2011 年 のアーカイブ

小山佳奈 11年5月21日放送



湯川秀樹の衝撃

1949年。
あるニュースに
日本中が狂喜した。

日本人の物理学者が初めて
ノーベル賞を受賞したという。

敗戦ですべてを失ったこの国に
彗星のごとく現れたニューヒーロー。

彼のもとに押し掛けた
信じられない数の報道陣の中から
一人の記者がたずねた。

「賞金で何を買いますか」

彼はにやりと笑ってこういった。

「まずは子どもにグローブでも
 買うてやりましょうか」

湯川秀樹。

その軽妙な受け答えはまぎれもなく
ニューヒーローの誕生であった。



少年、湯川秀樹

物理学者、湯川秀樹の
少年時代はというと。

内気で無口で
友だちはほぼいない。
算数が得意で鉄棒が苦手。
納得がいかないと「言わん」と
押し黙ってしまうその頑固さから、
ついたあだ名は「イワンちゃん」。

ノーベル賞のような晴れ舞台など
クラスの誰も想像しなかった。

それから30年。

スウェーデンでの授賞式、
壇上に立ち流暢な英語でスピーチをする彼は
もう内気で無口な少年ではなかった。

ただどんなに結果が出なくても
あきらめなかった頑固さは
「イワンちゃん」のままだった。



湯川秀樹と家系

湯川秀樹が中学生の頃。

湯川の父は息子の進路について
悩んでいた。

一家は代々学者の家系。
子供たちも当然学者にするべく育ててきた。

しかしこの三男、秀樹に関しては、
成績もぱっとせず、記憶力もよくない。
いっそのこと専門学校にやり
手に職をつけさせた方が
子どものためなのではないか。

河原町通りを悶々と歩いていると
秀樹の中学校の校長にばったり出会う。
校長は即座に言った。

「あの少年ほどの才能は滅多にない。
 わたしの養子にしたいくらいだ」

そしてめでたく秀樹は学者の道を歩む。

そのとき父が校長に会わなければ
危うく自動車工になっていたかもしれない。



湯川秀樹と奥さん

湯川秀樹の妻、スミさん。
彼女は研究室の誰もが手を焼く気難しい夫を
いとも簡単にあやつる術を身につけている。

研究が上手くいかず
いらいらして帰ってきた時には
だまって熱燗をさしだす。

かと思えば
「日本人はノーベル賞をとれないんですかね」
と無邪気に言ってみせ、夫の尻をたたく。

夫の力学はどの方程式より
単純で明快だということを
スミさんは知っている。



湯川秀樹とノルマ

ノーベル賞を受賞するほどの研究といえば
幾十年もの苦難を想像するが
湯川秀樹の場合はそうではなかった。

彼が何年もかかずらっていたテーマは
あまりに壮大で難解であったため
研究は遅々として進まず
担当教授から「論文はまだかね」と
催促される日々。

研究員という職業柄、
とにかく何か書かなければ
お給料がもらえない。

焦った湯川秀樹は
とりあえず別のテーマで一本書き
当座をしのごうと考えた。

それがまんまと
当たった。

だから人生はおもしろい。



湯川秀樹と学者

学者とはロマンチストな生き物である。

湯川秀樹はこう言う。

「わたしは学者として生きている限り、
 見知らぬ土地の遍歴者であり、
 荒野の開拓者でありたい。」

知識や才能はもちろんだが
夢を見続けられるかどうかが
もっとも大切。

学者とはロマンチストな生き物である。



湯川秀樹の研究所

1953年。
湯川秀樹のノーベル賞を記念して
京都大学に「基礎物理学研究所」が
つくられた。

もともと湯川のためだけの研究所だったが
せっかくなら若い研究者たちが集える場所にしたいと
湯川は考えた。

学外でも国外でも
湯川の考え方と反する者も
構わず受け入れる。
大腸菌を飼い始める者でさえ
にこにこと見守っていた。

「好きにやったらええ」

彼は本当に学問を愛していた。
学問を愛する人間を愛していた。

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「I love you & I need you ふくしま」猪苗代湖ズ

http://www.inawashirokos.jp/

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五島のはなし(135)

