大友美有紀 12年7月14日放送



レイ・ブラッドベリ「「愛するものへの言葉」

2012年6月6日レイ・ブラッドベリが亡くなった。91歳。
アメリカで最も名高い作家のひとりだ。
代表的な作品は『タンポポのお酒』、『火星年代記』、
『華氏451度』、『何かが道をやってくる』。

彼は未来を描く時、テクノロジーを細かく描写することはなかった。
自動車を運転せず、飛行機を嫌い、テレビもほとんど見ない。
2009年のインタビューで、インターネット、電子書籍に
痛烈な言葉を浴びせている。

 この間、ヤフーのCEOが電話してきて、
 インターネットに発表する小説を書いてくれと
 言われたんで、バカ言えと答えた。
 そんなもの書いたって本にはならない。
 コンピューターには匂いがない。
 紙の本には匂いが二つあるね。
 新しい本は、すごくいい匂いがする。
 古くなると、もっとよくなる。

時に、機械に敵対し、テクノロジーを恐怖するSF作家だった。



レイ・ブラッドベリ「愛するものへの言葉」

14歳のころ、ブラッドベリはハリウッドに引越す。
映画好きだったレイ少年は、来る日も来る日も
撮影所のまわりをうろついて、
有名人からサインをもらって写真を撮る。
試写会があればもぐりこむ。
週に4、5本は映画を見ていた。
それがのちに小説家になった時に役立ったという。

 さんざん映画を見たおかげだな。
 見たものを意識下にため込んでいたんだろう。
 つまんないのも、すごいのも、
 いっしょくたに消化吸収していた。
 あとで戻っていって、
 底にたまってたものを さらうんだ。
 そうすれば本を書けるようにもなる。



レイ・ブラッドベリ「愛するものへの言葉」

高校を卒業後、ハリウッドで新聞売りをしながら、
いろいろな雑誌に作品を送り続けたレイ・ブラッドベリ。
そのひとつが女性向けの雑誌「マドモアゼル」。
編集助手として、まだ無名のトルーマン・カポーティが働いていた。
カポーティは、ブラッドベリの『集会』という
吸血鬼ものの原稿を買うことを上司に進言する。

 電報が来たんだ。
 「当雑誌に合うように書き直そうと考えていたんですが、
  この作品に合うように当雑誌を変えることにいたします」
 と書いてあった。
 ハロウイーン号に載ったんだ。話が振るってるだろ?

天才同士の引力があったのだろうか。
この作品がきっかけで、彼は、
ニューヨークの知識人社会に仲間入りした。



レイ・ブラッドベリ「愛するものへの言葉」

レイ・ブラッドベリは、1947年、48年にO・ヘンリー賞を受賞。
短編の名手として地位を確立する。その頃、いろいろな人から
「映画の台本は書かないのか」と聞かれるようになった。
ブラッドベリは「ジョン・ヒューストンに頼まれたらね」と答えていた。
そして試しに短編集を監督本人に送ってみた。
のちにジョン・ヒューストンから電話が入り、
『白鯨』の脚本を手がけることになる。
ところが、破天荒な映画監督から
台本づくりに気持ちが入っていない、と辛辣な言葉を投げつけられる。
ブラッドベリがショックを受けていると、ジョンは冗談だと慰めにくる。
そんなことの繰り返しだった。

二人の亀裂が決定的になったのは、映画『白鯨』のクレジットだった。
共同で脚本を書いたことになっている。彼一人で書いたのに、だ。
ブラッドベリは作家組合に訴えた。
だが、クレジットを変えることはできなかった。
ジョンの存在が大きすぎたのだ。
その経験をもとに小説『緑の影、白いクジラ』を書いた。
二人は果たして和解できたのか。

 彼が亡くなる直前、映画関係者と食事しているとこに出会った。
 僕は近づいていって、ジョンを指差して
 「こちらの方が私の人生をがらりと変えました。良いほうへ。
  今夜、あらためてお礼を言います。
  どうぞ、あちこちで噂をまいてください。
  レイ・ブラッドベリは、ジョン・ヒューストンを敬愛し、
  感謝を忘れない、と」

