渋谷三紀 11年9月18日放送



ある脚本家の美学/向田邦子

脚本家、向田邦子の家では、
遠足の弁当には海苔巻き、と決まっていた。

朝になり、母が海苔巻きを切り分け始めると、
邦子は途端に落ち着きをなくす。
海苔巻きの切れ端が、大好物だったのだ。

かまぼこも、伊達巻も、羊羹も、
邦子はとにかく、切れ端が好き。

切れ端好きの理由を、
彼女はこんな言葉で語っている。

なんだか貧乏たらしくて
しんみりして、うしろめたくていい。

不ぞろいで、不恰好で、いとおしい。
切れ端も、にんげんも、
邦子の目には、そう映っていたのかもしれない。



あるキャラクターの美学/キティちゃん

右耳に赤いリボンの白いネコ。
日本を代表する人気キャラクター、
キティちゃん。

電車で、会社で、学校で、
毎日どこかしらで、
私たちはキティちゃんに出会う。

さらに旅先の土産物屋には、
マリモキティになまはげキティにシーサーキティと、
想像をこえたさまざまな全国ご当地キティ。

世界的に有名な宝石ブランドからは、
100万円以上もする高級クリスタルキティ。

お菓子メーカーの広告では、人間になったキティ。

活躍はとどまることを知らない。

しかし、どんな風に姿を変えても
キティはキティとわかるのが、強いキャラクターの証。

ブレない自分があれば、
どんな変化にも「ハロー」と言えるのかなあ、
キティちゃん。

topへ

宮田知明 11年9月18日放送



あるスポーツ選手の美学/三浦知良

日本では、引き際のいさぎよさを
よく「美しい」とされる。

その考え方の逆、
つまり「やめない」ことに美しさを見出す人、
キングカズこと、三浦和良。

余力を残して辞めていく選手は多い中で、
44歳になってもカズは全くそのそぶりを見せない。

4年前、テレビ番組で、
「いつまでやるのか」という質問に対して、
彼はこう答えている。

できたら還暦までやりたいんだけどね。

3月29日のチャリティーマッチでのゴールを見せられると、
あのときの言葉は、あながち冗談でもないかもしれない。



ある毒舌家の美学/有吉弘行

毒舌にも、美学がある。

平成の毒舌王、有吉弘行曰く、
「悪口はいいけど、陰口はダメ」。
その真意とは。

僕は絶対に本人のいないところで悪口は言いません。
陰口をたたけば周りの人から
「こいつは俺の事もどこかで悪く言ってる」と
思われて自分の評判が下がる。陰口は自分に返ってくる。

