蛭田瑞穂 11年5月15日放送


檀一雄の食卓

小説『家宅の人』で知られる作家、檀一雄。

世間には無頼派作家として通っていたが、
食生活に関しては規則正しく、ほとんどの食事は
自分の手でつくっていた。

その腕は文壇随一とも言われ、
『檀流クッキング』というエッセイも書いている。

買い物カゴを提げて商店街を歩くのが
日課だったという檀一雄はこんな言葉を残している。

この地上で、私は買い出しほど、好きな仕事はない。





寺山修司の食卓

寺山修司の食卓はいつも賑やかだった。

劇団「天井桟敷」を主宰していた彼のもとには、
陽が沈む頃になると、その日の夕飯にありつけなかった
劇団員たちが集まってきた。

家出してきた者が土産を持ってくることもあれば、
飲食店を営む劇団OBから、
不意に付届けが来ることもあった。

日ごとに違う人物が登場し、
日ごとに違う風景が繰り広げられた寺山修司の食卓。

彼は言う。

人生同様、食卓もまた劇場である。



澁澤龍彦の食卓

作家、澁澤龍彦。

ジャン・コクトーやマルキ・ド・サドの作品を日本に紹介し、
『高岳親王航海記』などの小説も執筆した。

百科事典的な博学の持ち主として知られ、
その著作は思想から美術、ヨーロッパ文化まで
幅広い範囲に渡った。

彼はまた美食家でもあった。

朝起きると「今日何を食おうか」というのが常で、
その日に捕れる相模湾の魚を心待ちにしていたという。

食に関して澁澤龍彦はこんな文章を記している。

アストロノミーは天文学のことだが、
この言葉の前にGをつけると、
ガストロノミーすなわち美食学となる。
アストロは星の意であるが、ガストロは胃の意である。
私はガストロノミーという言葉を聞くと、
自分の胃のなかで、無数の星が
軌道を描いて回転しているような気がしてくる。


まことに澁澤龍彦らしい表現である。


向田邦子の食卓

向田邦子の少女時代、向田家ではふたつの鍋で
カレーをつくっていた。

大きい鍋は家族用。小さい鍋は父親用。
父親のカレーは辛口で、肉も多かった。
早く大人になって、そのカレーが食べたい。
彼女はいつもそう思っていた。

カレーといえばもうひとつ、
向田邦子にはこんなエピソードがある。

人気ドラマ「寺内貫太郎」の脚本を執筆していた時、
彼女は寺内家の朝食として台本にこう書き加えた。

「ゆうべの残りのカレー」。

下町の家族の暮らしをわずか一行で表現した邦子の感性に
出演者もスタッフも感心したという。


井上ひさしの食卓

井上ひさしは歯医者が大の苦手だった。
虫歯ができても放置し続けたため、
やがて前歯を除くほとんどの歯が虫歯になった。

その痛みに耐えきれず、ある時彼は入院し、
重症の虫歯を一気に13本抜いた。

それ以来、井上ひさしは
やわらかいものしか食べられなくなった。

そんな彼のために、妻は歯に負担の少ない料理をつくった。

ハンバーグと揚げたチーズと
ニンジンを絞ったジュースを井上ひさしは特に好んだ。

彼は妻のつくる料理にこんな感想を述べている。

ただひとつのしあわせは、
家人が世にもまれな料理下手だったということだ。
彼女がもし料理上手だったら、
心をこめて作った料理に渋面を作る夫を、
やがて憎むようになっただろうから。