 
ブラッドベリは人生を愛する作家である。 


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レイ・ブラッドベリ「愛するものへの言葉」

ブラッドベリは2003年にまとまった短編集を出した。
届いたゲラを見て泣いてしまったという。
それだけのものを一人で書いたとは思えなかったという。

 自分で書いた二百の短編を見てると、
 宇宙への大きな借りがあるんだと、つくづく思う。
 いろんな遺伝子が何かしらのレベルで
 実験を繰り返して、その結果、僕という形態が生じた。
 これは自分で書いたものじゃないって思う。
 ひとりでに書き上がっちゃったんじゃないか。
 やっぱり宇宙からの贈り物だ。

宇宙のおかげで、私たちはブラッドベリの
切なく、妖しく、美しい小説を読むことができるのだ。



レイ・ブラッドベリ「愛するものへの言葉」

その著作が、世界25ヶ国で読まれているブラッドベリ。
人に好かれたいと思い、悪びれることなく名声に浴し、
有名であることを楽しんでいる。

 ビバリーヒルズの街角に立っていたら、
 俳優のシドニー・ポワチエが車で通りかかって、
 車から降りて、大声で言った。
 「ブラッドベリさん、シドニー・ポワチエです。
  大好きです!」
 それだけ言って、また走り出した。
 ああいうことは忘れられない。



レイ・ブラッドベリ「愛するものへの言葉」

2003年、最愛の妻マギーを亡くしたブラッドベリは、
自分の墓は火星に立てたいと言っている。

 できることなら火星に埋葬されたい。
 遺灰はトマトスープの缶に入れてもらいたいな。
 僕の名前のある墓石が火星に立って、
 よく読まれた本の題名も書いておく。
 墓石のてっぺんに小穴を掘って、
 その下に注意書きがあるんだ。
 「献花はたんぽぽに限る」

 
2011年12月、ブラッドベリは『華氏451度』の
デジタル化を許諾した。あれほど嫌っていた電子書籍だ。

 『華氏451度』は社会的批評の要素があるけれど、
 それは冒険物語という全体に隠れているんだ。
 本を燃やしちゃいけないんだ。
 でも、逆のことを言った方がおもしろい。
 本を燃やそう、本は危険だから。
 本を読むと人は考えてしまう。考えると悲しくなる。

 
コンピュータの画面に表示される本は焼くことができない。
未来の禁書隊から逃れることができる。
さようならレイ。
あなたがくれた未来に、たんぽぽの花を捧げます。

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薄景子 12年7月8日放送



1. 冒険の話 シルヴァスタイン

絵本作家、シルヴァスタイン。
彼の代表作でもある
「ぼくをさがしに」という絵本には、
足りないかけらを探して歩く、ぼくの冒険が描かれる。

自分は何がしたいのか。
ほしいものは何なのか。

やっと何かを見つけても、
また違うものを求めてしまうのは、
まるで人生のそのもの。

絵本の中表紙には、

だめな人とだめでない人のために

という献辞が書かれている。

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石橋涼子 12年7月8日放送



2. 冒険の話 柳田國男

本を読むということは、大抵の場合において冒険である。
だから又、冒険の魅力がある。

こう語ったのは、
日本民俗学の祖として知られる柳田國男。
彼は子どもの頃から
膨大な量の書物に囲まれて育ち、
読書とともに大人になった。

そして、大人になるにつれて痛感するようになったのは、
書物だけで学ぼうとしたら一生かかっても足りない、
という事実だった。

柳田國男は、若干44歳でエリート官僚の道を退いた。
日本中の民間伝承を自分の足で探す冒険に出るためだった。

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茂木彩海 12年7月8日放送


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3. 冒険の話 高橋淳

現役最高齢パイロット、高橋淳。
御年88歳。
空を飛んだ時間、2万5000時間。
師匠と仰ぐ者たちはみな、彼を「飛行機の神様」と呼ぶ。

世界大戦が始まり、軍隊に入った高橋は
戦死することが栄誉だとされた時代、
何が何でも生きて帰ると心に決めていた。
なりたかったのは軍人じゃない。飛行機乗りなんだ。
その気持ちが高橋を守った。

終戦後はプロパイロットの養成に力を入れたが
49歳でフリーのパイロットに転身。
飛行機は車とは違い機体に個性があるため、
免許があっても、すべてを乗りこなせるわけではない。
50種類以上の機体を乗りこなせるのは、今も昔も、高橋だけ。
ひとりでも大丈夫。自信があった。

