2009 年 10 月 のアーカイブ

宮田知明 09年10月25日放送

07_shinsho


古今亭志ん生

五代目、古今亭志ん生。
高座に座る姿そのものが、一枚の絵であり、
落語である、と言われた名人。

彼はこんな言葉を残した。

 他人の芸を見て、
 あいつは下手だなと思ったら自分と同じくらい。
 同じくらいだなと思ったら、かなり上。
 うまいなあと感じたら、とてつもなく先へ行っている。

「芸」という文字を「仕事」に置き換えると・・・
なるほど、と思う。

08_kon


市川崑

ビルマの竪琴、野火、炎上、おとうと、
黒い10人の女、犬神家の一族・・・

長編映画だけでも70本を越える作品を残し、
短編やテレビ、CMに舞台と、
さまざまなジャンルで活躍した映画監督、市川崑。

2006年、その市川崑が、
犬神家の一族のセルフリメイク作を発表したときの、
記者会見の言葉がある。

 もう少し長生きして、もうちょっとちゃんとした映画を作りたい。

90歳のこの謙虚さに
映画に対する執念を感じてしまう。

topへ

五島のはなし(54)

Visionは古今東西の人物にフォーカスをあてる番組です。
それぞれの人物にまつわる事実(とか記憶)に基づいて
話を組み立てるのだけど、
書く人によって事実とか記憶に対するアプローチが違う。
性格が出ちゃうんでしょう。

そんなわけで、
毎回ほんの1分程度の番組ですが、
単なる人物紹介じゃないおもしろさがあると思います。
Jwaveが聴ける場所にいる人は、ぜひ聴いてみてください。
毎週土日の夕方~夜、
だいたい、〇〇時54分あたりからやってます。

