三島邦彦 12年3月11日放送

Suzan Black
言葉・2011/ ブータン国王

幸せの国の王様が、日本にやってきた。

その国の名は、ブータン。

ブータンといえば、
九州ほどの大きさの土地に人口が70万人という小さな国ながら
国民総生産よりも国民総幸福の向上を目指すという
画期的な政治理念をかかげ、世界にインパクトを与えた国。
日本から派遣された技術者がブータンの農業に大きな影響を与えるなど、
ブータンと日本の友好関係は、強く、深い。

2011年11月、そのブータンの国王が日本を訪れた。
これはその時、日本の子どもたちに向けて国王が語った言葉。
 
皆さんは龍を見たことがありますか?
私はあります。
皆さんそれぞれの中に龍はいます。
龍は『経験』を食べて大きくなります。
年をおうごとに龍は大きくなるのです。
皆さん、自分の中の龍を
大切にしてください。

強く、しなやかな龍は、ブータンのシンボル。
お腹の中に、龍を持つこと。
幸せの国の王様が、たくましく生きるコツを教えてくれた。

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三國菜恵 12年3月11日放送


言葉・2011/和合亮一

福島在住の詩人、和合亮一(わごうりょういち)。
震災のあと、3月16日の夜から
彼は日々、ゆれ動く自分の気持ちをことばに託して、
ツイッターで発信してきた。

和合は、震災以来
自分の暮らす街の空気がどこか変わってしまったと感じ、
「空気が恐い顔をしている」と綴った。
さらに、彼のことばはこう続く。

恐い顔をしないでおくれ。
きみがそんな顔をしていると、みんなだって、頑なになるしかない。
福島よ。風よ。優しく笑っておくれ。

涙と微笑みとが入り混じったようなそのことばに、
いまも多くの人からの反響が寄せられているという。

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中村直史 12年3月11日放送

カマスキー
言葉・2011/立川志の輔

立川志の輔は重い気持ちだった。
毎年恒例のタイ・バンコクでの落語会。
が2011年の春は、日本を離れて落語をやることに
ぬぐいきれない罪悪感があった。
そんな気持ちをひきずったまま、タイにたどりついた。
そして、苦手な入国審査。
人の心や情を語り続ける落語家にとって、
人格を無視したような審査は大の苦手だった。
おそるおそるパスポートを手渡す。じろりと荒探しするような眼。
コンピュータを見て、スタンプを押し、パスポートを返す。ここまではいつもと同じ。
ただ次の瞬間、タイの入国審査官は、にっこりと笑みを浮かべると、
片言の日本語で「お気をつけて」と言った。

オキヲツケテ!

日本が大変な状況になっているいま、
自分たちにできることは何だろうとタイの空港職員たちは話し合い、
そして実行したのは「笑顔で一声かけること」だったという。

ちょっとしたこと。自分にできること。
何かを変えられるかもしれない、第一歩のこと。



cyber
言葉・2011/嶋基宏

東北楽天ゴールデンイーグルス選手会長、嶋基宏。
彼が行った2011年オールスターゲームでの
スピーチにはこんな一文が含まれていた。

僕たち野球選手の使命は、野球の魅力や、
そこから生まれるドラマを通じて、
「ヒトの生きる力」に貢献する事だと思います。

嶋選手の言葉を聞いて考えさせられた人は少なくないと思う。
「ヒトの生きる力」に貢献すること。
どんな職種の人だって、それが使命なのかもしれない、と。

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三島邦彦 12年3月11日放送


言葉・2011/三島邦弘

ミシマ社という出版社がある。

2006年設立、「原点回帰」を旗印に
慣習にとらわれない出版活動を続ける、
今最も元気な出版社である。

出版業界が決して順風とはいえない中で、
ミシマ社は、なぜ前へ進み続けられるのか。

代表の三島邦弘は著書『計画と無計画の間』の中でこう語る。

 「売る」ことが目的化してしまっては
 ものづくりの原点から離れてしまう。
ものづくりの原点はあくまでも、
「喜び」を交換することにあるはずだ。

読む喜びと、読まれる喜び。
その原点から逃げないこと。
そこには、たぎる熱があり、未来に続く道がある。

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三國菜恵 12年3月11日放送


言葉・2011/ウルトラマン

一年前の震災の日、
たくさんの子どもたちが眠れない不安におそわれた。

その姿を見て、黙っていられなかったのだろう
あのウルトラマンからメッセージが届いた。
それは、すべてひらがなで、ツイッターに優しくつぶやかれていた。
震災から14時間後の明けがただった。