井上ひさしらしい感謝の仕方である。


遠藤周作の食卓

遠藤周作の家では
夕飯は漬物とあと一品と決まっていた。

毎日の献立を決めるのは妻の仕事で、
彼女には食事は質素をもって旨とすべし
という考えがあった。

周作はたまには贅沢をしたいと思うが仕方ない。
自分の仕事に口を出させないかわりに、
妻の仕事にも口を出さないというのが、
遠藤家のルールだったから。

そう思いながら、遠藤周作は明るく言う。

何はなくても家族みんなでたべる食卓はたのしい。
それはどこの家庭でも同じでしょう。
時々、夢で血のしたたるビフテキを食べている
自分の姿を見ますがね。



齋藤茂吉の食卓

歌人、齋藤茂吉は鰻に目がなかった。
その生涯で1000匹以上の鰻を食べたともいわれる。

太平洋戦争の最中、疎開先の山形で友人から鰻を送られた。

久しぶりに食べる極上の鰻に、茂吉はこんな句を詠んだ。

肉厚き
鰻もて来し
友の顔
しげしげと見む
いとまもあらず



田村隆一の食卓

詩人、田村隆一の晩年、朝食は決まって
妻のつくる弁当だった。

幼い頃から病弱で心臓の手術もした妻は朝が弱かった。

そのため、前の晩に弁当をつくり、
隆一の朝食として用意した。

目ざめると、隆一は弁当を持って2階に上がり、
窓の外を眺めながらそれを食べた。

朝早く、妻のつくった弁当をひとりで食べる。
その時間が隆一は好きだった。
窓の外には美しい鎌倉の海が見えた。

彼は妻の料理の味付けを気に入っていた。

家内の味つけは、
今風の料理屋より数段上です。


田村隆一はことあるごとに友人にそう吹聴していたという。

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小野麻利江 11年5月14日放送



希望のことば 「ショーシャンクの空に」のアンディ

希望とは、素晴らしいものだ。
たぶん、なによりも素晴らしい。
そして、それは決して、失われることがない・・・


アンディはそう言って、
決して希望を捨てようとしなかった。
冤罪をかけられ、
「終身刑2回」を言い渡されたにもかかわらず。

1994年に公開された映画、
「ショーシャンクの空に」の話である。

劇場公開時の興行収支は
赤字だったにもかかわらず、
この映画が、年を経るごとに
多くのファンを魅了しているのは、

希望を持ち続けたい。
私たちが無意識のうちに抱いているそんな願いを、
圧倒的なカタルシスとともに、
肯定してくれるから、かもしれない。




希望のことば アラン・ケイ

計算機科学者、アラン・ケイ。
コンピュータがまだ巨大かつ高価なマシンで、
そのため、複数の人間のあいだで「共有」するのが
当たり前だった時代に、
それを「個人ごとに利用する」という環境を構想した
通称「パソコンの父」。

「私たちはこれから、どうなるんだろう?」
そういった、将来に対する
不安や恐れに対しても、
天才的アイデアパーソンである彼が、
ありきたりな回答を、するはずもなく。

未来を予測する最善の方法は、
自らそれを創り出すことである。


こんなあざやかな「解」を
はじき出してしまうのだった。








希望のことば 山本一力

作家・山本一力の小説には、
一生懸命やっている人は、報われなくちゃね。
そんな、あたたかい眼差しがある。

バブル時代に億単位の借金を抱え、
その返済のために、小説を書いた。
しかし、新人賞を獲ってからも、
編集者にペケを出され続ける日々が続く。

そんな「しんどい」の連続の中で、
ずっと支えにしてきた言葉がある、と彼は言う。

『明日は味方』。
誰の言葉かは分かりませんが、
これは、一生の言葉です。
ひたむきにやっていれば、
必ず明日は、味方になる。

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石橋涼子 11年5月14日放送



希望のことば ケント・M・キース

逆説の十か条を、ご存じだろうか?

マザーテレサの「孤児の家」の
壁に書かれた言葉として有名になったのだが、
もとは、ケント・M・キースという
アメリカに住む若干19歳の大学生が
高校生向けの小冊子に書いたものだった。

その内容は、例えば、こう。

人は不合理でわからず屋でワガママな存在だ。
それでもなお、人を愛しなさい。

今日の良い行いは明日になれば忘れられるだろう。
それでもなお、良いことをしなさい。

何年もかけて築いたものが、一夜にして崩れ去るかもしれない。
それでもなお、築きあげなさい。


逆説の十カ条を通じて19歳の青年は、
この世界の理不尽を受け入れながらも、
それでもなお、希望を持とう、と唱えている。




希望のことば ルイーザ・メイ・オルコット

四姉妹の成長を描いた名作「若草物語」。
その作者であり、おてんばな次女のモデルでもあるのが
ルイーザ・メイ・オルコットだ。

ルイーザの父親は、理想主義的な教育家で
娘たちは自由にのびのびと育てられたのだが、
一家の暮らしは貧しいものだった。

彼女は生活のために教師や看護婦、ベビーシッターなど
さまざまな仕事をこなす一方で
作家になるという希望を持ち続け、
37歳のときに「若草物語」でようやく成功を収めた。