・・・いつも五島列島の紹介しかしてないので、
たまには(本筋である)番組の紹介をしてみようと思った次第です。

topへ

八木田杏子 09年10月24日放送

CHANEL 1

「ココ・シャネル」

シャネルの創始者ガブリエル・シャネルは、
お針子をしながら歌手になることを夢みて
キャバレーで歌っていた。

舞台に立っていたときの持ち歌は
「Ko Ko Ri Ko」
それから
「Qui qu’ a vu coco」

そのタイトルにちなんで、ファンは
「ココ!!」と呼んで声援を送った。

歌うことを諦めたあとも、ガブリエルはずっと、
その呼びかけを愛した。

自分の足で立とうとしたときに
拍手と一緒にもらった名前「ココ」
シャネルはそれを一生使いつづけた。

CHANEL2

「シャネル・スタイル」

孤児院で育ったココ・シャネルが
社会へ一歩踏み出したとき
最初に首をかしげたのは
ドレスの長い裾、フリルやリボンなどの過剰な装飾。

本当に必要なのは
着飾るための服ではなく
生活するための服ではないかしら。

そう信じたシャネルは、
当時、下着の素材だったジャージーを使って
大胆なドレスを発表する。

そのドレスは
女性のカラダを動きやすく解放した。
そのドレスには短い髪とシンプルな帽子が似合った。

シャネルのファッションは
女性の生きかたに影響を与えはじめる。

CHANEL 3

「シャネルの解放」

どんなに苦しい時代でも、
女はファッションを諦められない。

戦争がはじまって戸惑う女性を、
シャネルは、ファッションでリードする。

身分のある女性が、負傷兵の看護をするために
品のいい看護服を仕立てあげた。

ドレスの紐をしめるメイドがいなくなったから、
コルセットのいらないドレスをつくった。

自動車や馬車ではなく、自分の足で歩くために、
踵を隠していたスカートも短くした。

誰の手も借りずに服を着て、
颯爽と街を歩くようになったパリジェンヌ。

第一次世界大戦が終わると、
その姿は世界中に知れ渡る。

chanel4

「シャネルの恋」

打算のない恋をするためには、
女は自立しなくてはならない。

ココ・シャネルは、そう信じていた。
恋人の援助で仕事をしていることが、もどかしかった。

「僕をほんとうに愛している?」と彼に聞かれると、
シャネルはこう答えた。


 それは私が独立できたときに答える。
 あなたの援助が必要でなくなったとき、
 私があなたを愛しているかどうかわかると思うから。

恋人と肩をならべて歩くために、
シャネルは仕事に生きる女になる。

彼がほかの女性と結婚したあとも
再び彼女のもとへもどってきたときも
そして、彼がシャネルを残して亡くなってからも…

仕事に支えられたシャネルは、
彼を愛しつづける。

CHANEL5

「シャネルの恋のおわり」

シャネルは女友達にこんなアドバイスをしている。


 愛の物語が幕を閉じたときは、
 そっと爪先だって抜け出すこと。
 相手の男の重荷になるべきではない。

終わりかけた愛情を、友情に変えるために。
シャネルは、きっぱりと言い切る。


 男とはノンと言ってから本当の友達になれるもの。

もしかしたら
彼女は恋のいちばん美しい部分だけを
相手の記憶にとどめたかったのかもしれない。

シャネルのように恋を終わらせるのは度胸が必要だ。
もしかしたら、これが本当の意味で
自分を捧げるということなのかもしれない。

Misia_Sert_by_Renoir

「シャネルの親友」

ココ・シャネルの一生の親友は
パリの社交界の女王、ミシア・セールだった。

惹かれあいながらぶつかりあうふたりの関係を
シャネルは、こう語る。


 わたしたちは二人とも他人の欠点しか
 好きになれないという共通点をもっている。

口当たりがいいだけでは、
一生の友情はつくれない。

chanel7

「シャネルのカムバック」


 退屈しているときの私って、千年も歳をとってるわ。

ココ・シャネルは、仕事のない人生に飽きていた。

大きくなり過ぎた店は
第二次大戦の直前に閉めていた。
シャネル自身も引退したつもりだった。

それなのに
70歳の彼女は、また服を創りはじめた。

15年ぶりのコレクションは、酷評されたけれど
その1年後
酷評された服がアメリカで大ブームになった。

女性の社会的進出がめざましい国で
シャネルは再び受け入れられたのだ。

それから87歳までシャネルはブティックに立ち続け
こんな言葉を残した。


 規格品の幸せを買うような人生を歩んではいけない。

topへ

五島のはなし(53)

五島を活性化させるプロジェクト(の妄想)その1。

まずは日本中の注目を五島にがつんと集めたい。
思い切った考えだが、島名を変えてしまってはどうか、
と今日電車の中で思った。

たとえば「ウルトラ列島」。
改名したら間違いなくワイドショーをにぎわすだろう。
(五島の名を捨て去るのはいかがなものか、
 という意見が多い場合は「ウルトラ五島列島」でもいい。)
「さて何がウルトラなのか、といいますと!」
テレビのキャスターがフリップをめくりながら話す姿が目に浮かぶようだ。

そして五島市長(いや、ウルトラ市長か)は「五島ウルトラ宣言」を行だろう。
海のきれいさも、浜辺の美しさも、料理のおいしさも、
教育も、観光客をもてなす態度も、
島民みんなでウルトラ(つまり、とってもすごい)を目指そう。という宣言。
やっぱり島民ひとりひとりのモチベーションがなんてったって大事なのだ。

同時に、島へのファンづくりも忘れてはならない。
日本中の子どもたちに五島のファンになってもらう。
なぜ子どもかと言うと、小さい頃に好きになってくれれば
いつかその子どもたちが大人になって、親になったとき
そのまた子どもらを連れて五島に来てくれるからだ。

具体策としては、ウルトラ列島だけに、ウルトラマンだ。
円谷プロにお願いして、地球では3分しか活動できないウルトラマンにも
実は地球上に一か所だけ3分過ぎても活動できる安全地帯がある、
というストーリーにしてもらう。もちろんそこは五島(ウルトラ列島)だ。

そして、ウルトラマンの等身大の像を、島の真ん中に設置したい。
ウルトラマンって確か50メートルくらいあるはず。
ぜったい話題になる。
しかも、よくありがちな堂々としたかっこいいウルトラマンではない。
戦いにつかれ、手を膝についてぜえぜえあえいでいる、
地球に来て2分58秒後くらいの、ぎりぎり安全地帯にたどりついた瞬間の
ウルトラマンの姿だ。
その人間的な姿に、大人たちも心を打たれるだろう。

さらに。
このウルトラマンのあえいでいる像は
島を離れ、都会で暮らす五島出身者たちへの強いメッセージにもなる。
「都会での戦いに疲れたら、いつでも帰ってこい」

・・・どうだろう。
ハードルは高いがやってみる価値がありそうな気がする。
あ、さらにさらにウルトラマンの像であるが、
手を膝についているということは、巨大な背中は一面空に向かっていることになる。
ここをすべて太陽光パネルで覆おう。
その電力で、島のエネルギーを補う。
エコの島としても世界から注目を集めるのだ。

(妄想つづく)

topへ

五島のはなし(52)

21世紀の幕が開けたその日、
つまり2001年の元旦、
僕の五島の実家に16年前の僕からハガキが届きました。

2001年の16年前といえば1985年。
科学万博があった年。
僕は中1でした。
記憶にないのですがその年、
五島の中学校では「21世紀の自分」に
手紙を書くイベントがあったようなのです。

2001年の正月はまだ就職もしておらず
横浜の日吉という町のボロアパートにもんもんと暮らしていて、
五島に帰省していた兄からの電話で
そのハガキの存在を知りました。
「そっちに送るけん」
そう兄は言いました。

