中村直史 12年5月13日放送


カクテル・ストーリーズ/開高健のブラッディマリー

氷を入れたタンブラーにウォッカを注ぎ、トマトジュースを入れる。
お好みで、コショウ、タバスコを少々。
それが「ブラッディ・マリー」の一般的なレシピ。

「血まみれのマリー」という恐ろしげな名前がついたこのカクテル。
あの開高健先生によれば、ひとりの恐妻家の男が発明したのだ、という。

夫は家で酒を飲みたいが
妻が怖いのでおおっぴらには飲めない。
そこで台所で隠れて飲むのだが
琥珀色の液体を飲んでいては
「何ウイスキー飲んでるの!」と怒鳴られる。
あぶくのたつ液体をのんでいると、
「ビールね!」とこれまた怒られる。

そこで、透明なウォッカにトマトジュースをほうりこんで
コショーだなんだと、ありあわせのものをほうりこむことで、
厳しい妻の目をごまかしたのだ、と。

カクテルは、クリエイティブなお酒。
作り手と飲む人の発想力を鍛えてくれる。

カクテル・ストーリーズ#5
「開高健のブラッディマリー」

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三島邦彦 12年5月13日放送


カクテル・ストーリーズ/フランクリン・ルーズベルト

1920年から1934年まで、
アメリカには禁酒法という法律があり、
酒好きは密造酒を飲むか
海外に行くしかなかった。

禁酒法を終わらせたのは、
合衆国大統領フランクリン・ルーズベルト。

ホワイトハウスでは
仕事を終えた大統領が自らシェーカーを握り、
スタッフにドライ・マティーニを振る舞う習慣ができた。

 さあ、夜のとばりが降りた。ドライ・マティーニを飲んで童心に帰ろう。

マティーニを前にすると、人は正直になる。
その後、ソ連のスターリンにもマティーニを振る舞い、交渉を円滑に進めたという。

カクテル・ストーリーズ#6
「ドライ・マティーニ」

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中村直史 12年5月13日放送


カクテル・ストーリーズ/サマセット・モーム

シンガポール、ラッフルズホテル。
このホテルを定宿にしたのが
イギリス人作家サマセット・モーム。

とある日のこと。
ラッフルズのバーで飲んでいたモームにバーテンダーが尋ねる。

「次は何をお飲みになられますか?」
「では、この美しい景色を」

モームは窓の外に沈みゆく太陽を眺めながら答えた。
そして生まれたカクテルが、シンガポールスリング。
・・・話の真偽は定かではないけれど、
数々の逸話が生まれるのもまた、愛されるカクテルの特徴。

