2009 年 11 月 のアーカイブ

五島のはなし(63)

口(←これ「私」を意味する独自の一人称です)にとって
いちばん古い記憶は
「祖母の家の前の坂道を自転車で猛スピードで駆け下りている」というものです。
3歳の記憶、と思ってるのですが
記憶ってあいまいだから、事実かどうかわかりません。

当時はまだ、その坂道沿いにたくさん子どもがいて
毎日のようにつるんで遊んでました。
10人くらいのガキンチョグループで、口はその一番下。

かくれんぼをしても、鬼ごっこをしても
鬼にはならない存在を
五島では「ガメチョロ」と呼ぶのですが
口はそのガメチョロだったです。
幼い頃の口の目標はただひとつ、
「ガメチョロを卒業する」。
でも、よくよく考えてみると、これって
その後の人生でも一貫した目標でありつづけてる気がします。

ガキンチョグループには評判の美人姉妹がいて、
そのお姉ちゃんがこの「五島のはなし」のために
五島の写真を送ってきてくれました。
ありがたいです。
まずは、ガキンチョグループのホームグラウンドだった坂道の写真を。
(五島・福江島の町並みってだいたいこんな感じな気がします)

撮影:美人姉妹の姉の方。

撮影:美人姉妹の姉の方。

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Visionの宴 091116

古田小山091116

古田坂本薄八木田091116

佐藤&クマ091116

細田八木田091116

坂本.薄0091116

斉藤佐藤八木田091116

八木田薄坂本091116

武沢斉藤091116

門田組091116

渋谷091116

古田中山091116

古田細田

宮田渋谷091116

クマ八木田091116

石橋091116   クマ091116

斉藤佐藤八木田091116

小山石橋クマ

クマ&佐藤091116

執筆陣091116

クマ&八木田091116

古田八木田細田091116

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薄景子 09年11月15日放送

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山田洋次と黒澤明

78歳にして現役。映画監督、山田洋次は、
48作品に及んだ「男はつらいよ」終了後も次々と新作にとりかかる。
「好奇心がある限り、映画を作り続ける」
彼の信条に大きな影響を与えたのは、晩年の黒澤明監督だった。

それは、山田監督が黒澤監督の別荘に訪れたときのこと。
できたてほやほやの、「まあだだよ」の脚本を
読むかい?と言われ、山田監督は大興奮。
部屋にこもって一心不乱に読みふけていると、
すーっと扉があいては、黒澤監督が覗きにくる。
「どこまでだい?」「ここまでです」
短い言葉のやりとりを何度か重ねた後、
ここぞという瞬間を見計らって
黒澤監督はラジカセのスイッチを押した。

流れてきたのは、イタリアのカウンターテナーの美しい歌声。
「その辺からな、この音楽が入るんだ」
敬愛する監督の無邪気な笑顔が、後輩の脳裏に焼きついた。

いくつになっても映画少年のままだった大巨匠。
世界のクロサワが残したのは、
偉大なる映画史と、永遠の映画少年たち。

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熊埜御堂由香 09年11月15日放送

05-oto


センセイと乙羽さん

 老人だけがでてる映画なんてウケるかしら・・・

女優、乙羽信子は、不安だった。

夫である新藤兼人監督が、
老いをいかに生きるかをテーマにシナリオに書き上げた
「午後の遺言状」

80歳の新藤監督、主演女優は89歳の杉村春子。
70歳の乙羽信子も出演する予定だった。

新藤監督もまた不安だった。
撮影がはじまる直前に、乙羽信子は、肝臓がんの手術をする。
余命は1年か、1年半か、といわれた。

病状をはっきりしらない本人を前に、
映画の製作を進めるべきか新藤監督は悩んだ。
そして、だした答え。

 僕らは40年以上、映画を通じで行動を共にしてきた「同志」だ。
 別れにのぞんで、何をすべきか、
 彼女の女優としての最後の場をととのえるべきだ。

スタッフだけの完成試写をしてから、乙羽信子は静かになくなった。
出会ってから、別れるまで、
ふたりは、どんなときでも、お互いをこう呼び合った。
センセイ、乙羽さん。