この写真、すごくないですか。
猫好きの皆さん、
五島にくると、
こういうシーンを一日中見られるかもですよ。
よだれでますよ。
でも五島に行けないって人は、
この五島在住写真家のページ見てみませんか。
ポストカードが買えるのだとか。
郵送もありとのことなので
興味のあるかたは問い合わせて見てください。
このほかの写真とか絵もねー、必見れすよー。

http://gaviel.blogspot.com/

(すみません、上記のURL押したらビュンって移動するようにするにはどうしたらいいのでしょう・・・)

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五島のはなし(134)

あ、そうそう、
あこがれのヒラスズキを
つれてきたのは
このルアー。
名をコモモという。
幸運を運ぶ使者のようで
なんかこうすっかり愛着が。

背景の本もよかったとよ

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五島のはなし(133)

五島は遣唐使が中国大陸へと渡る
その最後の寄港地だった。
つまり、中国からとても近いということになる。
そういうわけで黄砂。
鼻くしゅくしゅ、
目はしょぼしょぼ
やっかいだけど、なにげにこれが、
よい感じの朝の景色を生んだりもして。

黄砂の朝

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五島のはなし(132)

ゴールデンウィーク五島にいて
ラクだなと思って
なにがラクかなって思ったら
ひとつは中づりがないことだった。

むやみに情報がとびこんでこない。
そして穴を掘れば貝が出る。

筋肉痛になったとよ

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五島のはなし(131)

いっしょに釣りにいってくれた
クウルさんは
五島の海を知りつくしていて
すっとよいポイントをあけてくれる。
釣ったんじゃなくて、釣らせてもらったんやろうね。

んでも、ずーっと釣りたい魚だったので、
もうなんというか
なんもかんもがいっぺんにふきだすかんじで。

ヒラスズキというんれす。

手がふるえたとよ

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3週間分のCDを焼いて動画をつくり

連休などあってなかなか手がつかなかったVisionのCD焼きと
動画づくりを3週間分イッキにやりました。
うう〜、なかなかの作業量でした。

遅くなりましたが
音声をお聴きになるかたは過去作品も
振り返ってみてくださいね。

なお、今回のBGMはすべからく
ツネオムービープロジェクトの音楽をお借りしています。

ツネオムービープロジェクト:http://tsunechi.seesaa.net/

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蛭田瑞穂 11年5月15日放送

檀一雄の食卓

小説『家宅の人』で知られる作家、檀一雄。

世間には無頼派作家として通っていたが、
食生活に関しては規則正しく、ほとんどの食事は
自分の手でつくっていた。

その腕は文壇随一とも言われ、
『檀流クッキング』というエッセイも書いている。

買い物カゴを提げて商店街を歩くのが
日課だったという檀一雄はこんな言葉を残している。

この地上で、私は買い出しほど、好きな仕事はない。

寺山修司の食卓

寺山修司の食卓はいつも賑やかだった。

劇団「天井桟敷」を主宰していた彼のもとには、
陽が沈む頃になると、その日の夕飯にありつけなかった
劇団員たちが集まってきた。

家出してきた者が土産を持ってくることもあれば、
飲食店を営む劇団OBから、
不意に付届けが来ることもあった。

日ごとに違う人物が登場し、
日ごとに違う風景が繰り広げられた寺山修司の食卓。

彼は言う。

人生同様、食卓もまた劇場である。

澁澤龍彦の食卓

作家、澁澤龍彦。

ジャン・コクトーやマルキ・ド・サドの作品を日本に紹介し、
『高岳親王航海記』などの小説も執筆した。

百科事典的な博学の持ち主として知られ、
その著作は思想から美術、ヨーロッパ文化まで
幅広い範囲に渡った。

彼はまた美食家でもあった。

朝起きると「今日何を食おうか」というのが常で、
その日に捕れる相模湾の魚を心待ちにしていたという。

食に関して澁澤龍彦はこんな文章を記している。

アストロノミーは天文学のことだが、
この言葉の前にGをつけると、
ガストロノミーすなわち美食学となる。
アストロは星の意であるが、ガストロは胃の意である。
私はガストロノミーという言葉を聞くと、
自分の胃のなかで、無数の星が
軌道を描いて回転しているような気がしてくる。

