熊埜御堂 由香 10年05月09日放送
走る人 角田光代
彼女は、32歳で大失恋した。
切れた電球を変える気力もなくなった。
だから、髪を切るわけでもなく、
次の男を焦って探すでもなく、
ボクシングをはじめた。
強くなりたかったから。
女心の機微を描き続ける作家・角田光代。
失恋からたちなおっても、運動する習慣は残った。
角田は忙しい暮らしの合間にランニングを続ける。
いま、若い女性にマラソンが流行しているのも、
からだとこころがつながっていることを
実感しやすいスポーツだからかもしれない。
きっと、今日も、いろんな思いを抱えて、走るひとがいる。
角田光代のある小説の主人公が、こうつぶやく。
道ってのはどこまでも
続いているもんなんだねえ。
坂本和加 10年05月08日放送

着物と越原春子
かつてココ・シャネルが、
下着素材のジャージで
動きやすいドレスを作ったように。
いつの時代も、働く女性は、
ファッションを変え、
モードを生む。
越原春子もそのひとり。
大正時代、女学校設立のために
ひどく多忙な日々を送っていた越原は、
ある日、長すぎる帯を
ばっさりと切った。
正装ではなく普段使いの、短めの帯。
名古屋帯は、そうして生まれた。
この帯が、その後一般化したのは、
簡略化されても、その美しさが
損なわれていなかったからだろう。
美しく、ときに大胆に。
働く女性はいまも昔も、変わらない。

着物と宇野千代
着物で、でかけたい。
けれど着物って、面倒なルールが
きっとたくさんあるんでしょう?
と言うひとがいる。
明治に生まれ、
前衛的なデザインや着こなしを
着物に提案しつづけた宇野千代は、
こんな風に言っている。
着るもののことで
いっぺん笑われたら、
あとは笑われた者の得。
昭和32年、宇野千代は、
アメリカで着物ショーを行った。
足元にヒール。モデルたちの
しなやかな身体のラインを
隠さず活かした着物姿の
なんと、斬新なことか。
着物はその人らしく楽しめばいい。
宇野千代は、いいお手本を
私たちに教えてくれている。

着物と水谷八重子
アンティーク着物が、
若い女性の間で人気だ。
なかでも、大正から昭和初期の、
銘仙と呼ばれる着物が。
はじめ、銘仙は、
例えるならジーンズのような
カジュアルな普段着だった。
それがアールヌーボーと融合し、
華やかな大正ロマンの代名詞になった。
大流行した銘仙の反物は、
1億反も売れた。
水谷八重子は
そんな時代に生きた女優。
駆け出しの頃は、
銘仙のイメージガールもやった。
けれど戦後、洋服の時代がやってきて、
気づけばあれほどあった着物は
箪笥からあとかたもなく消えていた。
水谷八重子は、
そのことを、こんなふうに回顧する。
日本人特有の、あの細やかな
つつましさをも、捨てた自分に気がついた。

着物とバルテュス
20世紀を代表するフランスの画家、
バルテュスは少年時代から
東洋的なものを
こころから愛した。
日本人形との出会いは、14才。
その息をのむ美しさに驚いた。
つぎの出会いは、59才。
こんどは本物の日本人形、
当時二十歳の学生だった節子を
見初め、妻にむかえた。
バルテュス自身もよく着物を着た。
日本人は、反物や帯に、
あらゆるものを文様化する。
バルテュスは、その鋭い感性を
高く評価していたのだ。
着物を着るひとが少なくなって久しい。
その感性が、いま鈍ってやしないか。
感性は身につけるもの。
バルテュスも言っている。
日本人には、着物がいちばん美しい。

着物と幸田文
着物は、風で、洗うもの。
だからこそ和服は
傷みにくく、昔から
世代を超えて
受け継ぐものだった。
東京下町生まれの作家、
幸田文もまた、
着物をよく愛した。
娘の青木玉は、
そのほとんどを継いだ。
文のいくつかの着物は、
ほどかれ、こんどは風でなく水に洗われて、
色を染め直され、生まれ変わった。
幸田文は、粋で個性的に
着物を着こなす洒落人だった。
だから玉には着こなせないと
思うものも多かった。
けれど、そこは親子。
文の着物は年を重ねた玉に、似合うようになる。
それも着物の、おもしろさ。

着物とよしだみほこ
ビルにはさまれた東京で。
「トントンからり」と聞こえてくる。
それは、
着物の反物の織り職人、
よしだみほこさんの
仕事部屋からやってきた音。
わたしのつくりたいものは
着る人のほしいものの、中にある。
だから、織るものに
なるべくわたしを入れたくない。
そう、きっぱりと言う
みほこさんから生まれた反物は、
やさしい、檸檬畑の風のよう。
きょうもまた、「トントンからり」。

