藤本宗将 14年8月17日放送

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AvgeekJoe
山内溥と運

1992年、メジャーリーグのシアトル・マリナーズは経営危機に瀕していた。
身売りされればシアトルからの移転も考えられる状況。

そんなとき地元の要請に応え、ポケットマネーで
マリナーズ買収に乗り出したのが当時の任天堂社長・山内溥だった。
彼の思いとしては、任天堂の米国法人であるNintendo of Americaを
長年置かせてくれたシアトルへの恩返し。
しかし一方で外国人がオーナーとなることに対する世論の反発もあり、
買収の承認を得られるかどうかは微妙な情勢だった。

そこで経営には口出ししないことを米国民にわかってもらおうと、
山内は記者会見でこう発言した。

「64年の人生で野球を観戦したことがない。興味がないんだ」

こうしてメジャーリーグ初の非白人オーナー、
そして野球にまったく興味のないオーナーが誕生した。
実際に山内は「飛行機が嫌いだから」という理由で
マリナーズの本拠地セーフコ・フィールドに一度も足を運ぶことはなかった。

そんなオーナーが唯一チームに対して口出しをしたのは、
イチローがメジャーリーグ挑戦を表明したとき。
何が何でも獲れ、という山内の号令によって「マリナーズのイチロー」は生まれた。
入団後の彼がチームに多大な貢献をしたことは説明する必要もないだろう。

まさに山内オーナーのファインプレー。
野球に興味がなくても、ゲームをおもしろくすることにかけては一流だった。

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藤本宗将 14年8月17日放送

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torne
山内溥と京都

京都には、独創的でユニークな経営の企業が多いと言われる。
任天堂もそのひとつ。

しかし京都に本拠を置く理由をインタビュアーが尋ねたところ、
当時の社長・山内溥はいつになく返答に窮した。

「お墓も京都にあるし…
 私が住んでいる家も祖父が建てたもので…
 仏壇もあるし…」

どんな都市にも、ユニークな企業はある。
ユニークでさえあれば、どこにいても世界と戦える。
彼はそう言いたかったのかもしれない。

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藤本宗将 14年8月17日放送

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ralphunden
山内溥と囲碁

任天堂の元社長・山内溥。
彼は世界的なゲーム会社・だったのにもかかわらず、
自分ではゲームをほとんどやらなかった。
唯一手を出したゲームが、囲碁ゲーム。大の囲碁好きだったからだ。
アマ六段だったが、実力はそれ以上とも言われていた。
2005年には囲碁界への貢献が認められ、
日本棋院の関西総本部長にも就任しているほどだ。

そんなわけで、囲碁ゲームに特別なこだわりを持っていた山内。
噂によれば、任天堂が囲碁ゲームを出す際は
コンピュータが山内と勝負して勝たなければならないという
暗黙のルールがあったという。
いわゆる「任天堂伝説」のひとつだから真相のほどはわからないが、
確かに任天堂は2008年になるまで
一度として囲碁ゲームを発売することがなかった。

ちなみにコンピュータ囲碁の実力は、
現在でもようやくアマ四段から六段程度にすぎないそうだ。
囲碁の盤面の広さは将棋・チェス・オセロと比較して広く、
打ち手にも感覚的な部分が多いことなどあって、
強いコンピュータプログラムをつくることはとても難しい。
将棋ではコンピュータがプロ棋士を次々と下しているのに対して、
囲碁における人間の優位はいまだに揺らいでいない。

つまり、当時アマ六段の山内に勝てというのは
かなりの「無茶ぶり」だったわけだ。
開発を担当する社員にとっては、
きっと彼の姿が強大なボスキャラに見えたに違いない。

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藤本宗将 14年8月17日放送

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torne
山内溥と岩田聡

1949年、東京で大学生活を謳歌していた山内溥は
京都に呼び戻された。祖父が病に倒れたため、
22歳の若さで家業の任天堂を継ぐことになったのだ。

そのとき彼が条件として挙げたのは
「任天堂に山内家の人間はひとりでいい」ということ。

ビジネス経験などない若者による経営改革。
その後も山内は優秀で個性的な人材を
大胆に登用していった。

2002年に社長を退くときも、
かつて社外から見いだした岩田聡を後継者に指名した。
このとき岩田は入社2年目。

常識にとらわれない発想と、
人を見る目があるからこそできることだった。

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藤本宗将 14年8月17日放送

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phobus
山内溥と宮本茂

カリスマ経営者といえば
社内で怖れられていそうだが、
任天堂元社長・山内溥は
社員たちにとても愛されていた。

スーパーマリオの生みの親である宮本茂も
「皆、社長の喜ぶ顔が見たくてやっている」
と語っている。

山内の思いは、言葉にしなくても
社員に伝わっていたのだろう。
ゲームは、誰かを喜ばせるためにあるのだと。

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藤本宗将 14年8月17日放送

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山内溥と3D

「飛び出さへんのか?」

任天堂元社長の山内溥は3Dにこだわりつづけた。
部下に対してことあるごとに
「3Dはどうや?」と提案していたという。

花札・トランプメーカーの家業を継いでから
おもちゃメーカー、そしてゲームメーカーへと
任天堂を変貌させてきた山内。
どんな商品も必ず飽きられる宿命だとよく知っていた彼には、
驚きがもっとも大切だという信念があったのだ。