16年前の自分からの手紙。
わくわくしました。
どんな字を書いていたのか。何を考えていたのか。どんな夢を持っていたのか。
そして、きっと思い描いていたような人間にはなれていないぞ、
16年前の僕くん・・・となんとなく切ない気分にもなりました。
そんな高ぶる気持ちでハガキを待ったわけです。

数日後。
届きました、ハガキ。
高鳴る胸の鼓動。
そしてひっくり返してみたら・・・
ひとことスケベな英単語(あえて、というか恥ずかしくて、具体的には書きません)
が書かれてました。

・・・・・・。

いやあ、情けなくてどうしようかと思いました。
「目が点」ってこういう状態なんだと知りました。
でも同時に、ほんとにほんの少しだけですが、
「やるなあ、アナーキーだなあ、13歳の俺」
とすがすがしい気分になったのも、事実。

topへ

五島のはなし(51)

かつて五島はクジラ漁の基地だった。
・・・という事実は知っていたのですが
その歴史が江戸時代初期にさかのぼり、
さらにその発展に尽力した一人の薩摩藩士がいたことは
まったく知りませんでした。

ああ。多くの人にとって興味のわかなそうな書き出しだなあ。
少しでも興味がわくように、
今日の文章のしめくくりを先に書くと
「五島みたいな隔離された印象のある場所でも
実は活発な人材の交流があって、しかも歴史的に
名の知られない人々の営みが複雑にからみあって
歴史がつくられてるんだなあ」
です。
・・・書いてみたけどやっぱ興味わかなそうだなあ。

先に書いた薩摩藩士。名を山田茂兵衛。
島津家の家臣として、
薩摩藩で豊臣秀頼に仕えた男。
薩摩藩で秀頼に?
というところが不思議なのですが、
山田茂兵衛の伝記によれば、
(現在は、大阪夏の陣で大阪城において自害したとされる)
秀頼は島津家によって救い出され、薩摩に逃げ延びたとなっています。
その後、秀頼をかくまっている事が徳川家にばれて、
秀頼は(薩摩にて)自害、仕えていたものの多くも自害するのですが、
薩摩生まれの家臣たちはそれほどつながりも深くなかったことから
自害を免れ、ただそのまま薩摩藩に残るわけにもいかず、
いろんな地域へと移り住んだ、のだそうです。

で、山田茂兵衛、です。
彼は五島の宇久島に移り住みました。
そこからしばらく後、江戸に住んだりもするのですが
また五島に戻り、「クジラ漁」の発展に尽力します。
小さな船でクジラをとるための技術とは大変なもので、
そのために、山口県から船大工を呼ぶなど、
全国のエキスパートたちを集め、創意工夫を重ねた結果、
多くのクジラをとるようになり五島はぐんぐん発展することになった
のだそうです。

この話は全部、宮本常一という民俗学者の
「日本の村・海をひらいた人々」(ちくま文庫)に
書かれていることなのですが、
いやあほんとに、
五島みたいな隔離された印象のある場所でも
実は活発な人材の交流があって、しかも歴史的に
名の知られない人々の営みが複雑にからみあって
歴史がつくられてるんだなあ。
と思ったです。

topへ

ベベコンビッチ12月ライブ



ベベコンビッチは五島の言葉でうたうバンドである。
自己紹介の文面によると
「ポジティブバカなGOTO−POPをオラブ〜バンド!! 」
だそうだ。
「オラブー」という五島語は「わめく」の意味だ。
漢字で書くと「哭ぶ」である。慟哭の「哭」である。
早い話が騒ぎわめくのだろうと想像されるが
ただうるさくやかましいだけではない。
悲しみも漂うのである。

話は長くなるが、万葉集の1809に
菟原娘子(うなひをとめ)の伝説が記載されている。
ふたりの男に求婚された娘が
選ぶに選べず死んでしまうのだが、それを知った男は
「仰天 於良妣」(天を仰ぎおらび)
つまり天を仰いで泣き叫ぶのが「おらぶ」なのだ。

方言には古語が多い。そして古語は表現力が豊かだ。
「オラブーバンド」の「オラブー」も古語である。
万葉の時代には表現力豊かな標準の言葉であったものが
方言と呼ばれるのは、
古い言葉が地方にしか残っていないからだ。
方言に較べるといま標準語と称するものは
なんと表現力の貧困なことだろう。

さて、ここで言わんとするのはそういうことではない。
ベベンコビッチオーケストラ12月のライブのお知らせである。

12月27日 日取りだけ決まっている。時間場所未定。
12月30日 時間も場所も未定。

いかにも五島らしくおおらかである。
たぶん正月に帰省した中村直史が
レポートを書いてくれるだろう。

ベベコンビッチオーケストラブログ
http://blog.goo.ne.jp/bebencobicci

topへ

バリ島見聞録(6)