着物と清少納言
じんざもみ、きくじん、
なつむしいろに、ひわいろ。
日本の色の表現は、
数百種と言われるけれど、
そのほとんどは、
平安の時代に生まれた。
清少納言は枕草子に、
着物の色あわせについて
宮中でのやりとりを
にぎやかに、書いている。
春先、紅梅の上着のインナーには、紫。
でももう、萌黄の季節かしら。と。
みな着物を来ていた時代に、
そのひとのセンスや品を
伝えるのは色だった。
ときには色で、こころを伝えた。
ひとのこころは、複雑なもの。
着物と共に生まれ、
伝えられてきた色を思うと、
その数の多さも、わかる気がする。
蛭田瑞穂 10年05月02日放送
知られざる発明家たち①「ナイロン」
合成繊維「ナイロン」を発明したのは、
ウォーレス・カロザースという研究者。
しかし、1939年にナイロンが発表された時、
彼はもう、この世にいなかった。
「ナイロン」という名前の由来は“no run”。
「伝線しない」という意味。
ほかの候補に“ワカラ(Wacara)”という
変わった名前があった。
“a tribute to Wallace Carothers”を略して「ワカラ」。
「ウォーレス・カロザースに捧ぐ」
という意味が込められていた。
知られざる発明家たち②「合成ゴム」
1844年、アメリカ人の発明家、
チャールズ・グッドイヤーは合成ゴムを考案した。
しかし、彼の人生にとって、それは早すぎる発明だった。
合成ゴムの特徴は強い耐久性。
だが当時の社会にはその特徴を活かす製品がなかった。
1860年、グッドイヤーは多額の負債を抱えたままこの世を去る。
合成ゴムが本当に必要になるのはそれから数十年後。
自動車が発明されてから。
現在、世界有数のタイヤメーカーに
「GOODYEAR」という名前の会社がある。
しかし、それはチャールズ・グッドイヤーが
つくった会社ではない。
彼の功績を讃え、グッドイヤーの名を社名につけたのだ。
知られざる発明家たち③「ポスト・イット」
1969年、アメリカの化学メーカーに勤める技術者、
スペンサー・シルバーが接着剤の開発をしていると
粘着力は強いのに、すぐに剥がせてしまう
変わった性質の接着剤ができあがった。
完全な失敗作だったが、
不思議な可能性を感じたシルバーは、
サンプルをつくって社内に見せて回った。
そのサンプルを見た者の中に、
アート・フライという技術者がいた。
5年後のある日曜日。
フライが教会で賛美歌を歌っていると、
歌集に挟んであったしおりが床に落ちた。
その瞬間、フライの頭に浮かんだのが
シルバーのつくった接着剤。
あの接着剤を使えば、落ちないしおりがつくれるはずだ。
こうしてできあがったのが「ポスト・イット」。
今やどのオフィスでも見かける世界的ヒット商品。
「失敗は成功のもと」というけれど、全くその通り。
知られざる発明家たち④「万年筆」
現在の万年筆の原型をつくったのは、
ルイス・エドソン・ウォーターマンというアメリカ人。
保険の外交員をしていた彼は、
ある時、ペンから漏れ出したインクで、
契約書を汚してしまう。
大口の契約を取り逃がした彼は、
これをきっかけにインクの漏れない
万年筆の開発に乗り出す。
そして1883年に毛細管現象を応用した
ペン芯を考案する。
「必要は発明の母」とは、こういうこと。
知られざる発明家たち⑤「ゼムクリップ」
第2次世界大戦中、ドイツ占領下のノルウェーでは
服に付けられたゼムクリップが
国民団結のシンボルだった。
なぜゼムクリップなのか。
それは、ノルウェー人ヨハン・バーラーが
ゼムクリップを考案したことに由来する。
ところが。
誰がゼムクリップを発明したのか、
実ははっきりしない。
古代ローマの時代にすでに存在していたという話もある。
しかし、それはそれ。
ノルウェーの人々にとって、
ヨハン・バーラーは特別な存在。
戦後、彼の功績を讃え、首都オスロの郊外に
巨大なゼムクリップのオブジェがつくられた。
知られざる発明家たち⑥「カッターナイフ」
戦後間もない大阪。
印刷会社の社員田岡良男は
いつものようにカミソリの刃で
紙を裁断していた。
しかし、カミソリの刃はすぐにボロボロになる。
ボロボロになった刃は捨てるしかない。
この無駄をどうにかできないか。
その時、田岡の頭に、
進駐軍の兵士からもらった板チョコが浮かんだ。
駄目になった刃を、板チョコのように折って使えばいい。
こうして世界で初めて、
刃を折って使う仕組みのカッターナイフが生まれた。
知られざる発明家たち⑦「消しゴム」
1770年、イギリス人のジョゼフ・プリーストリーが、
ゴムに鉛筆の字を消す性質があることを発見した。
これが消しゴムの始まりといわれている。
消しゴムが可能にしたのは、
単に字を消すことだけではない。
人の誤りを訂正し、
書きなおせることも可能にしたのだ。
佐藤延夫 10年05月01日放送

