中村直史 11年8月14日放送


前を向く言葉/ロン・クラーク

世界中の人が差別や仲たがいなんかせず、
認めあって生きていく方法は何だろう。

政治的観点から、経済的観点から、歴史的観点から、
専門家たちが専門的な見解を披露してきた。
もちろん、その多くは示唆に富むけれど、
ときにはちょっと難しくて、ひとりひとりが
具体的にどうしたらいいか、わからない場合もある。

そんなときは、ムズカシイ話をカンタンにしてくれる人に聞いてみよう。

アメリカの小学校教師ロン・クラーク先生の本
「みんなのためのルールブック」

子どもたちのために書かれた
50ある、「あたりまえだけど大切なルール」の
23番目のタイトルには、こう書かれてある。

「だれであれ、なかまはずれにしない。」

 だれかがとなりに座りたがったら、
 座らせてあげよう。
 決まった友だちとしか
 座らないのは、よくないことだ。

ほら、話はカンタン。
大人もこんな気持ちでやってみましょうか。




前を向く言葉/齋藤孝

「声に出して読みたい日本語」を書いた斎藤孝。

教育者である彼は、
子どもたちに向けて、熱く語りかけつづけている。

著書のタイトルから熱い。たとえば、
「ガツンと一発・カッコよく生きてみないか!」

カッコよく生きるとはどういうことか、
わかりやすく、熱っぽく書かれたその本の中に、
ひときわ目立つ一行があった。

 逆風がふいているときこそ、人はカッコよくなれるんだ。

いま、カッコよくなれるチャンスかもしれません。

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三島邦彦 11年8月14日放送


前を向く言葉/小津安二郎

映画監督、小津安二郎。
「東京物語」や「秋刀魚の味」など、
人生の機微を淡々と描く独自の作風で、
世界中の映画監督に大きな影響を与えた。
国内では戦前から若き巨匠としてその名を知られていたが、
33歳で徴兵され、
「ちょっと戦争に行ってきます」という言葉を残して、
2年間を中国で過ごした。

帰国後第一作は、「戸田家の兄妹」。
一人の軍人も出てこない、ホームドラマだった。
映画記者の、戦争映画を撮らないのかという質問に、小津はこう答えた。

何?今度の映画かい?戦争ものじゃないよ。だって考えてもみたまえ。
二年間も毎日泥んこの中に足をつっこんで来ているのに、
また映画でそれをすぐやれるかというんだ。

その後も小津は、人々のささやかな生活にひそむドラマを描き続け、
生涯一本も戦争映画を撮らなかった。
小津の戦争から帰国してすぐのインタビューに、こんな言葉がある。

生まれたことを感謝しなくちゃいかんのだよ。
自分がこの世に生きているという事実に対して、自信を持ち、
生き甲斐を感じなくちゃいかんのだね。




前を向く言葉/藤沢周平

小説家、藤沢周平は、18歳で終戦を迎えた。
世の中の価値観が大きく変わりゆく様を目にして、
これまで見知らぬ他者が自分の運命を左右してきたことの恐ろしさに気がついた。
藤沢は、後にこう語る。

いざというそのときに、
自衛隊から借りた銃を持って辺地に行くか、
それとも家の中で降服のための白旗を縫うかは、
今度こそ自分で判断するつもりである。

30歳を過ぎて本格的に作家となった藤沢周平。
「蝉しぐれ」「たそがれ清兵衛」などの時代小説にはどれも、
歴史の表舞台には登場しない主人公たちの、
一世一代の決断が描かれている。


