三國菜恵 10年10月09日放送



ジョン・レノンと、俳句。

わび、さびを理解しようとしたジョン・レノン
仏教の修業もこころみたジョン・レノン
日本との結びつきはそれだけではなかった。

俳句は僕が今まで読んだ詩の形式のなかでいちばん美しいものだと思う。

自然、且つ簡潔な言葉で
自分も詞を書こうとしたジョン・レノン。
1969年に発表された「ラヴ」という曲には、
俳句の美意識が生きている。

愛とは感じること
感じることが愛




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三島邦彦 10年10月09日放送



ジョン・レノンと、厳しさ。


ジョン・レノンは、自分たちの音楽について厳しく語った。

ビートルズがいままでにつくったレコードすべてに不満でもあります。
つくり直したくないと思うレコードなんて、ひとつもないのです。


ジョン・レノンは、平和について厳しく語った。

暴力は暴力しか生みません。それは不変の法則です。
しかし国によって状況はまちまちだし、
ときには状況が暴力の行使を正当化することだってあるのだよ、
と言う人がいるかもしれません。妥協とは、そういうことをいうのです。
平和に妥協はない、と私ははっきり言っておきます。


ジョン・レノンは、自分に厳しく働き続けた。

働いている限り、自分が何者なのかなんてことは問題じゃない。
それがぼくの学んだことだ。

亡くなる数時間前のインタビューでジョンが言った言葉は
「死ぬまでこの仕事をつづけたい」だった。

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坂本仁 10年10月03日放送



①ジョゼ・モウリーニョ


 自分が世界一の監督だとは思わない。
 しかし、私以上の監督がいるとも思わない。


そう語るのは、サッカー監督・ジョゼ・モウリーニョ。
ポルトガル、イングランド、イタリアでリーグ戦を制し
チャンピオンズリーグの優勝も勝ち取っている。

モウリーニョには、他の監督が持たない能力がある。
6カ国語を話せるというコミュニケーション能力である。

自ら「私は三流の選手だった」と語る彼は、選手を引退後、
語学を勉強し、さまざまなクラブチームで通訳として働いた。
その過程で世界のスター選手たちとコミュニケーションする
語学力が育っていったのである。

三流選手であったことが、
モウリーニョを超一流の監督にしたのかもしれない。





②ロバートキャパ


20世紀を代表する戦場カメラマン、ロバート・キャパ。
数多くの戦争の第一線に飛び込み、
戦争の悲惨さを痛烈に訴えつづけた。

ロバート・キャパの有名な写真に「崩れ落ちる兵士」がある。
兵士が頭を撃たれて倒れる決定的瞬間を記録したその写真は、
インパクトがありすぎて、
やらせではないかと疑われたほどであった。


 戦争写真家のいちばんの望みは、失業することだ。


そう語るロバート・キャパは、
ベトナム戦争の取材中に地雷に触れて死亡した。
カメラを手にしたままだった。





③ディオゲネス


古代ギリシアのコリントスに高名な哲学者が住んでいた。
その哲学者は質素を好み、禁欲生活を送っていた。

ある日、その哲学者が家の前で横になってひなたぼっこをしていると、
当時絶大な権力を保持していたアレクサンドロス大王が
数名の供を連れてたずねてきた。
王もまた、その哲学者を尊敬するひとりだった。

王は哲学者の前で言った。


 余はマケドニア王アレクサンドロスである。
 ディオゲネスよ、望みを一つ言え。
 いくらかかっても構わぬ。


しばし考えた後、その哲学者は言った。


 そこに立たれると日陰になるからどいてくれ


その哲学者の名は、ディオゲネス。
彼は、人生にとって大事なのは物質的なものではなく、
心の豊かさだと考えていた。









④ブルーノ・ムナーリ


美術作家ブルーノ・ムナーリは語る。


 子どもの心を一生のあいだ自分の中に持ち続けるということは、
 知りたいという好奇心やわかる喜び、
 伝えたいという気持ちを持ち続けることだ。


彼の作品を知る人々はこの言葉に
あっ、そうかと納得する。

持ち運んだり箱に詰めたりできる彫刻。
質感の違う紙を使ってつくった、指先で感じる絵本など
ブルーノムナーリの作品は「鑑賞する」というより、
「遊ぶ」という言葉がピッタリなのである。





