風と舟 ジャンク
ジャンクは中国の船。
三本マストに四角い帆を張り、
その帆を竹で補強している構造だ。
はじめは沿岸を走る小さな船だったようだが、
10世紀を超えると「宝船(ほうせん)」と呼ばれる
大型船に発展した。
その大型船62隻の大船団を組み
季節風を受けて東へ船出したのが
中国の明の時代の皇帝に仕える鄭和(ていわ)だった。
鄭和の船団は4度めの航海でインド洋の西に達し、
5度めにはついにアフリカのケニヤに足を伸ばして
シマウマやキリンを持ち帰っている。
鄭和の宝船は、明の記録によると
全長137メートル、9本マスト。
当時としては世界最大の大型船だった。
2017 年 5 月 のアーカイブ
厚焼玉子 17年5月27日放送
厚焼玉子 17年5月27日放送
風と舟 冒険好きなキャラベル船
15世紀の海洋王国スペインとポルトガルで愛された船、
キャラベル船。
その三角帆は風を自由につかんで小まわりがきき、
浅瀬でも座礁することなく素早く動けたので
未知の世界へ乗り出す探検家に人気だった。
1492年、大西洋に乗り出したコロンブスは
最初はサンタマリア号に乗船していたが、
鈍重なキャラック船のサンタマリア号は
お付きのキャラベル船に置いて行かれることがしばしばあって
コロンブスの不興をかっていたらしい。
やがてサンタマリア号はカリブ海のイスパニョーラ島で座礁。
コロンブスは喜んでキャラベル船のニーニョ号に乗り換え、
ニーニョ号でヨーロッパに帰還した。
厚焼玉子 17年5月27日放送
風と舟 ドレイクとガレオン船
マゼランが世界一周の航海の途中で亡くなっておよそ50年後、
キャプテンドレイクのガレオン船ゴールデンハインド号が
イングランドのプリマスから出港した。
ゴールデンハインド号は300トン。
吃水の浅いスマートな船で安定性に欠けるものの
風を受けて走る速度は速かった。
ドレイクとゴールデンハインド号は
大西洋からマゼラン海峡を抜けて太平洋に進出。
スペインの船や植民地を襲っては財宝を略奪しながら
航海をつづけた。
東南アジアではちゃっかりとスパイスも仕入れ、
アフリカの喜望峰をまわって
生きて世界一周を果たした最初の人になった。
世界一周の味方は地球規模で吹くふたつの風、
貿易風と偏西風だった。
四宮拓真 17年5月21日放送
Joe Shlabotnik
相田みつを トイレ
「にんげんだもの」などの作品で知られる書家・詩人、相田みつを。
彼の作品には、なぜか、トイレでよく出会う。
飲食店のトイレの壁にかけられた日めくりカレンダーを
見たことがある人は多いのではないだろうか。
実は、彼の作品が初めて飾られたのも、喫茶店のトイレだった。
周囲の人々は「いくらなんでもトイレは屈辱的だ」と眉を顰め、
店の主人に、作品を外してもらうよう主張した。
しかし、みつをは、毅然としてこう言った。
トイレは禅僧のように自分の内面と向き合える修行の場所。
わたしの字は、そんな場所にこそふさわしい。
トイレこそ、自分の書が最も輝ける場。
そんな思いで書かれたからこそ、
トイレで出会う彼の作品は、妙に気になるのだ。
四宮拓真 17年5月21日放送
ひでわく
相田みつを 切り抜き
「にんげんだもの」などで知られる書家・詩人、相田みつを。
彼の作品は、カレンダーや色紙など手頃なサイズで出会うことが多いが、
実は、原本はとても大きい。
フレームがあると萎縮してしまうと言って、
いつも額縁の倍以上の大きさの紙に書き、
それを丁寧に切り抜いていたのだ。
その切り抜き作業に、みつをはものすごくこだわった。
定規を使って、ミリ単位の余白の調整を繰り返す。
納得がいってからようやく額縁に入れる。
ひとつの作品に、切り抜きだけで2日間費やすこともあったという。
周囲の人々は驚いたが、
みつをは「余白も含めて作品である」と譲らなかった。
見えない部分への、尋常ならざるこだわり。
みつをは、こう話している。
なかなか工夫をこらしているなあ、なんてことが
見る人にわかってしまうようでは、本物の書とはいえない。
子どもが書いたような字だが、読んだら感動した、というほうがいい。
と。
四宮拓真 17年5月21日放送
相田みつを デザイナー
「にんげんだもの」などの作品で知られる書家・詩人、相田みつを。
半紙に書きつけた独特の書体の詩が有名だが、
実は、グラフィックデザインも数多く手がけていたことは
あまり知られていない。
家族を養うために仕事を得る必要があったみつをは、
