2014 年 4 月 5 日 のアーカイブ

佐藤延夫 14年4月5日放送

140405-01
苦節時代 レオナール・フジタ

フランスで、最も有名な日本人画家と言われる、
レオナール・フジタこと、藤田嗣治(ふじたつぐはる)。

二七歳でフランスに渡るも、
第一次大戦のあおりを受けて、日本からの送金が途絶えてしまう。
赤十字で看護師として働き、
アルバイトをいくつも掛け持ちするが
それでも生活は苦しく、
モンパルナスの安宿でパンひとつをかじる毎日が続いた。
そんなときでも、寝て食べる以外の全ての時間を、
創作活動に費したという。

のちに彼が生み出した独創的な油絵の技法は、
あのピカソですらため息をついたそうだ。


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佐藤延夫 14年4月5日放送

140405-02
苦節時代 小林一三(いちぞう)

大学を卒業したら新聞社に入り、小説家になる。
それが、ある男の夢だった。
しかしその願いは叶わず、銀行に就職する。

やる気も足らず、遊びだけを覚えて十数年。
同僚に誘われた会社設立の話も立ち消えとなり
妻子を抱え、路頭に迷うことになる。

そんなときに出会ったのが、
箕面有馬電気軌道(みのおありまでんききどう)という会社だった。
ここで初めて、男のアイデアが花開いていく。
人々が何を求めて喜ぶか。
その原則は、不遇の時代に見つけていたようだ。

彼の名は、小林一三。
のちの阪急電鉄の創業者である。


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佐藤延夫 14年4月5日放送

140405-03
苦節の時代 湯川秀樹

ノーベル物理学者、湯川秀樹の少年時代は
きわめて地味なものだった。
他人とあまり口をきかず、何を尋ねても
「言わん」という一言で済ますため、
「イワンちゃん」とからかわれた。

不調和で、バランスのとれない心。
しかし、内向きに注がれていたエネルギーは、
研究者として大成する起爆剤になっていた。
中間子理論の答えが見えたときのことを、
彼はこんな言葉で振り返る。

「十月初めのある晩、私はふと思いあたった」

それは自分との会話の中で、見つけたもの。


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佐藤延夫 14年4月5日放送

140405-04
苦節の時代 嵐寛寿郎

明治36年、京都で生まれた少年は、
小学校を卒業するとすぐ、丁稚奉公に出された。
着物の襟の製造販売店だった。

朝五時に起きて、荷車や自転車に油をさす。
冬でも足袋を履くことを許されず、一日中、配達で走り回る。
夜は十二時までミシンがけという重労働で、月給はわずか一円。
今の金額に直すと、4,000円ほど。
月に一度の休みは、チャンバラ映画やアメリカの喜劇映画を見て過ごした。

この少年は、十数年後、嵐寛寿郎という名前で
大衆の心を鷲掴みにする。
あのころ見た銀幕の世界に、自分の生きる場所を見つけた。


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