その後も奴隷制廃止や女性参政権の運動家として
自分にできることやりたいことを実践しつづけた
ルイーザは、こんな言葉を残している。

「希望を持って忙しく」というのが、
うちのモットーです。

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薄 景子 11年5月14日放送



希望のことば ルイ・アラゴン

フランスの詩人、ルイ・アラゴンは言った。

教えるとは希望を語ること
学ぶとは真実を胸に刻むこと

大人が希望を語りつづければ、
子どもたちの希望は育つ。
大人が真実にもとづいて行動すれば
子どもたちは真実を胸に刻める。


未来に希望を連鎖していく、
そんなひとりになりたいと思う。

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熊埜御堂由香 11年5月14日放送



希望のことば サトウハチロー

日本でいちばん多く母の詩を書いた詩人サトウハチロー。
3000に及ぶそのなかにこんな詩がある。

きょうも一日、いやなことがなかったと
日めくりのカレンダーに
おじぎをしてしずかにはぎとった母。

その姿とはぎとる音がいまでも目に見え
耳の奥に浮かぶのです。

わたしが日めくりカレンダーが好きなわけは これなのです。


仏教の考えかたに
あるがままの暮らしを静かに受入れる、
幸せを外の世界に求めず、みずからの内に求める、というのがあるが
サトウハチローの詩にうたわれた母は
意識もせずにそれを実践している。

おかあさんは、やっぱりすごい。
おかあさんは、やっぱりえらい。

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古居利康 11年5月8日放送



一番 セカンド ジャッキー・ロビンソン

1947年4月15日。
アメリカ・メジャーリーグ、
ブルックリン・ドジャースの開幕戦。
フィールドに飛び出した9人の中に、
1人だけ肌の色の違う男がいた。

男の名は、
ジャッキー・ロビンソン。
半世紀のあいだ閉め出されてきた
アフリカ系アメリカ人が、
初めてメジャーリーグの舞台に立った
瞬間だった。







二番 キャッチャー ブランチ・リッキー

ブルックリン・ドジャースの
ブランチ・リッキーは、
メジャーリーグきっての敏腕GMだった。

マイナーチームを
メジャー傘下に組み入れたのも、
開幕前のキャンプを
暖かいフロリダでおこなったのも、
リッキーが最初だった。

しかし、黒人をチームに加える、
という大胆な試みは、
全米の白人社会から猛反発を受けた

彼は、慈善運動家でも
黒人解放の活動家でもなかった。
ただ、ブルックリン・ドジャースを
強くしたい一心で、
ジャッキー・ロビンソンという
有能な若者をチームに入れた。