07-casablanca


字幕屋の妙

「君の瞳に乾杯」

映画「カサブランカ」の名台詞だ。
いや、字幕屋「高瀬鎮夫」の名字幕といったほうが正しい。
もともとは
Here’s looking at you, kid
「お嬢さん、君を見つめて乾杯」というような意味だ。

字幕は1秒につき3〜4文字。
制約が、言葉を磨き上げ、
日本中を魅了する台詞を残した。

08-hayaooshi


押井守と宮崎駿

「映画を発明する」
といい、実験的なアニメに挑む、押井守。

「映画の奴隷になる」
といい、子供にも愛されるアニメを追及する宮崎駿。

日本アニメの力を世界に知らしめた、ふたり。
押井は宮崎を「宮さん」と呼び親しくしていた。
会うと、話がとまらないくせに
周りが喧嘩かと心配するほど意見があわない。

押井守が若い人に希望を伝えたいと「柄にもない」ことを言って
撮った映画がある。「スカイクロラ」
インタビューで押井は言った。

 宮さんみたいに、正座してオレの話をきけって言うんじゃなく、
 後ろからそっと語りかけることなら、僕にもできる気がしたんだ。

反発しあいながらも、意識する。
このふたり、似たもの同士の親父と息子みたいだ。

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石橋涼子 09年11月15日放送

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岡本喜八

映画監督 岡本喜八は、
撮影現場でじっとしているのが嫌いだった。

ディレクターズチェアに座らないので、
見学者に「監督はどちらですか?」と
尋ねられたこともある。
そのときはとぼけた顔をして照明監督を指差した。

彼は、自身のこだわりを、こう語った。
「一流は嫌い。自由がきかないから。僕は二流がいい。」

超二流監督を自称する岡本の作品は
いつでも、古い常識をぶち壊すパワーに満ちていた。

02-furu


古澤憲吾

「なんでもいいから、キャメラを回せ!」
それが、映画監督 古澤憲吾の口癖だった。

派手な身振り手振りで演技指導をし、
フィルムが空でもカメラを回させた。
思いつきで撮影しているかのような演出に
真剣に悩んだ女優には、
「なにも考えなくていいんだ!」
と叫んだという。

ハイテンションでほら吹きで、自信家で、間違いなく変人だけど
妙にポジティブな古澤監督のキャラクターは、
そのまま、
植木等が演じる日本一の無責任な主人公となって
60年代の日本に元気を与えた。

05-mizu


水谷八重子

新派を代表する女優、初代 水谷八重子。

彼女は新人のころ、岡鬼太郎(おか おにたろう)という劇評家に
「こんな女優は一生大根で終わるだろう」と新聞に書かれた。
その悔しさから、切り抜きを
定期入れに入れて何十年も持ち続けたという。

大スターになった八重子は
 基本を大切にしなければ舞台に上がる資格はない
と言い続けた。

悔しさも、芸のこやし。
それが本物の女優。

06-Jacques


.ジャック・プレヴェール

詩人であり、脚本家でもあった
ジャック・プレヴェール。
映画『天井桟敷の人々』の名シーンは、
彼が書いた詩的なセリフから生まれた。

「次は、いつ会える?」
「近いうちに。縁があればね」
「しかし、君、パリは広いよ」
「愛するもの同士には、パリも狭いわ」

学校嫌いだったプレヴェールが
ことばを学んだのは劇場やカフェだった。
ある批評家はこう言った。

 彼は街から来たのだ。決して文学から来たのではない。

エンドロールでのプレヴェールの肩書きは、
いつでも「脚本とセリフ」だった。

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名雪祐平 09年11月14日放送

1114

リチャード・カールソン

テレビはしゃべる。
大変だ、大変だ、大変だ。

新聞は書く。
考えろ、考えろ、考えろ。

友だちは打ち明ける。
困った、困った、困った。

アメリカの心理学者、
リチャード・カールトンのアドバイスは、こうだ。

1.小さいことにくよくよするな。
2.全ては小さいことだ。

こんな、
かんたんな法則があるなんて。

2.

