2010 年 のアーカイブ

薄景子 10年11月21日放送



あの人の暮らし チャールズ・M・シュルツ

世界中で愛されているスヌーピーの生みの親、
チャールズ・モンロー・シュルツ。
彼の作品に、幸せとは何かを綴った絵本がある。


 しあわせは落ち葉の山。
 しあわせは自分のベッドで眠ること。

30にわたる幸せの定義は、
何気ない毎日の中の、ささやかなことばかり。

小さな幸せは、
気づいてあげると
かけがえのないものになってくれる。



あの人の暮らし 松浦弥太郎1

今日のランチはどこへ行く?
将来はどっちの道に進む?
人生は選択の連続といってもいい。

大切なのは、そのときどき、
自分の判断を信じられるか。

暮らしの手帖の編集長、松浦弥太郎さんは
日々、選ぶ訓練を続けているという。

電車に乗れば、あたりを見回して考える。


 この車両で一人友だちをつくるとしたら誰がいいだろう?

あのおばあさんの話をじっくりききたい。
この男性とは映画の趣味があいそうだ。

毎日、選ぶ訓練をかさねると、
直感力と想像力がきたえられ、
数ある中から、コレというお宝が
瞬時に見つけられるという。

さっそく、野菜売り場で考える。
今晩は、舞茸をてんぷらにするのと
大根をおでんにするのは、
果たしてどっちが幸せだろう。

選ぶ訓練は、
暮らしを楽しくする訓練でもある。



あの人の暮らし 松浦弥太郎2

雑誌編集長であり、
古本屋を営む松浦弥太郎さん。
彼のエッセイを読んで、
ハッとしたことがある。


 いつくしむ方法は、1日1回、さわること。

松浦さんはお店の商品や椅子の脚に
毎日一度さわるという。
家でも、さわれる量以上の服や本は
できるだけもたない。

たしかに、何年も着ていないスーツには生気がない。
人の行かない別荘はすぐに悪くなる
という話もよく耳にする。

ものに命を吹き込むのは人。
ていねいに暮らす人は、
もちすぎない豊かさを知っている。

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熊埜御堂由香 10年11月21日放送



あの人の暮らし 佐野洋子とシズコ

絵本「100万回生きたねこ」で
知られる作家、佐野洋子は、
母親、シズコとの親子関係に悩み続けた。
高校の担任に、母は長女との関係をこう言った。


 女同士ということで嫉妬、かもしれません。

洋子は自分にどこか近い父にだけ、なついた。
終戦後、シズコは未亡人になるが、
めそめそせず、いつもばっちり化粧していた。
そんな母を、下品だ、と洋子は思っていた。

シズコが80歳近くになる頃、洋子と二人で暮らし始める。
シズコには痴呆の症状がではじめていた。
自身も60代にさしかかり、苦しかった。洋子は、
結局、母を施設に預ける決意をする。

子どもの頃は、手をつなぐことさえ、嫌悪し合ったのに。
洋子は、施設でシズコの体をさすり、
1つの布団へ一緒に入り話をした。
それは母と娘の暮らしの、最後の形だった。

シズコさんは、洋子さんに、無邪気に言った。


 私とあなたの間には、いることも、いらないこともあったわねぇ。




あの人の暮らし 佐野洋子

作家、佐野洋子。
今月5日、72歳で、静かに息をひきとった。

彼女は言った。


 余命2年と云われたら
 人生が急に充実して来た。
 毎日が楽しくて仕方ない。

余命2年をゆうに超えて、
洋子さんは、暮らした。生きた。

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石橋涼子 10年11月21日放送



あの人の暮らし 永田昌民

住宅建築家の永田昌民(まさひと)には、
ひとつだけ、
どんな建て主にも必ず提案することがある。


 落葉樹を一本、植えませんか?

それは家の設計とはまったく関係ない提案だけれど。
窓から外を眺めるとき、
コンビニに出かけるとき、
疲れて家に帰ってくるとき、
落葉樹は、毎日ちがう表情を見せてくれる。

永田は、建築ではなく、暮らしの提案をしているのだ。


 落葉樹を一本、植えませんか?