三番 ファースト ジョージ・シスラー

シスラーは、現役引退ののち、
ドジャースでスカウトになった。

メジャーのシーズン最多安打記録を
もっていたことより、
それをイチローに破られたことで
有名になった、あの、ジョージ・シスラーだ。

メジャーで通用する能力をもち、
かつ、どんな差別に遭っても耐えられる
強い精神をもった黒人選手を探せ。

それが、
ブランチ・リッキーから与えられた
ミッションだった。

ジャッキー・ロビンソンは、
ニグロリーグの名門、
カンザスシティ・モナクスというチームにいた。

知性。情熱。身体能力。
この青年は、すべてをもっている。
彼に出会ったシスラーは、そう確信した。





四番 サード レオ・ドローチャー

ドジャースの選手の中には、
ロビンソンと同じグラウンドに立つことを
嫌う者もいた。

バラバラになりかけたチームに、
監督レオ・ドローチャーは、
こう宣言する。

「私は、
 選手の肌が黄色であろうと黒であろうと
 構わない。優秀な選手であれば使う。
 もし反対する者がいたら、
 チームを出ていってほしい」





五番 ショート ピー・ウィー・リース

当時、ドジャースのキャプテンだった
遊撃手ピー・ウィー・リースは、
人種差別の激しいケンタッキー州ルイビルで生まれた。
彼自身、差別意識と無縁ではなかった。

あるとき、敵地で激しい野次が飛んだ。
ロビンソンにではなく、リースに、だ。
「南部出身の白人のくせに、
 なぜ黒人なんかと野球をやっている!」

リースは黙ってロビンソンのところに
歩いていって、彼の肩を抱いた。

静かな、しかし強い意志表示に、
観客席はシーンとなった。

その後も、ロビンソンに対する嫌がらせは、
あとを絶たない。
球場に来たら射殺してやる、という、
物騒な脅迫さえ何度もあった。

そんなとき、リースが冗談めかして言った。
「ジャッキー、俺から離れてよ!
 撃つやつが下手だったら俺に当たるだろう」

チームの誰かがそれに答える。
「だったら、チーム全員で背番号42を着ればいい!
 そうすれば誰がロビンソンかわからなくなる」

差別や迫害は、かえって
チームの結束を強くしていった。





六番 レフト ロバート・B・パーカー

15歳の少年が、
ブルックリン行きのバスに乗る。
乗客は、少年以外、すべて黒人だ。

ひとりの女性が話しかける。
「何をしに来たの?」
「ぼくはドジャースファンだ。
 ボストンから、ジャッキーを見に来た」
女性が大声で仲間に言う。
「この子はね、われらがジャッキーを見に、
 はるばるやって来たんだよ!」

少年の名は、
ロバート・B・パーカー。
後年、ハードボイルドの作家になる。

この話は、
『ダブルプレー』という小説に登場する。
ロビンソンを命がけで守る
クールなボディガードの話だ。





七番 センター ウォルター・オマリー

1947年シーズン、
ドジャースはリーグ優勝。
ロビンソン在籍の10年で
優勝6度を数えた。

しかし、球団オーナー、
ウォルター・オマリーは、
観客動員数の飛躍を求めて、
1958年、球団をロサンジェルスに移転。

すべてのブルックリン市民が
悲嘆にくれた。





八番 ピッチャー 野茂英雄
九番 ライト レイチェル・ロビンソン


ロサンジェルス移転から37年後。
1995年、ドジャースに野茂英雄がやってくる。
球団オーナーは、ウォルターの跡を継いだ
息子、ピーター・オマリーだった。

野茂は、この年、
全米に旋風を巻き起こし、新人王に選ばれる。

ジャッキー・ロビンソンがデビューした
1947年に、初めて制定された新人王。
その第一回受賞者がロビンソンだった。
それを記念して、1987年からは、
新人王の別名がジャッキー・ロビンソン賞になる。