まことに澁澤龍彦らしい表現である。

向田邦子の食卓

向田邦子の少女時代、向田家ではふたつの鍋で
カレーをつくっていた。

大きい鍋は家族用。小さい鍋は父親用。
父親のカレーは辛口で、肉も多かった。
早く大人になって、そのカレーが食べたい。
彼女はいつもそう思っていた。

カレーといえばもうひとつ、
向田邦子にはこんなエピソードがある。

人気ドラマ「寺内貫太郎」の脚本を執筆していた時、
彼女は寺内家の朝食として台本にこう書き加えた。

「ゆうべの残りのカレー」。

下町の家族の暮らしをわずか一行で表現した邦子の感性に
出演者もスタッフも感心したという。

井上ひさしの食卓

井上ひさしは歯医者が大の苦手だった。
虫歯ができても放置し続けたため、
やがて前歯を除くほとんどの歯が虫歯になった。

その痛みに耐えきれず、ある時彼は入院し、
重症の虫歯を一気に13本抜いた。

それ以来、井上ひさしは
やわらかいものしか食べられなくなった。

そんな彼のために、妻は歯に負担の少ない料理をつくった。

ハンバーグと揚げたチーズと
ニンジンを絞ったジュースを井上ひさしは特に好んだ。

彼は妻のつくる料理にこんな感想を述べている。

ただひとつのしあわせは、
家人が世にもまれな料理下手だったということだ。
彼女がもし料理上手だったら、
心をこめて作った料理に渋面を作る夫を、
やがて憎むようになっただろうから。

井上ひさしらしい感謝の仕方である。

遠藤周作の食卓

遠藤周作の家では
夕飯は漬物とあと一品と決まっていた。

毎日の献立を決めるのは妻の仕事で、
彼女には食事は質素をもって旨とすべし
という考えがあった。

周作はたまには贅沢をしたいと思うが仕方ない。
自分の仕事に口を出させないかわりに、
妻の仕事にも口を出さないというのが、
遠藤家のルールだったから。

そう思いながら、遠藤周作は明るく言う。

何はなくても家族みんなでたべる食卓はたのしい。
それはどこの家庭でも同じでしょう。
時々、夢で血のしたたるビフテキを食べている
自分の姿を見ますがね。

齋藤茂吉の食卓

歌人、齋藤茂吉は鰻に目がなかった。
その生涯で1000匹以上の鰻を食べたともいわれる。

太平洋戦争の最中、疎開先の山形で友人から鰻を送られた。

久しぶりに食べる極上の鰻に、茂吉はこんな句を詠んだ。

肉厚き
鰻もて来し
友の顔
しげしげと見む
いとまもあらず

田村隆一の食卓

詩人、田村隆一の晩年、朝食は決まって
妻のつくる弁当だった。

幼い頃から病弱で心臓の手術もした妻は朝が弱かった。

そのため、前の晩に弁当をつくり、
隆一の朝食として用意した。

目ざめると、隆一は弁当を持って2階に上がり、
窓の外を眺めながらそれを食べた。

朝早く、妻のつくった弁当をひとりで食べる。
その時間が隆一は好きだった。
窓の外には美しい鎌倉の海が見えた。

彼は妻の料理の味付けを気に入っていた。

家内の味つけは、
今風の料理屋より数段上です。

田村隆一はことあるごとに友人にそう吹聴していたという。

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中村直史はなぜあの大物写真を掲載しないのか?

なにしろ、突然メールが来たかと思うと
巨大なヒラスズキ、釣り人のあこがれヒラスズキの大物を
両腕で抱きしめている写真が添付され
憎らしいとに「デスクトップの写真にどうぞ」と
書いてきやがった中村直史。

なぜここでその大物釣りを報告しないのだろう。
さては合成写真か?
それとも他人の釣果なのか??
あの写真は疑惑に満ちている…(玉子)

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