これは、毒舌キャラとして芸能界でやっていくための、
彼独特の美学なのかもしれない。

でも、
むしろ毒舌でも何でもない普通の人にとって、
この考え方に学ぶところは多い。



あるジャーナリストの美学/池上彰

いい質問ですね!でおなじみの
ジャーナリスト・池上彰。

分かりやすい説明に定評のある彼にも、
一つの美学がある。
それは、説明するときに、
「自分の個人的な意見は差し挟まない」ということ。

NHKを辞めてすぐの頃、民放の番組の
コメンテーターとして出演したとき、よく言われた言葉。
「あなたの意見を聞かせてください。」

視聴者からすると何でもない質問だが、
池上には違和感があった。

それは、32年間のジャーナリストとしての生活で、
「自分の意見は一切出すな」
「客観報道に徹しろ」と教えられてきたから。

誰かのバイアスのかかった意見よりも、
公平な視点での説明の方が人は納得しやすい。

そう思ってテレビを見ると、コメンテーターの
自分勝手な意見が、なんと多いことか。

topへ

蛭田瑞穂 11年9月17日放送

世界最高のレストラン「エル・ブジ」①

バルセロナから車で約2時間、海辺の町ロザス。
その町のはずれにひっそりとたたずむ別荘風の建物。
それが、世界でいちばん予約が取れないレストラン「エル・ブジ」。

オープンは1964年。
開店最初はリゾート地にある、ごく普通のレストランだった。

1981年、元音楽プロデューサーのジュリ・ソレールが店を買い取り、
オーナーになると「エル・ブジ」の運命は大きく変わり始める。

2年後、その運命に引き寄せられるかのように、
ひとりの若者が「エル・ブジ」に入店する。
彼の名はフェラン・アドリア。

この若者が、やがて料理界に革命を起こすことになるのだが、
この時はまだ、見習いの皿洗いに過ぎなかった。

世界最高のレストラン「エル・ブジ」②

バルセロナ郊外にある、
世界でいちばん予約の取れないレストラン「エル・ブジ」。

料理長のフェラン・アドリアが
店に雇われたのは1983年、弱冠21歳の時。

ただの見習いの料理人だったが、
オーナーのジュリ・ソレールによって才能を見いだされると、
わずか3年で料理長へと抜擢された。

目利きのオーナーと天才シェフがつくる料理は、
まずバルセロナで評判になった。

そして、1990年にミシュランで初めて星を獲得すると、
92年に2つ星、97年には3つ星を獲得。

「エル・ブリ」の名声は世界中に轟いた。

世界最高のレストラン「エル・ブジ」③

バルセロナ郊外にある、
世界でいちばん予約の取れないレストラン「エル・ブジ」。

ここでは通常、コースの最初に供される、パンとバターがない。
他のレストランと同じことをしない、というのが
料理長フェラン・アドリアの哲学である。

彼は言う。

お客様はここへ感動を食べにやってくる。
だから僕はお客さまが一度も口にしたことがない料理をつくりたい。
エル・ブジで食事をするというのは、
ひとつのゲームに参加するようなものなのです。

その言葉の通り、食前酒から食後のお菓子に至るまで、
「エル・ブジ」の料理は予期せぬ展開の連続である。

世界最高のレストラン「エル・ブジ」④

バルセロナ郊外にある、
世界でいちばん予約の取れないレストラン「エル・ブジ」。
この店に「手長海老をローズマリーの香りとともに」という名前の
オリジナル料理がある。

皿には手長海老が2匹載っている。おいしそうな蒸し煮だ。
しかし、すぐにナイスとフォークを手にとってはいけない。
最初に皿に添えられたローズマリーの小枝を鼻に近づけて深呼吸する。
その後に海老を食すのが、この料理の正しい食べ方。

ローズマリーの香りと海老の旨味を想像力で結びつけて食べる、
というわけである。

鰻の蒲焼を焼く煙をおかずに、ごはんを食べるという落語の小噺があるが、
そんな冗談のようなことを実際にやってしまうのが、
エル・ブジの料理長、フェラン・アドリアの創造性である。