野茂英雄にトロフィーを手渡したのは、
亡きジャッキー・ロビンソンの妻、
レイチェル・ロビンソンだった。

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坂本和加 11年5月7日放送



野尻抱影

ひとには、誰にでも、
「忘れられない星空」が
あるのだと思います。

野尻抱影にとって、
それは24才で観た、ハレー彗星。
それから、南アルプスの、
手に取どきそうな星空。

輝く星に傾倒し生涯を捧げた
天文民俗学者、野尻抱影は、
星の和名の収集家としても知られた。

けれどなんといっても、
彼の業績は「プルート」の
和名を名付けたことだろう。

プルート、冥王星は、
現在、アジア諸国でも、
その名で呼ばれている。







後白河上皇

教科書に載っているような
童謡も、流行歌も、
「七五調」がしっくり来るのは、
やはり日本人だからであろう。

平安時代に生まれた
七五調のリズムは、
「今様(いまよう)」と呼ばれる歌曲だった。
この平安時代のJ-POPを、
ときに喉を痛めるほど
愛したのが後白河上皇。

遊びをせんとや生まれけむ

後白河上皇が編纂した
「梁塵秘抄」の有名な一節。

この「梁塵秘抄」もまた、
遊びから生まれたものであることは
言うまでもありません。




萩本欽一

どんなにつらいことがあっても、
ひとは笑うことができる。

けれど、笑わせることを
日夜考えている人にとっては、
実に大変なこと。

それは、ふつうじゃないことを
考えること。でもウソじゃないこと。

「欽ちゃん」の愛称で
日本中で慕われる萩本欽一さんは、
お客さんの中に
ふつうに入っていって、
知らない間に虚構の世界に
連れていく。それがプロだと言う。

笑っていると元気が出ます。

どんなときも、
笑うことを忘れずに。




ジャーナリスト 武田徹

わたしたちは、知りたがる。
今、ここではないどこかで
起きていることを。

ジャーナリストの
武田徹さんは、
ナマであることは
必ずしも「現場に近い」
ことではないと言う。

もしかしたら
ナマの情報のように見えている
だけなのかもしれないと、
付けくわえる。

たいせつなのは、
核心から、離れないこと。

ときにインターネットは
たくさんの情報を連れてきすぎるから。
私たちは、情報を発信することも
できるのだから。





糸井重里

あなたがまだ若くて、
個性のあるひとに
なりたいのなら。

ほぼ日の主宰、
コピーライターとしても知られる
糸井重里さんは
こんなふうに言っている。

個性は、つまりは、悲しみの傷跡。

すごくつらいことが
そのひとの「譲れない個性」になっていく。

たとえば、
天然の餌を追いかけている
魚や動物たちがおいしいのは、
命をつなぐために必死で餌をさがすから。

人間もまたしかり、なのだそうです。




寺田寅彦

大きな震災が起こると、
昔の日本人は
「世直し」と互いに言い合い
立ち直ってきたのだそうだ。

物理学者でもあり、
地震研究でも知られる
寺田寅彦は、
予測できない震災の危うさを
我々は炬燵を抱いて、氷の上に
座っているようなものだ、と例えた。

そして、寺田寅彦自身も
関東大震災を経験し、その甚大な被害を
自分の責任であるかのように言ったそうだ。

「天災は忘れた頃にやってくる」という警句は、
寺田の言葉だといわれているが
「防災」という言葉もまた彼の命名であるらしい。

彼はこのような言葉とともに優れた弟子も残した。
昭和10年に刊行された「防災科学」は
風、水、雪による災害から地震や凶作までを網羅するが、
その執筆者の多くは寺田寅彦の愛弟子であり
それぞれの分野の第一人者だった。




石黒由美子

叶えたい現実があるのなら、
それを夢に終わらせない方法がある。
それが、夢ノート。

考案者は石黒由美子さん。
北京五輪ではシンクロの選手だった。

石黒さんは、
幼少のときの大事故で
たくさんの後遺症を遺しながらも
小学生でシンクロをはじめた。
夢ノートは、そのときはじめた。

付け方は簡単。
まず、できるだけ具体的で
すこしがんばれば叶う目標を書くこと。
叶ったら「ありがとうございました」と
感謝を書き添えて消す。

そのくり返しで、
たくさんの夢を叶えてきた
彼女のノートには、いま、
「夢は叶えるためにある」と綴られている。

あなたの叶えたい夢はなんですか?

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名雪祐平 11年5月1日放送



シャガール 1

ピカソは、こう言った。

 私は探すのではない。
 見つけるのだ。

それに対して、シャガールは言った。

 この私、私は待つのだ。

いったい、何を。
それは愛の表現だったのかもしれない。

ロシア革命に失望し、
移住したパリではナチス侵攻があり、
亡命したアメリカで最愛の妻を
亡くした、シャガール。

画家は歴史の中を生き、
その時代に描いた愛を
いま私たちは
受け取っているのかもしれない。





シャガール 2

ロシア生まれの画家、
シャガールは22歳の時、
14歳のベラに出会い、恋に堕ちる。

労働者階級出身のシャガール。
一方、裕福な宝石商の娘で、
才色兼備のベラ。

家柄の差もあり、ベラの両親をはじめ、
結婚には猛烈な反対をされてしまう。

けっきょく、出会いから6年の歳月がかかり、
二人は結ばれた。

シャガールは、二人をモデルに
いくつもの絵を描いた。

空を飛ぶ花婿花嫁。

舞い上がる絶頂の気持ちが
キャンバスからあふれそう。







シャガール 3

ロシアの貧しい事務員の息子として
生まれた、マルク・シャガール。

父と同じような職業につくこと。
それが当時の階級社会の
習わしだった。

 ママ、ぼく、画家になりたいんだ。

息子の希望に、母はこう言った。

 ママはあなたに才能があると
 信じているわ。
 でも、もしかすると、
 事務員という職業があなたには
 合っているかもしれないと
 思うのよ。

才能を認めてもなお、
母親は、平凡で幸せな人生を望んでしまう。

それでも息子はあきらめず、
母親を説得し、絵の塾に通わせてもらうことで、
事務員への運命を避けることが
できたのだった。





シャガール 4


シャガールは、
76歳の時にパリ・オペラ座の
天井絵の依頼を受けた。

納得いくまで何度もやり直したという。
うまく描けないといって、
声をあげて泣くほど鬼気せまる姿があった。

何歳になっても、大御所になっても、
既存の方法への敵意を常に持ち続けた。

“敵意”というほどの強烈なエネルギー。
だからこそ生まれた傑作の数々。

 まず感動することだ。
 感動がないなら、やめたほうがよい。

97歳で亡くなるまで、
その姿勢を貫いた天才だった。





サガン 1

その小説は、
こんな書き出しではじまる。

 ものうさと甘さがつきまとって
 離れないこの見知らぬ感情に、
 悲しみという重々しい、
 りっぱな名をつけようか、私は迷う。

作者はパリの18歳の女子大生、
フランソワーズ・サガン。
処女作『悲しみよ こんにちは』である。

1952年の初版は、わずか三千部。
それから部数を伸ばしたのは、
皮肉にも、その新しい文体に猛反対した
批評家たちのせいだった。

批評が、分別くさい大人の意見であればあるほど、
「小娘の小説」と反対すればするほど、
逆にサガンの新しさ、瑞々しさを証明することになり、
人々は興味津々になった。

