2009 年 のアーカイブ

中村直史 09年11月7日放送



「草花になった人/藤原定家」

死ぬほど好きだ。
という言葉はよく耳にするが
死んでも好きだ。
という人はあまりいない。

歌人、藤原定家(ふじわらのていか)。
長く仕えた式子内親王(のりこないしんのう)への恋心は
死してなお収まることなく
式子の墓に「かずら」となって巻きついた…
こんな物語が元になって
木や岩にしがみつき這い登る植物に
「定家葛(ていかかずら)」という名前がついた。

冬になっても葉は緑のままで
からみつく相手がいないと
地面さえ覆いつくす定家葛。

面倒なのに逃れられない。
そんな恋心を見るようで、
少し、恐い。



「草花になった人/武蔵坊弁慶」

何十本もの矢を体に受けても
決して倒れなかった男。
死ぬときも仁王立ちのままだったという武蔵坊弁慶。

その弁慶が、
じつはいまも生きつづけているという。
野山やご近所の庭で。

不死身の弁慶にあやかった「弁慶草(べんけいそう)」
分厚い葉を持ち、
切られてもなかなか枯れず
土にさせばぐんぐん新しい根を生やす。

勇ましく。たくましく。
弁慶は、野原のかたすみや、鉢植えの中から、
「負けるなよ、日本人」
と語りかけているのかもしれない。



「草花になった人/平敦盛」

北国の、夏でも涼しい高原に
赤い頬をした
美しい少年がうつむきぎみに立っていた。

薄紅色の袋のような花を背負ったその花の名前は
「アツモリソウ」という。

16歳の初陣で、
潔く敵方の武士に
首を差し出した笛の名手、平敦盛(たいらのあつもり)。

何百年もの時をへた今も、
毅然とした姿で
逃げも隠れもせず
高原の風に吹かれている。



「草花になった人/熊谷直実」

城を捨て、船で逃げようとする平家の軍勢を追う
ひとりの武将がいた。

「敵に背を向けるつもりか、我の名は熊谷直実(くまがいなおざね)」

その声を聞いて引き返したのはまだ16歳の少年、
名だたる平家の武将のなかでも
とりわけ血筋正しい貴公子で笛の名手、平敦盛。
まだあどけなさの残るその顔を見て
熊谷直実は同じ年の息子を思い出す。

助けたいと申し出る熊谷に、
少年はただ「切れ」と言った。

何百年もの間、
人々の涙を誘った平家物語の一場面。
熊谷直実と平敦盛は、
「クマガイソウ」と「アツモリソウ」という野草の名前になった。

茶会ではこの2つの花が
一緒に活けられるという。
戦のない世界で、
ふたり静かに語り合っているのだろうか。



「草花になった人/静御前」

静御前(しずかごぜん)が囚われの身となり、
義経の兄、
頼朝の前で舞を舞わねばならなくなったとき。
彼女は、義経への一途な想いを歌った。

吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき

早春に咲く
「一人静(ひとりしずか)」という植物は
静御前がそのときかぶっていた烏帽子(えぼし)に似ている。

実は生きながらえたという
伝説の多い義経。
どこか隠れた里山で、
彼のために舞う
この花を見ただろうか。



「草花になった人/紫式部」

花は白みを帯びているのだけれど
実を結ぶとなんとも艶っぽい紫色になる。
そんなわけでつけられた名前が「紫式部」。

秋を代表する植物のように思われているのも
きっとその名前のおかげだ。

ところで、紫式部を小さくしたような植物に
小式部(こしきぶ)がある。
誰が名付けたのだろう。
小式部は紫式部ではなく和泉式部の娘なのに。



「草花になった人/千利休」

「利休草(りきゅうそう)」という植物がある。

なにげない草だけれど、
茶室に活けたとたん、
すっと存在感を出す。

利休が見出したわけでも、
利休が名づけたわけでもない。
なにしろ利休草が中国から渡来したのは江戸時代。
利休はその存在も知らずに亡くなっている。

でも、その繊細な姿が気に入られ
どうしても茶室に活けたいと思う人があらわれて
茶花にふさわしい名前をつけてもらった。

利休草。
茶道の世界でこれ以上いい名前はない。
遅れてスタートしたくせに
トップを走っているランナーのようだ。

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五島のはなし(61)

五島の愛すべき魚たち(その4)

・・・突然「その4」ですけど。
一応、「あらかぶ」「はこふぐ」「くろ」につづくその4ってことで、「ミズイカ」です。
関東では「アオリイカ」と言います。

あ、そもそもイカって魚なのか?