徳川光圀

水戸黄門こと徳川光圀は、
グルメな殿様だった。

生類憐みの令を馬鹿にしながら、
牛や豚、羊の肉を好んで食べた。
ラーメン、チーズ、餃子を
日本で最初に食べたともいわれる。

ただ、自分の誕生日には、
白粥と梅干しですませた。

その日は、お産で
母親に最も苦労させた日だから。
母親の恩を忘れないように、という
粗末な食事。

それも、きっと、深い味。

3.

高橋慶一郎

21世紀に、
どんどん信者を増やした宗教。

その名は「スピード」

もっと早く。
ビジネスは、スピードいのち。
遅ければ負ける、つぶれる。
そんな、呪文たち。

ユニチャームの創業者、
高橋慶一郎は違った。

人が1時間ですませるものを、
考えに考えて2時間かけてみよう。

そうやって、オムツは
やさしく出来あがるのかもしれない。

4.

オグ・マンディーノ

生命保険を売る男が、
自殺を決意した。

質屋のウィンドウに29ドルのピストル。
しかし、思いとどまり、
気がつくと図書館の前にいた。

図書館で、自己啓発本を手にしたことで、
男は甦った。

生命保険で見事な営業成績をおさめ、
やがて自らも自己啓発本を書いた。

作家、オグ・マンディーノはこうしてデビューし、
これまでに作品は3500万部を売り上げた。

こんどはその本が、世界のたくさんの命を
救っているのかもしれない。

1114

ジョーン・ロビンソン

経済学者は、
リーマン・ショックを防げなかった。

イギリスの経済学者、ジョーン・ロビンソンは、
かつてこんな皮肉を言った。

経済学を学ぶ目的は、
経済学者にだまされないためである。

経済学者が、
小さい政府とか、大きい政府とか、
論じることがもう
政府中心の考え方かもしれない。

人間中心の経済学者、求ム。

6.

ジャンヌ・エビュテルヌ

18歳の春、運命の出会い。
パリで絵を学ぶジャンヌ・エビュテルヌは、
画家モディリアーニと恋におち、同棲する。

20歳の秋、長女を産む。
21歳の冬、最愛のモディリアーニが死ぬ。
肺結核と、大量の酒と、薬物依存による病死。

2日あと、ジャンヌ自殺。
自宅の窓から身を投げる。
1歳の長女を残して。
妊娠中の二人目の子と一緒に。

絶望には、色があるのだろうか。
それとも、闇か。

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Vision収録見学記 Part3-(3) 

PICT0059

熊埜御堂由香-ネタ探しは、好き探し

そんなわけで、原稿でとりあげる題材をVieVieさんも
ディレクターのCさんも、
事前にいろいろリサーチしています。

今回、くまのみどうが、取り上げた、
フェリックス・ゴンザレス=トレス。
すこしマイナー人ですが、
VieVieさんも前から好きなアーティストだったとのこと!
ディレクターのCさんも、この原稿がきっかけで、
いろいろと資料に目を通してくださったようで
「面白いひとだねー」とトレス話に花が咲きました。

先ほど紹介した、
収録版の彼に付け加えられた形容詞、
「コンセプチュアル・アートの鬼才」

コンセプチュアル・アートってなんだったっけ?
と思い調べてみると、
アイデアまたはコンセプトが重要視される、芸術行動。
文書による指示のみで作品とするのが定番とのこと。

まさに、トレスの作品、
「自分の体重とぴったり同じだけ、床にキャンディを敷き詰め
来場者がひとりひとつだけ、それを持ち帰っていい、
ということにする」という
「気休めの薬」のようなものですね。