カクテル・ストーリーズ#7
「シンガポールスリング」

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三國菜恵 12年5月13日放送

ReeseCLloyd
カクテル・ストーリーズ/福西英三

1976年のある日、
バーテンダー協会にこんな問合わせがあった。

「ある女性デュエットを、カクテルと同じ名前で売り出したいのですが」

その電話を受けた役員、
福西英三(ふくにしえいぞう)はこんなふうに答えた。

カクテルに著作権はありません。
それよりも、デビューのご成功をお祈りします。

このひと言がなければ、
ピンク・レディーというアイドルはいなかったかもしれない。

カクテル・ストーリーズ#8
「ピンク・レディー」

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佐藤理人 12年5月12日放送


ミニ① 特命

1956年、スエズ動乱が勃発すると、
ヨーロッパに深刻な石油危機が広まった。
特にイギリスではガソリンの価格が高騰、
配給制度が敷かれた。

そんなある日。
当時イギリス最大の自動車メーカー
BMCの設計者アレック・イシゴニスは、
会長直々に特命を受けた。

燃費が良く経済的な
4人乗りの小型車を早急に開発せよ。


車体はできるだけ小さく、でも室内は広く。
この無理難題を解決するためにイシゴニスがまずしたこと。
それは常識を捨てることだった。

彼は部品の一つ一つまで全く新しい視点で考え直し、
革命的な車を作り上げた。

イギリスの国民的名車「ミニ」は、
石油不足という大きな制約が生んだ
小さなヒーローだった。






ミニ② 数学

数学が苦手でも、
カーエンジニアの夢をあきらめる必要はない。

イギリスが生んだ世界的名車「ミニ」。

その設計者アレック・イシゴニスは数学が大の苦手だった。
大学のテストで3度も落第しているほどだ。
彼は数学を

すべての創造的な天才たちの敵

と呼んで毛嫌いした。

ミニのあの愛くるしいデザインは、
実はカーデザイナーの手によるものではない。

イシゴニス自身が、
リゾート地のホテルでジンを飲みながら
ナプキンに手描きしたものだ。

車のコンセプトと構造を熟知した
設計者自身の手によるデザインは、
機能に直結した合理性に富むもので、
そのまま生産できるほどの完成度の高さだった。



hashmil
ミニ③ 文化

誰にでも手が届く経済的なファミリーカー。
そんなコンセプトで生まれたイギリスの名車「ミニ」。

その斬新で機能的なスタイルに真っ先に飛びついたのは、
庶民ではなく、新しモノ好きなセレブだった。

例えばビートルズ。
元々はアビイロードスタジオの駐車場が狭いために選んだ車だったが、
その愛くるしい個性にメンバーはみな一目ぼれしてしまった。
ジョン・レノンは免許を取る前にミニを購入し、
リンゴ・スターはミニ・クーパーを愛用し、
ジョージ・ハリスンは車体にオリジナルで
サイケデリック模様のペイントまで施した。

ミュージシャンでは他にデビット・ボウイ、エリック・クラプトン。
ファッションデザイナーのポール・スミス。
俳優のスティーブ・マックイーン。
そして女王エリザベス二世。
当時世界で最もクールなセレブ達が、
自分の個性を表現する手段としてミニを選んだ。

もはやミニは単なる大衆車ではなかった。
大きくて強いことこそ正義とされた当時の価値観に対抗する
カウンターカルチャーの象徴だった。

それは奇しくも
ミニが生まれた1962年に、
イギリスのファッションデザイナー
マリー・クワントが発明した

「ミニ」スカート

と同じことだった。




ミニ④ 勝負

フェラーリのレーシングカーなどを製作し、
現在のF1カーの基礎を築いた男、ジョン・クーパー。

1960年代はじめ、彼は市販車レースに夢中になった。
しかしレーシングカーと市販車のレースでは、
求められる性能も走るコースも何もかも勝手が違う。
レーシングカー製作者に贈られる最高の賞を
2年連続で受賞した彼もなかなか勝利をつかめずにいた。

ある日のこと。
クーパーは友人の設計者アレック・イシゴニスに
ミニの試作車を見せられた。
その驚異的な性能をすぐさま見抜いたクーパーは、
イシゴニスと共同で機敏で燃費がよく、
しかも安価な車を製作した。
そうしてできたのが、今やミニの代名詞ともなった車、

ミニ・クーパー

である。

そして1964年。
クーパーは早速、世界最古の自動車レースであり、
世界三大レースの一つでもあるモンテカルロ・ラリーに参戦。
険しい山道、凍結した路面、そして雪という
最悪のコンディションにもかかわらずいきなり優勝を飾った。

続く1965年、67年にも優勝。
ポルシェやアルファロメオなど大パワーのライバルたちを打ち破り、
世界で最も権威のあるレースで3回も勝ち星をあげたミニ。

この勝利は「速さにはパワーが必要」という
それまでのモータースポーツの常識も打ち破った。




ミニ⑤ 映画

イギリスが生んだ歴史的名車「ミニ」。
その活躍は日常やレースの世界に留まらなかった。

1969年に公開された

The Italian Job

邦題「ミニミニ大作戦」という映画で、
ミニはついに映画初「主演」を果たす。

強盗団がマフィアから金塊を奪って逃げる
という何ともB級な話だが、カーアクションはA級だ。

狭く入り組んだトリノの街を
縦横無尽に駆け回る三台のミニ。

階段、下水道、屋根など
走れるところはどこでも走り、
ビルからビルへジャンプする。
ジャガーなど超のつく高級車たちを、
軽々と手玉にとるその姿は実に痛快だ。

それは小さくて軽くて、しかも速い、
ミニならではの名演技だった。



J Mark Dodds a shadow of my future self
ミニ⑥ 時代

うまくいっているなら、何も変えるな。
うまくいかなくなるまで続けろ。


設計者アレック・イシゴニスの言葉通り、
1959年の発売当時とほぼ同じ姿のまま、
今も世界中で愛され続ける車「ミニ」。

その生産が終了したのは2000年10月のこと。
世界中で高まる衝突安全性と排出ガスの基準を
もはや満たすことができなくなったのだ。

40年の間に、
ミニより先に世界が変わってしまった。



Okko Pyykkö
ミニ⑦ 長寿

20世紀最高の名車を決める
「カー・オブ・ザ・センチュリー」で
2位に輝いたイギリスの世界的名車「ミニ」。

ある日、
イタリアが生んだ世界最高のカーデザイナー、
ピニンファリーナが、
ミニの設計者アレック・イシゴニスに尋ねた。

いつになったら
あなたの車をデザインさせてもらえますか?