あの人の暮らし 立原道造


 僕は室内にゐて、
 栗の木でつくつた凭れの高い椅子に坐つて
 うつらうつらと眠っている。
 夕ぐれが来るまで、一日、なにもしないで。

詩人であり建築家であった立原道造。
彼が考える理想の暮らしは、
手のひらにおさまりそうな小さなものだ。
自分のために設計した理想の家は、
フロもキッチンもない、たった5坪の家だった。

しかし、彼がそこで暮らすことは叶わなかった。
立原道造の人生は、わずか24年で幕を閉じた。

彼の家は、今、とある湖のほとりに建っている。
訪れる人はそこで、詩人が夢見た暮らしを味わい、
また自らの暮らしに戻ってゆく。



あの人の暮らし 阿部なを

素朴で丁寧なおばあちゃんの味で愛された
料理研究家の阿部なをは、
48歳で料理の道に入った。

戦中・戦後を体験した彼女の原点は
「粗末な材料のめいっぱいの味」
を引き出してあげることだ。

だから、得意な料理も、
メニューの中心になる豪華な一品より、
暮らしの食卓に欠かせない小鉢もの。

ある日、
阿部なをが営む料理屋にきたお客さんが、
料理は芸術だ、とアツく語り始めた。
彼女は、ふんわり笑って


 芸術を365日食べたらお腹を壊すわよ

と言ったという。

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小山佳奈 10年11月20日放送


安部公房

1968年、
川端康成が日本人で初めて
ノーベル文学賞を受賞したその年。

パリのサンジェルマンデプレの一角に、
世界中の前衛作家の顔写真が張り巡らされる。

その中に、ただ一人、
日本人の顔があった。

安部公房。

奇想天外で難解なストーリーにも関わらず、
今なお世界中に熱狂的なファンを持つ。

安部公房はにこりともせずに言う。

「俺は世界的な前衛だからね」


安部公房

医学部出身の作家は案外多いが、
安部公房も、その一人。

しかしそもそも兵役逃れのために
医学部を選んだ彼にとって
医者になるための勉強なんかより
リルケやニーツェの方が
100倍重要だった。

何度も落第しようやく迎えた卒業試験では
妊娠期間を二年と答え教授を絶句させる。

「僕は医者になりません」

たぶん東大医学部史上初めてであろう
誓いを立ててようやく卒業を許された。

私たちは二重に感謝しなくてはならない。

一つは彼の文学を享受できたということ。
一つは彼の治療を受けずにすんだこと。


安部公房

たいていの作家は
売れない時代の苦労話の
一つや二つは持っているが、
安部公房の場合、ちょっと想像を絶する。

血を売ってパンを買う。
住んでいたバラックは隙間だらけで、
冬には粉雪が布団に降り積もる。

挙句の果てに
芥川賞で賞牌の時計をもらうやいなや
すぐさま質屋に走った。

売れてからは高級外車に乗り、
高級ホテルを定宿とした。

それもまた、いい話。


安部公房

文学界の鬼才、安部公房も、
焦っていた

それなりに本は出しているが
それなりにしか売れない。
27歳で芥川賞を取った彼も、
いつの間にか36歳になっていた。

急きたてられるように
軽井沢に別荘を借りる。

しかしその別荘は、
別荘とは名ばかりの
ただの牧場の休憩小屋。

電気もない。水道もない。
もちろんテレビもラジオも新聞もない。
外の世界から完全に遮断された世界。

そんな
極限から生まれたのが
「砂の女」だった。

焦ることも時には大切。
焦らなければ先は見えない。


安部公房

安部公房は、人に厳しい。

井上靖、井伏鱒二
巨匠と呼ばれる作家も彼の手にかかると
「まがいもの」と呼ばれてしまう。

初めて三島由起夫に会ったときも
「こういう小説は可能性がない」と
取りつく島もない。

しかしその後二人は
たびたび飲み屋に繰り出しては
文学について語り合うようになる。

「僕にとって三島由紀夫は得がたい相手だった。
 社交や妥協がいらない人物だった。」

安部公房は、人に厳しい。
その分、人への愛も深い。


ビートルズ

「いまの僕たちはキリストより人気がある。」

当時人気の絶頂だった
ジョン・レノンが雑誌の取材で言い放った言葉は
ローマ法王と世界中のクリスチャンの怒りを買った。

それから44年たった今年。
ローマ法王はジョンとビートルズを許すことを発表した。

「彼らの歌を聞いていると
昔のすべてのことが遠く無意味に思えてくる」

それが、音楽の力だ。


ビートルズ

ポール・マッカートニーは言う。
「結婚生活はやっぱりロマンティックでいいものだね。」

ジョン・レノンは言う。
「結婚など時代遅れの形式だと思う。」

