2016 年 4 月 10 日 のアーカイブ

森由里佳 16年4月10日放送

160410-01
Thalita Carvalho ϟ
ひらく 本の未来

ルリユールというフランス語をご存じだろうか。

ルが再び、リユールが糸で綴じる
という意味で、古くなった本を製本し直すという言葉だ。

ヨーロッパには今でも、
大切な本には職人の手で修復・製本・装丁が施され、
「世界に一冊だけの本」として、
親から子へと代々受け継がれるという伝統がある。

パリ17区の工房で働くルリユール職人のソフィー・クァンタンさんは、
「読書というより、本そのものが好きなの」と語る。

そう。
本の価値は、ひらいたページの中だけにあるのではない。
 
手軽に読むための電子書籍が席巻している今、
ルリユールという言葉がもつ尊い響きは、
本の未来を、再びひらいていくのではないだろうか。

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森由里佳 16年4月10日放送

160410-02
kina3
ひらく 王道

炊きたての白飯の上に
飴色に炒められた薄切りの玉ねぎ。

そこにきつね色の大きなトンカツが、
大きな体のせいですこし居心地わるそうに横たわる。

ぶ厚くてどっしりとしたカツと、
薄いがたっぷりの玉ねぎの押し合いへし合いを収めにかかるのは、
甘いそばつゆをふくんだ半熟とき卵だ。
「まあまあ」となだめるように両者をとろんと包みこみ、
ひとつの絶品料理へとまとめあげる。

東京は早稲田にある「三朝庵」は、
卵とじカツ丼の元祖の店だ。

大正7年、手違いで宴会用のトンカツが大量に余った翌日、
困った店主が冷めたカツをとき卵でとじて、
丼としてふるまったのが始まりだ。

日本の胃袋を満たすどんぶりの王道は、
とじたことで、ひらかれたのだ。

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森由里佳 16年4月10日放送

160410-03
のべ吉
ひらく 国

鎖国のさなかにある日本で、
国をひらき、力をつけるべきだと主張した男、
吉田松陰を知らない人はいないだろう。

理想を実現するために彼が着手したのは教育だった。

当時の教育機関は、
武家のための藩校、町人や商人のための寺子屋が主だった。
しかし松陰は、武家の人間であるにも関わらず、
藩校である明倫館を飛びだし、松下村塾をひらく。

身分による入学規制はおろか、
上下関係すらないその塾では、闊達な議論が交わされた。
後に開国した日本で首相をつとめる伊藤博文が塾生の一人であることは有名だ。

彼は、学びの門戸をひらいただけでなく、
一国の門戸をもひらいたのだ。

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佐藤日登美 16年4月10日放送

160410-04

ひらく 津田梅子

150年近く前、わずか6歳でアメリカに留学した少女がいた。
津田梅子。
彼女は先進的なアメリカの教育を学び、
日本に持ち帰る、という使命を持っていた。

11年間の留学を終えた梅子を待っていたのは、しかし、逆カルチャーショックだった。

「東洋の女性は、地位の高い者はおもちゃ、地位の低い者は召使いに過ぎない」
彼女は、知人への手紙にこうつづった。

そんな日本女性のために、梅子は「女性英学塾」をひらく。
女性が高等教育を学び、秘めた野心を呼び起こすための学校。

「津田塾大学」と名前を変えたその学校は、
今も、梅子のような強く聡明な女性を輩出している。

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佐藤日登美 16年4月10日放送

160410-05

ひらく むすんでひらいて

童謡「むすんでひらいて」の研究者、海老澤敏(えびさわびん)をご存知だろうか。
童謡を研究?と思ったあなた。
バカにしちゃいけません。

哲学者ルソーが18世紀につくった曲が原型と言われ、
そのメロディが初めて日本で聴かれたのは、讃美歌として。
その後、古今和歌集の和歌が載せられ、日本初の音楽教科書に登場。
しかし歌詞が小学生には高尚すぎるとされ、軍歌に。
今の「むすんでひらいて」の形になったのは、
戦後のことだ。

賛美歌、唱歌、軍歌。そして童謡。
目まぐるしく変わった「むすんでひらいて」

ひなたぼっこのような童謡には、
長い歴史が刻まれている。

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佐藤日登美 16年4月10日放送

160410-06
Wendy Copley
ひらく 嫌がらせ弁当

お弁当箱をひらくときのワクワク感。

そんなお弁当を、嫌がらせに変えた母がいる。
八丈島に住むシングルマザーのkaoriさんは
高校生の娘に持たせるお弁当を「嫌がらせ弁当」と名付け
ユニークなキャラ弁を作り続けた。

蓋を開けると母から娘へのメッセージ。
「大きな声で返事しろ!」と叱ったり
「随時受付中」と母の日のプレゼントを要求したり、
「夢を叶えろ!」と受験を励ましたり。

そんなお弁当を、毎日学校に持っていった娘は話す。
「卒業して『キャラ弁』がなくなるのは嬉しいですが、
『お弁当』がなくなってしまうのは悲しい気もします」

母の嫌がらせ弁当を、
娘は一度も残さなかった。

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蛭田瑞穂 16年4月10日放送

160410-07
euthman
ひらく スティーブ・ウォズニアック

アップルコンピュータが最初に発売した「apple I」は (アップル ワン)
手づくりのコンピュータだった。
エンジニアのスティーブ・ウォズニアックが
見本市で手に入れたマイクロプロセッサーをハンダで基板に埋め込み、
一台一台製造した。

ウォズニアックは仕事が終わると朝方まで「apple I」をつくり、
それを販売店に持ち込んだ。価格は1台666ドル66セント。

販売したのはわずか200台に過ぎないが、
その利益が世界初のパーソナルコンピュータ「apple Ⅱ」の開発につながる。

「apple I」の発売はちょうど40年前の1976年4月11日。
「apple I」がパーソナルコンピュータの歴史をひらいた。

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蛭田瑞穂 16年4月10日放送

160410-08
ProhibitOnions
ひらく ノーラン・ブッシュネル

ビデオゲームの父、ノーラン・ブッシュネルが
1973年に発表したビデオゲーム「ポン」

開発の経緯をブッシュネルはこう語る。

 それまでにもビデオゲームはあったけど大衆的ではなかった。
 僕は片手でビールをあおりながら、
 もう片手で遊べる簡単なゲームをつくりたかったんだ。
 そこで思いついたのがピンポンやテニスに似たゲームだった。
 それなら誰でもルールを知っているからね。

「ポン」の試作機をバーに設置すると人々はこぞってプレーした。
コインが入りすぎて機械が故障するほど人気を博した。

「ポン」はやがて史上初めて世界的に普及したビデオゲームとなり、
コンピュータゲームの歴史をひらいた。

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