世界最高のレストラン「エル・ブジ」⑤

バルセロナ郊外にある、
世界でいちばん予約の取れないレストラン「エル・ブジ」。
料理長フェラン・アドリアは和食からも多くの影響を受けたという。

彼の創作料理に、「玉ねぎの天麩羅 醤油のヌーベ」というメニューがある。

ヌーベとはスペイン語で「雲」。
醤油に水とゼラチンを加えて、きめ細かい泡ができるまで攪拌し、
ふんわりと雲のようになった醤油を天麩羅につけて食べる。

玉ねぎの甘みとサクサクの衣、そして醤油味の泡が口の中で混然一体となり、
体験したことのない味わいが堪能できる。

長い間醤油を使ってきた日本人でも思いつかない斬新な醤油の使い方。
天才フェラン・アドリアの手にかかると、天麩羅もかくのごとく変貌する。

世界最高のレストラン「エル・ブジ」⑥

バルセロナ郊外にある、レストラン「エル・ブジ」。

その独創的な料理により「世界でいちばん予約の取れない店」という
名声をほしいままにしたが、今年の7月30日、惜しまれつつ閉店した。

料理長フェラン・アドリアの、これ以上の料理の創造が困難になった、
というのが閉店の理由として伝えられている。

これまでも「エル・ブジ」の営業期間は一年の半分だけで、
残りは研究期間に当てられていた。

フェラン・アドリアの独創的な料理を生み出すには
それだけの時間が必要だったのである。

世界最高のレストラン「エル・ブジ」⑦

今年の7月30日をもって閉店した、
世界でいちばん予約の取れないレストラン「エル・ブジ」。

閉店を前に、特別に開かれたディナーには、
有名女優やデザイナーなど、華やかなゲストが招かれ、
料理長フェラン・アドリアによる渾身の料理がふるまわれた。

「エル・ブジ」閉店後は料理研究の財団を設立し、
ハーバード大学で教鞭もとることになっているフェラン・アドリア。

彼は語る。

大学も出ず、皿洗いから料理人になった僕が、
名門大学で教えるなんて想像するだけでおもしろいでしょう?
人生は考えられないことの連続なんですよ。

topへ

古居利康 11年9月11日放送



テン・イヤーズ・アフター ①ジョージ・ウォーカー・ブッシュ

2001年9月11日。
ブッシュ大統領の緊急声明より、抜粋。

「国民の皆さん。
本日、わたしたちの日常生活において、
ほかならぬわたしたちの自由が、
テロリストの攻撃を受けました。

旅客機の中で、オフィスの中で、
ビジネスマン、軍や政府の公務員たち、
母親たち、父親たち、そして、友人たち、
わたしたちの隣人が犠牲者となりました。

何千もの命が、卑劣極まる残虐行為によって
突然終止符を打ったのです。

いままでアメリカは敵を粉砕してきました。
そして、今回もわたしたちはそれを実行します。」



テン・イヤーズ・アフター ②リック・リスコラ

ワールドトレードセンターの中に
オフィスを構えていたモルガンスタンレーの
警備主任、リック・リスコラは、
1993年に起きた、ワールドトレードセンター
爆破事件の教訓を忘れなかった。
不意打ちの避難訓練を頻繁におこない、
しばしば社員に煙たがられ、変人扱いされた。

2001年9月11日、
リスコラの恐れは現実となったが、
かれの冷静な避難誘導によって、
モルガンスタンレーの社員2700人のうち、
2687人は、無事だった。

その日、かれは妻に電話をかけている。
「どうか泣かないでほしい。
もし、ぼくの身に何か起こったら、
きみがぼくの人生のすべてだった、
ということを覚えていてほしい」

そう言い残して、かれは
まだビルの中にいる社員を救出するために
炎と瓦礫の中にとって返し、二度と帰らなかった。



テン・イヤーズ・アフター ③ノーマン・メイラー

権力のありかたを、
生涯、厳しく問いつづけた
小説家、ノーマン・メイラーは、
2001年9月13日、
タイムズ誌にこう語っている。

「アメリカは攻撃の精密さに
恐怖を覚えた。これがアメリカのような
若い国につきもののパラノイアに
火をつけるだろう。」

「なぜ、アメリカは、
このようなテロがおこなわれるほど
人々に憎まれているのか、理解しなければ
ならない。世界の多くの国々、
とりわけ発展途上国では、アメリカは
文化的な抑圧者であり、
美的な侵略者と見られている。
世界で最も貧しく、ちっぽけな国の
首都の空港の周囲に、
高層のホテルや建物が並ぶまで、
高層建築を増やしたがる。」

「アメリカが押しつけている
アメリカ風の生活スタイルや、
巨大な利益を上げつづける生活スタイルは、
世界の大部分の国には、必ずしも
ふさわしいものではない。
そこを理解しないと、アメリカは、
世界で最も憎まれる国になるだろう。」



テン・イヤーズ・アフター ④エドワード・サイード

キリスト教徒のパレスチナ人として
エルサレムで生まれた文学者、
エドワード・サイードは、2002年9月、
9.11以降の対テロ戦争は世界を安全に導いたか、
という質問にこう答えている。

「より危険になったと私は感じる。
突発的なものであれ、国家によるものであれ、
以前より暴力に支配され、
人々は安全でないと感じている。
それはテロのせいではなく、
米国が交戦状態にあるからだろう。
テロという抽象的な悪との戦いは、
終わることも勝利することもありえない。」



テン・イヤーズ・アフター ⑤カート・ヴォネガット

小説家、カート・ヴォネガットは、
2005年に出版された最後の著作、
『国のない男』のなかでこう書いている。

「マーク・トウェインとエイブラハム・リンカンは
いまどこにいるのだろう。
いまこそ必要なときだというのに。
ふたりとも、中部アメリカの出身だった。
ふたりのおかげでアメリカ人は己の愚かさを
笑うことができるようになったし、
本当に大切で、本当に道徳的なジョークのよさが
わかるようになったのだ。今日、ふたりがいたら、
いったい何を語るだろうか。」

そして、1848年、まだ大統領になる前の
リンカンの演説を引用する。

「糾弾を免れるために、彼は、国民の目を
華々しい戦いの輝ける栄光に向けておいた。
あの魅力的な虹は血の雨のなかのみかかる、
と知っていながら、破壊へと人を招き寄せる
ヘビの目をぎらつかせて、
彼は戦争へと突入していったのだ。」