それは、サガン自身が
時代の主人公になっていくという、
ストーリーの書き出しでもあった。





サガン 2

フランソワーズ・サガンの
『悲しみよ こんにちは』は、
フランスで100万部、
それから25カ国以上に翻訳され、
500万部の大ベストセラーになった。

時代の寵児となった18歳に、
大人の質問は退屈だった。
大金持ちになった感想とか、
ワンパターンにおちいった質問ばかり。

サガンはこんな言葉を返した。

 お金は持っている側だけでなく、
 持っていない人をも支配してしまいます。

お見事。





サガン 3

フランソワーズ・サガンは、
まるで自分の小説の登場人物のようだった。

22歳の時、
愛車アストン・マーチンで転落事故。
「サガン即死」というニュースが
流れるほどの瀕死の重傷を負う。

23歳の時、20歳年上の男と結婚。
ルーレットで8に賭けて
800万フランを当て、別荘を購入。

酒、麻薬、ギャンブル、クルマ、
そして男にのめり込んだ。

肉体的にも精神的にも、
過剰なものがあると休まる。

と語ったサガン。

それは深い孤独を埋めるための
過剰だったのだろうか。





サガン 4

科学的に、考えよう。
合理的に、考えよう。

でも、いつのまにか
人の心がないがしろになっていないだろうか。

フランソワーズ・サガンは警告する。

 思いやりのない頭の良さというのは
 なんとも危険な兵器よ。

合理的に考えた時の、
選ばれる何かと、
切り捨てられる何か。

その両者の間を
私たちはどれだけ思いやり、
埋めることができるだろうか。

この、不安定な時代にこそ。

文学的に、考えよう。

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八木田杏子 11年4月30日放送



スティーブ・ジョブズのフォント

人生の役に立たなそうなもの。
それでも、強く興味を惹かれるもの。

それが、未来をつくる
きっかけになることがある。

スティーブ・ジョブズが
ふと興味を惹かれた大学の授業は、
カリグラフィーだった。

そこで彼はフォントのつくり方を、学問として学んだ。

言葉を美しく見せるための書体について習い、
文字と文字のスペースを整えることを覚えた。

スティーブ・ジョブズは、その緻密さに魅せられた。

それから10年経って、
マッキントッシュ・コンピューターをつくるときまで、
フォントの知識が役立つときがくるとは思っていなかった。

Macのフォントは美しい。
それは緻密な計算から生まれている。





自閉症の作家 東田直樹

自分はどうして、人と違うのだろう。
どうしたら、分かってもらえるのだろう。

そう思うところから、
文学は生まれるのかもしれない。

自閉症の高校生、
東田直樹は作家でもある。

自閉症の人はカレンダーが好きな人が多いと
語るときに彼は、こんな言い方をする。

数字はそれ自体が、一つのことしか表しません。
見ていて安心します。

なぜ、そんなにうれしいのかが、
普通の人から見ると、
とても奇妙に思えるかもしれません。

東田直樹は、
人と違う自分を押し殺すことも、
押しつけることもせず
そっと生きている。





田坂広志

おなじ仕事をしているのに、
辛そうな人と、幸せそうな人がいる。

その違いを田坂広志は、寓話で語る。

ある町の建設現場で働く、二人の石切り職人に、
旅人が聞きました。

あなたは、何をしているのですか。

ひとりは、
石を切るために悪戦苦闘していると答えた。
もうひとりは、
素晴らしい教会を造っていると答えた。

目の前の作業を見ているか、
その先の未来を見ているか。

目線がすこし上がると、
仕事の充実感が変わると田坂は語る。

あなたは、何をしているのですか。

一週間たっぷり休んだ後に
そう聞かれたら、
いつもと違う答えが浮かぶかもしれません。







遠山正道 「Soup Stock Tokyo」

新しいアイデアは、なかなか理解されない。

きょとんとする人たちを、味方にするために。

スープ専門店「Soup Stock Tokyo」を
世に送りだした遠山正道は、緻密な企画書を書いた。

戦略や数字ではなく、
頭のなかにあるイメージをふくらませて
ショートストーリーのように綴ったのだ。

秘書室に勤める田中は、
最近駒沢通りに出来たSoup Stockの
具だくさんスープと焼き立てパンが大のお気に入りで、
午前中はどのメニューにしようかと気もそぞろだ。

