森由里佳 20年7月12日放送



涼をたのしむ 水うちわ

透明なうちわがあるのをご存じだろうか。
骨が透けて見えるほどうすい和紙がはられ、
破れぬようにニスが塗られたこの美しい扇は、水うちわと呼ばれている。

うちわを水にひたしてから扇ぎ、その気化熱で涼む、明治時代のアイデアだ。

アイデアの故郷は、岐阜県。長良川が流れる水の街だ。
人々は、舟遊びの際に川の水に浸しては扇ぎ、涼をとっていたのだという。

一時は継承者が途絶えた水うちわ。
しかし、最近になって復刻し、今では毎年完売するほどの人気だそうだ。
電気も電波もない時代。
そのアイデアは、いつの時代にもやさしくフィットする。

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長谷川智子 20年7月11日放送



欲望という名の電車の夏

アメリカ・ニューオリンズの夏は、暑く、長い。
テネシー・ウィリアムズの戯曲 「欲望という名の電車」の舞台である。

名家出身の未亡人ブランチが、
貧しい妹夫婦を訪れる。

「神経が休まる」からと、熱い湯に浸かるブランチのせいで、
狭い家には熱気がこもる。
高慢な態度に苛立つのは妹の夫スタンリー。
汗をかいた肌にシャツが張り付く。
ブランチは、彼の粗野な姿に苛立ちを募らせる。

じっとりと不快な湿気は、物語のカギを握る重要なキャスト。
憎み合う二人を悲劇へ導く。

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長谷川智子 20年7月11日放送



椿姫の夏

ヴェルディの名作オペラ椿姫。
高級娼婦ヴィオレッタと貴族アルフレードの恋は、
夏のパリからはじまる。

パーティーの夜、熱に浮かれ、歌い踊る人々に紛れ、
アルフレードは憧れの人へ愛を打ち明ける。
仮初の恋を楽しむばかりだったヴィオレッタは
真実の愛を知り、一輪の椿を差し出す。

「この花がしおれたときに、会いに来て」
「明日だね」
「ええ、明日」

ひと夏の、あつく、あまい、幸せ。
この恋は、決して悲劇だけではなかった

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長谷川智子 20年7月11日放送



源氏物語の夏

紫式部作「源氏物語」の主人公、光源氏は
春、夏、秋、冬の名を持つ御殿に、妻や子供たちを住まわせた。

夏の御殿の主人は、花散里。
久しぶりの訪れに恨みごとも言わず
源氏の君の美しさに見ほれるようなおおらかな女性。
その住まいは、「どこもかしこも浮ついたところはなく、気品が漂っている」と
紫式部は書いている。

春や秋に比べ、
平安時代の夏は、静かに暑さをやりすごす穏やかな季節であった。

花散里と光源氏は、男女の仲が絶えた後も信頼し合い、
彼女は彼の子供たちを養育した。古の夏は、大人の恋の季節だったようだ。

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長谷川智子 20年7月11日放送



蝉しぐれの夏

藤沢周平 蝉しぐれ
主人公文四郎と、幼馴染ふくの淡い恋は、夏にはじまる。

少年文四郎は、へびに噛まれたふくの指を口に含み、血を吸いだしてやる。
礼を言うふくの色白のほおが、なぜか気になった。
いつもと変わらないはずなのに。頭上では蝉が鳴いていた。

数十年後。
別々の人生を歩んだ二人に訪れたひとときの逢瀬。
一人になってから、文四郎は
「さっきは気づかなかった、里松林の蝉しぐれ」に包まれて
子どもの頃に遊んだ雑木林を思い出す。
脳裏には、ふくの白い頬も浮かんでいただろう。

夏に始まり、夏に終わった、長い長い恋の物語。

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長谷川智子 20年7月11日放送


jun560
夏の夜の夢の夏

シェークスピア作「夏の夜の夢」。

駆け落ちしたハーミアとライサンダー。
しかし、妖精パックの惚れ薬のせいで
ライサンダーは一夜にして心変わり。他の女に夢中になってしまう。
恋は盲目。「どこを探しても分別などない」。

原題A Midsummer Night’s Dreamのmidsummerは、
夏至祭りのこととも、真夏の熱に浮かされた大騒ぎのことともいわれている。

ハーミアとライサンダーは、再び妖精の力でもとの恋人同士に。
まるで夢を見ていたかのよう。

夏の夜には、心惑わせる恋の媚薬が混じっているのだ。

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大友美有紀 20年7月5日放送


jun560
江戸切子の日  魚子文(ななこもん)

今日は江戸切子の日。
江戸切子の代表的な文様に
「魚子文」(ななこもん)があります。
「なな」と「こ」の語呂合わせから、
江戸切子協同組合が、
7月5日を記念日に選びました。
魚の子と書いて、ななこと読ませる文様。
魚の卵をモチーフにした魚子文は、
シンプルだけれども、
職人の技量が試される
難しい柄のひとつと言われています。
細部にまでこだわり抜く、
職人魂への思いがこもった記念日です。

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大友美有紀 20年7月5日放送



江戸切子の日  加賀屋久兵衛

今日は江戸切子の日。
その歴史は、天保5年、1834年に
大伝馬町の加賀屋久兵衛というビードロ屋が、
金剛砂(こんごうしゃ)でガラスの表面を彫刻したのが
始まりだったと伝えられています。

明治6年、1873年には品川興業社硝子製造所が開設。
明治14年にはガラスカットの指導者として、
英国人のエマニエル・ホープトマンを招き、
十数名の日本人が指導を受けました。
そして現在に伝わる江戸切子のガラス工芸技法が
確立されたのです。
その後、国内のガラス製造がさかんになり、
ふだん使いの食器として切子が作られるようになります。
美術品ではなく、日用品。
江戸切子のある暮らしは、庶民のものでした。

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大友美有紀 20年7月5日放送


Norio.NAKAYAMA
江戸切子の日  江戸切子と薩摩切子

今日は江戸切子の日。
薩摩切子は、透明なガラスの表面に厚めの色ガラスを被せ、
切り込み具合によって「ぼかし」を生み出すのが特徴。
町民文化から生まれた江戸切子と違い、
薩摩切子は藩直轄で発展しました。

1846年、薩摩藩第27代藩主、島津斉興(なりおき)の時代、
薬品を入れるガラス瓶製造のために、江戸からガラス職人を呼び寄せました。
それが江戸ガラスの創始者加賀屋久兵衛の徒弟、
四本亀次郎(しもとかめじろう)でした。
次の藩主、斉彬(なりあきら)は
薩摩の色ガラスを日本の特産品にしようと、研究を重ね、
薩摩切子を誕生させました。
ところが斉彬の急逝によって薩摩切子は衰退。
あわや幻になって消えるかと思われたそのおよそ100年後
薩摩ガラス工芸の設立によって
薩摩切子は再び世に出ました。

江戸と薩摩、歩んできた道のりは違うけれども、
切子の美しさを競い合う良きライバルです。

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大友美有紀 20年7月5日放送



江戸切子の日  西洋から江戸へ

今日は江戸切子の日。
江戸後期、オランダから長崎に
カットガラスが入ってきました。
表面に繊細な文様が彫られているガラスで
これを真似て作られたのが、切子です。

江戸切子の代表的な文様、魚子(ななこ)は、
18世紀から19世紀かけての
イギリス、アイルランドでもよく見る、
典型的なカット模様だとか。

西洋の美を取り込んで、江戸で花開いた切子。
スカイツリーのエレベーターにも使用され
海外の人の目を楽しませています。

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