イシゴニスは答えた。

デザインなど2年もすれば流行遅れになるものだ。
でも私の車は、私が死んだ後も流行っているだろう。


事実、ミニは2000年10月の生産終了まで、
40年もの長い間世界中で愛され続けた。
その数、実に530万台。

1988年に亡くなったイシゴニスより
12年も長生きだった。

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大友美有紀 12年5月6日放送

Ian Britton
「旅する言葉・チェコ」カレル チャペック

「園芸家12ヶ月」「ダーシェンカ」で知られる
チェコの国民的作家カレル チャペック。
彼はジャーナリストとしても活躍していた。
そして数多くの旅行記を出版している。
1925年にふるさとチェコについても書いていた。

 塔はチェコの特産だ、と私は言いたい。
 わが国のあのような不思議なキューポラ、
 まるっこい玉ねぎ型、けしの頭型、
 灯台、付属塔とギャラリーと尖塔は、
 ほかの場所にはないからである。
 チェコの古い町はどこでも、
 その町に特有の塔を持っている。


プラハは、百塔の町とも呼ばれている。
90年近く経った今でも、チェコの特産は健在だ。



Jean-Pol GRANDMONT
「旅する言葉・ふるさと」カレル チャペック

チェコの国民的作家カレル チャペックは、
幼少の頃、父の仕事の関係で幾つかの地に移り住んだ。
彼がふるさとについて書くとき、
それは特定の場所ではない。

 生まれ故郷、またはより正確に言えば、
 私たちが子どもの頃の何年かを過ごした地方は、
 決して地理的な地域ではなく、
 私たちが小さかったときに関係した
 数多くの場所や、秘密の隠れ家なのだ。



こおろぎやとかげをつかまえた畦道。
水浴びをした場所。
よじ登って腰掛けた、とねりこの木。
実を盗みにいった桃の木。
それは自分だけの特別な秘密。

大人になってその地方を訪れた彼は、
思い出の場所は、どこかに行ってしまったことを知る。

 それは生まれ故郷だった。
 わたしは感動しながらも、がっくりしていた。
 もはやそこは、世界のすべてではなくなっていたのだ。




bjoern.f
「旅する言葉・モルダウ川」カレル チャペック

ヴルタヴァ川。
チェコの国民的作家カレル チャペックが、
青春時代を過ごしたプラハをゆったりと流れている。
ドイツ名、モルダウ川。

チャペックはその「ヴルタヴァ川」の美しさを
音楽や絵画や散文、詩で描写した人はいない、と嘆いている。

 春の陽光の中で清らかに輝き、
 明るく音高く、おごそかに、まろやかで楚々とした、
 あの青春時代の乙女のような姿を。
 または、たそがれどきのプラハへ注ぎ込む、
 限りなく青く明るく誇らしげな
 プラハのあかりの列を映して、
 繻子のような、ブロケード織りのような、
 燃えるような輝きを見せるその姿を。

 
川の描写はまだ続く。

 すべての景観をしのぐ景観、美の中の美、
 プラハの空や宮殿、庭園、
 この地の美しい景観のすべてをともなった、
 プラハ全体のなかでも最高の魅力を。


チャペックは「ヴルタヴァ川」の美しさを描ききった
最初の一人になったのだ。





Zaqarbal
「旅する言葉・スペイン」カレル チャペック

21年間のジャーナリスト生活を通じて、
カレル チャペックは、ヨーロッパ各国を旅した。
1929年にスペインを訪れたとき、
チェコとはまるで違う彼の地の魅力を
「別の大陸のようだ」と表している。

 マドリードは宮廷のパレードと革命のスコールの町だ。
 空気は軽く、いささか興奮をかきたて、スリルに満ちている。
 それに反し、セビリアは祝福に満ちてけだるく、
 バルセロナは、なかば秘められた状態でわき返っている。




José-María Moreno García
「旅する言葉・トレド」カレル チャペック

古都トレド。
世界遺産にも指定されているこの街は、
城壁に囲まれ、狭い石畳の路地が迷路のように入り組んでいる。
カレル チャペックも、この街を訪れたとき、
その歴史的建造物と狭い路地に魅せられた。