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前を向く言葉/タモリ

前を向いて、明るくいこう。
それはとても正しいけれど、
そう思ってもいられないときだって、人間にはある。

誰もが知っている名司会者・タモリも
そう思うところがあったのか、こんな言葉を残している。

前を向いて歩いてたって、つまんないよ。
後ろを振り返ったほうが「あれが楽しかった」って楽しいよ。

要するに、その人らしいことが大事なのかもしれない。




前を向く言葉/チャールズ


ノーベル賞、受賞数学者
ジョン・ナッシュ。
彼の名言にこんな言葉がある。

 数学は正確さにかけては芸術だ

しかし、人を好きになる気持ちは数学とは無縁のものだった。
彼は自分の愛する女性が本当に自分を好きかどうか
確かめるのがこわくて思い悩んだ。

そんな彼に、友人・チャールズは
こんな言葉をかける。

人生に確かなことなんてない、
それだけが確かなことなんだ。

友人のその言葉には
彼が信じるに足りる確からしさがあったらしい。
自分の言葉で彼女の気持ちを確かめた彼は、ぶじ、結婚。

数字はもともと確かなものだが
人を信じることは
自分のなかに確かなものをつくることだと思う。

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八木田杏子 11年8月13日放送


佐藤初女

どんなに心と体が弱っていても、
佐藤初女のつくるものは、食べられる。

自然のいのちを料理にこめて、
手渡してくれるから。

その作り方を、教えてもらいました。

素材の気持ちになって、
常に心を通わせることを大切にしています。

それだけで、お浸しも煮物も、
まったく味が違ってきます。

料理をすることは、いのちを預かること。

レシピだけを見ていると、
いのちの抜け殻を、食べることになる。




エジソンの母

エジソンの最終学歴は、小学校中退。
わずか3カ月しか学校に通っていない。

先生に教えられたことを暗記するより、
自分が素直に感じた疑問を口にした少年、エジソン。

なんで、風は吹いてくるの?
なんで、空は青いの?

学校教育の枠にはまらず、
先生から煙たがられ、
エジソンは落ちこぼれとされた。

小学校教師だったエジソンの母親は、
わが子を自らの手で育てることにする。

エジソンが「なんで?」と言うと、
親子はいっしょに実験をし、百科事典を調べ、
答えを見つけていった。

落ちこぼれた子に寄りそって、のびやかに育てる。
それが、天才を育てあげる方法のひとつ。




エジソンの言葉

エジソンの言葉は、
しばしば誤解されて伝わっている。

天才とは、1パーセントの閃きと、
99パーセントの汗である。

今でもよく聞く、この言葉。
汗をかくことの大切さばかりが伝わることを
エジソンは懸念した。

無目的の努力だけでは
大海をさまよう小船のごとく、
あるいは密林の中を迷い続ける迷子のように
いつか力尽きる。
ときどきでいい、閃きを考えてみてくれ。
それが羅針盤となって方向を示してくれる。
99パーセントの汗が実るのは、
1パーセントの閃きを大切にしたときなのだ。

汗をかくのをお休みして、
のんびり閃きを待つ時間、つくっていますか。




山本周五郎と原田甲斐

極悪人とされてきた男を、
山本周五郎は、
まったく逆の視点で書き上げた。

江戸時代前期、
伊達六十二万石を滅亡に追い込む
内紛をおこした伊達藩の家臣、原田甲斐。

伊達騒動として歴史に残る事件の
中心人物だった原田は、
極悪人の烙印を押されてきた。

山本周五郎が
歴史的事実を紐といて描いたのは、
真逆の人物像。

それは、
汚名を背負うことで、
伊達藩を守ろうとする忠臣、原田甲斐。

藩内の悪評を恐れずに
陰謀の中心に飛び込んでいく、
孤独な美学をまっとうした男。

断片的な情報がつむぎだす人物像は、
悪人にも善人にもなりうる。

悪口を言われているその人は、
憎まれ役を買って出ている人なのかもしれない。




J. K. ローリング

ハリーポッターの作者、J. K. ローリングは、
ハーバード大学を卒業したのに、
ホームレス一歩手前のような暮らしに陥ったことがある。

結婚が上手くいかず、仕事もなく、
生活保護をうけながらハリーポッターを執筆していた。

そのときのことを、彼女はこう語っている。

最も恐れていたことが現実となりましたが、
それでも私はまだ生きていました。
私には愛する娘がいて、
古いタイプライターと、
途方もないアイデアが残っていました。
そのどん底の状況が、
私の人生を立てなおす強固な基盤となりました。