わたしは、はじめてこの作品を見たときは、
飴もらえるのラッキー!
くらいにしか思わなかったのですが、

一緒にその作品を見ていたひとが美術通で、
その行為にこめられた、コンセプトを教えてくれたんです。

飴とか時計とか既製品に
そんな個人的な思いを注入できるのかとたまげました。
しかもそうすることで、安定して永久に
その思いを再現できることに感動しました。
(ちなみに、その作品を一緒に見たひとのことが、
ちょっと好きだったんですが、
もじもじしているうちに彼女ができてしまって、
悲しかったなぁ。)

そんな思い出があったので、
トレスのネタで原稿が書けてうれしかったです。

薄組はイレギュラーな参加で、
まだ回を重ねてないこともあって、
自分たちがもともと好きだったひとから
ネタをセレクトすることが多いです。

たとえば、石橋涼子ちゃんは、
建築学科出身で建築ネタにとっても強いです。
薄さんは、09年8月にとりあげた、
書道家、金澤翔子さん好きが高じて、
会社の書道部に入部しました。

きっと、薄組も好きリストが底をついてきます。
12月は執筆がお休みなので、
またいろいろ注入しようと思っています。

レギュラー執筆者の佐藤さんは
お休みの日に図書館に通っているそうですよ。
受験生の隣でせっせとネタを探す佐藤さん、
こうしてVision執筆者は、
世界にちらばるすてきな言葉を集めていきます。

Part3 おわり

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五島のはなし(62)

今日会社を出て駅へと歩いている時、
後ろを歩いてたサラリーマンたちの話し声に
つい聞き耳を立ててしまった。
会話の中のある一文だけが耳に飛び込んできたのだ。

「いやいや、そうは言っても五島列島とかは別ですけど!」

東京で五島列島の名を聞くことはあまりない。
すごく気になる。
ちょうど会社の先輩と歩いていて
話しかけられていたので
その前の話も、後ろの話もちゃんと聞き取れなかった。

何?何に対して「そうは言っても五島列島は別」なの?
その前にあった言葉を妄想してみると。

「私、世界中の島をめぐりましたけど、いいとこはひとつもなかったです」
「九州男児とかよく言いますけど、九州にほんとの九州男児なんていませんよ」
「日本にテポドンが届く場所なんてほんとはあるわけないじゃないですか」

・・・うーむ。どれも違う自信がある。

これを読んだ方の中に、
今日午後10時ごろ東京の汐留の地下通路で
「五島列島」という言葉を発した方はいらっしゃいませんか?

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細田高広  09年11月8日放送

01-rolli


The Rolling Stones 1

だれもが「まさか」と思った。

2004年、ザ・ローリング・ストーンズの
ミック・ジャガーがナイトの称号を与えられたのだ。
使い切れない大金と最高の名誉を手に入れて、
これ以上何を望めるだろう。

しかし、盟友キース・リチャーズは言う。

 幸せな人生とは言えないな。
 99パーセントの人間は憧れるだろうけど、
 あいつはミック・ジャガーであることに、
 満足していないんだ。

勲章で満たせる程度の渇きなら、
46年もストーンズを続けちゃいない。

02-rollin


The Rolling Stones 2

バンドなんて、気晴らしさ。

イギリスの名門大学で
経済学を学ぶ息子がロックバンドを始めたとき、
両親はその言葉を信じた。
いずれは一流のビジネスマンになる。そう疑わなかった。

しかし彼は、気晴らしのはずだったバンドを
46年経った今も続けている。

ミック・ジャガー。

彼は経済学の知識を活かして
誰よりも早く印税を計算したし、
マネジャーが不穏な動きを見せようものなら、
帳簿を自ら調べ、横領らしきものは徹底的に洗い出した。

彼は、超一流のビジネスマンとなったのだ。
ロックスター、という名の。

03-rollin


The Rolling Stones3

ローリングストーンズは、
人気よりも悪名が先行していた。
何よりも世間から反発があったのは、その長い髪。
当時、ストーンズを真似たヘアスタイルを理由に、
少年たちが相次いで停学処分になったほどだ。