 

まあとにかく。このミズイカを釣るのがですね、おもしろいんです。
まず小さいアジを釣って、
それを泳がせてミズイカを食いつかせます。

最近は「エギング」と言って、餌木(エギ:魚の形をしたルアーです)を使った
釣りが流行ってますが、口は断然アジの泳がせ釣りです。
ミズイカは甘くって弾力があってうまいんですよー。
いきのいいアジ(やその他の小魚)を食料にしているわけだから
きっとそのせいでうまいのでしょう。

写真は兄が釣ったミズイカです。
これはまだお子様サイズですけど。
兄は(口と違って)思いやりがあり、人として大物ですが、
釣る魚はだいたい小物です。
兄は(口と違って)やさしくて、子どものころから人に好かれたけど、
魚たちはどうも寄ってきません。

・・・ごめん、兄。
対抗心でつい言いすぎた。

ミズイカ

ミズイカ

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バリ島見聞録(7)

「バリ島の結婚式」

滞在していたホテル(一泊1700円)の常にロックの黒Tを着ている20代のマネージャーが
お世話になった現地スタッフ(ヨガインストラクター・ベジタリアン&ナイスガイ)の友だちで、
その彼の兄貴が結婚するということで、遊びにこないかという提案をいただいた。

実はそのマネージャー、見かけによらず王族なのだとか。
王族の婚礼がみれるということで二つ返事し(二つ返事ってなんだ?)、
おずおずと写真とっていい? と聞いたところ、
写真撮らずにどうするの! としかられました。

さすが、1930年代から観光を売り物にしていたバリ島。
見られてなんぼらしいです。

正装して、伺ってきました。

bali-marriage

つづく

※「二つ返事」:「はい、はい」と重ねた返事。また、快く承知すること。(goo辞書)
間違った使い方しました。

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五島のはなし(60)

「こういう名前の外国人が五島に来たら、
さぞ盛り上がるだろう」シリーズ(その1)。

ヘッパバッカー・ユーケンさん(from オーストラリア)
→「うそばっかり言うから」さん。
 何を言っても島民から信じられない存在になるだろう。

テンゴバッカー・スンナーさん(from オーストラリア)
→「いたずらばかりするな」さん。
 島の子どもたちがついつい警戒してしまうだろう。

オージョコージョ・スンネさん(from ケニア)
→「えらく困ったね」さん。
 この人がいわゆる「困ったちゃん」な人だったら
 さぞかし素敵だろう。

アラヨ・ツンダヒゲナさん(from フィリピン)
→「まあかわいそうに」さん。
 島の人たちにすごくいたわってもらえると思う。

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Vision収録見学記録 part3-(2)

PICT0070

熊埜御堂由香-HP版と収録版

リスナーでお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、
このVision・HP版にのっている原稿と、
実際、放送されている原稿が
ちょっと違うことがあります。

書き上げた原稿を、収録現場で直すことが多々あるんです。
なので収録に立ち会うと、書いた人と、
演出する人が一緒に相談しながら原稿を直せるというメリットも。
今回はそのメリットをすっかり逃してしまいましたが・・・

たとえば、10月18日放送分の薄組の原稿だと、

(HP版)
琳派の創始者であり、
国宝「風塵雷神図」を描いた、俵屋宗達。

(収録版)
江戸時代の一大芸術、琳派の創始者であり、
国宝「風塵雷神図」を描いた、俵屋宗達。

(原稿版)
フェリックス・ゴンザレス=トレスの「気休めの薬」という作品だ。

(収録版)
13年前にエイズで他界した、コンセプチュアル・アートの鬼才、
フェリックス・ゴンザレス=トレスの「気休めの薬」という作品だ。

(原稿版)
スペインの建築家、アントニオ・ガウディ。
あのサグラダ・ファミリアの設計者。

(収録版)
スペインの天才建築家、アントニオ・ガウディ。
あの世界遺産として有名なサグラダ・ファミリアの設計者。

ずいぶん丁寧に、ネタを調べなおしていることがわかります。

VieVieさん曰く、Visionは言葉と言葉の間に、
ミックスした音楽も楽しんでほしいので、
意識的に間をとってミックスしているそう。
なので、主語を丁寧に繰り返してあげることと、
リスナーの知識はばらばらなので、
とりあげる人になるべく分かりやすい形容詞を補足することが
多いようです。

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五島のはなし(59)