人は逆境で試されて初めて、
真の自分自身や人間関係の強さを知るのです。

人生の失敗から這い上がるチカラを、
J. K. ローリングは言葉にこめて、わけてくれる。




ダイアナ・ウィン・ジョーンズ

映画「ハウルの動く城」の原作者、
ダイアナ・ウィン・ジョーンズが
まだ少女だったころ。

父親の書斎にあるギリシャ神話や古典文学は、
男性が主役のものばかりで、
読みたい本が手に入らないことをもどかしく思った。

いつしか自分で物語を創作するようになり、
妹たちを楽しませるようになっていた。

ダイアナは、父の書斎にないものを
自らの手で創りだす喜びを堪能した。

欲しいものすべてを買い与えられなかったから、
ダイアナは小説家になれたのだ。






天童荒太「悼む人」

まわり道を恐れないから、
予想もつかない物語が生まれる。

直木賞作家、天童荒太は、
300枚もの原稿をすっぱりと捨てて、
書き直しをする。

物語の終わりへの見通しがついて、
予定調和になる予感がしたとき、
その原稿を捨てたのだ。

僕自身が、
これはどう書いていいかわからないという
着想を乗り越えたときに、
新しい感動を読者に届けられるのではないか。

直木賞を受賞した
「悼む人」を書き上げるのに
天童荒太は7年をついやした。

見ず知らずのひとの死を悼む主人公は、
死者と縁のある人に、こう尋ねる。

亡くなった方は誰を愛し、
誰に愛され、感謝されていたのか。

天童荒太自身も、
新聞記事で見つけた死者を悼むことを日課として、
誤魔化しのない物語の結末へ、辿りつく。

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小野麻利江 11年8月7日放送


「夏」のはなし 淀屋辰五郎

氷も電気もなかったころに
粋な涼み方を考えだした男がいる。

江戸前期の豪商であり遊び人でもあった
五代目淀屋辰五郎。
その広大な邸宅の夏座敷には
金魚が泳ぐ大きな水槽を天井にとりつけ、
それを下から眺めて、暑気払いをしたという。

それから数十年
丸い小さなガラスの器に金魚を泳がせ
風鈴のように軒先に吊るす金魚玉が
庶民の間にもひろまったのだが
ガラスの涼しさと金魚の涼しさを組み合わせるアイデアは
淀屋辰五郎のおかげといえそうだ。




「夏」のはなし 清少納言

清少納言も、かき氷を愛していた。

『枕草子』の中の、「あてなるもの」。
上品なもの・良いものを挙げるくだりで、
こんな記述がでてくる。
削り氷にあまづら入れて、
新しき金鋺(かなまり)に入れたる

金属製の器に盛られた、削り氷。
その上に、アマチャヅルの茎の汁をかけた、
平安時代のかき氷。

氷の入った金属の器を手に持つと
当時ならそれだけで汗が引くほど冷たかっただろう。

クーラーなんてなかった夏の「女子の愉しみ」は、
現代にもしっかり、受け継がれている。

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茂木彩海 11年8月7日放送


「夏」のはなし 山下清

「裸の大将」山下清。

3歳になる年に重い病にかかり、
言語障害・知的障害の後遺症が残った。
まわりの子どもたちよりどうしても勉強が遅れてしまう清は、
知的障害児の施設へ預けられた。
ここでのちの画家人生を支える、ちぎり絵と出会う。

驚異的な記憶力の持ち主だった清は、
日本中を放浪しながら、情景を心に焼き付け
帰宅してからその瞬間を思い出して描いたという。

そんな清がとりわけ好んで描いたのが、夏の風物詩、花火。
夜空の黒いキャンバスに、
様々な色彩を浮かびあがらせては消え去る危うさは、
記憶を瞬間でとどめる清に
もっとも適した題材だったのだろう。

あるとき、彼は花火について、こんな言葉を残した。

大人は、もう花火をそんなに好かないものだが 
子供は大好きだと聞いて、僕は、まだ子供なのかもしれないと
少し恥かしくなりました。しかし、何といわれても花火はきれいなので、
僕はこれからも夏になったら見物に行こうと思っています。


清が最期まで描きつづけた鮮やかな花火は、
少年のように純粋でありつづけた
彼の命のきらめきだったのかもしれない。




「夏」のはなし 太宰治

暑い日が暮れる頃
庭に打ち水をして行水を使い
涼やかに風の通る着物を着て縁側に座ったら
どんなに気持がいいだろう。

そんな夏の魅力に、思いがけず救われた命がある。

 死のうと思っていた。今年の正月、
 よそから着物一反もらった。
 着物の布地は麻であった。
 鼠色の細かい縞目が織り込まれていた。
 これは夏に着る着物であろう。
 夏まで生きていようと思った。