誰が、どんな顔をして、どう行動が変わるのか。
遠山のイメージを細部まで丁寧に描いた
22ページの企画書には、リアリティがあった。

めざす未来がくっきりすると、
きょとんとする人にもわかりやすくなる。

1997年に遠山が綴った企画書どおりに
Soup Stock Tokyoは誕生し、
今では都内のあらゆる場所で
お店を見かけるようになった。

子どものように夢を思いつき、
大人としてイメージを緻密に描く。

楽しい妄想を膨らませると、
夢を叶える味方がふえてゆく。





山本周五郎

あの人はどうしようもないと、皆が口をそろえて言う。

そんな人間が変わるために、
必要なものはひとつだけだと、
山本周五郎は考えていた。

それを、小説「山椿」で
堕落した男を立ち直らせた主人公に、
語らせている。

信じただけだよ。

信じられるくらい
人間を力づけるものはないからね、
彼は自分で立ち直ったんだよ。

信じてくれる人がいるだけで、
人は変わることができる。

少なくとも山本周五郎は、そう信じている。





谷川俊太郎のグルメ

大人になると苦みや渋みが、美味しく感じる。

舌で感じる味覚だけでなく、
心の感覚もそんな風に変わっていくのかもしれない。

詩人の谷川俊太郎は、
「苦しみのグルメ」になることを勧めている。

苦みや渋みや刺すような辛さに
かすかな甘みがまじっている
その複雑な味を知ると、
喜びの味も深まるからね。

人生の苦みや渋みも
美味しく味わえる大人になりたい。





小川糸 「食堂かたつむり」


好きな仕事をする人は、強くなる。

小川糸の小説、
「食堂かたつむり」の主人公は、
料理をつくることで人生を変えてゆく。

恋人に裏切られたショックで、
言語障害になった彼女は、
田舎町にもどって小さな食堂をひらいた。

言葉を話せなくなった彼女にできる、唯一のこと。
生きることにうんざりしながらも、諦められないこと。

それは、自分の店を持って、料理をつくること。

お客様は、一日ひと組だけ。
その人の身体と心にしみる料理を考えて、
お皿にもりつけていく。

そして、前菜を口にするお客さまを、
おそるおそるカーテンの隙間から覗き見る。

メインディッシュを残さず食べてもらえると、
こみあげてくる幸せが涙になってこぼれないように、
こらえながらアイスクリームをつくる。

やがて彼女は、
苦手だった母親のためにも、腕をふるうようになる。

言葉にできない想いを料理にこめて、
人とつながりなおしていく。

好きなことを突きつめて、人に喜んでもらえる幸せ。
その味わいが、人を強くする。

それは、言葉を書く仕事をすることで、
小川糸が感じていることかもしれない。

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小山佳奈 11年4月24日放送



西岡常一 法隆寺

昭和9年。
老朽化が進む法隆寺の修繕が、
国家プロジェクトとして決まった。
失敗したら1300年の歴史が失われる。
その棟梁に選ばれたのは
27才の宮大工、
西岡常一であった。