⑤カエサル


賽は投げられた。

重大な決定を下し物事が動きだしたという意味で引用されるこの言葉は、
誰しもが知っているユリウス・カエサルの言葉だ。

カエサルは他にも有名な引用句を残している。
「来た、見た、勝った。」
「ブルータス、おまえもか。」

あまりに有名なこの言葉とは逆に、
ほとんど知られていないこともある。
それは、カエサルが現在の本の原型を発明したことだ。

巻物からページをめくる冊子へ。
この発明のおかげで
我々は電車のなかでページをめくりながら
カエサルのガリア戦記を読むことができる。





⑥ウルリッヒ・インダービネン


一年中白銀の雪を冠するアルプスの女王マッターホルン。
4000m級の山々が連なるスイス・アルプスの女王と言われている。

そのマッターホルンには伝説のガイドがいた。
ウルリッヒ・インダービネン。
370回以上もマッターホルンに登り、
96歳まで現役のガイドでありつづけた。

ウルリッヒ・インダービネンは
アルプスの王と呼ばれていた。

垂直の壁を持つ女王も
王である人の前ではやさしくおとなしかったのだろうか。





⑦野依良治


分子とか、モルとか、エントロピーとか
そんな言葉を聞いただけで、
難しくて頭が痛くなってしまう人は多い。

けれど2001年にノーベル化学賞を受賞した
野依良治は次のように言う。


 有機化学は麻雀よりも面白い。


そう、
医薬品の製造などに絶大なインパクトを与えた
野依良治の業績の最初の一歩は
面白いと思うことからはじまったのである。


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佐藤延夫 10年10月02日放送



ドラッカーの言葉1

1909年、ウィーンで生まれた男は、
幼少期に第一次世界大戦を迎え、
若干二十歳で新聞記者となる。
ヒトラーにインタビューをしたこともあったが、
自分の論文のせいでナチスに追われ、ロンドンに移る。

こんな経歴を持つ男が、
のちに「マネジメント」という言葉を生みだした。

経営理論の父と言われる
ピーター・ドラッカーは語る。

将来を築くには、勇気がいる。努力がいる。だが、信念もいるのである。

ドラッカーさん。
あなたの人生を眺めると、
「その通りです」としか言いようがありません。





ドラッカーの言葉2

仮にあなたが、石を切る職人だったとします。

ある人に「何をしているんですか?」と聞かれたとき
あなたは、なんと答えるでしょうか。


1 わたしはこの仕事で生計を立てているのです

2 国中で一番優れた仕事をしているのです

3 私はここに素晴らしい建造物を建てるのです


この3つの中で、経営者らしい答えと言えるのは、3番だ。
ピーター・ドラッカーは、そう語っています。

さっそく週明けにでも、
会社の社長に質問してみたくなる。





ドラッカーの言葉3

さて、質問です。
会社の事業とは、なんでしょうか。

「利益を生み出すための仕組み。」

そう思ったあなたは、
経営理論の父、ピーター・ドラッカーに叱られるでしょう。

その答えは、間違っているばかりでなく、見当違いも甚だしい。
事業の目的は、たったひとつ。
“顧客を創り出すこと”にほかならない。

なるほど、と思った皆さん。
彼はこんなことも言っています。

人は、失敗から学ぶことなどなにもない。
ひとつの成功がすべてを教えてくれる。

確かに、と思ったみなさん。
もうあなたは、ドラッカーの虜になりつつあります。





ドラッカーの言葉4

教師が、ある生徒に言いました。

「将来きみは、他の人に
どんな人物として記憶されたいですか?」

この質問、あなたも少し、考えてみてください。

・・・

答えは、浮かびましたか?
なかなか難しい質問ですね。

考えあぐねる生徒に、
教師は笑いながら言いました。

あなたが答えられるとは思っていません。
でも50歳になっても答えられなかったら大変だ。
人生を無駄に過ごしたってことになるからね。

当時、生徒だったのは、
のちに経営理論の父と言われる、ピーター・ドラッカー。
それ以来、彼は、いつもこの問いを自分に投げかけていたそうだ。

難しすぎる質問は、心の中に、ぐさりと刺さる。
さあ、がんばろう。
何かを見つけるには、まだ間に合いそうだ。
年齢なんて、関係ない。





ドラッカーの言葉5

カリスマ社長。

スーパー経営者。

偉大なリーダー。

経済が停滞すると、人は英雄を求める。
藁にもすがるような気持ちで。
だが、経営理論の父、ピーター・ドラッカーは
その考えを真っ向から否定する。

  生まれついての経営者など、いない。
  リーダーとして効果的にふるまえる習慣を持つ人が
  結果としてリーダーへと育つのだ。

周りを見渡してみよう。
不満ばかり言ってはいられない。
彼も人なり、我も人なり、なのだから。





ドラッカーの言葉6

経営理論の父、ピーター・ドラッカーは
80歳を過ぎても本を書き続けた。
晩年に、記者からこんな質問を受ける。

今までに書いた本の中で
最も優れているのはなんですか?