太宰治。夏に生かされた男の最期は、
結局、新しい夏を待てなかったが。




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熊埜御堂由香 11年8月7日放送


「夏」のはなし 風鈴職人 篠原儀治

風鈴職人、篠原儀治(よしはる)。

大正13年、東京の下町、向島の風鈴職人の家の
長男としてうまれる。
職人たちが2交替で24時間風鈴を作る大きな工房で
儀治も12歳のころから風鈴作りを学び始めた。

戦時中は資材が手に入らず儀治の親が、
ふかし芋を売って生計を立てたりしていたが、
戦争から復員した儀治は、ガラス工房の復興に乗り出した。

職人が型を使わず空中でふくらます、宙吹き(ちゅうぶき)でガラスを成形し
汚れを防ぐため絵付けは中からする。
東京の下町の風鈴を「江戸風鈴」と名づけブランドにしたのも儀治の才覚だった。
デパートに営業し、販路を広げ、風鈴の売れない冬は、
アメリカに渡りクリスマスツリーの飾りとして売った。
儀治は頑固な職人であると同時に、
柔軟なビジネスマンでもあったのだ。

彼は言う。
 作った物を売る技術を知らないとダメだよ。
 家計が苦しいのに俺の跡をやろうって誰が思います?


12歳から風鈴を作り始めた少年は、
87歳になった今も息子たちと日本の夏の伝統を
守り続けている。




「夏」のはなし 上山英一郎と妻ゆき

 あなた!倉の中で
 ヘビがとぐろまいているの!