「彼」とは、当時の合衆国大統領、
ジェイムス・ポークのことだ。
かれがはじめた戦争、
アメリカがカリフォルニアやテキサスを
手に入れた対メキシコ戦争を、
リンカンはアメリカの恥だと考えていた。



テン・イヤーズ・アフター ⑥大江健三郎

エドワード・サイードの友人、
大江健三郎は、2003年9月11日、
新聞にメッセージを寄せている。

「暴力をしずめるためには、
暴力ではなく言葉こそが力をもつと、
いま本当に必要な心のノートを書くなら、
私は広島と長崎からの言葉が
伝えられねばならぬと思います。」

「二年前の『9.11』に私らをとらえた沈黙、
考える言葉に向けてそれぞれにした手探り。
そこに立ち返ってみなければなりません。
あの時、世界じゅうの人間の心が
一致したとすれば、暴力をしずめる言葉を
作り出すことこそ文化だったという、
苦しい反省ではなかったでしょうか?」



テン・イヤーズ・アフター ⑦村上春樹

『9.11』後の世界について、
村上春樹はこう語っている。

「今の世界というのは、
実は本当の世界ではないんじゃないかという、
一種の喪失感。
…リアリティーの欠損なんですね。…
もし9.11が起こっていなかったら、
今あるものとはまったく違う世界が
進行しているはずですよね。
おそらく、もう少しましな、正気な世界が。」



テン・イヤーズ・アフター ⑧バラク・フセイン・オバマ

2011年5月2日。
オバマ大統領の緊急声明より、抜粋。

「こんばんは。
今夜、わたしはアメリカの人たちと世界に、
作戦実施のご報告ができます。
アメリカは、何千人もの罪なき人々や子供たちの
殺害に責任のあるアルカイダ指導者、
オサマ・ビンラディンを殺害しました。

