古居利康 11年7月3日放送


高峰秀子が乱れるとき その1

映画『乱れる』は、1964年1月15日、
東宝の正月番組として封切られた。
監督、成瀬巳喜男。
主演、高峰秀子、加山雄三。

昭和39年。
秋に東京オリンピックの開催を控えたこの国の、
町のかたちや家族のありようが
大きく変わろうとしている頃。

11歳年の離れた兄嫁と弟が交わす、
ゆるされない愛を描いた映画だ。




高峰秀子が乱れるとき その2

『秀子の車掌さん』
『稲妻』
『浮雲』
『口づけ』
『妻の心』
『流れる』
『あらくれ』
『女が階段を上る時』
『娘・妻・母』
『妻として女として』
『放浪記』

そして、『乱れる』

監督・成瀬巳喜男は、その生涯に、
高峰秀子を主演に17本の映画をつくる。
とりわけ1950年代半ばから、
その主要な作品のことごとくに
高峰を起用するさまに、
ひとりの女優に取り憑かれた、
ひとりの映画監督の、
執念にも近い惑溺が見てとれる。




高峰秀子が乱れるとき その3

女優・高峰秀子は、5歳のとき、
子役でデビュー。
10歳までに30本以上の作品に出て、
『デコちゃん』の愛称で
戦前の日本に愛された。

一種のアイドル映画として企画された
『秀子の車掌さん』で成瀬巳喜男と出会った
17歳の年は、山本嘉次郎監督の『馬』に出演して、
演技に目覚めた年でもあった。

成瀬は、高峰秀子が大人になるのを
待っていたのか。
戦後7年を経て、『稲妻』という作品で
28歳になった彼女と出会い直す。

その3年後、成瀬にとっても、高峰にとっても
それぞれのキャリアのピークとも言える
『浮雲』が完成する。相手は、森雅之。
高峰秀子が演じたのは、年上の妻子持ちとの
破滅的な愛に身を焦がし、愛に果てる女性。

このモノクロフイルムに漂う
生々しい息づかいと肌ざわり。ただごとではない。

このとき、高峰秀子、31歳。




高峰秀子が乱れるとき その4

そして、1964年、成瀬巳喜男監督の『乱れる』。

高峰秀子演じる兄嫁、森田礼子は37歳。
19の年に嫁に来たが、半年後、夫は戦争にとられ、
帰らぬひととなる。独身のまま酒屋を切り盛りし、
18年の歳月が過ぎた。

加山勇三演じる弟、森田幸司は25歳。
高峰が嫁に来たとき、まだ7つのこどもだった。
大学を出て就職するが、転勤を拒んであっさり退職。
自堕落な毎日を送っている。

義理の姉と弟…
そのままの関係がつづけばホームドラマ  
しかしそうではないことを
「乱れる」という映画のタイトルが告げている。





高峰秀子が乱れるとき その5

映画『乱れる』の舞台は、
静岡県の清水という地方都市。
駅前に店を構える森田酒店が、
新たに進出してきたスーパーマーケットに
圧迫され、時代の変化に巻き込まれていく。