妻は夫のもとへ飛んで来た。
そして思いついた。

 あなた、
 蚊取り線香の形状、うずまき型はどうかしら?
 燃焼時間もかせげるし、お線香みたいに倒れないし。


KINCHOの創業者である上山英一郎とその妻ゆき。
夫婦のくらしのひとこまから蚊取り線香の
あの渦巻きの形は生まれた。

渦巻きはのばせば75センチ、6時間から7時間は燃えている。
それまでの棒のような、40分しか持たない製品とは
格段の違いがあった。

渦巻きの蚊取り線香は、
MOSQUITO COILと呼ばれ、世界中で
夏の日の必需品となっている。

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薄 景子 11年8月7日放送


「夏」のはなし 糸井重里

 遊んでばかりいる「夏休みの子ども」が、
 人生の理想的な生き方のように思えます。
 その夏の終わりの悲しみの味わいも含めてね。


言葉の天才、糸井重里さんは、
たとえの天才だと思う。
ぼやぼやしていると、
人生も、夏休みのようにあっという間。
さあ、遊ばなきゃです。




「夏」のはなし 茨木のり子

茨木のり子さんの若い時代の作品に、
「くだものたち」という詩がある。

杏、葡萄、長十郎梨、蜜柑など、
季節のくだものを描いた
4行ずつのオムニバス。
中でもプラムの詩が好きだ。

 夏はプラムを沢山買う
 生きているのを確かめるため
 負けいくさの思い出のため 1個のプラムが
 ルビィより貴かった頃のかなしさのため


彼女は19歳の夏、敗戦を経験する。
その1個のプラムにこめた夏の記憶は、
たぶん本物のプラムより、
いつまでたっても、みずみずしい。

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佐藤延夫 11年8月6日放送


幸田文1

いつも机の前に座り、
万年筆を走らせ、
原稿用紙を破り捨て
酒をあおるのが小説家だとしたら、
この人は何者だろうか。

彼女が文章を書き始めたのは43歳のとき。

60代の半ばには、法輪寺の三重塔を再建するため
奈良の斑鳩に住み込み、自ら寄付を集めた。

70歳を過ぎてからは、
日本の山々の崩壊を危惧し、各地を見て回った。

明治生まれの小説家、幸田文には、
まっすぐで強烈なエネルギーがあふれている。






幸田文2

「きれいになりたい頃、私は鏡から失望と悲しみをうけとった」

幸田文は、思春期だったころを回想して
こんな文章を書いた。
父親の幸田露伴は、慰めることなどしなかったそうだ。

お前は美人ではないし、醜くもない。
まして悪女になれる力量もない。
親から見れば、哀れなやつに尽きる。

そして渡されたのは、ドイツ製のカメラだった。
ファインダーを覗くと、
この世にはさまざまな美が存在することに気がついた。

美しさを計る物差しがひとつではないと知ったとき、
人生は輝きを増す。




幸田文3

自分のやりたいことが見つからない、
という悩みを抱えるのは
明治生まれの小説家も同じだった。

机の前の勉強は大嫌い。
絵画、音楽、茶の湯、生け花、踊り、
どれも悪くないと思ったが、
心から求めるものではなかった、と幸田文は語る。

「いろんなものがよかった。
 でも、どっと駈けだして行きたいほど好きな道とは思われなかった。
 そうなのだ。駈けだして行きたさ、それなのだ。」

無理に走り出しても、やがて足は止まる。
どっと駆け出したいものが、いつか見つかればいいのです。




幸田文4

幸田文の周りには、才能豊かな人が多かった。

父親は小説家で、親戚には芸術家が何人もいる。
だから自分の結婚相手は商売人が望ましいと思っていた。

婚約した相手は望み通り、商家の末っ子のお坊ちゃんで
大学を卒業後、アメリカへ留学していた。

彼に恋文を送ると、返事の代わりに
ヨーロッパの高級な自動車が迎えにきた。
そしてステーキを食べたあと、芝居に誘われたという。

嬉しくもあり、悲しくもあった。
自分が出した恋文には、恋文で返してほしかったから。

これがアメリカ流の洗練さなのか、それとも気持ちが通じていないのか。
思い悩む乙女に、父親の露伴は歌を贈った。

「黄にやせめ 紅にやせめと しら糸を 染めまどひたる ほそき心や」

嫁ぐ相手には、こちらから心を馴染ませなさいと
娘の背中を押すための歌だった。




幸田文5

34歳のとき、幸田文は離婚した。
そのあと太平洋戦争が終わり、
43歳のとき、父親の露伴がこの世を去った。

いろんなものを失ったが、
大切ななにかを手に入れた。
そう思える言葉が残っている。

「配給のろうそくが一寸ほどあまっていたことが、鉛筆を走らせた。
 一寸のろうそくの尽きないうちに、
 今夜の家事雑用を片付けてしまおうとするそれと同じ気持ちで、
 学校以来の作文を書いた」

どっと駈け出して行きたくなるものが、
ろうそくの明かりに照らされていた。




幸田文6

幸田文は、突然に筆を置いた。

親しい人にも事情を打ち明けず、
知り合いを通じて職探しを始める。
パチンコ屋、中華料理屋、犬屋の飼育場など闇雲に応募し、
ようやく、置屋の住み込み手伝いに落ち着いた。