 ジグザグに曲がったアラブ風の小道をさまよい歩いていく。
 あなたは七歩ごとに立ち止まることになるだろう。
 西ゴート族の柱があると思えば、モサベラ人の壁がある。
 奇蹟の聖母マリア様もいらっしゃる。
 ムハデル人の塔、ルネッサンス風の宮殿があり、
 左右に耳をひろげたロバも通り抜ける。

 
そして、大聖堂については、たしかにそこへは行ったのだけれど、
さだかではないと言う。極めて多くの品、
多様な宗教美術を目にしたあまり、夢を見ていたかのようだったと綴る。
あまりにも多くのトレドの名物を目のあたりにしたチャペックは、
こう結論づける。

 この世で最良の博物館は、生きた人々の街路だ。
 ここはまるで、別の時代に迷いこんだような感じがする、
 と誰もが言いたくなるだろう。
 だが、それは適切ではない。実際はもっと不思議なものだ。
 別の時代ではなく、過去にあったものが現存していることなのである。


民族の独自性と多様性をそのまま受け入れることの大切さを
彼は伝えようとしているのだ。



wildphotons
「旅する言葉・オランダ」カレル チャペック

チェコの国民的作家でありジャーナリストであり、
園芸家でもあるカレル チャペック。
1931年、彼は国際ペンクラブの会合でオランダを訪れる。
そして世界で最も綺麗な庭、
オランダのかわいらしい家々の庭を見て、
自分の庭に、この土壌と湿度があれば死にものぐるいで
世話をするだろうと書いている。

 しかし、オランダで一番気に入ったのは、人の住居だ。
 驚いたのは、人々がいかに家と街路を結びつけているか、
 ということだった。
 窓の前には何も囲う物のない庭があり、
 その広い、磨かれた窓は覆う物もなく、
 通行人たちは誰でも、その家の灯の下にある、
 家族の豊かさと模範的な生活を見ることができる。


その暮らしの清潔さと自然さに嫉妬を抱きながら、
チェコ人に数百年与えてくれれば、
その暮らしに近づけるのにと、渇望する。


Jesper Hauge
「旅する言葉・ノルウェー」カレル チャペック

カレル チャペックの最後の旅行記は「北への旅」。
デンマーク、スウェーデン、ノルウエーへの旅だった。
ノルウェーからは船で北極圏をとおりフィヨルドを見学している。
その船旅の途中、漁師たちの島にそばを通り過ぎる。

 ドゥーノヴィの漁師たちの島だ。
 むき出しの丸っこい岩ばかりで、
 ただ少しばかり緑がふりかけられている。
 こころは恐ろしくさびしい所だ。
 家は一軒しかない。
 ただ小型の船と海、それ以上は何もない。
 この地で人間は、英雄となるために戦う必要はない。
 生きていくだけで十分なのだ。


タカ
「旅する言葉・帰途につく」カレル チャペック

カレル チャペックは、数々の旅行記を出版したが、
旅に出かけたくないと言う。
外国にいると、自分がお払い箱にになった気がすると言うのだ。
旅に出ることを断る言い訳が思いつけなかっただけだ、と。
そのくせ、旅の帰りに、もっといろいろなものを
見なかったことを悔やんでいる。

 旅行者が持つ最初の印象は
 世界のどの地域に行こうともすべて同じだ。
 しかしその後、旅行者が持つ最終的印象は、
 世界は限りなく多様でどの地域もそれぞれ美しい、
 ということになる。
 だが、そんな印象に達するのは、
 ふつうはもはや手おくれになった時で、
 帰りの列車で、何を見たのか、
 もはやゆっくりと忘れかける時なのだ。

旅に出ることは、世界を知ることなのだ。
小国チェコの国民的作家は、そのことを知りつくし、
さまざまな民族と出会うことを楽しんでいた。

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佐藤延夫 12年5月5日放送

sarsia
こどもの話/福沢諭吉

今ではあまりお目にかからないが、
その昔、子どもが家の手伝いをするのは
当たり前の話だった。

明治時代の小説家、福沢諭吉の場合。
庭の掃除や草取りなど、外回りの仕事は「第一類」、
廊下や雪隠など家の内部に関するものを「第二類」に分けた。
そして子どもたちに、このようなルールを定めた。