きみのことは、ぼくや、みんながまもるよ。
きょうはゆっくりおやすみ。

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蛭田瑞穂 12年3月10日放送

coron_k
音楽の力①Secret Garden

ノルウェイ出身のピアニスト、ロルフ・ラヴランドと
アイルランド出身のバイオリニスト、フィンヌーラ・シェリー、
ふたりの音楽ユニットSecret Garden。

1994年に発表した楽曲「Nocturne」がヨーロッパの権威ある音楽祭
ユーロビジョン・ソング・コンテストのグランプリに輝き、
一躍その名が世界に知られるようになった。

深い森のように幻想的なSecret Gardenの音楽。
その音色を聴くと、音楽が持つ癒しの力を確かに感じることができる。





しょうちゃん
音楽の力②Secret Garden

ノルウェイ出身のピアニスト、ロルフ・ラヴランドと
アイルランド出身のバイオリニスト、フィンヌーラ・シェリー、
ふたりの音楽ユニットSecret Garden。
その音楽はしばしば「癒しの音楽」と評される。

東日本大震災の後、日本を訪れたSecret Gardenは
被災した人々に対し、こうメッセージを送った。

 小さな力に過ぎないかもしれないけれど、
 もし私たちの音楽が悲劇に見舞われた人々の心に安らぎを与え、
 慰めになるとしたら、私たちにとってこの上ない贈り物となるでしょう。
 愛を込めて。