その質問に対し、彼はにっこり笑って答えた。

次です。

自分が80歳になっても、同じことが言えるだろうか。





ドラッカーの言葉7


経営理論の父、ピーター・ドラッカーは語る。

ピラミッドのごとく永遠にそびえ続けると思われた企業も
今ではまるでテントのようだ。

技術革新とは、地平線の彼方でひらめく洞察力という名の稲妻を捕まえ
永遠に輝く光へ転換することである。

企業の業績をチェックする5つのテスト。

人間はコストではなく資源である。


彼は文章に勢いを与えるため、
言葉のテクニックを駆使している。
ときには比喩を用い、数字を使い、やわらかく、深く、強く。
もちろん、悪口を言う場合は、もっと効果的になる。

学校教育を受けた野蛮人

多忙なオフィスで、渦巻きのような混沌に陥るアシスタント

この歯切れの良さは、気持ちいい。
だから、この人の本が書店に並び続けるのだろう。
日本だけではなく、全世界で。



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名雪祐平 10年09月26日放送



ルイス・キャロル


少女の身体が
大きくなったり、
小さくなったり。

『不思議の国のアリス』は、
想像力にあふれている。

しかし、作者のルイス・キャロルは
異常なほど几帳面な男だった。

記録魔で、手紙魔で、計画魔。

そんな、完璧主義という
病いのような日常から、
とことん奇想天外な物語が、
創作されたのであった。









キャサリン・ヘップバーン1


アカデミー賞ノミネートを12回。
主演女優賞を4回。

どちらも最多記録を誇る
キャサリン・ヘップバーン

けれども、彼女は
何回ノミネートされても、
授賞式に1回も出席することはなかった。

理由は、
おそろしくシンプル。


 大勢の人間が集まるところに
 行くのは嫌いだから。


初ノミネートから約50年もの間、
びくとも変わらない意志が
すごい。




キャサリン・ヘップバーン2


アカデミー賞に、12回ノミネートされても
授賞式には欠席してしまう。

大勢いるところが嫌いだから。

そんなキャサリン・ヘップバーンが
1回だけ授賞式に出席したことがある。

それは自らのノミネートが
理由ではなかった。

長年の友人であるプロデューサーに贈られる賞の
「プレゼンター役」を引き受けたのだ。

はじめて授賞式に姿を見せた大女優に、
会場はスタンディング・オベーション。

彼女もユーモアでこたえた。


 よかったわ。
 “いまごろのこのこやってきて”
 と言われなくて。


そして、無事プレゼンターとして
友人に賞を渡すと
すぐに舞台から裏口へと消えた。

会場にいたのは、わずか15分だった。

こういうことを、
あざやか、というのかもしれない。





ノーベル


ダイナマイトを発明し、
莫大な富を築いた
アルフレッド・ノーベル


 仕事があれば、
 そこが我が祖国。


と、世界中に出張する。

小説家ヴィクトル・ユゴーは彼を
「ヨーロッパでもっとも裕福な浮浪者」
と評した。

子どもはいなかった。

遺言状により、
創立されたノーベル賞は
いまにつづく
彼の子孫なのかもしれない。





ユトリロ1


ルノワールの有名な作品
『ブージヴァルの踊り』

その絵のなかで、
若き日の母が、
男に身体を寄せている。

あれが父だろうか?
息子ユトリロは、
父親を知らなかった。

祖母の元で育てられ、
深い孤独に悩み、
次第に酒に溺れていった。

17歳ですでに
アルコール中毒となり、
精神病院に入院する。

ここで、治療のため
絵を描くことを勧められたのだった。

孤独とアルコール。

その2つが、
まるで、父と母のように、
画家ユトリロを産んだのかもしれない。





ユトリロ2


ユトリロといえば、
風景画。

けれど酒に溺れ、
奇行ばかり繰りかえしたため、
パリの街中で人々は
罵声を浴びせはじめた。

外で画けないため、
絵葉書をもとに室内で制作すると、
またそれを批判された。

しかし、ユトリロは
絵葉書からでも
詩情あふれる風景画を創ってのけた。

酒で生活が荒れに荒れ、
絵葉書に頼ってもいた
この時代に傑作が多いのは、
人間と芸術の不思議である。





赤塚不二夫1


昭和30年代前半、
ギャグ漫画は、
認められていなかった。

だから、赤塚不二夫は、
少女漫画も描いていた。

それが
『ひみつのアッコちゃん』
が生まれたひみつ。

鏡よ、鏡。
と変身するアッコちゃん。

かわいらしい少女漫画のふりをさせて、
実は、新しいギャグ漫画を
試したのかもしれません。

いたずらが大好きだった
赤塚先生のことだから。





赤塚不二夫2


ギャグ漫画に
こだわるのはなぜですか?