アメリカ人に対する史上最悪の攻撃によって、
まぶしい9月の日が闇に落とされたのは、
10年近く前のことでした。

2001年9月11日のあの日、悲しみの中で
わたしたちアメリカ人は団結しました。

わたしたちは一致団結して、自分たちの国を守り、
この残酷な攻撃をおこなった者たちに
正義の裁きを下すのだと決意を固めました。

そして、愛する人を喪った家族の皆さんに、
こう言うことができます。

正義は、遂行されました。」

topへ

坂本仁 11年9月10日放送



セルジオ越後

サッカー解説者セルジオ越後は、

日本サッカーへの愛情から、

常に日本代表へ厳しいコメントを発している。



しかし、辛口のセルジオ越後も、

なでしこジャパンがワールドカップに優勝した際には、

素直にその偉業をたたえた。



けれど、彼は言う。

「なでしこジャパンを使い捨てにするな」と。



ブームに終わらせてはいけない。

しっかり女子サッカーの文化を根付かせなければいけない。

セルジオ越後の辛口は、

なでしこジャパンの快進撃に沸いた私たちに向けられている。



マリエル*マーガレット*ハム

女子サッカー史上、最高選手のうちの一人、
マリエル*マーガレット*ハム。


私たちにはミアハムの名で親しまれている彼女は

2度のFIFA最優秀選手賞受賞、

偉大なサッカー選手を選ぶFIFA100にも、

マラドーナやジーコとともに選ばれた。



ミアハムは言う。
「勝つだけではだめだ。

相手がもう二度と見たくないと思うくらいの印象を残せ。」



女子サッカー選手として優れていただけではない。

ミアハムは誰よりも、

「戦う気持ち」を持ったサッカー選手だった。



澤穂希

「苦しくなった時は、私の背中を見なさい。」



なでしこジャパンの澤穂希は、

2008年の北京五輪で若手をそう励ましたのだという。



先日の女子ワールドカップでは、

北京五輪で澤に励まされた若手たちの成長が、

優勝につながった。



今月は、ロンドン五輪の女子サッカー最終予選が行われている。

きっと、若手や中堅の選手たちが頼もしい姿を見せてくれることだろう。

がんばれ、なでしこジャパン。



エレン*ヴィッレ

女子サッカーの歴史は、長い迫害の歴史だった。



サッカーは女性の体には有害というデマが通説となり、

サッカーの母国、イングランドサッカー協会は、

女子チームにグラウンドの貸し出しを禁止していた。



しかし、一人の勇敢な女性がその迫害の歴史に風穴をあける。



ノルウェー人、エレン*ヴィッレ。

国際サッカー連盟の総会に出席していた彼女は、

突如マイクをとり、

「人類の半数は女性である。
国際サッカー連盟は女子サッカーにもっともっと

力を入れるべきである」と訴えた。

その演説は、総会に出席していた多くの関係者の心を動かすのに十分だった。



そして、それから数年後の1991年、

ついに初の女子サッカーワールドカップが開催された。

男子サッカーワールドカップの初開催から、

実に61年後のことだった。



女子サッカー至上、最高のファインプレーは、

エレン*ヴィッレの演説なのかもしれない。



文弘宣

起業家、文弘宣(ムン・ホンソン)。

澤穂希選手をはじめなでしこジャパンの7人が所属している、

INAC神戸レオネッサの会長である。



どんなに才能のある選手も生活ができなければ、

サッカーをあきらめなければならない。

文弘宣は、選手がサッカーに集中できるよう、

グループ企業で雇用して社業を免除し月給を支払った。




サッカー選手を育てるのは、監督やコーチだけではない。

ビジネスという観点から日本女子サッカーを育てる経営者が

もっと多く出てきてほしい。



佐々木則夫

女性をうまく扱うことはできないが、

女性の意見に耳を傾けて、

自分を変えることぐらいならできる。



なでしこジャパンを率いて、世界を制した佐々木則夫監督。

彼のこの言葉には、

すべての男性が学ぶべきことが示唆されている。



ペレ

「サッカーの神さま」とまで呼ばれたペレ。

15歳でデビューしてから、通算1363試合に出場し、1281得点を記録した。
ワールドカップでは
ブラジル代表のエースとして3度の優勝を経験している。


イエローカードやレッドカードは、

ペレを止めるためのラフプレーが横行したために、

導入されたルールだと言う。



レアルマドリードやACミランなどのヨーロッパのビッククラブが、

ペレの獲得に動いた際には、

ブラジル政府が「ペレは輸出対象外である」と公式に宣言する事態にも発展。



その華麗なプレー見たさに、

ナイジェリアとビアフラの内戦を休戦させたという逸話も残っている。


ところで、
そのペレが2004年に選んだ「偉大なサッカー選手100人」には
ふたりの女子選手がいる。
たったふたり?
いや、そうではない。
女子のFIFAワールドカップがはじまって13年めの快挙だった。

女子サッカーはもっと面白くなる。
素晴らしい可能性がある。

topへ

茂木彩海 11年9月4日放送



歌のはなし 美空ひばり

昭和の時代とともに生きた、日本芸能史最大のスター、
美空ひばり。

彼女の歌の全ては、お客様のために歌われた。
コンサートでは緞帳が下りた後も、おじぎをしたまま
お客が出るまでじっと動かなかった。

そんな美空ひばりが色紙によく好んで書いていた言葉がある。

「今日の我に、明日は勝つ」

それは昭和を生き抜く日本への
メッセージだったのかもしれない。



歌のはなし やなせたかし

子供のころ、誰もが憧れたヒーロー
アンパンマンの生みの親。
やなせたかし。

彼が作詞した「アンパンマンのマーチ」の中の一節に
「愛と勇気だけが友達さ」という言葉がある。
友達はいらないってこと?と尋ねる子供も多いというが、
その中に隠されたメッセージを、彼はこう答えている。

これから闘うってときは、結局自分ひとりになるということです。
「きみも一緒に」などと言っていてはダメなんです、
最後はひとりの覚悟でなければね。

子供たちは今日も、
厳しくも愛のある教訓を、テレビの前で口ずさんでいる。



歌のはなし 忌野清志郎

KING OF ROCK、忌野清志郎。
ギターを手にした日から、自分への挑戦のように音楽にのめりこむ。
人と違う音楽をめざすことが義務となり、自らの制約に縛られていった。
そんな彼を変えた女性が、後に妻となる石井さん。

「付き合ってください」の代わりに、「結婚してください」
で始まった2人の交際は、2人の父の猛烈な反対に合う。

石井さんの父は、売れないミュージシャンとの結婚に真っ向から反対。
清志郎の家に押し掛けるなり今すぐ別れろと怒鳴り散らし、
協力してくれると思った清志郎の父までも、
「バカも休み休み言え。オマエなんかどうやって結婚して生活していくんだ」
と怒鳴り散らした。