  雑巾も雑巾桶も自分にて始末し、何等の事故あるも他人の助けを借るべからず。
  雑巾掛けの水も自分にて汲むべし。湯も自分にて取るべし。

今日はこどもの日。
それは親子の役割を考える日、なのかもしれない。





Podknox
こどもの話/アインシュタイン

子どもに何かを習わせたいと考える親は多い。

物理学者のアインシュタインとて例外ではない。
6歳のとき、両親の発案でヴァイオリンを始めた。

高校時代には、バッハやモーツァルト、
タルティーニなどを弾きこなし、
物理学者になったあとも、演奏することが息抜きになった。
そしてこんな言葉を残した。

  テーブル、椅子、器いっぱいのフルーツ、そしてヴァイオリン。
  人が幸せになるのに、ほかに何が必要か。

今日は、こどもの日。
50年後の趣味を子どものうちに見つけられたら、幸せに違いない。




こどもの話/キュリー夫人

物理学者、キュリー夫人の父親は、教育熱心だったという。
でも、塾に通わせたり、成績表とにらめっこしたりするわけではない。

手紙を書くならば、文章は論理的に。
子どもたちを遠足に連れて行くときは、
名所旧跡を前もって研究し、
道すがら雄弁に説明する。
そして土曜日の晩にはいつも、
自作の詩を朗読して聞かせたという。
そしてキュリー婦人は生涯、この言葉を大切にした。

  人生の最大の報酬は、知的活動によって得られる。

今日は、こどもの日。
我が家の教育方針について、もう一度考えてみませんか。



Brigitte Djajasasmita
こどもの話/本田宗一郎

祖母は、「女甚五郎」と呼ばれるほど
手先の器用な女だった。
家庭の雑貨はもちろん、
機織り機や農機具まで作ってしまったという。

父親は、評判の鍛冶屋だった。
ノコギリや鍬だけではなく
見よう見まねで入れ歯を作り、
剃刀や猟銃の修理まで引き受けた。

そして息子は、彼らの魂を受け継いだ。
遺伝ではなく、伝承として。
本田技研の創業者、本田宗一郎は語る。

  人間にとって大事なことは、学歴とかそんなものではない。
  他人から愛され、協力してもらえるような徳を積むことではないだろうか。
  そして、そういう人間を育てようとする精神なのではないだろうか。

今日は、こどもの日。
襟を正して、また明日から頑張りましょうか。
大人も、子どもも。




こどもの話/パブロ・ピカソ

子どもは、親の真似をする。
スペインの画家、パブロ・ピカソも然り。
父親はいつも絵を描いていて、
その姿を見るのが好きだった。
ピカソ少年は、父親の真似をしない方がおかしい、という環境にいた。

だが、才能は平等ではない。
わずか13歳だった息子の絵を見たとき
その見事な鳩の描写に驚き、
父親は、二度と絵筆をとることはなかったという。
のちにピカソは語る。

  男性を描くたびに父親を思い出す。

今日は、こどもの日。
子どもが勉強しなくて悩んでいるお父さん、お母さん。
まずは、お手本を見せてみませんか。




こどもの話/J・F・ケネディ

アメリカ合衆国第35代大統領、
J・F・ケネディの母親、ローズは教育熱心だった。

九人もいる子どもひとりひとりのために
ファイルカードをつくり、
成長の様子をつぶさに記録したという。

  子どもたちを優れた人間に成長させるためには、
  小さいときから始めなければならない。

今日は、こどもの日。
子どもの姿を見守ることが、教育なのかもしれません。




こどもの話/エジソン

多くの子どもは、親に尋ねる。

どうして船は浮かんでいるのか。
どうしてモグラは、いつも土の中にいるのか。
どうしてガチョウは卵の上に座っているのか。

発明王、トーマス・エジソンの母親は、
無邪気で途方もない質問に、ひとつひとつ答えたという。
そして、八歳で小学校を退学したエジソン少年を自ら教育し、
野菜を保存しておいた地下室を、実験室として与えた。
その恩を、彼は生涯忘れなかった。

  今日の私があるのは母のおかげです。
  母はとても誠実で、私を信頼してくれていましたから、
  私はこの人のために生きようと思いました。
  この人だけはがっかりさせるわけにはいかないと思ったのです。