赤塚不二夫は迷わず答えた。


 芸術性が高いものね。
 ギャグ漫画というのは、
 人間が笑うということ、
 ギャグこそ品位が
 必要なんですよ。


たしかに…。たとえば、

これでいいのだ。

これ以上芸術的な一言は
ないのかもしれません。

これでいいのだ。


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渋谷三紀 10年09月25日放送



ファッションことば①
  イヴ・サンローラン


蒸し暑い街の風景を涼しげに彩るシースルー・ファッションを
はじめて世に送り出したのは、イヴ・サンローラン。

1968年に発表した、モデルのからだが透けて見える黒いドレスは、
保守的なパリのファッション業界から激しい非難をあびた。

しかし彼は、
ヌード以上に女性らしい美しさを引き出すシースルーの魅力を
誰より早く見抜いていた。

ファッションとは生き方である。

と語ったサンローランは、
自分の意思でファッションを、そして生き方を選びとる自由を
女性たちに与えようとした。

それはつまり、女性が女性らしく、自分らしく生きる時代の幕開けだった。








ファッションことば②
  パリス・ヒルトン


アメリカの億万長者として名高い
ヒルトン一族の令嬢パリスは
お騒がせセレブとして知られている。

このパリスの発言が
イギリスの由緒正しい引用句辞典に掲載されたのは
去年のことだった。

 どこへ行くにもかわいらしく着飾りなさい。
 人生は短すぎてすべてを着られないんだから。

パリスの言葉は
オスカー・ワイルドやホーキング博士の言葉と並んで
堂々と胸を張って見える。

100年後、パリスのお騒がせ事件の数々を知らないまま
これを読む人は何を感じるだろう。
それが知りたい。





ファッションことば③
  ジバンシー


永遠の妖精、オードリー・ヘップバーン。
そのエレガントな美しさのいくらかは、
衣装を担当したジバンシーがつくりだした、
といっていいだろう。

ふたりの出会いは
ジバンシー26歳、オードリー24歳のとき。

約束の場所に現れたオードリーを見て、
ジバンシーは思った。

 ショートヘアで化粧っけのない、
 少年のようにやせっぽっちの女の子。

ジバンシーは、オードリーでなく
当時彼女より有名だった
キャサリン・ヘップバーンが来ると誤解していたのだ。

お互いの存在なしでは、
世界的女優と世界的デザイナーになれなかったふたりの歴史が
誤解と落胆からはじまったなんて、おもしろい。





ファッションことば④
  川久保玲


1982年、コムデギャルソン、
初めてのパリコレクション。

デザイナー川久保玲は、
喪服のような黒で
女性のからだのラインを覆い隠すスタイルを提案。
賛否両論の嵐を巻き起こし、
その事件は「東からの衝撃」と呼ばれた。

川久保はいう。

 新しいものは、半分の人がノーと言うし、
 そうでなくては新しくない。

強烈に求められるか、拒絶されるか。
決して無視できない、まったく新しい価値をつくることが
自分の仕事だと考えている。

それ以降、ファッションの世界で、
川久保は革命を起こしつづけている。
もっと正しく言えば、
川久保の存在自体が、革命でありつづけている。





ファッションことば⑤
  アナ・ウィンター


世界のあらゆるファッションショーで、
最前列を約束されている女性がいる。

金髪のボブカットにサングラスがトレードマークの
米国版「VOGUE」編集長、アナ・ウィンター。
映画「プラダを着た悪魔」のモデルとしてあまりに有名。

彼女のもうひとつの顔は
ファッションブランドに新しい才能を紹介するコーディネーター。

ルイ・ヴィトンに、マーク・ジェイコブスを。
クリスチャン・ディオールに、ジョン・ガリアーノを。

アナ・ウィンターはモードの流れを追うだけでなく
自らモードの未來をつくりだしている。
そして、アナ・ウィンターはこんな意見を言う。

 ファッションとは、先を見ること。





ファッションことば⑥
  ワダ・エミ


映画『乱』の衣装デザインで
日本人女性初のアカデミー賞を受賞した、ワダ・エミは、

 自分にとって、衣装はことばです。

と語る。

京都で育った子ども時代、何気なく見ていた
古い絵画、彫刻、建築、神社の鳥居の形が
自分のデザインの基本にあるという、ワダ。

衣装という世界共通語にのせて、
73歳になったいまも、
日本の文化の美しさ、奥深さを世界に伝えつづけている。





ファッションことば⑦
  キャリー from 「SEX AND THE CITY」



キャリー、サマンサ、ミランダ、シャーロット。
NYで生きる4人のキャリアウーマンの
友情を描いたSEX AND THE CITYは、
世界中の女性の心をつかみ、
2度も映画化された大ヒットドラマ。

