Vision

松岡康 17年4月16日放送

170416-08
建築家の少年時代

今日はクラーク博士が
「ボーイズ ビー アンビシャス」
の言葉を残した日。

水平に長く伸びる薄い屋根。
構造から独立した石の壁が自由に配置され、流動的な空間を作っている。
近代建築の最高傑作ともいわれるバルセロナパビリオン。
この作品を設計したのが
20世紀を代表する建築家ミース・ファン・デル・ローエだ。

1886年ミースは石工一家の息子として生まれ、
幼いころから父の傍らで仕事を手伝った。

当時、建築家になるには大学で建築学を学ぶことがあたりまえの時代。
そんな時代にあって、ミースは正規の建築教育を一切受けていなかった。
彼は「ものを作る」ということを、体で学んでいったのだった。

ミースは言う。

 神は細部に宿る。

机の上で学ぶのではない。手で学ぶことで、得られる境地がそこにはあった。


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厚焼玉子 17年4月15日放送

170415-01
遺言の日 ノーベル

 全財産はつぎの通り処理すること


 遺言執行者は基金を安全な有価証券に投資し、
 毎年その前年度に人類に最も貢献をした者に、
 その利子を賞金の形で与える。

 (利子は5等分し、物理学の分野で最も重要な発見または発明をした者、
 化学の分野で最も重要な発見または改善をした者、
 生理学または医学の分野で最も重要な発見をした者、
 文学で最も傑出せる理想主義的傾向の作品を書いた者、
 諸国間の融和・常備軍の廃止もしくは削減・
 または和平会議の開催および推進に最も貢献せる者に、
 それぞれ一部を与えること。)


 右の賞は、候補者の国籍を問わず、
 最も賞すべき者に授与するのが自分の希望である


 1895年11月27日 アルフレッド・ノーベル

この遺言のおかげでノーベル賞ができた。
4月15日は遺言の日


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厚焼玉子 17年4月15日放送

170415-02
遺言の日 ナポレオン

1821年、ナポレオンは遺言の補足として
こんな言葉を残した。


 「わたしの遺体はセーヌ河畔に葬ってほしい。
  わたしが深く愛するフランス国民の中にありたいからである。」


これを書いた4月16日、
ナポレオンの健康状態は悪化する一方で、
わずかな食べ物も戻すようになっていた。
ナポレオンはそんな中でも
自分の遺言書が破棄されることを恐れ
用心深く数通の複製を作っていた。

2013年、パリの競売でこの遺言補足書が落札された。
35万7千ユーロ、日本円でおよそ4700万円だった。
ナポレオンは自分の遺言書の価値が
わかっていたのだろうか。

4月15日は遺言の日


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厚焼玉子 17年4月15日放送

170415-03
遺言の日 本居宣長

江戸の国文学者、本居宣長の遺言には
葬式と墓についての細かい指示がある。

 墓地7尺四方、真ん中を少し後へ寄せて塚を築くように。
 そのうえに桜の木を植えるように。
 塚の前には石碑を建てること。
 塚の高さは三四尺ばかり。
 芝を植え土を固くして崩れないようにする。
 のちのち、もし崩れているところがあれば、
 ときどき見回って直しておく。
 植える桜の種類は山桜の花のよいのを選んで植えてほしい。


