小宮由美子 12年12月22日放送

Eigenes Werk
クリスマス夜話 ケストナー

 「ドレスデンに生まれた幸運の賜物である。
 何が美しいかを、わたしは書物によって初めて学ぶにおよばなかった」


児童文学の作家、エーリッヒ・ケストナーは、
戦前のドイツ・ドレスデンの街がいかに美しかったかをこう回想している。

その後、ドレスデンは第2次大戦によって徹底的に破壊されたが、
人々は立ち上がり、街の歴史と伝統を復活させた。
そのひとつが、1434年から続いてきた
ドイツ最古といわれるクリスマスマーケット。
この冬も、ケストナーが讃えた街の輝きにひきつけられて、
世界中の人々がドレスデンを訪れている。

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古居利康 12年12月16日放送


尾崎行雄の95年 ①

1890年、明治23年、7月1日。
第一回衆議院選挙がおこなわれた。
投票できるのは、25歳以上の男子だけ。
それも15円以上の納税者に限られた。
有権者数約45万人。当時の日本の人口の
わずか1.1%にすぎなかった。

それがわが国初の選挙だった。

このとき当選した300人の議員の中に、
32歳の尾崎行雄がいた。
三重県第5区から立候補。
有効投票数1,919票のうち1,772票を
得てトップ当選を果たした。

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古居利康 12年12月16日放送


尾崎行雄の95年 ②

明治維新の10年前、
相模国津久井郡で生まれた尾崎行雄は、
討幕運動に奔走した父の薫陶を受け、
福沢諭吉の慶応義塾に学んだのち、
新聞記者を経て、明治政府の官僚となる。

早くから政治への志を抱いた尾崎は、
やがて自由民権運動に身を投じ、
大隈重信と共に立憲改進党をつくる。

薩摩と長州。
明治維新の原動力になった2つの藩出身の
人間だけが優遇される政府のあり方に
疑問をもった尾崎行雄は、
欧米をお手本とする国会の設立、
選挙制度の確立を実現し、
理想の政策を共にする者があつまってつくった
政党が政治を動かす議会政治をめざした。

1889年にようやく国会が開設され、
1890年におこなわれた第一回衆議院総選挙で
当選。尾崎行雄のほんとうの戦いは
ここから始まる。


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古居利康 12年12月16日放送


尾崎行雄の95年 ③

咢堂・尾崎行雄。別名、憲政の神様。
1890年、32歳で第一回衆議院総選挙で当選して以来、
1953年、95歳で落選するまで、25回連続当選。
63年の長きにわたって国会議員の職にあった。

尾崎行雄の生涯をたどることは、
議会政治の歴史を知ること。

1891年の第二回総選挙で、
政府の露骨な選挙干渉がおこなわれ、
票の売買がはびこったときも。

高額納税者だけに与えられていた選挙権の
制限を撤廃する普通選挙の運動が
燃えさかったときも。

日清・日露の両戦争で発言権を増した
陸海軍が国会に軍備増強を突きつけたときも。

国会にはいつも尾崎行雄がいて、
つねに正論を唱え、政府の方針を糾していた。

やがて泥沼の戦争に向かう1940年代、
自らの基盤としていた政党が、こぞって
大政翼賛会に合流し戦争遂行に走った時代にあっても、
尾崎行雄だけは政府非推薦をつらぬいて当選し、
国会議員でありつづけた。

太平洋戦争が終わった翌年、
女性が初めて選挙権を手に入れた。
1890年の第一回総選挙から数えて22回目。
この国が初めて経験する完全普通選挙だった。
この年。尾崎行雄、88歳。政界引退を決めていたが、
支持者が許さず、またもや当選。
連合国による占領下の日本は、まだ尾崎を必要とした。