中でも主人公キャリーのハイセンスな
ファッションは常にアツイ注目を集め、
彼女が身に着けたものから、
次々とトレンドが生まれていった。

オシャレは足元から、とばかりに、
クローゼットに入りきらないほど
お気に入りの靴を並べて、彼女はいう。

シングルウーマンの道は平坦ではないから、
歩くのが楽しくなるような靴が必要なの。

なるほど。
ファッションと同じように、
女心にも国境はないようです。

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蛭田瑞穂 10年09月19日放送



宇宙のはなし①「ムーンイリュージョン」


ビルや山の合間にあらわれた月が、
いつもより大きく見えたことはありませんか?

地平線の近くにある月が、
真上にある月より大きく見えるこの現象。
名前を「ムーンイリュージョン」という。

なぜ大きく見えるのか。
アリストテレス、プトレマイオス、デカルト、ガウス、
古代から名だたる賢人たちがこの不思議の解明を試みた。

目の錯覚、光の屈折、心理作用。
さまざまな説があるけれど、
こんな幻想的な謎は、できれば謎のままにしておきたい。









宇宙のはなし②「レイリー卿」


空はどうして青いの?
そんな質問をされたら、あなたはなんて答えますか?

空の青さ。
それは光の性質に関係がある。

太陽の光は地球に届くと、大気中の塵にぶつかって反射をする。
あらゆる色が存在する光の中でも、青色の光は波長が長く、
さまざまな角度に反射して拡散する。
そのため、空一面が青く見えるのだという。

この原理を発見したのは
イギリスの物理学者ジョン・ウィリアム・ストラット。
男爵だった彼は、「レイリー卿」の通称で呼ばれていたため、
この光の作用も「レイリー散乱」と名づけられた。

空が青い理由。
それは、つまり、こういうわけなのです。





宇宙のはなし③「川口淳一郎」


2003年に打ち上げられた惑星探査機「はやぶさ」。
そのミッションは地球から3億キロ離れた
小惑星イトカワに着陸し、表面のサンプルを持ち帰ること。

そのサンプルには46億年前、
太陽系誕生の秘密を解く鍵が隠されているという。

月以外の惑星からサンプルを持ち帰る、人類初の壮大な試み。
それだけに度重なる危機がはやぶさを襲った。

姿勢制御装置の故障、通信機能の不能、イオンエンジンの停止。
しかし、その度にはやぶさは危機を乗り越え、
ついに2010年6月13日、再びその姿を地球にあらわす。

最後の大仕事は、サンプルを入れたカプセルの切り離し。
それに無事成功すると、はやぶさはそのまま大気圏に突入。
花火のように燃え尽きた。

はやぶさプロジェクトのマネージャー、川口淳一郎はこう語る。


 絶望的な危機を何度となく乗り越え、
 カプセルを地球に送り返す大役を成し遂げたあとで、
 みずからは日本国民の心に残る“不死鳥”になったのです。






宇宙のはなし④「ジョージ・ガモフ」


宇宙のはじまりは超高密度で、超高温の小さな火の玉だった。

1946年にアメリカの物理学者
ジョージ・ガモフが提唱した「ビッグバン理論」。

だが当時の科学者の多くはその説に否定的だった。

「ドカンという爆発から宇宙が生まれたとでもいうのかね?」。
「ビッグバン」という名前もそんな皮肉からつけられた。

しかし現在、ビッグバン理論は
宇宙の起源に関するもっとも有力な説。

コペルニクスの昔から、
常識を覆す発見はなかなか理解されないらしい。





宇宙のはなし⑤「オルバースとハッブル」


どうして夜空は暗いのだろうか。
太陽が出ていないから?
どうやら話はそう簡単ではないようだ。

19世紀の天文学者ハインリヒ・オルバースは
こんな疑問を投げかけた。


 もし宇宙が無限であり、無限の星が存在するなら、
 無限の星の輝きで夜空は明るくなるはずだ。


これを「オルバースのパラドクス」という。
あきらかな矛盾とわかりながらも、
誰も矛盾を解決できなかった。

このパラドクスに答えが出たのは、
20世紀になり、天文学者エドウィン・ハッブルが
「ハッブルの法則」を発表してから。


 すべての銀河が私たちから遠ざかり、
 しかも、遠くにある銀河ほどより速い速度で遠ざかる。


つまり、宇宙は光より速い速度で膨張している。
そのため、すべての星の輝きが地球に届かないのだ。

夜空の暗さ。
それはこの瞬間も宇宙が膨張を続けていることの
たしかな証なのである。





宇宙のはなし⑥「小柴博士」


「この世に摩擦がなければどうなるか?」
こんな問題を出されたら、あなたはなんと答えますか?