口が五島を離れたのは18歳のとき、
大学に進学するためでした。
飛行機に乗って五島の空港を飛び立つと
飛行機はぐるっと島をめぐるように上昇し、
「なにこれパイロットが口を泣かせようとしてる?」と思うほど
島の姿をじっくり見せつける(そんな風に感じられた)ので
口は思わずぼろぼろと涙を流したのでした。

あ、ちなみに「口」が読みにくいでしょうが、
これ、今日から「私」の代わりに使うことになった一人称です。
「ハコ」という読み方をします。
以前、口のコピーライターの師匠であるKさんが
転勤の挨拶のときに

「自分というものはからっぽの箱みたいなもので、
 その箱に知り合った人たちや出来事が
 どんどん入って、それが自分をつくってるんだと思います」

ということを言っていて、
いいこと言うなあ、ほんとそうだよなあ、と思ったことを思い出し、
それで、「私」も「僕」も「俺」もしっくりこない口は、
口を口の一人称として使っていこうと(さっき)決めました。
(五島のはなし58参照)

口はいま36歳なので
口の半分のスペースが
島以外の年月と人と出来事で埋められたとも言えます。
この月日の境目って言うのはちょっと感傷的になるなあと
思って今日のはなしを書きだしてみましたが
実際はそんなに感傷的気分もわいてこず、
いまはただ、
この「口」という一人称がやっぱ使いにくいなあ、
という気持ちでいっぱいです。

これ五島の写真ですけど、五島のイメージとしてこの写真がふさわしいかは疑問。

これ五島の写真ですけど、五島のイメージとしてこの写真がふさわしいかは疑問。

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佐藤延夫  09年11月1日放送

01-silencesuzuka


サイレンススズカと武豊1

「もしも、あの馬が無事に走っていたら」

今でも競馬ファンが、そう考えてしまうレースがある。

平成10年、11月1日。天皇賞。
一番人気で先頭を走っていたサイレンススズカは
レース中に左前脚を骨折、安楽死となった。
ジョッキーの武豊は語る。

「夢が一瞬にして消えてしまった。」

11年前の天皇賞の話になると
悲しそうな顔をする人は多い。

02-silencesuzuka


サイレンススズカと武豊2

1997年、2月1日。
京都競馬場。
芝1600mの新馬戦。

サイレンススズカのデビューは、
強烈なものだった。

スタート良く飛び出したら、
そのままゴールまで影も踏ませない。
騎手は道中、慌てず騒がず、
手綱さえ動かさなかった。
まるで他の馬は歩いているようだ、と誰かが言った。
終わってみれば、7馬身差の圧勝。
競馬場は、溜息に包まれた。

「凄い馬が出た。」

別の馬に乗っていた武豊は、
初めて見るサイレンススズカのスピードに舌を巻いた。

03-silencesuzuka


サイレンススズカと武豊3

スピードは速いけど、誰も制御できないクルマ。
4歳当時のサイレンススズカは、まさにそんな馬だった。

幼さと気性の激しさが悪い方向に傾くと、
ことごとくレースを台無しにした。
弥生賞では騎手を振り落とし、ゲートをくぐり抜けてしまう。
ダービーは、ちぐはぐな競馬で惨敗。
秋のマイル戦も、見せ場すら作れなかった。

その年の12月、
香港遠征で、初めて武豊に身を任せる。

5着に敗れはしたものの、
気持ち良さそうにターフを駆ける姿は、
関係者を唸らせた。
持ち前のスピード、ダイナミックな足の運び、後半の粘り。
並の馬ではない。
一流馬となる素質は、随所に感じられた。
レース後、武はぽつりと言った。

「恐ろしい馬になるかもしれない。」

その予言は、思うより早く現実のものとなる。

04-silencesuzuka


サイレンススズカと武豊4

多くの競走馬は、自分のスタイルを持っている。
逃げ、先行、差し、追い込み。
宿命的に「一か八か」という言葉がつきまとうのは、逃げ馬だ。

たとえば2000mのレースで、
1000mを通過するタイムが
58秒というのは明らかにオーバーペースであり、
やがて後続の馬に一気に追い抜かれてしまう。

でもサイレンススズカに限っては、それがマイペースだった。

栗毛の逃亡者。
音速の貴公子。
異次元の快速馬。

のちに、さまざまな異名がつけられた。

05-silencesuzuka


サイレンススズカと武豊5

1998年。
5歳になったサイレンススズカは、
圧倒的な強さを見せつける。

2月のバレンタインステークスを皮切りに、
中山記念、小倉大賞典でも勝ち星を重ねた。
圧巻だったレースは、5月の末、中京競馬場で行われた金鯱賞(きんこしょう)。
スタート直後に飛び出したら、最後まで一人旅。
どの馬も、彼のペースについて行けなかった。