結婚して家を出た2人の妹たちは
店をスーパーマーケットにする計画を立てるが、
兄嫁・高峰秀子の存在が邪魔になり、
再婚話をもちかける。

体のいい追い出し工作とも思える
家族の企みに、ひとり猛反対する弟・加山雄三。
事情をぜんぶ飲み込み、
みずから身を引こうとする兄嫁。

思いあまった弟が告白する。
ねえさんのことがずっと好きだった、と。
義理の弟のあまりにまっすぐな思慕に、
義姉はうろたえ、取り乱す。

映画の空気は、ここで一変する。

ほかの登場人物は、もう、ほとんど出てこない。
義姉と弟、ふたりだけを追いかけ、追いつめる。




高峰秀子が乱れるとき その6

夕食のとき、
じぶんの食べかけのおかずに
箸を伸ばす弟をたしなめる。

大雨の日、
配達からずぶ濡れで帰ってきた弟の
雨合羽を脱がせようとして、
気がつけば抱擁のようなかたちになって、
思わず後ずさりする。

じぶんのサンダルを平気で履く弟に、
壊れちゃうからやめて、と抗議する。

成瀬巳喜男監督の映画「乱れる」

義理の弟とはいえ
家族と思っていたときはなんでもなかった
さりげない身体の触れあいが
愛の畏れを喚び覚ます。

義姉・高峰秀子の、
弟・加山雄三への過剰な意識が、
映画『乱れる』を
思いもよらない方向へ導いていく。




高峰秀子が乱れるとき その7

これ以上、
ひとつ屋根の下に暮らしていると、
きっとまちがいが起きる。
そんな予感に苦しみ、
じぶんの気持ちの乱れを畏れる
義姉・高峰秀子は、とうとう家を出る。

清水の駅から準急に乗って、
故郷・山形県新庄に向かう列車のなかで。

ふと見ると、弟・加山雄三が乗っている。

成瀬巳喜男監督の映画「乱れる」
物語は、姉と弟という安定した関係をつづけようとする女と
それを拒否する男の結末に向かって進む。






高峰秀子が乱れるとき その8

映画『乱れる』、最後の21分間。

清水発14時35分。
弟・加山雄三の姿におどろき、とまどう
義姉・高峰秀子。空席はない。通路に立つ弟。

小さな川を渡る列車。3つ前の席に坐っている弟。
目が合って、かすかに微笑む義姉。

大きな川に架かった鉄橋を渡る列車。
斜め後ろの席にいる弟。

列車の疾走をカットバックし、
車内の映像に戻るたびに、 義姉の席に近づいていく弟。

上野着23時50分。

東北本線に乗り換えたふたりは、
もう、向かい合わせの席に坐っている。

やがて夜が明けて、目の前で眠る弟の寝顔に、
義姉は静かに涙を流す。そして言う。
「幸司さん、次の駅で降りましょう。」

義姉と弟が二日目の夜を過ごす場所は、
列車の中ではなかった。

残酷な結末に向かって、
映画は北へ北へと疾走しつづけて、
ついにその動きを止めない。

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佐藤延夫 11年7月2日放送


忍びの者/出浦対馬守盛清(いでうらつしまのかみもりきよ)

戦国時代、多くの忍者を召し抱えた武将といえば
武田信玄と毛利元就が双璧をなす。
甲斐の忍び集団は「三ツ者」と呼ばれ、
出浦対馬守盛清という男が頭領を務めた。

盛清の場合、怪しげな妖術を使うわけではない。
敵の動静を窺う斥候を得意とし、
軍勢や将兵の配置、城の弱点などを調べ上げた。
そのおかげで武田軍は、勝ち戦を重ねていく。

戦国時代も、マーケティングが重要だったのである。




忍びの者/中西某(なかにしなにがし)

戦国時代、上杉謙信は
優れた忍者部隊を擁していた。
甲斐の忍び集団「三ツ者」に対し、
こちらは「軒猿(のきざる)」と呼ばれた。

その忍者の一人が、中西某。
名前こそわかっていないが
変装術の名人だったという。

とある豪族が寝返ったという嘘の書状を携え、
百姓に化け、武田方の陣屋に届けた。
その身なりや話しぶりに、誰も疑うものはいなかったそうだ。

役者になるのも、忍者の仕事。




忍びの者/加藤段蔵(かとうだんぞう)

「飛び加藤」の異名を持つ
戦国時代の忍者、加藤段蔵。
塀や堀を軽々と飛び越える飛翔術のほかに、
幻で牛を呑み込んでみせるという呑牛(どんぎゅう)の術を得意とした。

最初は上杉謙信に重用されようと試みたが、
あまりにも腕がたちすぎると恐れられた。
今度は武田側に接近したが、
その魂胆を怪しまれ殺されてしまう。

実力がありすぎると干されるのではなく、
消されてしまう業界なのである。




忍びの者/風魔小太郎(ふうまこたろう)

その昔、相模の国に風間(かざま)という山間の小さな村があった。

村に暮らす一族は、
大陸から移住した騎馬集団という説もあるが、
その由来は謎に包まれている。
普段は狩猟や杣(そま)仕事をして細々と暮らし、
戦になると散り散りに消えていく。

小田原の北条氏が召し抱えた忍者部隊、風魔一族。
頭目は代々、風魔小太郎と名乗った。

彼らが得意としたのは、奇襲攻撃。
手当たり次第に将兵を生け捕りにし
火を放ち、武器や食料を略奪する。

二百人を超える大所帯であったが、
紛れ込んだ忍者を見分ける術も持っていた。

それは「立ちすぐり居すぐり」と呼ばれ、
不意に出される号令に合わせて
立ったり座ったりする符牒のようなものだった。
動きに合わせられない者は敵方の忍者と見なされ、
ことごとく斬り捨てられてしまったという。

一流の忍者は、リスクヘッジも万全なのである。






忍びの者/下柘植木猿・小猿(しもつげのきざる・こざる)