バリ島のお祭り

バリ島ではお祭りだそこかしこで行なわれています。
20日間の滞在で、道すがら出会ったお祭りは7つ以上ありました。

IMGP2743

トランス状態になった参加者

トランス状態になった参加者

この祭りは24時ごろホテルに帰ろうとしたところ出会ったお祭りです。

ウブドの王宮近くのでかい道路に正装したバリ人たちがずらっと奥まで座っていました。
ガムランが奏でられ、神秘的な雰囲気を醸し出してました。
30分ぐらい何も起こらなかったのですが、トランス状態になった参加者がでて、
にわかに参加者の興奮が伝わってきました。
そして、傘をもった人達が移動すると音楽隊もついていき、
道を練り歩き出し、パレードを行なっていました。

IMGP2756

その他に祭りの準備だったり、後片付けしているお寺がそこかしこにありました

なぜそんなにお祭りが多いかというと、
それだけお寺が多いからなのだそうです。

バリ島は、インドネシアひとつの州で、「バリ州」です。
そのバリ州の中に、県があり、市があり、村(デサ)があり、
そしてその中に「バンジャール」と呼ばれる
親族のような結束の強い共同体を形成しています。

「デサ」にはかならず

プラ・バレ・アグン(大会議堂寺院)
プラ・プセー(村の起源となった寺院)
プラ・ダルム(死と火葬の神々を祀る墓地を持った寺院)

と3つの重要なお寺があります。

そしてその他にも、各バンジャールがもつ稲作の神の寺や、
山の寺、海の寺、市場の寺、水浴の寺、湖・洞穴・泉の寺などなど、
数え切れない数のお寺があります。

全部合わせるとバリ島のお寺の数は数万になるとか。。

お祭りは「オダラン」と呼ばれ、それはお寺の創立記念日に行なわれます。
しかもバリ島のウク暦で一年に一回ということで、
西暦に直すと210日に一回行われることになります。

バリ島では毎日どこかで必ず神を祀るガムランのしらべが聞こえてきます。

神々が棲む島の所以です。

このようなことが出来るのも、
肥沃な土地でそう働かなくてもよかったからといえます。
四季が明確にないので、祭りをやることで、
生活のリズムを生んでいたといえるんじゃないでしょうか。
そして、結束力、機動力を高めることによって外敵から攻められたとき、
瞬時に動くことが出来たのかもしれません。
なんて。

topへ

五島のはなし(50)

音楽のジャンルに「GOTO-POP(五島ポップ)」
というものがあります。
あるのか?
って思うでしょう。
あるんです。
・・・僕もさっき知ったんですが。

五島人の五島弁による五島のためのバンド 
「ベベンコビッチオーケストラ」

以下、彼ら自身の紹介文(その下に僕の直訳文)↓

ポジティブバカなGOTO-POPをオラブ~バンド!!
あがんハートをもさる あがどんがソウルをカッパっぞぉ
~オージョ コージョすっぞな~

ポジティブバカな五島ポップを叫ぶバンド!!
君のハートを奪う、お前らのソウルを盗む、
~もうほんとにまいっちゃうぜ~

ぜひ聴いてみてください!
僕はほんとにハートを奪われて、まいっちゃいました。

*ベベンコビッチオーケストラのブログ
http://blog.goo.ne.jp/bebencobicci
*ベベンコビッチオーケストラの歌はこちら
http://www.youtube.com/user/bebencobicci

topへ

薄組・熊埜御堂由香 09年10月18日放送

せつない時計


せつない時計

同じテンポで時を刻んでいたふたつの時計がズレはじめ
やがて、どちらかが先に止まる。
アーティスト、フェリックス・ゴンザレス・トレスの代表作、
「パーフェクト・ラバーズ」。

どんなに完璧な恋人たちも、ずっと一緒にはいられない。
時間の残酷さを、時計は告げる。

ありきたりな掛け時計なのに
止まった時計の隣で動き続ける姿はせつなくて
恋人に先立たれたトレスの心と重なる。

02-Felix3


旅する時間 気休めの薬 

自分の体重とぴったり同じ重量のキャンディが床に
散りばめられている。

フェリックス・ゴンザレス・トレスの
「気休めの薬」という作品だ。

来場者は、ひとりひとつ、キャンディを持ち帰ることができる。
そのキャンディがポケットの中で旅する時間も、
どこかの国で、誰かの口の中でとけていく時間も、
彼の作品の一部なのだ。

常に持ち去られ補充されるキャンディは
彼の作品を継続させようとする人々の意思によって
作者の死後も、活発に活動している。

topへ


login