Ted Abbott
音楽の力③アヴェ・マリア

聖母マリアへの祈りを歌った「アヴェ・マリア」。
古から、名だたる作曲家が曲を書いた。
モーツァルト、シューベルト、ブラームス、ブルックナー・・・

聖母マリアに対する作曲家それぞれの眼差しが、曲の違いとなってあらわれる。
それでも共通するのは、心が洗われるような敬虔な旋律。

アヴェ・マリア。
人々はいま、何を祈る。

Thida
音楽の力④マイケル・ジャクソン

マイケル・ジャクソンが1991年に発表したアルバム「DANGEROUS」。
その7曲目に収録された曲「Heal the World」。

美しいメロディラインにのせて、平和への祈り、人類への愛、
こどもたちへの希望が歌われる。

 この世界を癒そう
 もっと素晴らしい世界にしよう
 ぼくときみのために
 すべての人のために


もし今、マイケル・ジャクソンが生きていたら、
世界に向けてどんなメッセージを発するだろう。

Stefano Costanzo
音楽の力⑤マイケル・ナイマン

1993年に公開されたジェーン・カンピオンの映画『ピアノ・レッスン』。

19世紀、未開の地であるニュージーランドを舞台に、
スコットランドから入植してきた女性と現地の男性との激しい恋愛が描かれる。

この映画の音楽を担当したのがイギリスの作曲家マイケル・ナイマン。
メインテーマともいえるピアノソロ曲「楽しみを希う心」は世界中でヒットした。

この曲でマイケル・ナイマンは主人公の女性の揺れ動く心、
そして生きることの哀しみと喜びを見事に表現した。

Ton Terhorst
音楽のちから⑥ビートルズ

村上春樹の小説『ノルウェイの森』。
作中、登場人物の女性がビートルズの曲をギターで次々と奏でる場面がある。
そして彼女はこうつぶやく。

 この人たちはたしかに人生の哀しみとか
 優しさというのをよく知っているわね。


イエスタデイ、ミッシェル、ヒア・カムズ・ザ・サン・・・。
その美しい旋律は確かに、生きることのよろこびも悲しみも知るからこそ、
紡げるのかもしれない。

soupboy
音楽の力⑦マイケル・ナイマン&ヒラリー・サマーズ

現代音楽の巨匠マイケル・ナイマン。
1995年、彼が日本のアニメ映画『アンネの日記』のために書いた楽曲「if」。

マイケル・ナイマンの奏でるピアノに
アルト歌手ヒラリー・サマーズの神々しい歌声が響く。

 わたしは瞬くでしょう
 この腕を揺らすでしょう
 そして希望を歌うでしょう
 すべての痛みを消し去るために


 すべての地で
 すべてのこどもたちに
 すべての女と男たちに


 それこそがわたしの為すこと
 もしもわたしの願いが叶うならば


悲しみを抱くすべての心に、その音楽は慈悲となる。

Xavier de Jauréguiberry
音楽の力⑧エンヤ

アイルランドの歌手エンヤ。

1986年、イギリスBBCのテレビ番組「The Celts」のために制作した
サントラアルバムでデビューした。

アイルランドの伝統音楽ケルトミュージックを下敷きに、
クラシック、宗教音楽を融合したエンヤの音楽は、
世界中にケルトブームを巻き起こした。

神秘的で荘厳なメロディと透き通るような歌声。
エンヤは「ヒーリングミュージックの女王」とも評される。

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大友美有紀 12年3月4日放送

parpiro
カート・ヴォネガット「未来への言葉」1

SF作家カート・ヴォネガット、
ニヒリズムに裏付けされたユーモリストだ。
ユートピアを探し求めた彼は
第二次世界大戦での経験によって、
人類の未来に絶望してしまった。
だからこそ、
笑いという技法で自分の思いを伝えようとした。

 どんな主題であれ、
 物語にとりかかると、
 なんとかしてそこに
 愉快なものを見つける。
 さもなければやめにするだけだ。





cromacom
カート・ヴォネガット「未来への言葉」2

カート・ヴォネガットは、
ドイツ軍の捕虜として強制労働に従事しているとき
ドレスデンの無差別爆撃を体験した。
街の85%は破壊され、彼は生き残った。
無差別爆撃は、全く無意味な軍事作戦だったという。
その体験をもとに
「スローターハウス5」を書いたのだ。


 私の小説に登場する悪玉は、
 文化、社会、歴史です。
 けっして個人ではありません。



そしてインスピレーションの源は、
除け者にされたという現実、または、幻想だという。


 失うものがない人々は、
 自由な気分で自分の考えをつらぬける。
 まわりの連中の考えかたを真似ても
 何の得にもならないからだ。
 絶望は独創の母。




B Rosen
カート・ヴォネガット「未来への言葉」3

SFというスタイルで小説を書いているにもかかわらず、
カート・ヴォネガットは、SF作家と呼ばれることを嫌った。
戦争での体験を通じて、
テクノロジーが進みすぎることを悲観していた。

彼が若かったころのアメリカにあって、
今はなくなってしまって悲しんでいるものについて、
こう書いている。

 人間がこの湿り気たっぷりな青緑色の惑星を
 まもなく人間の住めない場所にしてしまう、
 という確実な知識のなかった、あの気楽さ。


そして、いつか空飛ぶ円盤に乗った生き物か、
天使か、それかほかのなにかが地球にやってきて
人類が恐竜のように滅びてしまったことを発見するとしたら
大きな字でグランドキャニオンの断崖に
次のメッセージを残すべきだという。


 われわれは自分たちを救えたかもしれないが、
 呪わしいほどなまけものであったため、
 その努力をしなかった。




BioDivLibrary
カート・ヴォネガット「未来への言葉」4

SF作家カート・ヴォネガットは、
第二次世界大戦後、アメリカに帰還し
コーネル大学で人類学を学んだ。
そして小説家になった。
晩年になってからの思いは、
原始的共同生活が実現すれば、
もっと幸福になれる、ということだった。
なにも考えてない人たちと、
何も考えずに暮らしたいと。


 私の考えでは、人間の頭脳はこの特定の宇宙で
 いろいろと実際的な効用を発揮するには
 高性能すぎるんですよ。
 わたしはワニと一緒に住み、ワニのように考えたい。




Sherlock77 (James)
カート・ヴォネガット「未来への言葉」5

カート・ヴォネガットは、
SFとユーモアというスタイルを通じて、
平和への思いを伝えてきた。
彼の思うユートピア、幸福な暮らしは、
長続きする共同生活だ。

 たとえば、若い人が農場を引き受けて
 共同生活を始める。
 創設者達は、ひとりひとり相違をもっているが、
 そういうコミューンがうんと長続きして、
 こども達がおたがいに気楽になり
 態度や経験に共通ものをもてば、
 本当の身内のようになる。