実際に数多くのトラブルを起こしたストーンズ。
弁護士も、相当、手をやいたのであろう。
法廷で苦し紛れにこんな弁護をした。

 皇帝シーザーは、
 長髪であるにも関わらず、
 数々の功績をあげました。

そんなエピソードひとつひとつも、
さらなるバンドの向かい風になる。

 有名になるのはちっとも構わないんだ。
 でも、法廷ではそれが裏目にでる。

キースリチャーズは、実に悔しそうに言った。

04-rollin


The Rolling Stones 4

囚人番号7855。

麻薬所持で服役中のキース・リチャーズは
さすがに落ち込んでいた。

ある日、
刑務所内の作業場へと向かう途中で、キースは
ラジオからストーンズの曲が流れてくるのを耳にする。

その瞬間、刑務所中の囚人の口から
建物を揺るがすような歓声が上がった。

絶望は、勇気に変わった。

05-rollin


The Rolling Stones5

どこで間違って、
あんな薄汚れた奴らが
若者たちのヒーローになったのか。

イギリスを飛び出し、アメリカでも
人気に火のついたローリング・ストーンズを、
良く思わないメディアは多かった。

だいたい、肝心な演奏だって上手いとは
言えたものじゃない。

そんな批判に対して、ミック・ジャガーは言うのだ。

 俺たちは、ノイズを出してるだけだ。
 それを音楽と呼んでくれたら有り難いね。

内面を表現するためなら、楽譜なんて関係ない。
それが、ストーンズの信条。

実際、彼らが汗を流し音を出しさえすれば、
それが上手いか下手かを気にするものなんて、
一人もいなかった。

06-rollin


The Rolling Stones6

就業時間が待ち遠しい。
ロックンローラーだって、
そう思うときはあるらしい。

 ロックンロールが全てなんて馬鹿げてるよ。
 誰だって仕事が全てだなんて思ってないだろう?

大金とセレブリティの称号を
手に入れたミックジャガーにとって、
音楽はあまりに商売になり過ぎた。

やっつけでこなしたライブやレコードは、
徐々に評価を失っていく。

 ロックンロールに未来はない。

そう語るとき、
ロックンロールとは、
自分のことを意味してた。

07-rollin


The Rolling Stones 7

1989年、事実上の活動休止期間を終え、
ザ・ローリング・ストーンズが
再び始動し始めたとき、
メンバーは40代の半ばを迎えていた。

ミックはしわだらけになり、
キースは広がった額をバンダナで隠した。
それでも威勢だけは、20代のころのままだった。

ローリングストーンズは
長い長い全盛期を、今も確かに続けている。

08-rollin


The Rolling Stones 8

「もう若くないから」という言葉を
口にしかけたとき、思い出す顔がある。

ザ・ローリング・ストーンズだ。

 俺たちは、間違った考えと闘ってるんだ。
 ロックンロールは、若造のやるものだと
 みんな思ってやがる。

彼にとって歳を重ねることは、失うことではない。
むしろ、全てを手にすることのよう。

長生きの秘訣は何ですか?
という記者の質問には、

 ストーンズのメンバーになることさ。

と答えて笑うキース・リチャーズ。

なるほど。
ヤンチャな顔は20代の頃と全く変わらない。

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中村直史 09年11月7日放送



「草花になった人/藤原定家」

死ぬほど好きだ。
という言葉はよく耳にするが
死んでも好きだ。
という人はあまりいない。

歌人、藤原定家(ふじわらのていか)。
長く仕えた式子内親王(のりこないしんのう)への恋心は
死してなお収まることなく
式子の墓に「かずら」となって巻きついた…
こんな物語が元になって
木や岩にしがみつき這い登る植物に
「定家葛(ていかかずら)」という名前がついた。