「たださがしてあるきました。
 自分のいどころを、どこかに求めたいと思って。」

それは父親、幸田露伴という重い鎧を脱ぎ捨てるための、
自分探しの旅だった。




幸田文7

幸田露伴は厳しい父親で、
幼い娘に掃除、洗濯、薪割りなど家事の一切を徹底的に仕込んだ。

生活の基本が軸となる。
そこへ自ら取り組むことで移りゆく季節を感じ、
人の生き方、道理をわきまえることができるという独特の哲学だった。

「親に小言をくらって口返答のひとつもできないような奴はろくでなしだ」

「おまえは赤貧洗うがごときうちへ嫁にやるつもりだ」

「松も桧も一緒くたの女になってくれるな」

「人には運命を踏んで立つ力があるものだ」

「薪割りをしていても女は美でなくてはいけない、
 目に爽やかでなくてはいけない」

年端もいかない少女には、酷い言葉でしかなかったが、
のちに幸田文は随筆の中でこう振り返っている。

「畢竟(ひっきょう)、父の教へたものは技ではなくて、
 これ渾身といふことであった」

親子の間の渾身という真剣勝負。
あとで気付いた親心は、ずっしりと心に残る。

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名雪祐平 11年7月31日放送


見る モンドリアン

世界は、最低いくつの色で
あらわせるだろうか。

オランダの抽象画の巨匠、
ピエト・モンドリアンは、
赤・青・黄のみで世界を見ることができた。

三原色と
垂直線と水平線を用いた
徹底的にストイックなスタイル。

あたりまえのように
はめられていた額縁からも、
絵を取り出し、解放した。

見えるこの世界に、
額縁など存在しないのだから。




見る ドガ

フランスの印象派の天才、
エドガー・ドガ

特にバレエの踊り子を
好んで描き、
なかでも『エトワール』は傑作とされる。

大胆な構図。
瞬間的な肉体の躍動感。
衣装の絶妙な表情。

奥にはパトロンの姿も描かれ、
シビアな現実も容赦なく表現している。

その絵は、
物の形の見方があり、
社会の形の見方がある、一枚の芸術。






見る アンディ・ウォーホル

ポップアートの鬼才、
アンディ・ウォーホルは、

機械になりたい。

と言った。

アトリエをファクトリーと呼び、
工場の流れ作業のように、
アート作品を大量に生産した。

難解な芸術ではなく、
選んだモチーフも、日常的なもの。

キャンベルスープの缶詰、
コカ・コーラ、
ドル紙幣、
有名人など、
ありふれたものたちが、逆に衝撃的だった。

これはいったい…何なのか。

とまどい、深読みしようとするインタビュアーに、
ウォーホルはこたえた。

表面だけを見てればいい。
それが僕だ。
裏には何もかくされていない。

つまり、

スープは、スープ。




見る マネ

フランス印象派の大スター、
エドゥアール・マネは語った。

不必要なものはすべて、
私に吐き気をおこさせる。
しかし、必要な存在だけを
見るのはむずかしい。

真実を見つけ出す、たった一つの方法は
他人の意見にまどわされずに
己の意志をつらぬくことだ。

なぜ、マネはその思いに至ったのか。

女性のヌードの描き方が不道徳だと
激しい反感を生んだ作品
『草上の昼食』『オリンピア』によって
社会に辟易した末の達観だったのかもしれない。

現在、その2作はまぎれもなく、
傑作と評価されている。




見る イサム・ノグチ

ただの石、
自然のままの石が、
すでにできあがった彫刻なのであると、
彫刻家イサム・ノグチは言う。

しかし、と彫刻家はつづける。

肝心なのは見る観点だ。
どんな物をも、一足の古い靴さえも
彫刻となるものは
その見方と置き方なのである。

それはおそらく、
マルセル・デュシャンが
男性用便器を横に置き、
『泉』と名付けたようなことなのだろう。

ふと、目の前のある物が
彫刻になるだろうかと
あれこれ思考をめぐらせてみるのも
おもしろい。

見方と置き方、
ミカタトオキカタ…

なかなかむずかしいけれども。




見る クレー

芸術の本質は
見えるものをそのまま
再現するのではなく
見えるようにすることにある。

スイスの画家、パウル・クレーの言葉である。

音楽一家に生まれ、
クレー自身も才能あふれるバイオリニストであったため、
たびたび色を音にたとえて、
色彩の理論研究をすすめていた。

たしかに、クレーの『魚たちのまじない』からは、
色の和音が幻想的に聴こえてきそう。

見えないものを見えるようにする、だけでなく、
聴こえるようにする。
クレーはそれができた
唯一の芸術家だったのかもしれない。




見る フランシス・ベーコン

アイルランド出身の孤高の画家、
フランシス・ベーコン

グロテスクな人物画を多く描いた。

歯をむきだし、絶叫する表情。
激しくゆがめられた肉体。

でも、彼は語る。

ぼくの絵は
いまの世界の恐怖にはかなわないよ。

見て学ぶことだ。
なすべきことは
ただひたすらに見ることだけなのだ。

世界で何が起こっているか。
ぼくはただその恐怖を
再現しようとしたんだ。

きっと彼は、
描かずにはいられなかった。
世界の叫びを
代弁するかのように。




見る サヴィニャック

フランスのポスター作家、
レイモン・サヴィニャックが
たいせつにしていたこと。

ポスターは、見られなくてはいけない。

通りを行く人に、ほんの一瞬のうちに、
伝えたいことがわかるかどうか。

そのためにサヴィニャックは
大胆に本質だけを表現した。

薄切りハムのポスターでは、
豚の胴体をそのまま輪切りにしたハムに。

ユーモアたっぷりに一目でわかる。
大絶賛された。

さて。

情報ぎゅう詰めの近ごろ、
気になるポスターはありましたか?

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