常一はこの抜擢に緊張するどころか
心を踊らせる。

「飛鳥から今までの建築様式をすべて
 見られるチャンスだ」

法隆寺には
その時代ごとに修理を担当した
途方もない数の宮大工たちの魂が
込められている。

この大仕事を軽やかにやってのけた常一は、
その後、困難な寺院の修繕を数々成功させ
「最後の宮大工」と言われるようになる。





西岡常一 道具

昭和の日本の寺院建築を支えた
宮大工、西岡常一。

法隆寺には鬼がいる、と恐れられた彼は
道具に関しても徹底したこだわりを持っていた。

彼はノコギリを使わない。
やりがんなやちょうなといった、
そのお寺が建てられた当時と同じ
道具を使う。

「飛鳥の人たちはよく木を知っている。
 1300年前の飛鳥の大工の技術に
 私らは追いつけてないんです。」

鬼というあだ名に反して
微笑みはやさしい。

「みんな新しいことが
 正しいことだと信じていますが、
 古いことでもいいものはいいんです。」





西岡常一 木

昭和の日本の寺院建築を支え
最後の宮大工とよばれた、
西岡常一。

彼はつねに木と向かい合う。

くせのある木を進んで使う。
むやみに穴を開けない。
鉄の鉄を打ち込むなんて
もってのほか。

1300年前に建てられた
法隆寺に使われている木は
瓦を取ると何日かかけて
元の長さに戻っていくという。
それは木が、まだ生きているという、証拠。

「木を生かすには
 自然を生かさねばならず
 自然を生かすには
 自然の中で生きようとする人間の心が
 なくてはならない。」

彼が見ていたのはいつも
1300年先。





西岡常一 土

法隆寺をはじめ数々の寺院を修繕し、
最後の宮大工といわれた、
西岡常一。

宮大工の家系に生まれた彼は
小さな頃から英才教育を受けて育つ。

特に祖父は熱心で
小学校に上がる前から
常一に仕事を教え込み
宿題などするな、その時間があれば
鉋をかけろと教え込んだ。

そんな常一が高校に上がる際のこと。
彼は何の迷いもなく工業高校を選んだ。
それに対して、祖父の常吉は
なぜか大工仕事とは関係のない
農業高校をすすめる。

土などいじくっている暇はないという常一に
祖父は烈火のごとく、怒る。

「宮大工とは木だ。
 木を育てるのは土だ。
 土の気持ちがわからなくてどうする。」

そして彼は農業高校に進み
一から土と向かい合う。

よく言われることではあるけれど、
まわり道はまわり道ではない。







西岡常一

法隆寺の修繕を一手に引き受け
昭和最高の宮大工といわれた、
西岡常一。

彼はつねに困窮していた。

法隆寺の棟梁といっても
頻繁に仕事があるわけではない。
わずかばかりの田畑を耕し
それでも足りないときは
その田畑を売って家族を養った。

しかし彼はどんなに貧しくても
ふつうの住居の建築には手を出さなかった。

「宮大工は仏さんに入ってもらうから、 
 造ってなんぼというわけには
 いきませんのや。
 心に欲があってはならんのです。」

頑固すぎるほど頑固な姿勢が
西岡常一という男だ。





西岡常一

数々の寺院をよみがえらせ
日本最後の宮大工とよばれた西岡常一には
一人だけ弟子がいた。

師匠はとにかく何も教えてくれない。
鉋のかけ方も鉋くずを渡すだけ、
道具の手入れも毎日磨く背中を見せるだけ。

そうして育ったたった一人の弟子、
小川三夫さんはいま
斑鳩に宮大工の養成所をつくり
後継者を育てている。
そのやり方は師匠と同じ。
ただひたすら背中を見せ続ける。

「教えないから
 育つんですよ。」

斑鳩工舎とよばれるその学校から
巣立った若者たちは宮大工として
全国でその腕をふるっている。

常一のこころはいまも
生きている。





甲本ヒロト

「まあるい地球は誰のもの?
砕け散る波は誰のもの?
吹きつける風は誰のもの?
美しい朝は誰のもの?
 
チェルノブイリには Ah
チェルノブイリには Ah
チェルノブイリには行きたくねぇ」

1988年に発売された
ブルーハーツの「チェルノブイリ」。
所属していたレコード会社が許可せず
自主制作となったこの歌。

甲本ヒロトは
武道館の1万人の熱狂の前で
静かにこう言った。

「この意味をわからないひとは、
 自分で調べてほしい。
 そして、
 自分の意見を
持ってほしい。」

23年前のある夏の話。





とある科学者たちの話


アメリカとソ連が
宇宙ロケット開発に
しのぎを削っていた頃。

宇宙飛行士にかかる加速重力を
少しでも緩和するために
NASAがあるシートを開発した。

このシートの評判は上々。
何かほかの物に応用できないかと考えた
スウェーデンの科学者たちがいた。
しかしコストと複雑な工程が
容易にそれを許さない。

科学者たちは
それでもあきらめきれなかった。
試行錯誤を繰り返し、
20年以上の歳月をかけて
ようやく商品は完成した。

それが、
テンピュールという枕。

人がよく眠るために
自分の睡眠時間を削らなければならなかった

科学者たちに敬意をこめて。

おやすみなさい。
明日もいい日でありますように。

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