主人」と呼ばなかった。
「司馬さん」。
それがみどりさんの呼び方。
ただ司馬さんが亡くなってから
ごく近い人にごくたまに
ちがう呼び方をしてみる。
「あのひと」。
そう呼ぶと少しだけ甘い気分になれるから。
そう呼ぶと少しだけあの日に帰れる気がするから。
「あのひと」。
そう呼んだ日は
少しだけ泣きたくなる。