でも実際には、うまくいかないかもしれない。
長続きせずに失敗することもあるだろう。
それもわかっていると語る。

 これは、より幸福な人類について
 私が抱いているぬくぬくとした小さな夢なのです。
 なにかそういう明るい小さな夢でもないと、
 私自身の悲観主義を克服できそうにないので。
 あくまでも私の夢ですから、
 それは間違いだなんて、言わんでください。




DonkeyHotey
カート・ヴォネガット「未来への言葉」6

SF小説という手法があるからこそ、
カート・ヴォネガットは、
環境破壊や、国と国との紛争、テクノロジーを
奇妙な、ヘンテコなものとしてシニカルに語る。


あるときインタビュアーが、そんな彼を
世の中のありとあらゆる悲しみに対して
とても優しい気持ちをいだいてると評する。

 他人を同情して回るなんて、一種の自己満足だ。
 わたしはあまりそういうことをしない。
 わたしはただ、恐ろしい苦難から抜け出られない人が
 たくさんいることを知っている。
 ある人々は、他人からの大きな助けを
 本当に必要としている。わたしは、そう思います。





カート・ヴォネガット「未来への言葉」7

カート・ヴォネガットのユーモアは、
ときどき突拍子もない。
「煙に撒く」ことで、彼の平和への思いを
より強く印象づけようとしていたのかもしれない。

 アメリカ人は、どうしたらいまよりも幸福になれるか
 今より愛されるかについて、
 私はいろいろなアイデアをもっています。


それは、彼の作品
「タイタンの妖女」や「スローターハウス5」で表現される
現在の意志の行為によって未来を変えることはできない、
という考えと違うと、指摘されると

 もちろんおわかりでしょうが、私の言っていることは、
 みんなたわごとです。


そうはぐらかす。
まるで、彼の小説の台詞のように。

 ここで「ハイホー」
 あるいは「そういうものだ」





カート・ヴォネガット「未来への言葉」8


第二次世界大戦で絶望を経験した作家
カート・ヴォネガットがシニカルなのは、
人類に対する大きすぎる愛があったからかもしれない。

ある時、テネシー・ウイリアムズの「イグアナの夜」に
出ていた女優に相談を受けた。
キャストがみんな芝居になじんでいない、と打ち明けられたのだ。
ヴォネガットは、彼女にメモを渡した。

 イグアナは、ぞっとするような姿だが、
 食べるとけっこううまい。
 私は、この劇からこんなメッセージを受け取った。
 まったくなにも愛さないよりは、
 他人がみにくいと思うかもしれないものを愛するほうがいい。
 イグアナを食べよう。
 そうすれば、だれにも負けない栄養が得られる。