去年負かされたライバルたちは、遠くに霞んで見えるだけ。
4コーナーを過ぎると、観客は拍手を送り、
ゴール前では、笑いがこぼれた。
誰もがその強さに呆れてしまうようなレースだった。

終わってみれば、2着に11馬身の差をつけて圧勝。
レコードタイムを軽々と塗り替えていた。
これで、年が明けて4連勝。
武豊は語る。

「今日のサイレンススズカなら、どんな馬が来ても負けない。」

慎重な彼がこんなに強気な発言をするのは、珍しい。

06-silencesuzuka


サイレンススズカと武豊6

1998年、7月。
サイレンススズカは無傷の4連勝で、
春競馬最後のGI(ジーワン)レース、宝塚記念に挑む。

このときに限り、武豊には先約があり、
南井(みない)騎手に乗り替わった。

距離の延長が不安視されたが、
始まってしまえばいつも通り。
最後までどの馬も、並ぶことさえできなかった。

武は、エアグルーヴに跨がり3着。
サイレンススズカの後ろ姿を見つめるだけだった。
レースを終えて、南井騎手は言う。

「この馬の能力は、ナリタブライアンに匹敵する。」

それはかつて、怪物と言われた馬だった。

07-silencesuzuka


サイレンススズカと武豊7

1998年、秋。
天皇賞の前哨戦、毎日王冠は
東京競馬場で行われた。

サイレンススズカは、
淡々と自分のペースを守り、レースを進めていく。
しかしリードはそれほど大きくない。
最後の直線、他の馬が近づいたところで、一気に引き離した。

「これが理想だと思いました。」

武豊は、誇らしげに言う。
サイレンススズカがスターホースになった瞬間だった。

08-silencesuzuka


サイレンススズカと武豊8

やけに数字の1が目につく日だった。
平成10年11月1日の第11レース、秋の天皇賞。
サイレンススズカは、1枠1番にゲートインした。

芝が西日を浴び、ターフは黄金色に輝く。
彼はいつものように、後続に大差をつけて逃げる。
府中名物、大欅(おおけやき)を越え
まもなく第4コーナー、というあたりで躓くように失速。
左前脚の粉砕骨折。
この日が、サイレンススズカの命日となった。

翌年の7月11日、宝塚記念。
実況アナウンサーは、レースが始まる前に言った。

「あなたの夢は、スペシャルウイークか、グラスワンダーか。
 私の夢は、サイレンススズカです。」

人々の記憶の中で、彼は走り続けている。

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保持壮太郎 09年10月31日放送

1030_1

河井寛次郎

河井寛次郎は
仕事に生きた人だった。


 暮らしは仕事。仕事は暮らし。

そう言いながら彼は
日々土をこね
木を削り
真鍮を磨き
あるいは筆をとり
そして
たくさんの作品をのこした。

ワークライフバランスなんて
言葉を握り締めて
月曜日の憂鬱と
金曜日の恍惚を
繰り返しながら生きる
僕たちに向けて、彼は言う。

 新しい自分が見たいのだ。
 ―――――――仕事する。

1030_2

カイル・マクドナルド

わらしべ長者は、
本当に可能か。
という問いには
すでに答えが出ている。

米国モントリオールに暮らす
カイル・マクドナルド。

彼はたった1個のペーパークリップから
14回の物々交換をへて
2階建ての一軒家を手いれた。

ペーパークリップなら
あなたのデスクにも
山ほどあるだろう。
可能性とはつまり
そういった類のもので。

さっそく明日から
億万長者を
めざしてみるのも悪くない。

1030_3

甲本ヒロト

はじめてパンクロックを
聞いたのは
14歳のときだった。
そのときの感想を
甲本ヒロトはこう語る。


 こんなの新しくもなんともねえ。

やがて彼は、
マイクを握り
ステージに立った。


 ♪
 僕が言ってやる
 でっかい声で言ってやる
 ガンバレって言ってやる
 聞こえるかい ガンバレ!

