熊埜御堂由香 10年08月22日放送
5.夏の風物詩 花火師 高杉一美
昭和5年の春、16歳の少年がある職業に夢をかけた。
花火師、高杉一美
親方からやっと認められはじめた7年目のとき。
盧溝橋事件が勃発し、
やがて世界は太平洋戦争へ突入した。
火薬の知識が買われた高杉はダイナマイトの製造に関わるようになる。
工場にある火薬を見ると想像力が騒ぎだす。
これをつかえば大輪の花々を夜空に咲かせる尺玉がいくらでもつくれるのに・・・
ある日、火薬庫へ向かおうとしていると、
すさまじい爆発音とともに倉庫の屋根がふっとんだ。
中にいた女性の工員はみんな亡くなり
あと1歩のところで高杉は命を拾った。
花火師、高杉一美は
戦後、次々とコンクールで賞をとる花火を生み出していった。
高杉は花火にこんな願いを込めていた。
生きていることがうれしくてたまらないような、
そんな花火であってほしい。
6.夏の風物詩 衣がえ
灰皿も硝子にかへて衣更へ
日本の少女小説の祖とも言われる
吉屋信子が詠んだ句だ。
女性らしい、彼女らしい、
細やかな夏の楽しみ方が
伝わってくる。
真っ白なワンピースを着たくなる。
髪をアップにしたくなる。
方法はひとそれぞれ。
夏が終わる前に、
もっと、もっと夏を感じよう。
7.夏の風物詩 お盆を想う唄
盆だ盆だと待つのが盆よ。盆がすぎれば夢のよう。
岩手県の遠野市に伝わる一口唄だ。
村のだれが唄いはじめたのか、わからないが
こんなふうに、
日本中がお盆を楽しみにしている時代があった。
8月は日本人が故郷に帰る季節。
帰省ラッシュに文句をいいながら、
それでもやっぱり
帰りたくなる場所がある。
8.夏の風物詩 まんまる西瓜
作家、結城信一が1967年に発表したエッセイ、西瓜幻想。
結城は、電気冷蔵庫におしこまれた現代の西瓜に同情をよせ、
こう書いた。
土から生まれた西瓜にとっては、
井戸の中にいれてもらって、
ごろんごろんと
浮かびながら
ひとを待っているのが
いちばん楽しい時なのだ。
そういえば、最後に、
まんまるの大きな西瓜に、わくわくして、
包丁をざくりと入れたのはいつだったっけ。
スーパーで切って売られている赤い水瓜を手に取ると
家族の多かった子供時代を思い出す。
坂本仁 10年08月21日放送

マルコ・ポーロ
飛行機もクルマも存在しない、
まだ世界最速の陸上の移動手段が馬だった時代。
17歳のマルコ・ポーロはヴェネチアを出発し
中東から中央アジアへ、
そして現在の北京にあたる元の首都まで旅をした。
それから17年間、
マルコ・ポーロは元の国の外交官として
アジアの各地を旅してまわった。
その壮大な冒険を口述したのが、
「東方見聞録」である。
「東方見聞録」の内容は
あまりに想像を絶するものだったために
はじめは誰も信用しなかった。
けれども、
マルコ・ポーロが記したアジアの富や物産は
人々の冒険心を刺激して
やがては大航海時代の目標につながっていく。
コロンブスも東方見聞録を愛読書としていたという。

山田康雄
日本を代表する声優、山田康雄。
洋画では、
クリントイーストウッドやジャン・ポール・ベルモンドの吹き替えとして知られ、
アニメではルパン三世の声優として長い間多くの人に愛された。
そんな山田康雄には、
新人声優たちを指導する際の口癖があった。
声優を目指すな。
役者を目指せ。
演技は全身でするものだ。
彼は現実の世界で、知識と経験という宝を若い声優たちに与えつづけた人だった。

ロベルト・バッジョ
イタリアを代表するサッカー選手、ロベルト・バッジョ。
現役を退いてなお、
世界中にファンを持つ彼が、以前、
ドーピングについて語ったことがある。
僕の知っているドーピングはただひとつ、
努力だけだ。
絶対に負けたくないという強い気持ちがあれば
そのために
「努力」という方法を選ぶこともできる。
ファタジスタと賞されたロベルト・バッジョ華麗なプレーも
日々の練習に支えられていたのだから。