彼の、愛することの基本姿勢が書かれている。

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佐藤延夫 12年3月3日放送

parpiro
思い出の街を訪ねて/小林多喜二

坂と雪の街、小樽。

作家、小林多喜二は
この地で蟹工船を書きあげた。

小樽駅から徒歩10分、小樽文学館には、
彼の生きた時代の資料が数多く保管されている。

旭展望台まで足を伸ばすと、レンガ造りの文学碑に会うことができる。
そこに刻まれているのは、獄中から友人に宛てた手紙の一節。

  赤い断層を処々に見せている
  階段のような山にせり上がっている街を
  ぼくはどんなに愛しているか分からない

小樽には、多喜二の心が眠っている。



sarmoung
思い出の街を訪ねて/寺山修司

青森県の三沢駅から車で20分ほど走ると、
三沢市民の森公園がある。

この一角には、寺山修司の石碑だけ立っていたが、
生前親しかった関係者や友人の協力で、
寺山修司記念館ができた。

ここに、修司の母はつが大切に保管していた
遺品、原稿、ポスターなどが展示されている。

  もしかしたら、私は憎むほど故郷を愛していたのかも知れない

これは「田園に死す」の一節。
言い表せないほどの思いが、故郷にはあった。



備忘録 旅人
思い出の街を訪ねて/志賀直哉

奈良県は新薬師寺のそば、高畑(たかばたけ)に、
志賀直哉の住まいが残っている。

自ら設計したとされる和洋折衷の屋敷は、
武者小路実篤や谷崎潤一郎も訪れ、
高畑サロンと呼ばれていたそうだ。
志賀直哉は、この場所で奈良の美しさを讃えた。

  今の奈良は昔の都の一部に過ぎないが、名画の残欠が美しいように美しい。

こちらの屋敷には、遺品や資料は一切展示されていない。
遺言でそのように決められていたそうだ。



中年ピロ
思い出の街を訪ねて/石川啄木

  やはらかに 柳あをめる
  北上の 岸邊目に見ゆ
  泣けとごとくに

岩手県玉山村の北上川河畔には、
歌人、石川啄木の石碑がある。
西を見れば、雪を冠した岩手山(いわてさん)。
東には姫神山(ひめかみさん)を望むことができる。
啄木は、代用教員だった時代に、
よくこのあたりを散策していた。

石碑から10分ほど歩くと、石川啄木記念館に辿り着く。
敷地内には、啄木が教鞭をとった旧渋民(しぶたみ)小学校の校舎、
それに、一家で間借りしていた斉藤家の母屋が移築されている。

  ふるさとの 訛なつかし
  停車場の 人ごみの中に
  そを聴きにゆく

啄木の世界に触れると、
この歌を思い出すことができそうだ。



daidai
思い出の街を訪ねて/萩原朔太郎

空っ風、赤城おろしの街。
前橋は、萩原朔太郎の故郷だ。

市内を流れる広瀬川のそばに、
萩原朔太郎記念 前橋文学館が建っている。
帰郷という詩の中に、彼の思いが蘇る。

  わが故郷に帰れる日
  汽車は烈風の中を突き行けり。
  ひとり車窓に目醒むれば
  汽笛は闇に吠え叫び
  火焔(かえん)は平野を明るくせり。
  まだ上州の山は見えずや。

故郷に向かうと、
人は誰でもロマンチストになる。



ドメーヌ・ピータン
思い出の街を訪ねて/島崎藤村

岐阜は、木曽路の馬籠宿(まごめじゅく)。
ここに島崎藤村の記念館がある。

馬籠は藤村の生まれ故郷で、
9歳のときに離れてから戻ることはなかったが、
そこには今でも彼の言葉が飾られている。

  血につながるふるさと
  心につながるふるさと
  言葉につながるふるさと

故郷への思いは、なによりも深く、いとおしい。




思い出の街を訪ねて/坂口安吾

海の向こうに佐渡島を望む
新潟、寄居浜(よりいはま)の丘には、
坂口安吾の石碑が、波の音と一緒に佇んでいる。

  ふるさとは
  語ることなし 安吾

そして日本有数の豪雪地帯として知られる旧松之山町(まつのやままち)、
現在の十日町市は、安吾の第二の故郷。
彼が馴染み通った家は、大棟山(だいとうざん)美術博物館になっている。
その傍らにも、石碑がひとつ。

  夏が来て
  あのうらうらと浮く綿のような雲を見ると
  山岳へ浸らずにはいられない

これは、小説「黒谷村」の一節。
安吾は新潟の海と山を愛した。

ふるさとは語ることなし

彼が言ったその言葉の意味を、確かめに行きませんか。

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名雪祐平 12年2月26日放送

Aidan Jones
笑って 1.山田洋次/車寅次郎

映画『男はつらいよ』第32作。
車寅次郎が、
医者とのやりとりを話すシーンがおかしい。

医者から、こう言われたという。
きみぃ、レントゲン撮る時は、笑う必要ない。

すると寅さん。

 いやだけどね、レントゲンだって、
 にっこり笑って写したほうがいいと思うの。
 だって明るく撮れるもの、そのほうが。

山田洋次監督が差し込む
何でもないようなエピソードが、
人情の機微にふれてくる。

フーテンの哲学者のような、寅さん。
いま、この世の中に、
あなたの言葉がほしいです。






笑って 2.アラン

 幸福だから笑うわけではない。
 笑うから幸福なのだ。

フランスの哲学者アランは『幸福論』で訴える。

 悲観主義は気分。
 楽観主義は意思。

悲観するのは簡単だ。
人間はともすれば、悲観に暮れてしまう。
そこを意志と勇気をもち、
楽観してみよう、と励ます。

それでもまだ
くよくよしたり、不安な人への
アドバイスも忘れない。

 過去と未来とは、
 それを考えるときしか存在しない。

たしかに。
さらに、それでもまだ、の人は
『幸福論』に何か書いてあるでしょう。




笑って 3.西原理恵子

彼女は、生い立ちに負けていた。

家族の不幸。自らの高校退学。
上京してからの
光熱費も払えない貧困。
漫画家デビューしても、
ギャンブル依存症となり、
すさんだどん底生活を送っていた
西原理恵子。