ニュートリノの検出による多大な功績で、
ノーベル物理学賞を受賞した、小柴昌俊博士。

博士が大学院時代、高校の試験に出題したのが、
「この世に摩擦がなければどうなるか?」という問題。

答えは、「白紙の答案」。

摩擦がなければ、鉛筆の先が滑って答えが書けない。
ゆえに白紙の答案が正しい解答なのだと言う。

科学者の頭はやはり型破りである。





宇宙のはなし⑦「アルベルト・アインシュタイン」


宇宙観測の歴史は、
17世紀の初めに、ガリレオ・ガリレイが
手づくりの望遠鏡を覗いたことがはじまりと言われている。

それ以来、人間は地球という小さな星の中から
広大な宇宙を眺め、その謎を突き止めようとしてきた。

相対性理論を完成させ、
「現代宇宙論の生みの親」と呼ばれる、
アルベルト・アインシュタインは言う。


 この宇宙でもっとも理解不能なこと、
 それはこの宇宙が理解可能であることだ。






宇宙のはなし⑧「カール・セーガン」


作家、カール・セーガン。
地球外生命体との接触を描いたSF映画『コンタクト』の原作者。

彼はフィクションの中だけでなく、
現実の世界でも宇宙との交信を試みた。

1972年、セーガンは地球と人類に関する情報を金属板に描き、
木星探査機パイオニア10号の機内に取り付けた。

それは人類が初めて送った宇宙への手紙だった。

残念ながらセーガンは
その成果を見届けることなく1996年に他界する。

だが、木星の探査を終えたパイオニア10号は、
地球から53光年離れた恒星アルデバランに向かって
現在も旅を続けている。

私たちの知らない誰かに見つけられるために。


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小宮由美子 10年09月18日放送



ハワイアン・ヒストリー
〜フラの母、マイキ・アウイ・レイク


現在活躍している多くのフラ指導者を育て、
「フラの母」とも呼ばれるマイキ・アウイ・レイク。

彼女が、生前いかに魅力あふれる、愛された女性だったかを
知る手がかりは、フラソング『プア・リリレフア』の中にある。

 あなたはどこに
 リリフレアの花よ
 大切なあなたを想う気持ちで
 僕の頭はいっぱいだ


今も歌い継がれ、踊り継がれるこの切ない名曲は、
ひとりの男性からマイキに捧げられた、ラブレターなのだそうだ。





ハワイアン・ヒストリー
〜キャプテン・クックの出会った住民


「彼らの視線はさまざまなものの間を
 きょろきょろと動き回った。
 見慣れない物を前にした時のそのふるまいを見ていると、
 彼らが驚嘆していることは歴然とわかった。
 かつて一度も船という物に乗ったことがないのは明らかだった」


1778年、ハワイ諸島に上陸したキャプテン・クックは、
島の住民たちの様子をそう記録している。

初めて出会うヨーロッパ人たちに、ハワイの人々は友好的だった。
最初はカヌーで、おそるおそる艦隊の船を遠巻きにしていたが、
翌日になるともう、船の中に乗り込んでいったという。

彼らが最初に取り引きしたものは、
真鍮のメダルと一尾のサバ。

この出来事を境に
やがて、ハワイの歴史は大きく変わっていくことになる。





ハワイアンたち
〜ギャビー・パヒヌイ


ギターの弦をゆるめて、独特の響きを作り出す
「スラッキー・ギター」。

19世紀末に、ハワイのカウボーイたちが好んだ演奏方法だが、
やがて衰退。それを復活させたのが、ギャビー・パヒヌイだった。

1955年、ハワイ語で歌った『ヒイラヴェ』が大ヒット。
ネイティブ・ハワイアン文化の復興をねがう人々に
ギャビーは熱烈な支持を受けた。

音楽での成功が、経済的な成功に結びつくことはなく、
生涯、建設現場の労働で生計を立てていたというギャビー。

同時代のミュージシャンたちに尊敬され、愛され、
いつも、たくさんの人たちに囲まれていたというギャビー。

彼の音楽はいま、世界的に高く評価され、
ギタリストになった彼の息子スィロにも、その魂が受け継がれている。





ハワイアン・ヒストリー
〜ナイノア・トンプソンと、ホクレア号


星と太陽。風と、うねり。海面の色や、空を飛ぶ鳥など、
自然が与えてくれるサインだけをたよりに大海原を航海する
「スターナビゲーション」。
古代ポリネシア人が数千年前から継承してきたこの伝統航海術で
<ホクレア号>は、いくつもの航海を成功させてきた。