ライト兄弟
1903年12月17日。
その飛行機は浮き上がったかと思うと、
今度は地面に向かって急降下した。
世界ではじめて人類が飛行機で飛んだのは、
わずか12秒だった。
しかしそれは、
人類が長い間抱いていた夢を叶えた12秒であり
空気よりも重い機械を使って空を飛んだ世界最初の成功例でもあった。
ライト家の三男、ウィルバー・ライト。
四男オーヴィル・ライト。
人類初の動力飛行という偉業を成し遂げたライト兄弟は、
大空を飛ぶためにすべてを捧げた。
オーヴィル・ライトは
こんな言葉も残している。
「飛行の興奮はあまりに強烈で喜びが大き過ぎるので
スポーツとは認められない」

松本英彦
戦後の日本のジャズ界をリードした世界的テナーサックス奏者、松本英彦。
眠そうに目を閉じながら、
とろけるような音色を奏でることから、
スリーピー松本と呼ばれた。
2000年にこの世を去った松本英彦は、
現在、京都にあるお墓に眠っている。
そのお墓には、
スイッチを押すと彼の演奏が流れるという、
ユニークな仕掛けがある。
紫綬褒章、勲四等旭日小綬賞を受賞したジャズマンは
目を閉じてもなお
訪れる人と共にスウィングしている。

ヘミングウェイ
一日のうち、何かを待っている時間は意外と多い。
そして、私たちは一日何度も苛立ちを感じている。
けれど、
「武器よさらば」、「老人と海」などで知られるノーベル賞作家、
アーネストヘミングウェイの言葉は、
そんな苛立ちをゆとりへと変えてくれる。
魚が釣れない時は、
魚が考える時間をくれたと思えばいい。
なかなか来ないエレベーターだって、
いつも遅刻してくる友人だって、
そして渋滞だって、
考える時間をくれているのだ、
そう思えれば、きっと毎日は楽しくなる。