しかし、やがて夫となるカメラマン
鴨志田穣にアジアの紛争地帯に連れて行かれ、
想像を絶する貧困の世界を目にする。

西原が目のあたりにしたのは、
這うようなどん底生活でも
底抜けに陽気な人々の笑顔だった。

 どん底でこそ笑え。

たとえ生い立ちが不遇であっても、
何事も笑い飛ばしてしまえ。
この気づきが西原の人生の
大切な転機となった。

漫画の中で、伝えたいことを
うまく笑いに包むようにしていった。
それから西原は『毎日かあさん』など
いくつもシリーズをもつ
人気漫画家になっていった。




笑って 4.キース・リチャーズ

ローリング・ストーンズのギタリスト
キース・リチャーズ。

超一流のテクニックで、
数々の名演を残してきた。

スーパースターにのしあがった彼に、ある時、
どうしたら、あんた達みたいになれるかな。
と質問が飛んだ。

キースは、さらっと答えた。

 いっぺん、食えなくなってみな。

ハングリーさが成功への道という、
なんというシンプルな考え。
なんという笑えるほどの楽観。

しかし、まぎれもなく真実。




笑って 5.ジョージ・エリオット

19世紀英国を代表する女性作家
ジョージ・エリオット。

なぜ、ジョージという男性名で
デビューしたのか。

当時の英国の事情があり、
女性が本を出すことは難しい時代だったのだ。
そして、彼女の恋人には妻子がいたりと、
彼女自身も微妙な社会的立場にいた。

しかし、恋人の批評家
ジョージ・ヘンリー・ルイスへの敬意を込め、
「ジョージ」をペンネームにしたということである。

自分の立場とは裏腹に、
作風は徹底的に道徳的存在として
追求するものであった。
その作品群が次々と評価され、
彼女たちの関係も容認されていった。

彼女のこんな言葉が残っている。

 微笑めば友達ができる。
 しかめっ面をすればしわができる。

そう気を配りながら生きた
女のジョージと
男のジョージがいた。




笑って 6.赤木健介

青森県出身の歌人であり、詩人。
赤木健介

戦前には左翼運動に飛び込み、
投獄された経験もある。

世相も、自分の身も
不安であるはずの1942年の短歌集
『意慾』のなかの1つの歌が明るい。

 生きること、吹きつける雨に濡れること、
 みんな愉しい、生きてゆきたい。

まさに意欲である。希望である。
人間賛歌である。

この歌から、
明日を信じ、楽天的に生きることの
力強さが伝わってくるのだ。



Coal Miki
笑って 7.綾小路きみまろ

人気漫談家・綾小路きみまろが、
毒舌をつぎつぎ放つ。
ぐさぐさ、中高年の観客の胸に刺さる。

傷つくようなジョークなのに、
ファンは泣くほど笑いこける。

なんだか空気が温かいのは、
おたがいがいままでの苦労を分かちあえる、
そんな信頼関係があってこそ、
なのもしれない。

こんなフレーズも平気である。

 クヨクヨすることはないのです。
 人間の死亡率は100パーセントです。

泣いても笑っても、いつか死ぬのなら
笑って生きたいですね、
という希望をおみやげに
観客はいつもの家に帰っていく。




笑って 8.シャンフォール


16世紀から18世紀のフランスに、
モラリストと称される文学者がいた。

人間性や道徳を追求し、
言葉のフレーズに書き記した人たちのこと。

その一人、シャンフォールの言葉がある。

 毎日の中で、
 いちばんもったいないのは、
 笑わなかった日である。

今日という日も、
つまり、人生の一部であり、
笑えずに過ごしてしまったことは
人生の浪費ということでしょうか。

さて、シャンフォールから
質問が届いています。

今日は、
笑った日でしたか?