高橋は言う。

 「せっかく生まれてきたんだから、
 僕は死ぬまで進歩したい。」

生き方そのものを、冒険と呼びたくなる人は
今の世界に、いったいどれだけいるのだろう。

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熊埜御堂由香 12年7月8日放送


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4. 冒険の話 高橋源一郎

小説というものは、
広大な平原にぽつんと浮かぶ小さな集落から
抜け出す少年、のようなもの。

前衛的な作風で知られる
小説家・高橋源一郎は言った。

学生運動で大学を除籍になり10年ほど、
土木作業員として各地を転々とした。
長く患っていた失語症のリハビリで書き始めた小説が
高橋を広い世界へ連れ出した。

今日も彼は、ひとり机にすわって
どこまでも遠くへいく。

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茂木彩海 12年7月8日放送


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5. 冒険の話 アーネスト・シャクルトン

アーネスト・シャクルトン。
1914年、エンデュアランス号で、
人類初の南極大陸横断を目指し、出航した。

南極大陸まで320kmの地点で、四方を氷にはばまれ、
10ヶ月ほど漂流するものの、氷の圧迫でエンデュアランス号が崩壊。
この時点で南極横断計画はとん挫してしまう。

救助を求めようと、500キロ先のエレファント島へ
なんとか徒歩でたどり着き、
さらに1,300キロ離れたサウスジョージア島へ、
救命ボートを使って再び出航。

ついに救助されたのはイギリスを出発してから約2年後のこと。
シャクルトンと、その隊員27名全員が奇跡的に生還した。

隊員を募集した時、シャクルトンはこんな広告を出している。

 「求む男子。至難の旅。僅かな報酬。極寒。
 暗黒の日々。絶えざる危険。生還の保証なし。
 成功の暁には名誉と賞賛を得る」

冒険するか、しないか。
どちらを選ぶかは、
私たちの生き方の選択肢としていつでも用意されている。

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石橋涼子 12年7月8日放送



6. 冒険の話 ソーントン・ワイルダー

冒険をしたいなあと思っているのは、
家にいて何事もないときである。
いざ冒険している時には、家にいたいなあと思う

こう語ったのは、アメリカの劇作家ソーントン・ワイルダー。
派手で社会的な演劇が流行した1930年代のアメリカで、
彼は、平凡な人々の平凡な日常を描き続けた。

しかし、そこでワイルダーが描いているのは、
私たちが平凡だと思っている日常が
いつもそばにあるものではなくて、
今ここにしかないものである、という事実だ。

今ラジオを聴いているあなたの日常も
今ここにしかないのと同様に。

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薄景子 12年7月8日放送



7. 冒険の話 マキャベリ

イタリア、ルネサンス期の政治思想家、
マキャベリは言った。

運命の女神は冷静に事を運ぶ人よりも
果敢な人によく従うようである

こんな時代だからこそ、
無難な道より冒険を。
今日も、人生も、一度きり。

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小野麻利江 12年7月8日放送


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8. 冒険の話 日比野克彦

 口の中をベロで触って、
 どんな形があるか探ってみよう。

 りんごはなぜりんごと言うのか
 いろいろな人に聞いてみよう。

 陽だまりで目をつぶって、
 暖かいのがどこから来るのか
 感じてみよう。

芸術家の日比野克彦は、
日比野自身に、そんな指令を出してみた。

日比野は言う。

 何よりやってはいけないのは、
 つまらないと思いながら仕事をすることだ。

 だから、自分で面白くする努力を常にする。

 小さな大冒険をやってみる。

好奇心が生まれたら、
そこはすべて、冒険の場所。

あしたの朝食べる、トーストの上にも、
ゆううつな気分で乗る、電車の中にも。
あなたの冒険が、
見つかるかもしれません。

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蛭田瑞穂 12年7月7日放送



星を見ていた①「ガリレオ・ガリレイ」

1609年、発明されたばかりの望遠鏡を自作した
ガリレオ・ガリレイはそれを星空に向けた。
そこには人類が初めて見る宇宙の姿が映っていた。

月の表面はそれまで考えられていたような
滑らかなものではなく、山も谷もあった。
木星には4つの衛星がまわっていた。
天の川は無数の恒星の集まりであることもわかった。