今日は、こどもの日。
それは母を想う日でもある。

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名雪祐平 12年4月29日放送


アラハン around100 ボブ・ホープ 1

アラウンド100歳
ボブ・ホープの場合

長年にわたって
「アメリカ一おかしな男」として
親しまれたコメディアンは、
何度か、おかしく死んでいる。

1回目。
「ボブ・ホープ95歳で死去」
というデマが国中をかけめぐり、
なんとアメリカ下院議会で追悼演説まで行われた。

そのことを聞いたボブ。

 たぶん私ではないと思う。

と、ユーモアたっぷりに答えた。

そう、たぶん、そう。




アラハン around100 ボブ・ホープ 2

アラウンド100歳
ボブ・ホープの場合

死亡記事は、
生きているうちに用意されている。

100歳を目前にした、
アメリカを大物コメディアンもそうだった。

テレビ局CNNのウェブサイトで
パスワードの保護が無効になり、
ボブの死亡記事が生前に公表されて
しまったことがあった。

騒動のあと、
無事、誕生日を迎え、ボブは100歳になった。

しかし2カ月後、こんどは本当に死の時がやってきた。
埋葬法を聞かれ、ボブは答えた。

 何か、びっくりさせてくれ。 

そんな言葉を
あらかじめ死亡記事として用意できる能力は、
どこのテレビ局にもなかった。





ger0nim0
アラハン around100 三浦敬三 1

アラウンド100歳
三浦敬三の場合

生涯、山岳スキーに夢中だった。

60歳の還暦に、初めてのヨーロッパ遠征で滑降。

70歳の古希に、エベレストのシャングリ氷河滑降。

77歳の喜寿に、キリマンジャロ頂上噴火口滑降。

88歳の米寿に、アルプス・オートルート完全踏破。

90歳の卒寿に、モンブラン・バレーブランシェ滑降。

99歳の白寿に、息子と孫と再びバレーブランシェ滑降。

晩年のインタビューで、
若いスキーヤーにアドバイスはありますか?
と聞かれて、三浦敬三はこうこたえている。

 そうですねえ、特にないですね。
 もう自由に滑ってますもんね、その人たちは。
 自由自在にやってるのがいい。

 新雪が降るとね、
 いたる所もう滑ってきますね。
 あれが非常にいいですね。
 
100歳の少年の目で、そうこたえた。




アラハン around100 三浦敬三 2

アラウンド100歳
三浦敬三の場合

1904年、日露戦争開戦の年、
青森県の山あいに生まれた。

電気も水もなく、天秤棒を肩に水くみが日課の
少年時代だった。

やがて山岳スキーに魅せられ、
日本の草分け的山岳スキーヤーになった。

息子、三浦雄一郎も、プロスキーヤーなった。
孫、三浦豪太も、モーグルのオリンピック選手になった。

孫は言う。

 登山をすると、おじいちゃんが
 子どもだった頃の生活を体験できます。
 山の中には電気も水道もコンビニもありませんし、
 携帯電話だって通じない。

でも、そこで、

知恵が、協力が、代々、受け継がれていく。


DesEquiLIBROS
アラハン around100 グランマ・モーゼス 1

アラウンド100歳
グランマ・モーゼスの場合

1860年、アメリカ東部の貧しい農家に生まれた。

12歳から奉公に出て、27歳で結婚し、
夫とともに農場を借り、
10人の子を生み、そのうち5人を亡くした。

農場の妻として立ち働き、
勤勉そのものの生活であった。

夫の死後、リューマチで手が動かなくなった。
リハビリをかねて油絵を描き始めたのが、
75歳の時だった。

それから運命は、
彼女をアメリカの国民的画家にしていく。

3年後、町のドラッグストアの
ショウウインドウに飾られた彼女の絵に
偶然一人のコレクターの目が止まり、
80歳で初の個展を開催。

この個展に大手百貨店が注目し、
グランマ・モーゼスは世界中にファンをもつ
有名画家となった。

何歳でも、なんでも、始められる。
モーゼスおばあちゃんが、おしえてくれた。



Bosc d’Anjou
アラハン around100 グランマ・モーゼス 2

アラウンド100歳
グランマ・モーゼスの場合

くたくたに立ち働いた、75歳までの農家の彼女。
こつこつと描き続けた、75歳からの画家の彼女。

まるで、2つに色分けされた人生のように見える。

けれども、モーゼスおばあちゃんは言う。

 わたしの生涯というのは、
 一生懸命に働いた一日のようなものでした。

国民的画家と呼ばれても、
大統領からホワイトハウスに招待されても、
つつましく暮らし、
101歳で亡くなるまで1500点以上の作品を描き続けた。

素朴で、暖かくて、懐かしくて、
みんなが一生懸命で、楽しそうで、
そんな田園の光景や生活の
そんな絵の中にいるように、生きた、
モーゼスおばあちゃん。




アラハン around100 奥村土牛

アラウンド100歳