もしも自分がスターだったら。
自己満足じゃダメだ。清志郎は売れたいと心底想った。


石井さん 僕は君が好きさ
石井さん 君を忘れはしない
どんなに 忙しくても
石井さん 僕は君を見たい
石井さん 季節だけが通り過ぎていく中で
いつでも…

誰よりも正直に愛を歌った男の歌は、
今もきっと石井さんの心に響き続けているだろう。

topへ

薄景子 11年9月4日放送



歌のはなし 槇原敬之

どんなときも どんなときも
僕が僕らしくあるために

自分の人生を、絶対人のせいにはしたくない。
そんなつよい思いで、槇原敬之が、
音楽で生きていくことを宣誓した歌。

後に190万枚のヒットとなった
彼の魂の叫びは、
迷ったとき、勇気がほしいとき、
今日も誰かの
自分への応援歌となっている。

topへ

小野麻利江 11年9月4日放送



歌のはなし 井上ひさし・山元護久

1964年・初夏の九州。炭鉱が閉山になり、
稼ぐあてを失ったある家族は、一家心中を考えた。

最後の晩餐とばかりに、ごちそうをつくる母親。
そんな時テレビから、能天気な歌が流れてきた。

人形劇「ひょっこりひょうたん島」のキャラクター、
ドン・ガバチョが歌う、「未来を信ずる歌」。


今日がダメなら明日にしまちょ

明日がダメなら明後日にしまちょ

明後日がダメなら明々後日にしまちょ

どこまで行っても明日がある

次の瞬間。父親が突如、
ぽろぽろと泣きだした。
そして子どもたちに「ごめん!」と言って、
一家心中を、思いとどまった

そんな顛末が書かれた手紙を受け取って、
「ひょっこりひょうたん島」の2人の作者、
井上ひさしと山元護久(やまもともりひさ)は、大いに励まされた。
放送を開始したものの、ずっと評判が悪かった「ひょうたん島」。
でも、こういう人たちがいる限り、必死になって書くしかない。

未来を信じたくなったのは、
ガバチョよりも、九州の一家よりも、
井上と山元だったかもしれない。



歌のはなし 谷山浩子

シンガーソングライター・谷山浩子さんの初恋は、
相手の顔を知らずにはじまった。
文化祭で耳にした軽妙な受け答えに、
心ひかれたのだという。

でも驚くべきは、その後。
なんと、その初恋の人と23年ぶりにめぐりあい、
結婚してしまったのだ。

他の人には見えないものを、
感じ取れるのかもしれない。
彼女が書いた「まっくら森のうた」の歌詞も、
奇妙な出来事に、あふれている。

光の中で見えないものが、
闇の中にうかんで見える
まっくら森の闇の中では、
きのうはあした まっくらクライクライ



歌のはなし エディット・ピアフ

「きみはなぜ、悲しい歌を歌う?」
フランスの国民的シャンソン歌手、
エディット・ピアフは
恋人のマルセル・セルダンに尋ねられて、
こう答えた。

「陽気になるためよ」

ピアフの代表作「愛の讃歌」は、
この恋人に捧げた歌だった。

topへ

薄景子 11年9月4日放送



歌のはなし 谷川俊太郎

空をこえて ラララ 星のかなた

日本を代表するアニメ主題歌の作詞が
日本を代表する詩人によるものだということを
ご存じだろうか。

「鉄腕アトム」の歌、作詞、谷川俊太郎。

今年の夏、ブルーノートで行われた
彼の詩の朗読ライブ。

ピアノを演奏していた息子の賢作に
突然リクエストされ、
谷川俊太郎は観客の前で
鉄腕アトムの歌を朗々と歌った。

最初は拒絶していたけれど、
歌い出した瞬間、谷川は
アトムのように未来を向いた少年になった。

心やさしい ラララ 科学の子

ラララという歌詞にこめられた
未来へのメッセージ。
それは、大きな声で歌えば、
きっと誰もがわかるはず。

topへ

佐藤延夫 11年9月3日放送



魔性の女たち/モンテスパン夫人

朕は国家なり、と言ったのは
フランスの太陽王ルイ14世だが、
その輝きのまわりには、野心に飢えた女が集まった。

中でも、モンテスパン夫人は
美貌と鋭い知性に恵まれていた。
無邪気な笑顔を見せたかと思えば、
ときに驕慢で意地悪な振る舞いをする。
今でいう小悪魔的な存在だ。

そして国王の愛人という地位を守るために
黒ミサと呼ばれる悪魔信仰にのめり込む。

その事実を知ったルイ14世は、
恐れをなして彼女を遠ざけてしまうのだが。

行き過ぎる野心は、過ちを生む。



魔性の女たち/メアリ・スチュワート

メアリ・スチュワートは、
生後六日でスコットランド女王、
五歳でフランス王太子妃、
十六歳でフランス王妃になった。
だが夫は病気で亡くなり、
十七歳で未亡人となる。
そして再婚相手の男を愛人と一緒に殺害し、
それがもとで王位を追われ、
幽閉されたあともエリザベス女王殺害を企て、最後は処刑されてしまう。