最新の技術に頼らずに、あえて古来の技に従い、昔ながらのカヌーで漕ぎ出す。
クルーとして乗り込むハワイアンたちにとって、それは勇敢に海を渡って世界
を広げてきた先祖の文化の継承であり、その精神を学ぶこと。

「この世の中で起こっているドラマの、その向こうを見ることが
 できる人間が必要なんです」

そう語るのは、ホクレア号の航海士、ナイノア・トンプソン。

「伝統を蘇らせるのは大事だが、それを教育によって次の世代に
伝えるのは、もっと大事だ」
「それが、ホクレア号の航海の、本当の目的だ」

今、ハワイの若い世代にとって、クルーになることは憧れ。
オアフでは今日も、選ばれた候補たちが、次の航海に向けた
厳しく長いトレーニングを積んでいる。





ハワイアン・ヒストリー
〜摂政カアアフマヌ


 女も、バナナを食べていい。
 男と女は、一緒に食事をしてもいい。


それまでハワイにあった宗教的なタブーを変えたのは、
カアアフマヌという女性だった。
大王の21人の妻の中で最も愛され、信頼されていたという
彼女は、まず自分でそのタブーを破ってみせた。

民衆も、この変化を受け入れた。
タブーを破っても、雷は鳴らなかったし、
神の怒りが下ることがなかったから。

1819年。ハワイの近代化が始まろうとしていた頃の話。







ハワイアン・ヒストリー
〜カメハメハ大王


「醜いと呼んでもいいほど勇猛な顔立ち。だが、非常に知的で
 観察力に富み、良い性格をしている」


ハワイに上陸したキャプテン・クックの部下、ジェイムズ・キングは、
当時、青年だったカメハメハを、こうあらわしている。

1753年頃、ハワイ島の北部で生まれ、
ずば抜けた体力と知力で頭角をあらわしたカメハメハ。

のちに、歴史上はじめてハワイ諸島の統一を成し遂げ、
ひとつの王朝をつくりあげた彼の写真は、残っていない。

銅像や肖像画はいくつも残されているが、どれも顔が違う。
戦いのないハワイの黄金時代を築き、
民衆からも愛されたという王は、どんな顔立ちをしていたのだろう。

1819年5月8日、カメハメハは世を去った。
墓所は秘密にされ、今も知られていない。





ハワイアンたち〜
リリウオカラニ


あの、有名な『アロハ・オエ』。
作曲したのが、ハワイ王国最後の女王だということは
あまり知られていない。

リリウオカラニ。

彼女が、王であった兄のあとを継いで即位したとき、
力を増しつつあったアメリカ勢力によって、
ハワイ王国は崩壊寸前だった。
1895年、ハワイの復権を試みて、武力蜂起が起きるが、
簡単につぶされる。リリウオカラニは、白人勢力に対する
反乱の首謀者として逮捕され、軟禁された。
ハワイ王国の滅亡。

そんな激動の人生の中で、
リリウオカラニが残した『アロハ・オエ』。
別れを歌うこの曲は、
アメリカへ吸収されていく祖国への悲しみの歌ともいわれている。

 甘い記憶が私に帰ってくる
 過去の思い出が鮮やかに蘇る
 親しいものよ、おまえは私のもの
 おまえから真実の愛が去ることはない
 アロハ・オエ、アロハ・オエ

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三島邦彦 10年09月12日放送




人と、壁。/ラスコーの洞窟壁画


歴史的な発見のきっかけは、
犬が穴に落ちたことだった。

1940年9月12日。
フランスのある田舎町の森の中で、
少年たちが犬と遊んでいた。
森には数年前の落雷で空いた穴があり、
そこに犬が落ちてしまったのだ。

犬を助けようと穴に降りると、
穴は、洞窟につながっており
少年たちはその壁に牛や馬、鹿の絵を見つける。

ラスコーの洞窟壁画発見の瞬間だった。

一万五千年の時を経て、洞窟の壁が、
少年とクロマニヨン人を結びつけた。









人と、壁。/ロジャー・バニスター

1マイル、約1609メートル。
半世紀前、この距離を4分以内で走ることは、
人類が決して越えられない壁だと言われていた。

あるスポーツ記者は、
「人類が南極点と北極点に到達し、
ナイル川の源流を発見し、海の最深部に達し、
未開のジャングルを踏破した現在も、
1マイル4分という領域はいまだ未踏のまま、
多くの者たちの努力を拒み続けている。」という記事を書いた。
ある医者は、1マイル4分は人体の限界であり、
その挑戦は生命に危機を及ぼすこともあると警告を発した。