剣豪たち1/塚原卜伝(つかはらぼくでん)
秘剣「一の太刀」で
212人を手にかけたと言われる剣豪、塚原卜伝。
剣術は言うに及ばず、
心理戦も、また巧かった。
長い太刀を使う相手には、その欠点を説いて聞かせ、
片手突きを得意とする者には、
そんな見苦しい手はやめろと
門弟を遣わし、何度も申し入れた。
データ収集も忘れない。
相手が右太刀か左太刀か、癖は何かを
必ず調べさせてから勝負に臨んだという。
剣豪という域に達するには、
実力だけでなく、駆け引きも大切。
人生50年の戦国時代で
83歳まで生きるのだから、
塚原卜伝という男、
人生の術も心得ていたに違いない。

剣豪たち2/伊東一刀斎(いとういっとうさい)
戦国時代、一刀流を極めた剣豪、伊東一刀斎。
若かりし頃、
剣の師匠に向かって、こう言った。
悟りとは、修業期間の長さではありません。
一瞬のものです。
そうして三度立ち合い、三度とも師匠を打ち破る。
諸国修業の旅に出て、三十三戦負け知らず。
鬼夜叉の異名で恐れられた一刀斎、
生まれの地には諸説あり、
幼少期のエピソードはほとんど残されていない。
一説によると、94歳まで生きたという。
謎が多いほど、人は伝説に近づく。

剣豪たち3/松浦静山(まつうらせいざん)
肥前の国、第10代藩主だった松浦静山は、
剣術のひとつ、心形刀流(しんぎょうとうりゅう)の修業に心血を注いだ。
幼少から病弱だった静山、
剣術を始めたきっかけは、体質を改善するためだった。
心形刀流を極めたのちに
こう語っている。
剣術を学ぶ者は、
たとえその奥義に至らずとも
養生のためにこれを修していくべきである。
静山は33人の子をもうけ、81歳まで生きている。
なるほど、剣術は滋養強壮に活かすこともできるのか。

剣豪たち4/男谷信友(おたにのぶとも)
斬るか斬られるかの世界にも、
“いい人”はいるものだ。
直心影流(じきしんかげりゅう)の剣豪、男谷信友。
性格は極めて温厚。
声を荒げることなど一度もなかったこの男、
三本勝負の他流試合では、
必ず一本、相手に勝ちを譲った。
それはもちろん、残りの二本は必ず取れるという腕前があったから。
ひとたび本気を出すと、
竹刀が生き物のように動き
相手を身震いさせたという逸話も残っている。
趣味は読書と絵画。
暇があると筆をとり
仲間や弟子に贈っていたそうだ。
本当に強い人、というのは
驚くほど柔らかな生き方をしている。
その後、江戸幕府の要職に招かれたのも
頷ける話だ。

剣豪たち5/浅利又七郎(あさりまたしちろう)
江戸時代、明眼(みょうがん)の達人と言われた剣豪、浅利又七郎。
試合になると、
相手に隙が見えても突くことをしない。
そして「私が勝ちました」と言い放つ。
相手が納得しないと
たちまち強烈な突きを繰り出し倒したという。
晩年、一度倒した剣豪、山岡鉄舟が
再び試合を申し込んだとき、
その構えを一瞥して竹刀を引いた。
あなたの剣は極到に達せられた。
もはや私の遠く及ばぬところです。
違いの分かる男とは、彼のことを言う。

剣豪たち6/山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)
幕末の剣豪、山岡鉄舟は、
苦悩の中で悟りを得た。
剣を捨て、剣に頼らぬ者こそ
真の剣の達人である。
それが、刀を持たない「無刀の真理」だった。
無刀流の極意とは、
春風を斬るようなものだという。
5月の春風に手を伸ばしてみよう。
何か悟りを得るかもしれない。

