佐藤延夫 13年12月7日放送


nicolasnova
さようなら 山内溥

任天堂の元社長、山内溥(やまうちひろし)さんが亡くなったのは、
今年の9月のことだ。
花札やトランプを作っていた小さな会社は、
ファミリーコンピュータという空前の大ヒットで、
一躍、世界の一流企業にのし上がった。

しかし、その前に紆余曲折があったことはあまり知られていない。
タクシー会社、食品会社、事務機器、
育児関連用具、ラブホテルの経営まで手を出したが、
ことごとく失敗している。

「世間はよく成功者を手放しで尊敬してしまうが、
 成功者の言葉ならなんでもかんでも金科玉条のように
 あがめるのはおかしい」

成功と失敗。両方を知る男の言葉は、やけに説得力がある。

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道山智之 13年12月1日放送



新美南吉 ~悲哀と愛~

作家、新美南吉。
彼はまだ中学生だったとき、日記に書いている。

 悲哀は愛に変わる。
 (中略)
 俺は、悲哀、即ち愛を含めるストーリィを書こう。

4歳で母をなくし、養子に出された。
想いが伝わらない哀しみの中にこそ、
愛のほんとうの姿が見えかくれする。
彼は16歳のときすでに、感じていた。

その2年後、
彼は名作「ごんぎつね」を書く。

新美南吉。
今年は彼の、生誕100周年。

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道山智之 13年12月1日放送



新美南吉 ~春の電車~

作家、新美南吉。
彼はたくさんの詩を残している。

 わが村を通り
 みなみにゆく電車は
 菜種ばたけや
 麦の丘をうちすぎ

そんな一節ではじまる「春の電車」。
電車はあたたかな海をのぞむ半島の先へとむかう。

 そこにはいつも
 わがかつて愛したりしをみなをりて
 おろかに心うるはしく われを
 待つならむ

かつてその街には
南吉と心を通わせた女性がいた。
結ばれることはなかったけれど、
彼の想いはすぎさりし日々に向けて、
電車に揺られつづける。

新美南吉。
今年は彼の、生誕100周年。

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道山智之 13年12月1日放送


steve lorillere
新美南吉 ~ほんとうのごんぎつね~

作家、新美南吉。
29歳の若さでこの世を去った彼は、
今年、生誕100年を迎えた。

全国の教科書に採用されたことで
広く知られるようになった「ごんぎつね」。

孤独なごんぎつねが、
誤解によって、兵十(ひょうじゅう)の火縄銃に倒れるラストシーンは、
多くの子どもたちの心に焼きついた。

 「ごん、おまえだったのか。いつも栗をくれたのは。」
 ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。

だが、自筆の原稿の一行は、少しちがう。

 ごんは、ぐったりなったまま、うれしくなりました。 

兵十への想いがやっと通じたうれしさが、
命を絶たれた悲しさを上回る。
つぐないの物語だと思っていた「ごんぎつね」が、
たった一行のちがいで、愛の物語へと変化する。 

「ごんぎつね」は、ほんとうはハッピーエンドなのだ。 

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道山智之 13年12月1日放送



新美南吉 ~バースデーケーキ~ 

今年、7月30日。
作家・新美南吉の100回目の誕生日を祝う催しが、
彼の故郷で行われた。

彼が全国的に知られるようになるには、
死後かなりの年月が必要だった。

この日、全国から集まった人たちが
バースデーケーキのそばに花と、
「おめでとう」の言葉をささげた。

彼は今、自分がこれほど愛されていることを
どこかで見ているだろうか。

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道山智之 13年12月1日放送



新美南吉 ~白秋との出会い~

作家、新美南吉。
18歳で「ごんぎつね」を書いた彼は、
その年初めて上京する。
知り合いの詩人・巽聖歌(たつみせいか)につれられて、
尊敬する北原白秋のもとを訪ねた。

そのときの喜びを、
南吉は、白秋あてのお礼の葉書きにしたためている。

先生が、僕を「新美君」と仰有(おっしゃ)ったときも、
うれしくて返事も出来ないほどでした。

先生は、巽さんを「巽」とお呼びになったと思います。(中略)
僕も「新美君」でなくて、「新美」と呼ばれる様に、努力しようと思っています。

それから南吉は、
「手袋を買いに」「でんでんむしのかなしみ」など
心動かす作品を次々に書きあげていった。 

29年の、短い生涯。
その中で彼は白秋に、「新美」と呼ばれることが
あっただろうか。   

新美南吉。
今年は、彼の生誕100周年。

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道山智之 13年12月1日放送



新美南吉 ~まっさらな日々~ 

作家、新美南吉。

彼は喀血のため故郷に戻り、
女学校で教師をしながら
作品を書きためた。

当時の生徒だった女性は語る。

先生は教室を出て、
外を歩きながら教えてくださいました。

「空はsky、色はblue。
 木はtree、花はflower。」

見上げながら、ふれながら、めでながら。
私は英語が好きになりました。

25歳、赴任したてのまっさらな南吉と、
入学したてのまっさらな女生徒たちの、
まっさらな3年間。
彼がつかの間、健康を回復した日々でもあった。

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道山智之 13年12月1日放送



新美南吉 ~下駄屋の店先~

作家・新美南吉の生家が、今ものこる。

下駄を売る店先にある、小さな机。
ここで彼は遺作となる「狐」を書いた。

 午后五時半書きあぐ。
 店の火鉢のわきで。
 のどがいたい。

風が窓ガラスを鳴らす音だけが響く店先。
腰かけてながめれば、
小さな小さな机にむかう、
必死の背中が浮かんでくる。

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道山智之 13年12月1日放送



新美南吉 ~ささえるひと~ 

作家、新美南吉。
今年は、彼の生誕100周年。

南吉は、作品を出版する機会になかなかめぐりあえなかった。
29歳、死の直前に、ある人物に未発表作品を出版してくれるよう
頼んだ。

その人は、南吉が兄と慕う詩人、巽聖歌。
巽は自分の作品をさしおいて、次々に南吉の本を出版。
南吉は死後10年以上たってその名が全国に知られるようになる。

巽のスクラップ帳には、
天国の南吉にあてたメモがのこる。

 南吉よ おそい春だったなあ
 けれど おれは
 これで
 せいいっぱいだったんだよ

巽聖歌の献身がなければ、
私たちは「ごんぎつね」を知らない人生を生きたかもしれない。

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藤本宗将 13年11月30日放送



インナーワールド アドルフ・クスマウル

人の体内は、いちばん身近な未知の世界。
それを覗き見ることにはじめて成功したのは、
19世紀半ばのドイツの内科医、アドルフ・クスマウル。

人間の内蔵を見るには、手術しか方法がなかった時代。
なんとか切らずに見ることができないかと考えるうち、
クスマウルは口から長い筒を入れて胃の中を覗くことを思いついた。

しかし完成したのは現在の内視鏡とは違い、
まったく曲がらない金属製の筒。

そこでクスマウルが連れてきたのは、中国人の大道芸人。
剣を飲み込む要領でこの筒を飲ませようと考えたのだ。

芸は身を助けるというが、
この芸は医学の進歩を助けてくれた。

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