「常識的な発想では人々を納得させることはできない。
 新製品に必要なのは、社会通念や習慣を
 変えるようなものでなければならない。
 そのためには非常識の発想が必要なんです」

非常識だからこそ、山内は3Dにトライしつづけた。
彼の言葉を補うとすれば、つまりこういうことだろう。

「常識の枠から飛び出さへんのか?」

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松岡康 14年8月16日放送

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かずっち
ニコライの迎え火

今日8月16日は、京都五山送り火の日。
夏の終わりを告げる風物詩として有名なこの行事だが、
実は春に行われたことがある。

明治4年5月9日。
当時大国だったロシアの皇太子、ニコライが京都に訪れた際、
歓迎の意味をこめ五山すべてに火がともされた。

小国だった日本が行った、国を挙げての熱烈な歓迎。

しかしその3日後、訪れた滋賀県で悲劇がおこる。
警備を担当していた警官が、突然サーベルでニコライを斬りつけた。
怪我をおったニコライは、東京訪問を中止し日本を立ち去った。

歓迎のための『迎え火』が、
ニコライにとっては送り火となってしまった。

今年も多くの人たちが、
送り火を見に京都を訪れる。
その火に隠された、皮肉な物語を知るものは少ない。

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澁江俊一 14年8月16日放送

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金閣寺の炎

今日8月16日は、京都五山送り火の日。
京都という街と炎は、とても、縁が深い。

戦後日本を代表する小説として
世界的にも評価の高い三島由紀夫「金閣寺」。
主人公溝口は、本人にとって
絶対の美であった金閣寺に火を放つ。
実際に起きた事件がモデルとなったこの小説、
なぜ今も世界中で読み継がれるのか。

溝口が燃やしたかった
金閣寺とは、何の象徴なのか?
読者次第で様々な解釈ができることも
国境を超えて読まれる理由だろう。

事件と小説の決定的な違いは
ラストシーンにある。
金閣寺に火を放った後、
溝口の心にふと浮かんだ言葉、「生きよう」。
犯人にはなかった、この生命力にこそ、
この小説がいつまでも愛される理由があるのだ。

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礒部建多 14年8月16日放送

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Rafael Chu
焼け残った塔

今日8月16日は、京都五山送り火の日。
京都という街と炎は、とても、縁が深い。

世界文化遺産、京都・醍醐寺。
その境内に悠然とそびえ立つ五重塔は
「千年の都」京都の中で、
創建当時の形をそのまま残す、唯一の建造物。
そして、現存する最古の木造建築。

951年、醍醐天皇の冥福を祈るために、
2人の息子、朱雀天皇と村上天皇によって建てられた。
細部までこだわり抜かれた設計だったため、
完成に20年も費やした。

1477年、応仁の乱が起こると
京都は焼け野原と化し、
醍醐寺の下伽藍も灰燼に帰したが、
五重塔だけは、その形のまま焼け残っていた。

何故焼け残ったのか、
その奇跡は科学者たちの研究対象になっている。
焼け跡にたったひとつ残った五重塔は
荒廃の世に醍醐寺の存在を示しつづけた。

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奥村広乃 14年8月16日放送

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京都の窯

今日8月16日は、京都五山送り火の日。
京都という街と炎は、とても、縁が深い。

京都五条坂。
東大路と交差するあたりに
レンガ造りの四角い煙突がある。
その煙突の下には、登り窯が眠っている。

この京都の地で、色絵陶器を完成させたのは
野々村仁清(ののむら にんせい)だといわれる。

仁清は、仁和寺の門前に御室窯(おむろがま)を開き、
自ら作った焼き物に「仁清」の印を捺した。
中世以前の陶芸家は、職人であり、芸術家ではなかった。
しかし、仁清は作品に印を捺すことで、
自身のブランドを確固たるものにした。

藤花文茶壺は、彼の最高傑作として名高い。
温かみのある白い茶壺。
その上に咲き盛る藤の花。
一枚一枚葉脈を施した緑の葉。
赤、紫、金、銀で彩られた花弁は、
風がふけばゆらりとそよぎそうだ。

かつての五条坂にはいくつもの登り窯が並び、
もうもうと黒い煙を吐きながら、
多くの焼き物を生みだしてきた。
しかし、いま、登り窯から煙が立ち上ることはなく、
静かに文化の営みを伝えている。

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