とてつもなく
新しいパンクが、
そこにはあった。

1030_4

タヴィ・ジェヴィンソン

ファッションウィークの
見ものはランウェイの
上だけではない。
フロントロウに陣取る
セレブリティの顔ぶれにも
毎年注目があつまる。

2009年
マークジェイコブスのコレクションで
フロントロウに腰をおろしたのは
まだ13歳のタヴィ・ジェヴィンソン。

彼女は、
女優でも、歌手でも、
スポーツ選手でもない。

ただ、数年前に彼女が始めた
ファッションブログが評判を呼び
フロントロウへと招かれた。

VOGUEの名物編集長
アナ・ウインターの横に座る
13歳のブロガー。

その鮮やかすぎるコントラストは、
ことしのコレクションの
一番のニュースとなった。

ハイ・ファッションとメディア。

寄り添いながら歩んできた
二つの権威は、今、変わりつつある。

1030_5

カール・ユング

僕らは
完璧な人間ではないから
たくさんの
コンプレックスと共に
生きていくことになる。

たとえば
完璧な人間がいたとしても
彼は彼で、
完璧であるという
コンプレックスを抱えている。

つまり僕らはもう
カール・ユングという人の言葉を
信じて生きるしかない。


 コンプレックス
 それは偉大な努力を刺激するものであり、
 そしてたぶん、新しい仕事を遂行する
 可能性の糸口でもあるのだ。


1030_6

ウォーレン・バフェット

世界で
もっとも成功した
投資家のひとり、
ウォーレン・バフェット。

彼を
世界一の金持ちへと導いた
投資のルールは
驚くほどにシンプルだ。


 ルール1:絶対に損をするな。
 ルール2:絶対にルール1を忘れるな。

簡単なルールほど実践するのはむずかしい。

1030_7

宮本茂

かつて
ポール・マッカートニーが
来日したとき。
まっさきにディナーに誘い
サインをねだった
一人のサラリーマンがいる。

宮本茂。

ドンキーコング
スーパーマリオブラザーズ
ゼルダの伝説
これらは
彼の仕事の
ほんの一部だ。

宮本は言う。


 アイデアとは、複数の問題を一気に解決するものだ。

最近彼が手がけた
Wii Fitというツールは、
体重計に乗ることを
ゲームにした。

なるほど
彼のアイデアは
わたしたちの健康問題まで
解決してくれている。

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業務連絡「Visionの宴」

チームVisionのみなさん、
Visionの宴を開きます。

11月16日です。
わかりましたかっ!

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バリ島見聞録(7)

五島の話が面白くてたまりません。
死ぬまでに一度行かなくてはと思わされています。
これだけ愛情を持って故郷を語れることがうらやましい。
愛です。愛。

とすると私がバリ島に抱いている感情は恋なのでしょうか。。。(赤面)

さて、本日はバリの食事について。

旅行に行って何よりも楽しみなのは土地土地の料理といえます。
私はそうです。(料理好きは私は(微々たる)金にものを言わせて
食材をたんと買って帰りました。)

基本的にバリ人はナシ・チャンプルというものを食べます。
「ナシ」が「ご飯」で、「チャンプル」は「まぜる」、
つまり「まぜご飯」です。

一般の家庭では料理は一日に一回朝しか作りません。
ご飯を炊いて、オカズを5品ぐらい用意するのみです。

で、食べたい人はお皿にご飯を盛って、
好きなオカズをご飯の横によそって、
それらを混ぜて、手で食べます。

家族みんなで食べるという習慣がありません。
「いただきます」「ごちそうさま」という言葉もありません。
そもそもテーブルというものがあまりなく、
廊下や外でも、立って食べたりしています。

日本ではお米ひとつぶひとつぶに神様がいるいわれてますが、
バリ人は結構散らかして食べます。

信心深いバリ人たちがなんで!
最初は思いました。日本人なら誰しも感じる違和感だと思います。

でも、よくよく考えると食べ物に対する概念が
日本と違うんだということが浮かび上がってきます。

お米の国ですが、2期作3期作あります。
肥沃な土地でそんなに肥料も必用ありません。
果物は雨期乾期の差はありますが常に実っています。

つまり、ギリギリの環境でお米を作っていた日本と違って
飢える心配がないんですね。

残したお米も大地に帰ると思えば、
決して罰当たりなことではありません。

朝晩、お供え物を40カ所して、神様にも食事を与えているので、
いちいち食事の時にお祈りする必要もありません。

また婚葬祭でつねに家族単位で動く彼らにとっては
食事ぐらい一人で食べたいものかもしれません。

何より大きいと思うのが、
熱い国ですので、料理を暖める必要がないということです。

常温に置かれたオカズがこの国ではちょうどいい温度なんです。

IMGP2776

これらを混ぜて「サンバル(唐辛子+柑橘系の汁+紫玉ねぎ+ココナッツ油+α)」と
いう調味料を付けて“食べるとあなた!
やみつきですよ!

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