2018 年 4 月 22 日 のアーカイブ

河田紗弥 18年4月22日放送

180422-01

美しさのひみつ 〜アイシャドウ〜

アイシャドウは、紀元前3500年頃には、
古代エジプトではじまっていたと言われている。

今では、目を大きく見せたり、華やかに見せたり
目元のおしゃれ目的で使用されているアイシャドウ。
当時は、虫除けとして使用されていた。

古代エジプトは、空気が乾燥している上に、
衛生状態が悪かったため、
ハエなどの害虫が、水分を求めて人間の目に集まってきてしまい
感染症を引き起こしてしまうということが
日常茶飯事であった。

そこで、孔雀石を砕いた緑色の粉末などを
目のふちやまつ毛などに塗り、
それを防いでいたのだ。

この感染症予防を、おしゃれに楽しむことを始めたのが、
世界三大美女で知られるクレオパトラ。

彼女は、使用する鉱物を変え、緑や青、黒、赤褐色と
カラフルな色彩を使って、メイクを楽しんだと言われている。

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河田紗弥 18年4月22日放送

180422-02

美しさのひみつ 〜マスカラ〜

アイメイクに新しい風が吹いたのは1913年だった。

トーマス・ウイリアムスというアメリカの若い薬剤師が
妹の恋を成就させるために
ワセリンゼリーに石炭粉を混ぜ、
まつ毛を濃く見せる化粧品を作った。

 The eyes are the window to the soul
 (目は口ほどにものをいう)

その化粧品はメイベルを大きく見せ
魅力的な印象を与えた。

そしてメイベルの恋は実り
思いを寄せていた彼と結ばれたそうだ。

メイベルの恋を成就させ、
今もなお、多くの女性の恋を支える化粧品、
それがマスカラだ。

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河田紗弥 18年4月22日放送

180422-03

美しさのひみつ 〜ヨーロッパの白粉〜

エリザベス1世が生きた中世ヨーロッパでは、
肌は白ければ白いほど美しく、
か弱く不健康そうな女性が上品で美しいとされていた。

そのために食事をとらず、
体調が悪くなるように自分を追い込む人や、
血を抜いてわざと貧血状態になることで、
肌をより青白く見せようとする人もいた。

エリザベス一世も、そのひとり。
儀式のときは、白粉がしっかりと肌にのるように、
下地にはちみつを塗ってから、白粉を塗っていたと言われている。
やがてそれを真似する人があらわれ
エリザベス一世のメイクは当時の女性たちの間で流行になったが…

ハチミツが溶けるので寒い日でも暖房に近づけない。

白い肌への探究心は不健康にヒートアップしていった。

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河田紗弥 18年4月22日放送

180422-04

美しさのひみつ 〜美艶仙女香〜

「色の白いは、七難隠す」
江戸時代、色白が美人の第一条件だった。

当時、白粉には、鉛白粉が使われ、
水で溶いて手や刷毛でつけていた。
中でも有名だったのは、
江戸後期に発売された「美艶仙女香」

川柳に「仙女香やたら顔出す本の端」と読まれるほど、
草双紙や浮世絵の
あらゆるところに「美艶仙女香」の文字が多く見られる。

どうして、そんなPRが可能だったのか。
それは、この「美艶仙女香」の販売元が
絵入りの小説類の検閲を行う名主のひとり
和田源七だったからと言われている。

つまり、版元や作者、絵師に無言の圧力をかけられる立場を利用し、
作品のなかにタダで広告を入れたと想像できるのだ。

こうして、多くの民衆の目に触れるようになった「美艶仙女香」は、
あっという間に、江戸で話題の化粧品となった。

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河田紗弥 18年4月22日放送

180422-05

美しさのひみつ 〜整形〜

紀元前600年頃のインドでは、
社会的な罰として、鼻を切り落とす習慣があった。

多くの人々は、自分の切り落とされた鼻を持って
ススルタという腕利きの外科医に救いを求めたという。

そこで、彼は鼻の整形術を編み出し、
切り落とされた鼻を縫いつけたり、
額の皮膚を鼻へ移植したりする手術をした。

これが世界初の形成外科手術をいわれる。

その後、第一次・第二次世界大戦を通し、
体の一部を失った兵士の社会復帰のために、
形成外科が医療として確立された。

人のカラダを修復する治療はやがて美容整形へ発展する。
ちなみに日本はいま、美容整形の先進国だ。

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河田紗弥 18年4月22日放送

180422-06

美しさのひみつ 〜香水〜

ミューレンス社の創始者であるウィルヘルム・ミューレンスに
結婚のお祝いとして
ある修道士から1枚の手紙が届いた。

その手紙に書かれたレシピに基づいて作られたのが、
アクア・ミラビリス。世界初のオーデコロン。

ミューレンスはその水の製造工場を
ドイツ・ケルンのグロッケンガッセ4711番地に設立し、
販売をはじめた。

当時、フランスの占領下だったケルンに駐留したフランス兵たちが
その水の香りに魅了され
母国フランスの母親や恋人たちに送ったと言われている。

フランス語の「オーデコロン」の意味は「ケルンの水」
アクア・ミラビリスはオーデコロンとして
ヨーロッパ、そして世界へと広まっていった。

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河田紗弥 18年4月22日放送

180422-07

美しさのひみつ 〜ヘアカラー〜

平安時代末期、斎藤実盛は
木曽義仲を追討するため、北陸に出陣し
味方が総崩れする中、
一歩も引かずに戦い続け、討ち死した。

戦いが終わって首実検のとき
実盛らしい首はあるが
誰も実盛本人だと確認できない。

しかし、近くの池で、その首を洗ってみると
黒い髪や髭が、みるみる真っ白に変わった。

実盛はかねてから、
「60歳を超えて戦におもむくときは
 髪を黒く染めて、若返ろうと思う。
 白髪頭で先駆けを争うのも大人げないし
 老武者と人の侮りを受けるのも口惜しい」と語っていたという。

そう、彼は戦いの前に、
白い髪の毛や髭を、墨汁で黒く染めていたのだ。

これが、日本におけるヘアカラーのはじまりと言われている。

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河田紗弥 18年4月22日放送

180422-08

美しさのひみつ 〜パック〜

時代が変わっても、女性の美に対する想いは変わらない。

古代ローマの女性たちは、シワやそばかす、
しみへの対策として
パックを使用していた。

特に、シワに効くというロバのミルクも効能に定評があり、
1日に7回もロバのミルクパックをするご婦人もいたのだとか。

このロバのミルク愛用者の中に、
ローマ皇帝ネロの妻ポッパエアがいる。

彼女は寝る前にロバのミルクのフェイスパックをし
全身美白のためにロバのミルク風呂に入り、
旅をするときも100頭のロバを連れて行って
ミルクに事欠かないようにしたという。

女性たちの美容への飽くなき探究心は、
尽きることがない。

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