小宮由美子 12年12月22日放送


Kristina_Servant
クリスマス夜話 子どもたち

本来なら、プレゼントを期待するクリスマスに
「どんなプレゼントをあげようか」と考える子ども達がいる。

アメリカのとある教会では、子どもはサンタクロースから
プレゼントをもらうばかりでなく、
他の子どもに贈るプレゼントを、ひとりひとり
サンタクロースに託すのだという。
「これをあげたら、どんな顔をして喜ぶだろうか」
相手を思いながらプレゼントを選ぶよろこびを、
クリスマスを通して子ども達は知る。

 「受けるより、与えるほうが幸いである」

新約聖書の一節である。

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小宮由美子 12年12月22日放送


Kerem Tapani
クリスマス夜話 日本で初めてのクリスマスツリー

1860年。時は、江戸時代末期。
プロイセン王国から派遣されていた公使オイレンブルクは、
日本にいながらにしてクリスマスを祝う方法を考えていた。

日本では、木を一本切り倒すのも難しい。しかし
当時、すでにプロイセンの上流階級ではクリスマスを盛大に祝う
習慣があったため、オイレンブルクはあきらめきれない。
四方に馬を飛ばし、ありとあらゆる植木屋を探して、
やっとすばらしい一本を見つけだした。

天井まで届くほどの立派なもみの木に、
オレンジや梨をぶら下げ、華やかな紙を巻きつける。
付けられるだけ付けたという、砂糖菓子や蝋燭に混じって
飾られたのは、杉や竹や、椿の木。
オイレンブルクがこだわった末に出来上がった、和洋折衷のツリー。 
これが、日本で初めてのクリスマスツリー、と言われている。

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小宮由美子 12年12月22日放送



クリスマス夜話 テストにまつわる小咄

クリスマスを前にした試験で、
学生が答案用紙に、ひとことだけ書いた。

「この問題のすべての答えは、神だけがご存知です。
メリー・クリスマス」

答案用紙には、教師からの返事があった。
「神はアルファ。君はオメガ。新年おめでとう!」

アルファは「未知」を、オメガは「ビリ」を意味するらしい。

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小宮由美子 12年12月22日放送



クリスマス夜話 クリストキント

南ドイツ・ニュルンベルグで開かれるクリスマスマーケットは、
ドイツで最も有名といわれるにぎやかさ。
そして、マーケットを象徴する存在が、クリストキント。
「幼な子キリスト」に扮した金髪の巻き毛の女の子だ。

クリストキントは登場した1933年ごろは女優が演じていたが、
1970年以降、市民の中から選ばれるようになった。
応募資格は、ニュルンベルクに生まれたか、もしくは長く住んでいること。
16歳から19歳で、身長160cm以上。

様々な審査を経て、最終選考に残った6名ほどが地元の新聞に掲載され、
市民の投票によって、最終的に1名が選ばれる。
任期は2年。クリスマス時期以外にも、サイン会や写真会、
孤児院や病院、ホームレス施設を巡るなど大忙し。
学生であれば休学してこの任期をこなすことになる。
大変ですね、と声をかけられたクリストキントはこう答えたという。

 「私はクリストキントですから」

お金をもらって演じている、というのではなく、
「クリストキント」という存在になりきる。
すべての人を歓迎し、微笑みで心をうるおす。その姿が
ドイツ中の女の子たちの憧れとなり、また、
次のクリストキントを生み続けている。

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小宮由美子 12年12月22日放送


Eigenes Werk
クリスマス夜話 ケストナー

 「ドレスデンに生まれた幸運の賜物である。
 何が美しいかを、わたしは書物によって初めて学ぶにおよばなかった」

児童文学の作家、エーリッヒ・ケストナーは、
戦前のドイツ・ドレスデンの街がいかに美しかったかをこう回想している。

その後、ドレスデンは第2次大戦によって徹底的に破壊されたが、
人々は立ち上がり、街の歴史と伝統を復活させた。
そのひとつが、1434年から続いてきた
ドイツ最古といわれるクリスマスマーケット。
この冬も、ケストナーが讃えた街の輝きにひきつけられて、
世界中の人々がドレスデンを訪れている。