断頭台に立つときに着ていた衣装は、豪華そのものだったという。

レース飾りのついた純白のベール、
貂(テン)の毛皮をあしらった黒ビロードの上着と黒のマント、
そして深紅のペチコート。

経歴も、散り際も、派手な女がいた。



魔性の女たち/柳原白蓮

人妻の恋愛が罪となる時代。
歌人、柳原白蓮は結婚という制度に翻弄された。

最初に嫁いだのは十六歳のとき。
なんの取り柄もなく我儘な男との生活は五年で終わる。

二十七歳のときに再婚した相手は、
九州の炭鉱王と言われた伊藤伝右衛門。
妻と妾が同居する複雑な女性関係に嫌気がさした。

三十五歳のときに運命の人、宮崎龍介と出会う。
そして、ある計画を実行する。

「私は今あなたの妻として最後の手紙を差し上げます。」

朝日新聞の朝刊には、
白蓮から伊藤伝右衛門への絶縁状が掲載された。

全国版の三行半とは、恐ろしい。


魔性の女たち/シンプソン夫人

イギリス国王エドワード八世が心を奪われたのは、
平民で二度の離婚歴があるシンプソン夫人だった。

彼女が持っていたのは、
つつましやかな物腰と美貌、
そして大いなる野心。
若いうちから空軍将校や外交官を相手に
数々の恋愛沙汰を引き起こし、
ついにはイギリス王室へまで食い込んでいく。

「どうか、わかってほしい。
 私が愛する女性の助力も支えもなしに、
 王位を全うすることはできないのです」

エドワード八世は、ラジオ放送でこの言葉を残し
わずか十ヶ月あまりの在位で
イギリス国民に別れを告げた。

王位を捨てさせた女と、
全てを捨ててしまった男。
その夢の果てとは。

晩年は、退屈で単調な毎日だったそうだ。



魔性の女たち/マリア・ルイザ

無類に人がよく、平和ボケした亭主のもとでは、
女は悪妻になりやすいのか。

スペイン王妃マリア・ルイザは
国王との間に十一人の子をもうけながら、
男漁りを繰り返した。
そして二十一歳の美青年、ゴドイと出会う。

凡庸な国王、カルロス四世。
その王妃、マリア・ルイス。
そして、若く野心に溢れたゴドイ。

マリアの世界には、この三人しかいなかった。

「私たちの関係は完璧そのもので、地上における三位一体なのです」

やがてフランス革命が、小さな楽園を崩していく。



魔性の女たち/阿部定

阿部定は、かの有名な猟奇事件のあとに
こんな言葉を残している。

「私のやったことは男に惚れぬいた女ならば、
 世間によくあることです。ただ、しないだけです」

横浜の置屋に売られ、
娼婦となり全国を転々として
ようやく見つけたひとつの愛。
それを誰も笑うことなんてできない。



魔性の女たち/マタ・ハリ

オランダの片田舎で生まれた少女は、
黒々とした髪とエキゾチックな瞳を持っていた。

19歳で結婚しジャワ島に移り、
離婚してパリに戻ってくると
その女は妖艶なダンサーに生まれ変わる。

名前は暁の太陽を意味する、マタ・ハリ。
美しい娘の魅惑的な踊りは、すぐに話題になった。

1917年、第一次世界大戦のさ中、
イギリス海軍の諜報機関は、マタ・ハリがスパイであることをつきとめる。
コードネーム、諜報員H21。

本当にスパイ活動をしたのかどうか、その確証はない。
ただ、情事を重ねた相手が軍人ばかりだったのが
彼女を不利な立場に追いやった。

マタ・ハリが処刑されるとき、いくつかのエピソードが残っている。
あまりの美しさで、兵士が銃の引き金を引くことができなかった。
銃殺隊に投げキッスを贈った、など。

どれもこれも、美しすぎるスパイが生んだ
尾ひれのついた伝説にすぎない。

topへ


login