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小山佳奈 12年2月25日放送


スープのはなし 辰巳芳子

料理研究家の辰巳芳子さん。
彼女のつくるスープは
いのちのスープと呼ばれている。

きっかけは入院した父のために
毎日病室に届けた手作りのスープ。

病院のごはんは食べられなくても
スープだけは口にする父を見て思った。

「スープは、命の瀬戸際で
 こっちを向かせるためのもの」

人は、冬眠することも
光合成することもできない。
食べなければ、生きられない。

そんな当たり前のことを
辰巳さんのスープは
やさしく思い出させてくれる。

こんな寒い日には、スープの話でも。






スープのはなし 太宰治

「朝、食堂でスウプを一さじ、
 すっと吸ってお母さまが、
  『あ』
 と幽かな叫び声をお挙げになった。」

太宰治の「斜陽」、冒頭シーン。
滅びゆく没落貴族の哀しみへ
たった一文で読者を誘う太宰の文章力は見事だ。

破天荒な私生活ばかりに目がいくが
実は彼のすごさはその技術にある。

”いつも「おいしい料理」を読者に提供しようと
 気配りを忘れない作家だった”

とは、かの吉本隆明の言葉。

なるほど。




スープのはなし 石井好子

1950年。
戦後まもない日本から
身ひとつでパリにわたった
シャンソン歌手、石井好子。

彼女は一日も休むことなく
ステージに立ち続けた。

夜中の2時。
ようやく劇場を出ると
パリの夜風が頬を刺す。

そんな時、石井さんはいつも
仲間の歌い手たちとカフェにかけこみ
「グラティネ」を頼んだ。

グラティネとは、
オニオングラタンスープのこと。

ぐつぐつと音を立てて
テーブルに運ばれてくるグラティネを
ふうふう言いながら口に運ぶ。

その瞬間、異国に一人立ち向かう彼女は
どれだけあたためられたことだろう。

今日は玉葱を飴色になるまで
いためてみようか。




スープのはなし ゴッドファーザー

映画「ゴッドファーザー」で
襲われたドンの仕返しに
ファミリーが家に集まる場面。

腹心のクレメンザが
ドンの息子マイケルに
料理を教える。

ニンニク、オリーブオイル、トマトソース、
ミートボール、ソーセージ、赤ワイン。

「いつか20人分の飯を
 お前が作ることになるかもしれん」

それはファミリーに入ることを覚悟させ、
明日死ぬかもしれない闘いの日々を覚悟させるスープ。

そういえばトマトソースは
血の色に似ている。




スープのはなし メルヴィル

アメリカの冬は寒い。
あたたかいスープ、とりわけ
熱々のクラムチャウダーが欠かせない。

「小型だが多肉質のふとったハマグリに、
 くだいた堅パンと、塩豚の薄切りをまぜ、
 バターをたっぷりとかしこんでこくをつけ、
 塩と胡椒をしっかりきかせた逸品だった。」

アメリカ文学の巨匠メルヴィルが「白鯨」の中で書いた
主人公たちがクラムチャウダーをほおばるシーンだ。

言葉と食欲は
思ったよりもずっと近い。

おかげで今、小説の舞台となった街には
クラムチャウダーを食べに観光客が押し寄せている。




スープのはなし アンディ・ウォーホル

天才の答えは
いつでも単純。

キャンベルスープの缶を
完璧なアートに仕立て上げた
アンディ・ウォーホール。

数あるモチーフの中で
なぜスープを選んだのか、
彼はこう答えた。

「僕は自分が美しいと思うものを、
 いつも描いているだけだ。
 なぜスープをデザインしたかって?
 それは僕がスープを好きだからさ」

ほらね。

天才の答えは
いつでも単純。




スープのはなし スナフキンとトーベ・ヤンソン

ムーミン谷に住むさすらいの自由人、
スナフキン。

彼はいつもあり合わせのものを煮込んだ
粗末なスープを食べている。

「人間はものに執着しないことだ」

それはそのまま作者、
トーベ・ヤンソンの生き方だった。

無人島で恋人とたった二人で
暮らしていたヤンソン。
毎日の食事はそこでとれる最小限のもの。
今日はキャベツのスープ、明日は豆のスープ。

彼女にとってムーミン谷は
絵本の中の桃源郷ではない。

「長い旅行に必要なのは
 大きなカバンじゃなく
 口ずさめる一つの歌さ」

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