ジョージ・ハリスンは言う。
「僕たちは成功にも名誉にも惑わされない。」

ジョン・レノンは言う。
「人間は誰でも一生をかけて大成功を夢見てるのさ。」

ビートルズはどこまでもバラバラだった。
それでも彼らは音楽でつながっていた。

ジョン・レノンは言う。
「話し合いはコミュニケーションの最も遅い手段だ。
音楽の方がずっといい。」

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薄景子さんの「落書き部屋」

薄組組長である薄景子さんは
子供時代に「落書き部屋」を持っていたらしい。

落書きをしてもいい壁がある部屋。
落書きでいっぱいになると
お父さんが新しいペンキを塗ってくれて
また壁は新しいキャンバスになる。
そんな落書き部屋を持つ子供がうらやましい。

つまり、Tokyo Copywriters’ Street の薄さんの原稿は
半分実話なのだ。

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中村直史 10年11月14日放送



人と石/早田くん

1979年のことだった。
夏休みの自由研究のため、
熊本県御船(ミフネ)町にやってきた
小学一年生の早田くん。

目的は、貝の化石を見つけることだった。

でも、見つけた化石は
貝にしては少し大きく、
貝とは違うギザギザがあり、
貝には見られない尖り方をしていた。

長い長い時を経て、
小学一年生の小さな手にたどりついたモノ。
それは、日本初、肉食恐竜の歯の化石。

早田くんの自由研究は、
世紀の大発見になった。



人と石/メアリー・アニング

その少女は、
地球に何十億年もの歴史があることなど知らなかった。

生物が絶滅するものだ、ということも、
かつて恐竜と呼ばれる生き物が
地球上にいたことも、知らなかった。
無理もない。世界中のほぼだれも、そんなことは知らなかったのだ。

少女は、ただ家計を助けるために、
動物の姿が刻み込まれた石を探し、観光客に売っていた。

いまから150年以上も前、
イギリスの港町にいた化石掘りの少女、メアリー・アニング。

「へえ、イギリスにワニがいるんだ・・・」

そうメアリーに思わせていた、
石の中の6メートルもの長さの生き物は、
イクチオサウルス。海の恐竜だった。

学校に通ったこともなかった
一人の少女は、それからも、
数々の発見で世界を驚かすこととなる。

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三國菜恵 10年11月14日放送



人と石/南アフリカの少年

1860年代、南アフリカ。
オレンジ川のほとりであそんでいた少年が
光る石を見つける。

それが、南アフリカ最初のダイアモンド。
のちに「ユーレカ」と名付けられる。
その意味は、ギリシャ語で「我、発見せり」。

少年の発見は、世界最大の
ダイアモンド鉱脈の発見につながった。



石について/夢の浮橋

数奇な運命をたどった石がある。

その石は、
南北朝時代に、後醍醐天皇が肌身離さず持ち歩いていた。

戦国時代には、豊臣秀吉、
江戸時代には、徳川家康の手に渡り、
「お守り」の石とされてきた。

この石が彼らの命を
本当に守ったかは定かではない。
けど、心をなぐさめていたことは間違いない。
だって、名前がとても美しいから。

石の名前は、「夢の浮橋」。
現代人の私たちは、徳川美術館に行けば観ることができる。



人と石/中島誠之助

「いい仕事してますねえ」のセリフでおなじみの
人気鑑定士、中島誠之助。
彼は、小学生たちにこんな宿題を出したことがある。


 自分の宝物を見つけて、持っていらっしゃい。

思い思いのものを持ってくる生徒たち。
彼自身も生徒に混ざり、
一番の宝物を持ってきてみんなに見せた。

それは、小さな石。
8歳のときに河原で拾って以来、ずっと大事にしてきたという。

高価なお宝はたくさん知っていても、
ほんとの宝物は石ころひとつ。

「お宝」に対する、彼の心がうかがえる。

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三島邦彦 10年11月14日放送



人と石/隈研吾

栃木県那須芦野に、「石の美術館」という名の小さな美術館がある。
設計を手掛けたのは、世界的建築家、隈研吾。
予算はほとんどないが、芦野の名産である石と、
石を扱う職人はふんだんに使える。
その条件の中で、彼はコンクリートやガラスに頼らない
石造りの名建築を生みだした。
彼は言う。