奥村土牛の場合

最高峰の日本画家の一人である。

土の牛、と書いて土牛。

中国の詩「土牛、石田を耕す」という
一節からとったもの。

壊れやすい土の牛でも、
根気よく耕せば、
石ばかりの荒れた田を美しい田にできる。

そういう意味通りに、
土牛は老年になってもなお傑作を生み出した。

97歳の時こと。
はからずも長者番付に名前が出たことがある。
不動産屋にせがまれて
土地を手放したせいだった。

その時の言葉が、いかにも土牛。

 土地でお金が入るなんて恥ずかしい。




アラハン around110 きんさんぎんさん  

アラウンド110歳
きんさんぎんさんの場合

きんは100歳100歳
ぎんは100歳100歳
そんなコピーで日本中の人気者になった双子姉妹。

生まれてきてうれしかったことは?
と小学生に質問されてぎんさんはこたえた。

 あんたに会えたことじゃ。

宮沢りえのヌード写真集が話題になった時
きんさんは真剣にこたえた。

 何億積まれてもわしゃ脱がん。

亡くなったきんさんを弔問に訪れて
ぎんさんはつぶやいた。

 おみゃあ、こんなに
 つべたくなっちまって。(つめたくなっちまって。)

きんは107歳107歳
ぎんは108歳108歳

長生きっていいな、と思わせてくれたお二人。
ありがとうございました。

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佐藤理人 12年4月28日放送

aimeeorleans
スティーブ・マックイーンとカースタント「一枚の写真」

まだ映画にCGがなかった時代の話。

一人の映画監督が
ある危険なシーンのスタントを引き受けてくれる
命知らずのスタントマンを探していた。
主演の俳優に相談してみると、

ちょっと高いが、いいスタントマンがいる

と言う。監督が

高いのは仕方がない。紹介してくれるかい?

と頼むと、俳優は監督に一枚の写真を手渡した。

写っていたのはその俳優
スティーブ・マックイーン本人だった。





Podknox
スティーブ・マックイーンとカースタント「ブリット」

映画史上最高のカーチェイスは何か。

アンケートの答はいつも同じ。スティーブ・マックイーンの「ブリット」だ。

咆えるエンジン。きしむタイヤ。巻きあがる白煙。
サンフランシスコ市街の急斜面を舞台に、
宙を舞い、坂を駆け下り、互いにぶつかり合いながら
猛スピードでチェイスする二台の車。

最高時速160kmにも達したこの危険なアクションを、
マックイーンはスタントなしで演じきった。

それまでのカーチェイスといえば、
ハンドルを握った俳優を背景に合成するだけだった時代。
この映像は評論家の度肝を抜き、

観客は11分もの間、
自分の内蔵を地下室のどこかに置き忘れてしまう。


と絶賛された。



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スティーブ・マックイーンとカースタント「目覚め」

1934年3月24日。
4歳の誕生日を迎えたスティーブ・マックイーンは、
母ジュリアから素敵なプレゼントをもらった。

ぴかぴかの赤い三輪車。

幼いスティーブ少年は父がいない寂しさを紛らわすために、
来る日も来る日も近所の子供たちとキャンディを賭けて競争した。
そして大抵一等をとった。後に彼は語る。

あれがレース熱の始まりだった。

中学生になると彼は町の不良グループに入り、
改造車での違法レースに明け暮れるようになる。

そして1944年、警察の世話になりすぎた彼は、
ついに少年院に入れられてしまう。

しかしそのときスティーブは14歳にして既に、
強力な改造車を作る凄腕のエンジニアになっていた。



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スティーブ・マックイーンとカースタント「大脱走」

史上最高の映画スターの一人、スティーブ・マックイーン。
その人気を決定付けたのは、戦争映画の傑作「大脱走」だった。

この映画は第二次世界大戦下のドイツで実際にあった
250人の捕虜脱走計画を描いたものだが、
登場人物が多すぎて脚本は混迷を極めていた。

6人の作家が11通りの脚本を考えてもストーリーはまとまらず、
マックイーンが撮影現場に着いても役さえ決まらない有様だった。

役が決まらないことに怒り、
一時は撮影をボイコットしようとしたマックイーン。
しかしあることを条件に出演を承諾する。

それは、

バイクの腕前を披露させること。

ドイツ兵のオートバイを奪い疾走する脱走シーン。
そして高さ3.6mの有刺鉄線を時速100kmで飛び越えるクライマックス。
映画史に残るこの名場面は、実はマックイーンのアイデアだ。

逃走シーンでは見事なバイクの腕前を披露したマックイーンだが、
肝心のジャンプシーンだけは自ら演じることができなかった。
どうしても保険会社の許可が下りなかったのだ。