冬になっても葉は緑のままで
からみつく相手がいないと
地面さえ覆いつくす定家葛。

面倒なのに逃れられない。
そんな恋心を見るようで、
少し、恐い。



「草花になった人/武蔵坊弁慶」

何十本もの矢を体に受けても
決して倒れなかった男。
死ぬときも仁王立ちのままだったという武蔵坊弁慶。

その弁慶が、
じつはいまも生きつづけているという。
野山やご近所の庭で。

不死身の弁慶にあやかった「弁慶草(べんけいそう)」
分厚い葉を持ち、
切られてもなかなか枯れず
土にさせばぐんぐん新しい根を生やす。

勇ましく。たくましく。
弁慶は、野原のかたすみや、鉢植えの中から、
「負けるなよ、日本人」
と語りかけているのかもしれない。



「草花になった人/平敦盛」

北国の、夏でも涼しい高原に
赤い頬をした
美しい少年がうつむきぎみに立っていた。

薄紅色の袋のような花を背負ったその花の名前は
「アツモリソウ」という。

16歳の初陣で、
潔く敵方の武士に
首を差し出した笛の名手、平敦盛(たいらのあつもり)。

何百年もの時をへた今も、
毅然とした姿で
逃げも隠れもせず
高原の風に吹かれている。



「草花になった人/熊谷直実」

城を捨て、船で逃げようとする平家の軍勢を追う
ひとりの武将がいた。

「敵に背を向けるつもりか、我の名は熊谷直実(くまがいなおざね)」

その声を聞いて引き返したのはまだ16歳の少年、
名だたる平家の武将のなかでも
とりわけ血筋正しい貴公子で笛の名手、平敦盛。
まだあどけなさの残るその顔を見て
熊谷直実は同じ年の息子を思い出す。

助けたいと申し出る熊谷に、
少年はただ「切れ」と言った。

何百年もの間、
人々の涙を誘った平家物語の一場面。
熊谷直実と平敦盛は、
「クマガイソウ」と「アツモリソウ」という野草の名前になった。

茶会ではこの2つの花が
一緒に活けられるという。
戦のない世界で、
ふたり静かに語り合っているのだろうか。



「草花になった人/静御前」

静御前(しずかごぜん)が囚われの身となり、
義経の兄、
頼朝の前で舞を舞わねばならなくなったとき。
彼女は、義経への一途な想いを歌った。

吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき

早春に咲く
「一人静(ひとりしずか)」という植物は
静御前がそのときかぶっていた烏帽子(えぼし)に似ている。

実は生きながらえたという
伝説の多い義経。
どこか隠れた里山で、
彼のために舞う
この花を見ただろうか。



「草花になった人/紫式部」

花は白みを帯びているのだけれど
実を結ぶとなんとも艶っぽい紫色になる。
そんなわけでつけられた名前が「紫式部」。

秋を代表する植物のように思われているのも
きっとその名前のおかげだ。

ところで、紫式部を小さくしたような植物に
小式部(こしきぶ)がある。
誰が名付けたのだろう。
小式部は紫式部ではなく和泉式部の娘なのに。



「草花になった人/千利休」

「利休草(りきゅうそう)」という植物がある。

なにげない草だけれど、
茶室に活けたとたん、
すっと存在感を出す。

利休が見出したわけでも、
利休が名づけたわけでもない。
なにしろ利休草が中国から渡来したのは江戸時代。
利休はその存在も知らずに亡くなっている。

でも、その繊細な姿が気に入られ
どうしても茶室に活けたいと思う人があらわれて
茶花にふさわしい名前をつけてもらった。

利休草。
茶道の世界でこれ以上いい名前はない。
遅れてスタートしたくせに
トップを走っているランナーのようだ。

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