本居宣長はその墓の設計図も残している。
そして墓についての指示の後には
墓参りについての指示が続くのである。

遺族の心境を伺ってみたい。

4月15日は遺言の日


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厚焼玉子 17年4月15日放送

170415-04
遺言の日 カール・マルクス

カール・マルクスは家政婦に遺言を求められたときに
こう言った。

 出て行ってくれ!
 最後の言葉なんてものは、

 充分に言い足りなかったバカ者達のためにあるのだ。


皮肉なことに、この言葉が
いまではマルクスの最後の言葉として伝えられている。

4月15日は遺言の日


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厚焼玉子 17年4月15日放送

170415-05
遺言の日 ガンディ

 束縛があるからこそ、

 私は飛べるのだ。



 悲しみがあるからこそ、
 私は高く舞い上がれるのだ。


 逆境があるからこそ、
 私は走れるのだ。




 涙があるからこそ、
 私は前に進めるのだ。


これはマハトマ・ガンディが
暗殺される3か月前に書いた詩だ。

ガンディは胸に3発の銃弾を打ち込まれたとき
暗殺者を許すという意味のジェスチャーをしたと伝えられている。

4月15日は遺言の日


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藤本宗将 17年4月9日放送

170409-01 Zanpei
奈良の大仏と開眼供養

西暦752年の4月9日。
奈良の東大寺で大仏の開眼供養が行われた。

しかしその時点で大仏は完成しておらず、
まだ仕上げ作業の多くを残していた。
飾りなどを含めて最終的に完成したのは、
さらに約20年後のこと。

開眼供養の年は
仏教伝来から200年目の節目に当たり、
どうしても間に合わせることが
必要だったのではないかと推測されている。

納期に追われる厳しさは、
天平の昔から同じらしい。



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藤本宗将 17年4月9日放送

170409-02
奈良の大仏とヘアスタイル

大仏さまの頭についているたくさんの突起。
これは渦巻き状の髪の毛で、「螺髪(らほつ)」という。

奈良の大仏の場合、
ひとつの螺髪は直径が約22cm、高さが約21cm。
重さは約1.2kgにもなる。
ただ、それが何個取り付けられているのかは
これまで正確に数えることができなかった。

しかし2015年に東京大学の研究者が
レーザー解析によって螺髪の数を算出。
492個の螺髪が取り付けられているとわかった。
奈良時代からの伝承では「966個」とされてきたが、
その約半分。定説を覆す結果だ。

江戸時代に造り直されたときに減ったのか、
もともと少なかったのか。
理由はわからない。

大仏さまは、髪の毛一本までミステリアスだ。



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藤本宗将 17年4月9日放送

170409-03 KE-TA
奈良の大仏と経済効果

奈良の大仏の建造費を、当時の資料などから
経済学者が試算したことがある。

まず原材料費については、大仏に使った精錬銅 約500トンや
大仏殿の柱の丸太84本など、約3363億5000万円。
そして人件費。建造に携わった人だけで
延べ260万人以上にも及ぶといい、約1292億円。
さらに彼らの住居費として、約1億7000万円。

積算すると、大仏と大仏殿の建造費は
現在の価格で約4657億円となる。
もっともこの試算には石材や内部装飾、
東大寺の他の建築物にかかった費用は含まれていないので、
実際にはもっと多くのお金が動いたはずだ。
建造にかかわった人々の消費なども含めた経済波及効果は、
約1兆246億円に上るという。

これだけ大規模な「公共事業」。
いまならかなりの景気対策になりそうだが、
やはり現代と奈良時代では状況が違う。
かつてない大規模な建設工事によって国の財政は大きく悪化。
とりわけ農民の負担が激増し、
平城京のなかでは浮浪者や餓死者が後を絶たなかった。
地方によっては農民たちが逃亡して税制が崩壊するなど、
律令政治の矛盾点が浮き彫りになっていった。

仏教で世の中を救おうとする聖武天皇の願いとはほど遠い結末。
やがて都も京都の平安京へと移される。
奈良に残された大仏は、
どんな思いで世の移ろいを見つめていたのだろう。


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藤本宗将 17年4月9日放送

170409-04
奈良の大仏と平和

平和を守るためにつくられた奈良の大仏だが、
現実には戦火によって二度も焼失している。

はじめは、源平の合戦。
そして二度目は、戦国時代。

しかしそのたびに
人々の力を集めて大仏は再建された。
いま現存している奈良の大仏は、
江戸時代、太平の世になってからのものだ。

大仏が焼けずにすむということが、
平和の証と言えるかもしれない。

平和を守るのは、私たち人間の役目なのだ。



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