翌年ガリレオは望遠鏡による観測結果を
『星界の報告』という書物にまとめた。

ガリレオが望遠鏡で宇宙を覗いてから400年余り。
天の川の輝きはいささかも褪せることはない。



星を見ていた②「ティコ・ブラーエ」

天動説の時代、月よりも遠い空間は
永久に変化のない世界と考えられていた。

しかし、16世紀の天文学者ティコ・ブラーエは
超新星と呼ばれる、恒星が一生を終える時に起こす大爆発や、
彗星の軌道の観測をおこない、
それらが月よりも遠くで起きる現象であることを発見した。
この発見が後に、天動説を覆す大きな証拠となる。

驚くことに、こうした発見をブラーエは肉眼による観測だけでおこなった。
その時代、望遠鏡はまだ発明されていなかったのである。

その功績からブラーエは現在、
「肉眼による天体観測の天才」と讃えられている。



星を見ていた③「サウル・パームルッター&ブライアン・シュミット&アダム・リース」

2011年のノーベル物理学賞を受賞したのは、
サウル・パールマター、ブライアン・シュミット、
アダム・リースの3人の物理学者。

受賞理由は「遠方の超新星爆発の観測による
宇宙の加速膨張の発見に対して」。

1929年に発表された「ハッブルの法則」によって、
宇宙が膨張を続けていることがわかった。
その膨張のスピードが加速していることが、
3人の観測によって明らかになったのである。

今、この瞬間にも宇宙は広がっている。
途方もなく速いスピードで。



星を見ていた④「カール・ジャンスキー&グロート・リーバー」

1931年、ベル研究所の技術者カール・ジャンスキーが
雷に含まれる雑音の分析をしていると、
毎日ほぼ同じ方向から来る未知の電磁波を受信した。

一年に及ぶ研究の結果、それは天の川から
発せされる電磁波であることを突き止めた。

その数年後、ジャンスキーの研究を知った
アマチュア天文学者のグロート・リーバーが
自宅の庭に巨大なパラボラ・アンテナを設置した。

世界初の電波望遠鏡となるそのアンテナをつかって
リーバーは宇宙から届くさまざまな電磁波を受信し、
電波による天の川の地図をつくりあげた。

ジャンスキーとリーバーのふたりによって、
電波天文学という新たな分野が幕を開け、
可視光では観測できない天体が観測できるようになった。


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星を見ていた⑤「アーノ・ペンジアス&ロバート・W・ウィルソン」

1964年、ベル研究所に勤めるふたりの科学者、
アーノ・ペンジアスとロバート・ウッドロウ・ウィルソンが、
衛星通信用アンテナの試験中、
宇宙から飛来する未知の電磁波を観測した。

あまりにも正体が不明だったため、
ふたりはアンテナに棲むハトが起こしたノイズとさえ考えた。

のちにそれは超高温状態の宇宙から放射された電磁波の
名残であることが判明する。

ふたりが偶然受信した電磁波は、
ビッグバン理論を裏づける世紀の大発見となった。



星を見ていた⑥「ウィリアム・ハーシェル」

18世紀の天文学者ウィリアム・ハーシェルは、
その生涯で400を超える数の望遠鏡を製作した。

ハーシェルをそこまで駆り立てたもの。
それは宇宙の構造を解明したいという欲求だった。
やがて彼は望遠鏡で見えるすべての星の位置を記録し、
天の川の地図をつくりあげた。

「ハーシェルの銀河モデル」と呼ばれるその天体図は
人類が宇宙を知る大きな道しるべとなった。



星を見ていた⑦「アイザック・アシモフ」

地球に生きるわたしたちはおよそ24時間ごとに夜が訪れることを
あたりまえのこととして知っている。

しかし、もしそれがあたりまえでなかったら?
そんな想像をしたのがSF作家のアイザック・アシモフ。

アシモフが1941年に発表した小説『夜来たる』。
舞台は6つの太陽に囲まれた、夜のない惑星ラガッシュ。
この惑星にある時、2000年に一度の日食が起こる。

突如あらわれる暗闇。初めて目にする夜空と無数の星。
惑星の住民たちは恐怖におののき、光を求めて街に火を放つ。
こうして惑星ラガッシュの文明は一夜にして崩壊する。

当時21歳の無名の作家は、この作品によって一躍人気作家になった。

地球には今夜も夜が来る。そのあたりまえの、なんと幸福なことか。

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