リュミエール兄弟
1895年、パリのグランカフェで
ある人はコーヒーをこぼし、
ある人は外に向かって逃げ出し、
ある人は腰を抜かした。
人々が目にしたのは、世界初の映画上映。
リュミエール兄弟の作品のひとつ、
「シオタ駅への列車の到着」だった。
駅のホームに蒸気機関車がやってくる情景を
ワンカットで映した単純なショートムービー。
しかし、スクリーンで映像を見たことがない人々を
驚かすには十分だった。
その場にいたすべての人が、
本物の蒸気機関車がカフェに突っ込んできたと思ったという。
映画をつくった人はたくさんいる。
けれど映画というジャンルをつくった人は、
リュミエール兄弟以外にはいない。
映画というエンターテインメントの世界を切り拓いたリュミエール兄弟。
その名にあるリュミエールという言葉が、
フランス語で「光」を意味することは、
偶然にしてはできすぎているのかもしれない。
中村直史 10年08月15日放送
あの人の、8月15日。/島田覚夫
1945年8月15日、戦争は終わった。
けれど「戦争が終わった」と知るすべのない人たちにとって、
戦争は終わりようがなかった。
その日、ニューギニアの山奥で、
島田覚夫さんは
仲間の兵士とともに
敵の陣地に置き去りにされたままだった。
四方八方に敵の気配を感じながら、
武器も食料も底をつく中、彼らは
ひとつの、シンプルな大方針を立てる。
生きられる限り、生き抜こう。
最初は、わずかに残された乾パンを、
それがつきると、蛙、蛇、鼠、とかげ、いもむし、あらゆるものを食べた。
飢えをしのぎなら、今度はジャングルを開拓し、畑をつくった。
無我夢中で毎日を生き、気がつけば10年が経っていた。
本人が、原始時代、石器時代、鉄器時代と呼ぶように、
工夫を重ね、生き延びた10年。
その回顧録を読むと、
不謹慎かもしれないが、
生き抜こうとする人間の力と知恵にわくわくさえしてしまう。
ようやく終戦を知ったのは、昭和30年3月のこと。
「実家に帰ったら、自分の遺影があったんですよ」
彼はそう言って、笑った。
三國菜恵 10年08月15日放送
あの人の8月15日。/高見順
1945年8月15日
プロレタリア作家、高見順は
電車に乗っていた。
彼はそこで、
終戦を信じない日本兵たちの声を聞く。
今は休戦のような声をしているが、敵をひきつけてガンと叩くに違いない。
高見は、ひそかやな溜息をついた。
すべてだまし合いだ。
政府は国民をだまし、国民はまた政府をだます。
軍は政府をだまし、政府はまた軍をだます。
戦争がはぐくんだ
だましあいの心に気づき、彼はじっと眼を閉じた。
あの人の8月15日。/野坂昭如
1945年8月15日
あの「火垂るの墓」を書いた
野坂昭如は、14歳の少年だった。
玉音放送を聴いたとき、彼はこう思ったという。
死ななくていい、生きて行ける、
本当にホッとした。
この軽い言葉がいちばんふさわしい。
誰もがみんな、
敗けたかなしみに打ちひしがれている訳ではなかったのだ。
あの人の8月15日。/永井荷風
昭和を代表する小説家、永井荷風は
1945年8月15日
玉音放送の直前まで、
谷崎潤一郎と過ごしていた。
二人は戦時中も
絶やすことなく日記を書き、
新たな原稿を書いては、互いに読み合っていた。
そんな荷風の8月15日の日記。
終戦の記録は、たった一行
枠の外にしるされているだけだった。
正午戦争停止
その言葉のほかには
天気と、食べ物と、友人の話があるばかり。
普通の幸せがいちばんなんだ。
彼は戦火の中で、
そう思い続けていたのかもしれない。
三島邦彦 10年08月15日放送
あの人の、8月15日。/吉田秀雄
1945年8月15日、正午。
とある広告会社のオフィスビル。
ラジオで終戦の報せを聞き、
落胆する社員の中で、一人の男が叫んだ。
これからだ。
男の名前は吉田秀雄。
当時、その会社の常務だった。
後にラジオの民営化に尽力することとなる。
戦争のための宣伝から、経済のためのコマーシャルへ。
新しい時代に向け、
彼はまず、オフィスの掃除を始めた。
あの人の、8月15日。/下村宏
終わりを告げたのは、ラジオだった。
65年前の今日、
1945年8月15日正午
ラジオから流れる昭和天皇の声が、
日本国民に終戦を告げた。
いわゆる「玉音放送」。
この放送を実現させたひとりの男がいる。
当時の内閣国務大臣、下村宏。
新聞社に勤めていた頃から
講演のためラジオに度々出演していた下村は、
当時最大のマスメディアであった
ラジオの力を実感していた。
戦争が終わった。
その結末を国民に伝えるには、ラジオしかない。
そう思った下村は、天皇に進言し、許可を得る。
ポツダム宣言受諾後、すぐさま天皇の声を録音、
放送までの実務を取り仕切った。
史上最も国民に衝撃を与えたラジオ放送は、
こうして実現した。
あの人の、8月15日。/清川妙
作家の清川妙は、
山口市にある実家で、
終戦を告げるラジオを聞いた。
その日のことを、こう語っている。
ああ戦争が終ったんだという気持ちだけでした。
でもその晩はうれしかったですね。電気をあかあかと点けてもいいし、
カーテンも開けてよくなりましたから。
戦争は、比喩ではなく、人々から光を奪っていた。
とても安堵できる状況ではなかったけれど、
ひとまず、明るい夜が戻って来た。
あの人の、8月15日。/羽田澄子
その日、中国の大連市にも玉音放送は流れた。
満州鉄道の中央試験所のラジオの前には、
後に映画監督になる、羽田澄子がいた。
初めて戦争ってやめることができるのだ、
やめるという選択肢があったのだと知りました。
だって生まれたときから戦争していて、
平和のためには戦わなくてはいけない、
結論がでるまでずっと戦争をしているのだと思い込んでいたのです。
人間がはじめることは、人間が終わらせることができる。
そのことに、やっとみんなが、気がついた。





