しかし、その壁は破られた。

1954年、イギリスの大学生ロジャー・バニスターが、
1マイルを3分59秒4で走り抜けたのだ。

この2ヶ月後、
ジョン・ランディという選手が3分58秒0の世界新記録を出し、
つづく1年の間に23人ものランナーが1マイル4分の壁を破った。

誰かが壁を超えたとき、そこにもう壁はなくなる。
ロジャー・バニスターは、
1マイル4分の壁から人類を自由にしたのだ。





人と、壁。/ウォーレン・バフェット

ニューヨーク、ウォール街。

壁の街という名前は、この街を作ったオランダ人が
外敵の侵入を防ぐために
材木で壁を築いたことに由来する。

2008年にはビル・ゲイツを抜いて
世界の長者番付第1位に躍り出た天才投資家、
ウォーレン・バフェットは
ウォール街から1万キロ離れたところに住んでいる。
そして、こんなことを言う。

みんなが貪欲になっている時は警戒しろ。
みんなが警戒している時は貪欲になれ。

ウォール街の逆をいって富を築くのも
また壁を味方にしたといえるだろうか。





人と、壁。/富山県警山岳警備隊

山を見ると、登りたくなる。
壁を見ると、越えたくなる。

そんな登山家の聖地は飛騨山脈、通称北アルプス。
その厳しく切り立つ岩肌は、山と言うよりもはや壁。
どんなベテランの登山者でも
思わぬ事故に遭遇することもある。

しかし、そこには富山県警山岳警備隊がいる。
富山県警山岳救助隊は1965年に結成され
隊員数27人。救助した人は3,000人。
日本一の山岳警備隊と呼ばれ、
「落ちるなら、富山側へ」と言われるほど登山者の信頼は厚い。

想像を絶するような過酷な状況での人命救助の場で
人体の限界という壁に直面した時、彼らを支える言葉がある。

苦しくても、苦しくない。 

彼らもまた、壁を越えているのだ。





人と、壁。/ネルソン・マンデラ

倒れている時、地面は壁になる。
壁をなくすには、立ちあがればいい。
立ちあがった時、地面は壁ではなく、道になるから。

南アフリカ共和国の元大統領、ネルソン・マンデラ。
人種の壁と闘い続けた彼は、こんな言葉を残している。

転ばないことより、
転ぶたびに立ちあがること。
そこに人生の輝きがある。

倒れることを、恐れない心。
それが、壁を道に変える極意のようです。



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三國菜恵 10年09月12日放送



人と、壁。/坂口弘

坂口弘は
死刑を言い渡されて7年が過ぎようとしている。

彼は、拘留所のなかでペンを執り
短歌を書きつづけた。
そしてそれを、新聞の寄稿欄に投稿していた。

定期的に届く歌に
多くの人がハッと心を動かされ、
気づけば、彼は歌壇の「常連」になっていた。

紙を滑る筆ペンの音の心地よさよ 房(ぼう)にも秋はひそやかに来ぬ

彼の短歌は一冊の本になって
壁の外で、ささやかな脚光を浴びている。





人と、壁。/ピーター・ブルック

イギリスの舞台演出家、ピーター・ブルック。
彼は、なにもない空間に可能性を見出すことによって
伝統の壁を軽々と超えた。

 どこでもいい、なにもない空間―
 それを指して、わたしは裸の舞台と呼ぼう。
 ひとりの人間がこのなにもない空間を歩いて横切る、
 もうひとりの人間がそれを見つめる―演劇行為が成り立つためには、
 これだけで足りるはずだ。

いままで誰も見たことがなかったピーター・ブルックの演劇を
言い表す言葉はどこにもなかった、
それはいま、ふたつの言葉で表現されている。
「古典的、かつ、前衛的」





人と、壁。/中村一義

自らつくった心の壁が、
自らを閉じ込めてしまうこともある。

ミュージシャン・中村一義にもそんな時期があった。
自分の部屋をスタジオにして閉じこもり
壁のように閉ざしたドアの向こうで
ひとり聴きつづけた心の声。

自分の心に光をあてたその歌に救われた若者は多い。

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