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古居利康 12年12月16日放送



尾崎行雄の95年 ①

1890年、明治23年、7月1日。
第一回衆議院選挙がおこなわれた。
投票できるのは、25歳以上の男子だけ。
それも15円以上の納税者に限られた。
有権者数約45万人。当時の日本の人口の
わずか1.1%にすぎなかった。

それがわが国初の選挙だった。

このとき当選した300人の議員の中に、
32歳の尾崎行雄がいた。
三重県第5区から立候補。
有効投票数1,919票のうち1,772票を
得てトップ当選を果たした。

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古居利康 12年12月16日放送



尾崎行雄の95年 ②

明治維新の10年前、
相模国津久井郡で生まれた尾崎行雄は、
討幕運動に奔走した父の薫陶を受け、
福沢諭吉の慶応義塾に学んだのち、
新聞記者を経て、明治政府の官僚となる。

早くから政治への志を抱いた尾崎は、
やがて自由民権運動に身を投じ、
大隈重信と共に立憲改進党をつくる。

薩摩と長州。
明治維新の原動力になった2つの藩出身の
人間だけが優遇される政府のあり方に
疑問をもった尾崎行雄は、
欧米をお手本とする国会の設立、
選挙制度の確立を実現し、
理想の政策を共にする者があつまってつくった
政党が政治を動かす議会政治をめざした。

1889年にようやく国会が開設され、
1890年におこなわれた第一回衆議院総選挙で
当選。尾崎行雄のほんとうの戦いは
ここから始まる。

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古居利康 12年12月16日放送



尾崎行雄の95年 ③

咢堂・尾崎行雄。別名、憲政の神様。
1890年、32歳で第一回衆議院総選挙で当選して以来、
1953年、95歳で落選するまで、25回連続当選。
63年の長きにわたって国会議員の職にあった。

尾崎行雄の生涯をたどることは、
議会政治の歴史を知ること。

1891年の第二回総選挙で、
政府の露骨な選挙干渉がおこなわれ、
票の売買がはびこったときも。

高額納税者だけに与えられていた選挙権の
制限を撤廃する普通選挙の運動が
燃えさかったときも。

日清・日露の両戦争で発言権を増した
陸海軍が国会に軍備増強を突きつけたときも。

国会にはいつも尾崎行雄がいて、
つねに正論を唱え、政府の方針を糾していた。

やがて泥沼の戦争に向かう1940年代、
自らの基盤としていた政党が、こぞって
大政翼賛会に合流し戦争遂行に走った時代にあっても、
尾崎行雄だけは政府非推薦をつらぬいて当選し、
国会議員でありつづけた。

太平洋戦争が終わった翌年、
女性が初めて選挙権を手に入れた。
1890年の第一回総選挙から数えて22回目。
この国が初めて経験する完全普通選挙だった。
この年。尾崎行雄、88歳。政界引退を決めていたが、
支持者が許さず、またもや当選。
連合国による占領下の日本は、まだ尾崎を必要とした。

そして、今日、2012年12月16日。
第46回衆議院総選挙。地下に眠る憲政の神様は、
いまの政治家に何を思うだろう。

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佐藤理人 12年12月15日放送



力道山①「相撲引退」

少年は力士になるため、
大陸から単身日本にやってきた。

アゴをめがけた強烈な張り手からの、
怪力を生かした強引な上手投げ。
荒削りながら闘志溢れる取り組みで、
入幕後わずか4年で関脇に昇進。

しかし大関がかかる番付発表日。
突然自ら髷を切り落とし、
25歳の若さで引退を発表する。

部屋の経営について親方と意見が衝突した。
日本人でなければ横綱になれないと言われた。
真相については諸説あるが、
本人は決して語ろうとしなかった。

彼の名は百田光浩。
またの名を、力道山という。

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佐藤理人 12年12月15日放送



力道山②「ハロルド坂田」

ケンカを売った相手が、
もしもプロレスラーだったら。

力士を廃業した力道山は荒れた。
酒に溺れ、毎晩殴り合いのケンカを繰り返した。

ある日力道山は
GHQが招いた日系人プロレスラー、
ハロルド坂田に返り討ちにあう。

しかし力道山の素質を見抜いた坂田は、
彼をプロレスに誘った。

力道山の心の中は負けた屈辱感よりも、
生きる道を見つけた喜びでいっぱいだったと言う。

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