 制約は母である。制約からすべてが生まれる。
 そして自然とは、制約の別名である。



人と石/畠山直哉

「石灰石」と聞いて何を思い浮かべますか。
きっと、具体的なイメージを持つ人は少ないはず。

けれど石灰石は、
セメント、鉄、ガラス、紙、プラスチック、それに、薬品や食品、
さまざまなものに姿を変え、私たちの身の回りにあふれている。

そんな石灰石の採掘現場を
日本中で写真におさめた写真家、畠山直哉。
彼は語る。


 遥か地平線まで続くコンクリートのビルや道路が、
 すべてあの山々から掘り出した石灰石を原料としているなら、
 このビルや道路をすべて擦りつぶし、
 その膨大な量の炭酸カルシウムを慎重に元の場所に返してやれば、
 最後のスプーン一杯で、以前の山の稜線は、ぴったりと復元されることになるだろう。
 鉱山と都市はまるで写真のネガとポジのようなものだ。

今、あなたがいるその街も、
遠いどこかの石灰石鉱山の映し鏡。
そう考えると、風景が少し違って見えてきませんか。



人と石/アルバート・アインシュタイン

世紀の天才物理学者、アルベルト・アインシュタイン。

このアインシュタインという名前は、
ドイツ語で「一つの石」という意味だという。

そんな彼が残した言葉は。


 私は何カ月でも何年でもひたすら考える。
 九十九回目までは答えは間違っている。
 そして百回目でようやく、正しい結論にたどりつく。

この実直さ。
いかにも、名前どおり。

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坂本和加 10年11月13日放送


写真家 荒木 経惟

20代までは、
親からもらった顔。
30代以降は、
してきたことが顔にでる。
そう聞いたことがある。

50年以上にわたり
今も精力的に活動を続ける
写真家、アラーキーこと
荒木経惟は、ここ10年近く
日本人の顔シリーズと称する
膨大な数の作品を撮っている。

顔を変えるのは、
じつは風土や時代じゃない。
まわりのひとです。
愛するひと、愛してくれるひとがいるひとは
かならずいい顔をしている。

生きているひとの、
そこに表出しているものを
アタシは撮らされていると荒木経惟は言う。

荒木経惟の撮った写真には、愛がある。


事業家 リチャード・ブランソン

ヴァージングループの創始者、
リチャード・ブランソンは
16歳で「僕が校長なら
もっとうまい経営をする」。
そう言って学校を去った。

ヴァージンの起業はハタチのとき。

今でこそブランソンといえば
メディアを手玉に取るような
派手なパフォーマンスが
よく取りざたされるが、
それは宣伝効果をねらった戦略。

創業時は、来客があれば
わざとスタッフに
外から電話をかけさせ
活況を装ったこともあると言う。

成功のためなら、なんでもやる。
けれど、とにかく楽しんで、する。

楽しんでいるひとは、つよい。


ブックディレクター 幅允孝(はばよしたか)

時代が求めれば、
あたらしい職業も生まれる。
ブックディレクター、
幅允孝さんの仕事がそうだ。

依頼されて、
しかるべき場所に
「本棚」を作りに行く。
たとえば、カフェに。
病院のリハビリ施設に。

書店が品揃えなら、
幅さんのつくる本棚は、
そこに発見と一期一会がある。
好きな本を並べるだけでは
ただのおせっかいです。
そう言う幅さんの、徹底した
取材から生まれたセレクトが、
ひとと本の、新鮮な出会いを
つくっている。