剣豪たち7/千葉周作(ちばしゅうさく)
北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)の開祖、千葉周作は
道場の運営に成功した剣豪だ。
武者修行から戻り
日本橋に道場を建てた途端、
多くの門弟とスポンサーが集まった。
三年後には神田の一等地に道場を移し、
近くにあった塾を買収。
敷地を広げた揚げ句、
客人たちの宿舎まで設け、
江戸一番の道場にしてしまった。
気は早く 心は静か 身は軽く
目は明らかに 業は激しく
このわかりやすい指導法も評判だった。
晩年まで剣の腕前も一流だった千葉周作。
その経営手腕も、また一流。
今の厳しい世の中でも、きっと生きていけるだろう。
名雪祐平 10年04月25日放送
尾崎豊
尾崎豊の歌なんて、
好きじゃない。
そんな人もいるかもしれない。
でも。
好きでも、嫌いでも、
人の意識に
いまも棲み続けている。
彼の歌がもつ魔力は、
たしかにある。
生きていれば今年45歳。
この時代を
どんな歌にしただろう。
4月25日は、
尾崎豊の命日。
二葉亭四迷 1
文学を志すことを
反対した父親から、
「くたばってしめえ」
と罵られた。
そこで、若者は
自分のペンネームを
くたばってしめえ、
「二葉亭四迷」にしたという。
当時、画期的だった
話し言葉を用いて
処女小説『浮雲』を
書き始めた。
無名の24歳が、
ひょいっと、
近代文学の扉を開けたように
思えた。
二葉亭四迷 2
近代文学を一新させた
小説『浮雲』が
未完のまま、挫折。
作家、二葉亭四迷は
次にロシア文学の翻訳にとりかかる。
ツルゲーネフの小説では、
「愛しています」に変わる
すばらしい名訳を残した。
「死んでもいいわ」
しかし、文学のリアリティを
どこかで信じ切っていなかったのか。
官僚に就職してしまう。
貧しい人々の救済を考え、
そして、貧困の町で
出会った娼婦と結婚。
明治時代の官僚が
周囲のモラルとは関係なく、
娼婦を妻にすること。
そのリアリティこそが
彼にとっての
文学だったのだろうか。
レオナルド・ダ・ヴィンチ
画家、
彫刻家、
建築家、
土木設計者、
解剖学者、
天文学者、
それらを一人でやってのけた、
レオナルド・ダ・ヴィンチ
ほんとうに彼は
一人だったのだろうか。
10人くらい、いたのでは。
そう疑ってしまうほど、
凄すぎる。
アル・パチーノ
この男こそ。
『ゴッドファーザー』の
コッポラ監督が惚れ込んだのが、
イタリア系の小さな身体の俳優、
アル・パチーノだった。
映画は記録的な大ヒットとなる。
ところが、けっきょく、
彼にはギャラが
手に入らなかったという。
『ゴッドファーザー』出演によって、
別の映画の契約が破棄になり、
ほとんどを違約金にとられてしまった。
不器用な男の、不器用な結末。
でも、
1本の映画でスターの座を射止めた。
この男こそ。
こんどは、世界中の人々が惚れ込んだのだ。
4月25日。
アル・パチーノの誕生日。
70歳になり、
次はどんな演技を観せてくれるだろう。
スタール夫人
フランスの批評家、
スタール夫人。
ナポレオンを
目の敵にするほど、
激しい野心があったという。
そんな彼女が結婚について
こう語った。
私は男でなくて幸せだ。
もし男だったら、
女と結婚しなければならないと
思うから。
さすが優れた批評家。
自己批評もできていた。
マルキ・ド・サド
人生の後半のほとんどを
牢獄と精神病院にいながら、
作品を書き続けた
サド侯爵。
サディズムとは何か。
18世紀にあなたが示した
肉体的快楽の謎を
人間たちは
今夜も解こうとしている。
宮田知明 10年04月24日放送
チャールズ・リンドバーグと春
飛行機の窓から見える景色は、
80年前は、まだ当たり前ではなかった。
チャールズ・リンドバーグが、
人類史上初めて大西洋単独無着陸飛行を達成したのは、
1927年の春のこと。
スピリッツオブセントルイス号に乗って
青空に浮かんでいるとき
リンドバーグの脳裏に浮かんだのは
こんな言葉だった。
「何事が起ころうと、この瞬間、生きているだけで充分だ!」
いろんなことに行き詰まったとき。
窓を開けて、ちょっと青空を見上げてみませんか。
土居美由希 10年04月24日放送
春の花 星野富弘
星野富弘が体育の教師になって2ヶ月め
24歳の春のことだった。
彼は肩から下がすべて麻痺してしまう事故に遭った。
9年に及ぶ入院生活のなかで
それでも彼は生きがいを見つける。
それは故郷・群馬の田舎に咲く草花を描くこと。
わずかに動かせるのは首から上だけ。
だから、筆を口にくわえて描いた。
描けることが嬉しくて、ひたすら描いた。
ぶどうの絵には、
こんな言葉も添えられている。
喰われてもよし
つぶされてもよし
干されてもよし
一番 甘くなって 枯れよう
事故から40年。
今日は星野富弘の64歳の誕生日。
草も木も、おめでとうと微笑んでいます。






