実際にジャンプしたのはマックイーンのレース仲間で、
スタントを一緒に考えたバド・イーキンスだった。

ちなみにマックイーンをバイクで追うドイツ兵のスタントも
マックイーンが演じていることは意外と知られていない。



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スティーブ・マックイーンとカースタント「栄光のル・マン①」

「大脱走」のヒットにも関わらず
俳優スティーブ・マックイーンは憂鬱だった。
次の作品としてふさわしい脚本になかなか出合えなかったのだ。

失望から逃れるように彼はモータースポーツにのめりこんだ。
そのために6本もの出演依頼を断るほどだった。

結婚を続けるなら自分との時間を作って欲しい。
妻に頼まれてもその決意は揺るがなかった。

ある日マックイーンは「ル・マン24時間レース」を観戦する。
観衆の大歓声、エンジンの轟音、時速400kmを超えるスピード。
これこそ自分が求めていたものだ。彼は新聞記者に語った。

今までにないとびきり最高のレース映画を作るんだ!

そうしてできたのが、
史上最高のレース映画「栄光のル・マン」である。



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スティーブ・マックイーンとカースタント「栄光のル・マン②」

これまでのレース映画につきものの
よくあるまやかしは避けたいと思っている。
レースは美しいスポーツ。私はそれを正しく映画化したい。


映画「栄光のル・マン」を作るにあたり、
スティーブ・マックイーンがどうしても譲れなかったもの。
それは本物のレースのリアリティだった。

ハリウッドのレース映画の大半はスターに吹き替えを使っている。
私はその世話にはなりたくない。


スタントには現役のレーシングドライバーを起用。
自分が乗るポルシェにももちろんスタントは使わなかった。

さらに実際のル・マンにも車に撮影用カメラを積みこんで参戦。
レースをこなしながら撮影を行った上、
9位でゴールするという度を越えた熱の入れようであった。

しかし、観客に強く訴えるストーリーが必要という監督と、
レースそのものを描きたいマックイーンの間に確執が生じ、
監督は途中降板することになってしまう。

その監督とは、あの「大脱走」を撮ったジョン・スタージェス。
「栄光のル・マン」について彼は

途方もないジョーク、800万ドルをかけたマックイーンのホームムービー

と酷評。マックイーン自身は、

私は自分の持っている全て、キャリア、金、結婚、人生を投げ出した。

と語る、文字通り全てを賭けた映画だったが、
結果はスタージェスの予想通り大失敗に終わった。




スティーブ・マックイーンとカースタント「栄光のル・マン③」

ル・マン24時間レースを描いた映画「栄光のル・マン」。
そのカースタントを全て自分でやることについて、
プレイボーイ誌の記者がスティーブ・マックイーンに尋ねた。

確かにヘルメットをかぶって車を運転しているのはあなたです。
でも車の中にいるのが誰か分かる人なんていないでしょう?


マックイーンは答えた。

観客が分かってくれるさ。
もっと大事なのは、私自身わかっているということだ。
問題はありのままに、ごまかさずに演じるってことなのさ。


映画は本国アメリカでは大惨敗であった。
しかしここ日本では大ヒットを記録。

映画公開の2年後には、
日本人チームが実際にル・マンに初参戦を果たし、
日本のル・マン熱の火付け役となった。

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厚焼玉子 12年4月23日放送


東京タワーとVision

J-WAVEが東京タワーからあなたへお届けする
最後のプログラム、Vision。


1988年
それは東京ドームがオープンした年でもあった。
J-waveは東京タワーに送信所を設け
秋には本放送を開始した。

東京タワーは私たちのシンボルでもあった。

2003年、
J-waveが六本木ヒルズにスタジオを構えたとき
東京タワーは握手できそうな距離まで近づいた。

窓からは毎日東京タワーが見える。
夕暮れに沈んだ街から明かりの残る空に向かって立ち上がる
東京タワーのライトアップは空よりも明るく美しい。

私たちは毎日東京タワーを眺め、東京タワーとともに働いてきた。
だから、お疲れさまは言わない。
さようならも言わない。
いまこの瞬間も東京タワーとお隣同士の距離は変わらないのだから。

J-waveの窓から東京タワーの左を見ると、
ビルのてっぺんから東京スカイツリーが顔を出している。
高さ634メートルのこの新しいランドマークは
みんなに「上を向いて」というメッセージを送っている。


上を向いて、未来を見つめ、希望を抱き
明日に向かって、みんなの心のウエーブをつなげていこう。

YOUR WAVE MAKES THE WORLD

J-waveはこれからも
ふたつのタワーに見守られて
あたらしいウエーブを発信していきます。

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