世の中には、
星の数ほど本がある。
人生は、何冊出会えるかです。


クラフト・エヴィング商會×吉田篤弘と吉田浩美

クラフト・エヴィング商會の
創業は明治30年。
吉田篤弘さんと浩美さんは
現在その3代目なのだが、
扱う品物はすべて架空の世界にある。
たとえば、「堪忍袋の緒」に「舌鼓」。
それらを軽快な文章と
イラストで綴った書籍。
あるいは、先代の残した未来から届く
へんてこな古書を紹介する書籍。
それが、クラフト・エヴィング商會の商品だ。

吉田さんご夫妻は
空想をていねいにあたため、
たしかな構想にかえて、
それを仕事にしてしまった。
それも、とびきりおもしろく。

みんながそう簡単に
まねできない仕事なら
オンリーワンになれる。


だれかのなりたい職業×バービー

小学生にきいた2010年の
「大人になったらなりたい職業」の
1位は、男子が野球選手で、
女子は食べ物屋さん。
そう聞いて、ちょっと
ほっとした気分になる。

バービーの愛称で知られる
アメリカ生まれの17歳は、
ウェブ投票で、
ことし126番目の職業、
コンピューターエンジニアになった。

リカちゃんが永遠の
小学5年生であるのにくらべたら
ずいぶんアメリカ的。

でも、バービーがこれほどの
キャリアウーマンだったとは。
驚きです。


思想家×吉本隆明

たとえば、
いまの仕事が
自分に合っているのかと、
疑問に思うひとがいる。

戦後思想家の巨人、
吉本隆明さんに言わせれば、
なりたい職業と
他人から見た向き不向きは
違うものなのだそうだ。

ならば、どうしたらいいか。
吉本さんの答えは、
「両方やってみればいい」。
できれば、それが対になるように
表と裏の関係で修練すればいい。

吉本さんの言うことは、シンプル。
働くことを、こわがるな。


翻訳家 岸本佐知子

売れっ子翻訳家、
岸本佐知子さんは、
すこしあまのじゃくなひとだ。

敬愛する谷崎潤一郎の
小説を読み、最高に内容がない。
と、ほめちぎる。
内容がないのに最後まで読めて、
何度でも新鮮で発見と驚きがある。
そこが、スゴイと絶賛する。