そして、今日、2012年12月16日。
第46回衆議院総選挙。地下に眠る憲政の神様は、
いまの政治家に何を思うだろう。

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佐藤理人 12年12月15日放送


力道山①「相撲引退」

少年は力士になるため、
大陸から単身日本にやってきた。

アゴをめがけた強烈な張り手からの、
怪力を生かした強引な上手投げ。
荒削りながら闘志溢れる取り組みで、
入幕後わずか4年で関脇に昇進。

しかし大関がかかる番付発表日。
突然自ら髷を切り落とし、
25歳の若さで引退を発表する。

部屋の経営について親方と意見が衝突した。
日本人でなければ横綱になれないと言われた。
真相については諸説あるが、
本人は決して語ろうとしなかった。

彼の名は百田光浩。
またの名を、力道山という。


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佐藤理人 12年12月15日放送


力道山②「ハロルド坂田」

ケンカを売った相手が、
もしもプロレスラーだったら。

力士を廃業した力道山は荒れた。
酒に溺れ、毎晩殴り合いのケンカを繰り返した。

ある日力道山は
GHQが招いた日系人プロレスラー、
ハロルド坂田に返り討ちにあう。

しかし力道山の素質を見抜いた坂田は、
彼をプロレスに誘った。

力道山の心の中は負けた屈辱感よりも、
生きる道を見つけた喜びでいっぱいだったと言う。

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佐藤理人 12年12月15日放送


力道山③「空手チョップ」

もっと思い切り叩け

そう言って力道山は子供たちに、
木槌で自分の手を叩かせた。

硬くなった掌と怪力自慢の張り手。
相撲時代の得意技をプロレスに応用したのが、
トレードマークの「空手チョップ」だ。

厳しい修行を終え、
アメリカ巡業に出かけた力道山は、
その必殺技で勝利の山を築く。
260戦中、負けたのはわずか5回。

しかし最大の収穫は、
プロモーターの資格を手に入れたこと。
彼はアメリカのレスラーを
日本に呼べるようになった。

力道山はプロレスラーであると同時に、
有能なビジネスマンでもあった。

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佐藤理人 12年12月15日放送


力道山④「シャープ兄弟」

その夜、新橋駅は異様な空気に満ちていた。

2万もの人々が集まって、
一台の街頭テレビを見つめている。
1954年2月、日本初のプロレス国際試合の生中継。
日本代表は相撲出身の力道山と柔道王木村政彦。
対するアメリカ代表は、
世界タッグチャンピオンのシャープ兄弟。

まず小柄な木村がシャープ弟に痛めつけられると
怒った力道山が空手チョップで反撃。
見かねて助けにきた兄もそのまま返り討ちにする。

2m近いアメリカ人を
日本人がコテンパンにやっつける。
敗戦のコンプレックスを抱えた人々に
その姿は大いにウケた。
肉弾戦なら日本は負けなかった。
そんなことを言う者までいた。

派手な投げ技。場外乱闘。タッグマッチ。
相撲とも柔道とも違う面白さ。
プロレスは一夜にしてブームになり、
テレビの急速な普及に大きく貢献した。

日本戦は視聴率がとれる。
力道山の読みは今も当たり続けている。

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佐藤理人 12年12月15日放送


力道山⑤「昭和の巌流島」

柔道王木村政彦は怒っていた。
全日本柔道選手権13年連続優勝、

 木村の前に木村なく、木村の後に木村なし

と謳われた自分が力道山の引き立て役に甘んじている。
彼は朝日新聞に「真剣勝負なら負けない」と語った。

1954年12月22日、日本プロレス選手権。
通称「昭和の巌流島」と言われた戦いで、
二人は決着をつけることになった。

結果は力道山の完勝。
木村は気絶し、マットは血に染まった。
しかし当時の映像を見ると、
木村はどこか油断しているように見える。

それもそのはず。試合は事前の了解で
引き分けに終わる予定だったのだ。
互いに勝ち負けを繰り返して巡業を盛り上げ、
多額の収益をあげる、はずだった。

力道山はなぜ裏切ったのか。
プロレスは八百長だという噂を払拭し、
名実ともに頂点に立つためか。
それとも真剣勝負では敵わないと思ったのか。

真相は未だプロレス史最大の謎である。

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佐藤理人 12年12月15日放送


力道山⑥「ビジネスマン・リキ」

力道山は有能な実業家だった。

独学で英語をマスターし、
外国人レスラーとの交渉は全て自分で行った。

大相撲における国技館のような場所が欲しいと、
現在の複合施設の先駆けとなる
日本初のプロレスホール、
通称「リキパレス」も建設した。

その後もプロレスで得た資金を元に、
高級マンション、レジャーランド、
ゴルフ場、マリンリゾートなど、
時代を先取りした数々の事業に乗り出した。

そこには、

 国境も過去も関係なく
 どこでもヒーローとしての役割を
果たせるようになりたい
そしていつか
日本と祖国の架け橋になりたい

そんな願いがあった。

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