2015 年 9 月 6 日 のアーカイブ

大友美有紀 15年9月6日放送

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「あの日からサウダージ」 ナラ・レオン

「あの日からサウダージ」
ボサノヴァのミューズ、ナラ・レオンが
歌詞を書き下ろした、
日本のビールのCMのための音楽。

 原題は、Suadades de você(サウダージュ デ ヴォセ)
 あなたへの郷愁、あなたのいない切なさ、と言った意味。
 失った愛と戻ってきた愛について歌っている。


作曲は、ホベルト・メネスカル。
ナラの最初の恋人だった。



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大友美有紀 15年9月6日放送

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「殻」 ナラ・レオン

ボサノバのミューズ、ナラ・レオンは、
子どもの頃、いつもコンプレックスを持っていた。
姉のダヌーザは、ブラジルで一番有名なモデルだった。
姉が活躍し、輝きを増すにつれ、
ナラは自分の殻に閉じこもりがちになっていく。

 12歳の頃は、泣いてばかりいた。
 おとなしくて、シャイで、
 自分自身をすごく醜いと思っていたわ。
 最悪なのは、美人の妹だっていうこと。
 あのとき、ナラ・レオンは
 まだ存在していなかったわ。


ギターを弾くことを覚え、歌を歌いはじめ、
シャイな女の子は、いつしか女神になった。



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大友美有紀 15年9月6日放送

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「ボサノヴァが生まれた家」 ナラ・レオン

  私の家庭は、イギリスでいうところのクラスレス。
  社会的階級に属さない変わった家庭だった。


ナラ・レオン、ボサノヴァのミューズと呼ばれる彼女が
育ったのは自由な家庭だった。
行儀よくしろ、とか、伝統を守れ、とか
そういうこととは関係なかった。
コパカバーナにあったナラの家は、3LDKのマンション。
でも普通の3LDKよりはずっと大きく、
それぞれの部屋がすごく離れていた。
居間でパーティーをしたり、集まったりできた。
ほぼ毎晩、仲間が集まり演奏したり、歌い、
情報交換していた。音楽集会が開かれていたのだ。
のちにMPB(エミペーベー)、
ムジカ・ポプラール・ブラジレイラの歴史を築く人物たちも
集まるようになっていった。
アントニオ・カルロス・ジョビンや
ジョアン・ジルベルトも参加したことがある。
ナラの家でボサノヴァが生まれた、という人もいる。

 私はグループにとってコンピュータみたいな存在だったわね。
 全曲の歌詞とメロディーとコードを暗記していたから。
 でも誰かが曲を思い出したい時にしか、
 口を開けなかったし歌えなかった。


ナラがグループに残ったのは、そこが自分の家だったから。
そんな単純な出来事が、ボサノヴァの女神を生んだ。



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大友美有紀 15年9月6日放送

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「ボサノヴァ」ナラ・レオン

ボサは「隆起、傾向、素質」といった意味。
ノヴァは「新しい」。
つまりボサノヴァは、ニューウェイブだった。
ブラジルでの全盛期は1950年代の終わりから
60年代の前半ころまで。
その後はもっとテンポが早く、
リズミカルな音楽が流行っていく。

 美しいメロディ、ハーモニーと
 心地よいリズムにのった
 プライベート・ウィスパーソング


ナラ・レオンがボサノヴァを表現する言葉。
まるで彼女自身のようだ。



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大友美有紀 15年9月6日放送

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「小鳥のような声」ナラ・レオン

1959年、秋、海軍兵学校で開かれたコンサートで、
ナラ・レオンは、始めて舞台に立つ。

 みなさん、ボサノヴァの一番若いメンバーを紹介します。
 今日、始めて人前で歌います。ナラ!


そう紹介されるとナラは、パニックになった。
お客さんに背を向けて、半泣きで歌った。
けれどもその歌は大喝采を受けた。

かわいらしいヒザと前髪、
小鳥のような歌い方、ギターの腕前のよさ。
コパカバーナの少女、ナラ・レオンは、
徐々に人気を獲得していく。
各地でライブに呼ばれ、レコーディングに参加する。
1963年、プロとしての初仕事となる演劇作品
「哀れな金持ちの娘」に出演する。
マスコミもナラを賞賛した。

 ナラ・レオンは、将来もっと上手になるだろうと
 思わせるギターを弾き、とても音感がよく、
 素晴らしい声を持っている女の子だ。

 
こうして、ボサノヴァのミューズへの第一歩を踏み出した。



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大友美有紀 15年9月6日放送

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「ボサノヴァとの訣別」 ナラ・レオン

デビューから、瞬く間に人気を博していった、ナラ・レオン。
いつからか「ボサノヴァのミューズ」と呼ばれるようになった。

このころブラジルの政情は、不安定だった。
ナラは、愛や海や花をモチーフにするボサノヴァの歌詞に
否定的になっていった。ミューズと呼ばれることも気に入らなかった。
自分の言いたいことを主張している音楽を求め始めた。

そして1964年4月1日、ブラジルで軍事クーデターが起こった。
その2週間後、ナラは「オピニオン」という歌をコンサートで歌う。

  殴ったっていい
  捕まえたっていい
  何も食べ物が与えられなくてもいい
  でも私は意見を変えない

  
ナラは、マスコミから自分を「反逆分子」と思うかと問われる。
軍事政権に賛成しないのか、と。
  
  人々の悲劇や、問題、悲しみ、苦悩や喜びを歌うのが
  「反逆分子」なら、そう呼ばれることから逃れられないわ




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大友美有紀 15年9月6日放送

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「パリへ」 ナラ・レオン

ブラジルの軍事政権は検閲という圧力で、
アーティストたちの表現の自由を奪っていった。
軍警察はナラ・レオンを逮捕したがっているという情報がはいる。
ナラと夫の映画監督カカー・ヂエゲスは、
ブラジルから出国し、パリに移り住んだ。
ナラは、パリでとても幸せだった。

  誰も私のことを知らなかったし、
  普通の生活ができたの。


ナラは、ボサノヴァのミューズであることからも解放された。



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大友美有紀 15年9月6日放送

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「再び、美しきボサノヴァのミューズ」 ナラ・レオン

1970年、ナラ・レオンはパリで穏やかな生活を送っていた。
ブラジルの音楽にフランス語の歌詞をつけたり、
フランス語からポルトガル語の歌詞を作る仕事をしていた。
そして、音楽を通じて「ブラジル」を見いだしたいと思っていた。
軍事政権の灰色のブラジルではなく、
思春期時代の希望に満ちたブラジル。

 上手く説明できないのだけれど、
 でも、急に、唯一歌いたいと思ったのが
 ボサノヴァだったの。
 ギターを手に取って歌いはじめた。

 
そこにブラジルから、ナラ・レオンのアルバムを
録りたい、という手紙が届く。
ボサノヴァ集だった。
ナラは、再び音楽が好きになった。
そのアルバムのタイトルは
「美しきボサノヴァのミューズ/Dez anos depois」
女神は帰ってきた。



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