もとより、彼女は
自由なものを書いていい場所で
なぜこんな普通の話を書くのか。
と、長らく思っていたらしい。

だからなのか。
彼女のエッセイは、抱腹絶倒の
妄想のオンパレード。もはや、
エンターテイメントといっていい。

近ごろ笑ってないあと思ったら。
岸本佐知子さんのエッセイを。
電車の中では、読めません。

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八木田杏子 10年11月07日放送



近藤京子


 音痴な人なんて、いません。

ヴォイストレーナーの近藤京子はそう言って、
歌うことが苦手な人を変えてきた。


 あなた、それじゃあ、ただ上手いだけよ。

近藤京子はそう言って、
歌うことが得意な人を変えてきた。

音楽の授業では、音程をとる上手い下手で
成績がつけられていたけれど。

彼女は、音程よりも声量よりも、
気持ちが伝わることを大切にする。

想像力と身体のすべてをつかって、
歌に想いをのせるための
アドバイスはシンプルだ。


 話すように、歌いなさい。
 歌うように、話しなさい。



ハインリヒ・フォン・クライスト

ドイツ語による最も美しい散文と称された
クライストのエッセイ「マリオネット芝居について」。

その中で彼は、ある少年が
無垢な優美さを一瞬にして失う様を描いている。

少年が足を拭こうとして足代に足をのせた瞬間、
大きな鏡をチラと一瞥して、
自分の姿が彫刻のように美しいと意識する。

もう一度それを人に見せるために
ふたたび足台に足を上げると、
もはや違う動きになっていた。

こんなエピソードをもちいて
クライストは語る。


 意識が人間の自然な優美さに
 どんな混乱を惹き起こさせるかは心得ている。

魅力や長所は、意識した瞬間に、自惚れや気取りになる。

そのときに失うものはあまりにも大きい。



サトウハチロー

 
サトウハチローの「小さい秋見つけた」という詩には
子供の視点で発見した秋が描かれている。


 呼んでる口笛 もずの声
 
 お部屋は北向き くもりのガラス
 
 はぜの葉あかくて 入り日色

この歌を口ずさんでいた子供のころ、
秋はもっと手に取りやすいものだった。

落ち葉をふみしめながら、どんぐりを拾ったり
赤い紅葉を本にはさんだり。

もくもくしていた入道雲が、
薄くとけたような空をながめたり。

大人になって、
夏の締めくくりと冬の支度に気を取られていると、
秋はするりと逃げていく。

サトウハチローが50歳をこえてから作詞した
「ちいさい秋みつけた」は、
忙しい大人が
秋を見つけるための歌なのかもしれない。



島田紳助

「学ぶ」の語源は、「マネブ」。
「真似る」から派生したものだという説がある。

島田紳助がまだ駆け出しのころ。

彼は、過去の漫才をできる限り集めて、
面白いと思うものを2種類にわけた。

マネできるものと、マネできないもの。

面白いと思えて、
自分にもマネできそうな漫才だけを分析した。

なぜ、ウケるのか。
セリフが上手いのか、間の取り方がいいのか。

そこから紳助が創り上げた漫才は、
若い世代を虜にした。

大物芸人の最初の一歩は、
マネからはじまったのだ。



大平健

精神科医である大平健は、童話をつかって治療をおこなう。

心の病の原因や対処法を、
患者自身に気付いてもらうために、物語をつかうのだ。

たとえば、
老後のくらしが不安で眠れなくなった67歳の老婦人。
夫と老人ホームに入って、
新しい暮らしを始めるのが不安な彼女には、「ももたろう」。

子どものいないおじいさん、おばあさんが、
尋常ではない方法で子供を授かるこの物語。

年をとっていても希望はもてる、
老婦人がそう思えたとき、睡眠薬はいらなくなった。

不登校になった女子高生には、「ねむり姫」。

どんなに手を尽くして防ごうとしても
100年の眠りにおちてしまった眠り姫のように、
予想外の問題は誰にでも起こる。
それでも、最後には幸せになれる。

そう思えたとき、
不登校の女子高生と母親は快方にむかった。

先人の知恵がつまった童話を紐解くと、
絡まった心の紐のほどき方が
見えてくるのかもしれない。



アルフレッド・ノーベル

ノーベル賞は、ダイナマイトを実用化した
アルフレッド・ノーベルの遺言からはじまった。

という話は有名だが、
ノーベル賞に数学賞がない理由は、
あまり知られてはいない。

数学を重要な学問だと思っていなかった、
数学者が嫌いだったなど、諸説がある。

ノーベルの恋敵だった
ミッターク・レフラーが数学者だから、
という説もある。

想い叶わず生涯独身を通した彼は、
ノーベル賞が恋敵に贈られるのはたまらなかった。

だから数学賞が、存在しないのだ。

そう考えると、
ノーベル賞のいかめしさが消えて
親しみやすくなる。



村上隆

芸術に、評価基準なんてない。
そう思うのは、素人なのかもしれない。

村上隆は、美術界の歴史を読み解いて、
次の手を戦略的にうつ。

新しい、美しいだけでは、作品は売れない。
過去の評価基準の先にある新しい価値を
プレゼンテーションして、売るのだ。

彼は、こう語る。


 世界基準の文脈を理解するべきである。

 価値をうむのは、才能よりサブタイトル。

それが東京芸大の博士課程をおえたあと、
コンビニの賞味期限切れ弁当を食べて暮らしながら
作品をつくりつづけた村上の結論。

若いうちに奔放にのばした才能を、
戦略的にパッケージングしたから1億円で売れたのだ。



カラカウワ王

フラダンスは踊りながら、話している。

ひとつひとつの動きに意味があるフラダンスは、
まるで手話のよう。
踊りながらハワイの自然の美しさを称え、
恋人への想いを伝え
古い伝説も語り継いでいく。

今では癒しの象徴とされるこのダンスは、
アメリカ人の宣教師たちに
異教の踊りとして半世紀近くも禁止されていた。

フラダンスを復活させたのは、
外交に長けていたハワイ王国のカラカウワ王。

近ごろでは日本でも学ぶ人が多いフラダンス。
滅びなくて本当によかったと思う。

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