地元・足利市の和菓子店の包装紙などをデザインしていた。
「ロウケツ染め」という染物の技法を使った、
みつをらしく繊細で風変わりなデザインである。
当時としては、だいぶ斬新だったのではないだろうか。
みつをの仕事は評判を呼び、やがてデザインだけでなく
ネーミングやお菓子づくりそのものにまで関わったこともあったそうだ。
「デザイン」などという言葉がまだなかった地方都市で、
今でいうデザイナーと、コピーライターと、クリエイティブディレクターを
兼ねたような仕事をしていたことになる。
そんななか、どの仕事でも忘れずに必ずやっていたことがあった。
それは、「しおり」づくりである。
毎回、商品への思いを書でしたためた「しおり」をつくり、
商品に添えていた。
それの一部は、いまでも使われている。
どんなときでも、みつをの仕事には言葉が中心にあったのだ。
四宮拓真 17年5月21日放送
相田みつを 創作活動
「にんげんだもの」などの作品で知られる書家・詩人、相田みつを。
人間味のある朴訥とした筆づかいを、
誰もが思い浮かべることができるだろう。
しかし、彼の創作の現場は、その作風とは程遠いものだった。
シュッ、シュッと、斬りつけるような勢いで筆を走らせる。
その張り詰めた空気に、家族は近づくことができなかったそうだ。
そして、クオリティへの飽くなき執念。
書いても、書いても、納得できない。
ひとつの作品で何百もの、ときには何千もの半紙を使っていたという。
みつをの息子の一人(かずひと)さんは、山のような失敗作を燃やすのが日課だったそうだ。
「素朴」で「温和」なみつをの作品は、
尋常ならざる「殺気」と「気迫」によって生み出されていたのだ。
四宮拓真 17年5月21日放送
どんぺい
相田みつを 作風の変化
「にんげんだもの」などの作品で知られる書家・詩人、相田みつを。
みつをと言えば、誰もが連想するのは、あの独特の書体。
筆がのたうつようで、いわゆる「上手な字」ではない。
しかし、そのイメージを持って彼の初期の作品を見ると、あなたは驚くだろう。
実にきれいな楷書で、整然と漢字が並んでいるからだ。
それもそのはず。
みつをは19歳で著名な書家に弟子入りし、その後ほどなくして、
権威ある書道展で入選の常連になった。
20代にして、書道界ではかなりの実力者だったのだ。
そんなみつをが、いまの作風に変化したのは、30歳ごろ。
彼にどんな心境の変化があったのか。
のちにこう語っている。
自分は、技術的に高度な作品を書くことはできる。
でもそれでは、こいつなかなかうまいなあ、と感心はしてくれるが、
いいなあ、素晴らしいなあ、と感動はしてくれないのだ。
そう考えて、みつをは自分の言葉を、
自分の字で伝えることに人生を捧げる決意をしたのだった。
四宮拓真 17年5月21日放送
相田みつを 一文字
「にんげんだもの」など の作品で知られる書家・詩人、相田みつを。
人生訓のような詩が人気だが、作品全体を眺めると
実は「一文字だけの作品」が多いことにきづく。
「出逢い」「逢引」の「逢」、
「不可能」「不自然」の「不」がその代表例で、
ほかにも「水」や、ひらがなの「ゆ」などもある。
不自然の「不」という字は、否定ではない。
今日の自分を生きる、今日新たに生まれ変わる。
そうとらえている。
彼は、一文字のなかに、無限に広がる世界をイメージしていた。
「土」という一文字を書いた作品がある。
タテ1本・ヨコ2本の線でできた極めてシンプルな漢字だが、
だからこそ難しい。
何回書いても、うまくいかない。
そう言って、彼は死ぬまで、「土」を書き続けた。
四宮拓真 17年5月21日放送
相田みつを 芸術家とは
「にんげんだもの」などの作品で知られる書家・詩人、相田みつを。
彼の作品は、絶大な人気を誇る一方で、
トイレの落書きと言われたり、パロディの対象になったりした。
みつを自身が「便所の神様」と揶揄されたことさえあった。
そんなイメージのせいだろうか、
彼はなかなか「芸術家」として評価されなかった。
とりわけ、アートの専門家からの批評・評論はいまもほとんど存在しない。
無視、と言っても差し支えないほどだ。
一方で、一般の人々からの人気は圧倒的だ。
関連出版物の販売数は累計で1千万部を優に超えると言われる。
東京・有楽町にある「相田みつを美術館」には、
オープンから20年が経ったいまでも、年間で40万を超える人たちが訪れる。
誰からも愛される。しかし、専門家だけが愛さない。
はたして、「芸術家」とはなんだろうか。