伊賀の国に、二人の忍者がいた。
兄弟なのか親子なのか定かではないが、
名前を下柘植木猿・小猿という。

その名の通り、猿のように身軽だった。
木の葉を揺らすことなく
枝から枝へ飛び移る秘伝の技、
忍法「浮足」を得意にした。

刀の鍔に足をかけて飛び上がり、
枝に取り付いたら刀をするすると引き上げる。
その姿はまるで漫画のようだが、
なるほど、木猿は猿飛佐助のモデルにもなっている。




忍びの者/松之草小八兵衛(まつのくさこはちべえ)

ドラマ水戸黄門に登場する忍者と言えば
風車弥七だが、そのモデルは実在する。

名前は、松之草小八兵衛。
元々盗賊の頭であったが、
捕縛され打ち首になる寸前、
光圀公に見いだされ無罪放免となる。

その後は密偵として働き、
光圀公に他国の情報を知らせたという。

諸国漫遊をしたのは、小八兵衛なのかもしれない。




忍びの者/割田重勝(わりたしげかつ)

真田の忍者、割田重勝は、
武芸兵法に優れた忍びだったという。

いくつかの逸話も残っている。
上杉謙信の館に忍びこみ
秘蔵の刀を盗み出し手柄を立て、
また、大豆売りに扮すると
小芝居をうち敵方の駿馬を騙し取った。

しかし時代は変わる。
大坂夏の陣が終わり、徳川の世になった途端、
忍者の需要は極端に減った。

大名家に雇われる忍者は、ほんの一握り。
その役目と言っても隣国の諜報活動が主流となり、
忍び本来の持ち味を出す機会はなくなった。
職にありつけない忍者は、
割田重勝のように盗賊に身を落とす。
そして名も無き武士に討ち取られてしまう。

泰平の世では生きられない、
哀しい忍者の末路である。

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名雪祐平 11年6月26日放送


北原白秋 1

二歳の男の子が
腸チフスにかかり、高熱にうなされた。

忙しい母の代わりに、
乳母がつきっきりで必死に看病した。

男の子の命は助かったけれど、
乳母が腸チフスに感染し、
亡くなった。

自分から出た、凄まじい熱で、
代理の母親を焼き殺してしまった。

いつか、
本当の母親にもそうしてしまうのか…。

母殺しの恐怖とコンプレックスを抱えた男の子、
北原隆吉は、やがて、
北原白秋となる。






北原白秋 2

文学に熱中する息子を
父親はけっして許さなかった。

酒造りの商売を継がせるために、
商業高校に進学させなくてはならない。

文学書を読むことを一切禁じてしまった。

それでも息子は、
石垣のすきまや砂の中に
本をかくして読んだ。

けれども、限界はくる。
父親に無断で卒業間近の中学を退学し、
福岡の柳川の家を出たのだった。

行き先は、東京。

北原白秋、十九歳の旅立ちだった。




北原白秋 3

二十二歳の北原白秋が、
師事する与謝野鉄幹、晶子夫婦を訪ねた。

便所を借りたとき、
信じられないものを見た。

自分たち若手の没原稿が、
落とし紙として箱に積まれていたのだ。

人が心血をそそいた原稿で、
あの夫婦は尻をぬぐっていたのか!

白秋は激しく怒った。

鉄幹に対しては、
ほかの疑惑もふくらんでいた。

若手が身を削って表現した中心部分が、
いつのまにか鉄幹に流用されているのではないか。

もう、冒涜されるのはたくさんだ。

白秋ら7人の若手は
鉄幹が主宰する文学雑誌から
一気に脱退したのだった。

世の中の、
師匠と呼ばれるみなさまへ。

こんな
紙のリサイクルと、表現のリサイクルは
最低です。

つつしみましょう。




北原白秋 4

 母の乳は枇杷より温く
 柚子より甘し

という出だしから、

 母はわが凡て

と結ぶ最終行まで。

北原白秋の詩『母』には、
母の愛を求める情熱が示される。

けれども、白秋には
トラウマがあった。

幼い日、自分の病気が伝染し、
愛する乳母を死なせてしまったトラウマ。

自分の情熱によって、
相手を破滅させてしまうのではないか。

白秋にとって、恋愛の相手もそうだった。




北原白秋 5

明治時代、東京・原宿に
松下俊子という人妻がいた。

その隣りに暮らしていた、
独身、北原白秋。

憧れの美しい人妻と、
新進気鋭のハンサムな詩人。

恋に堕ちないわけがない。

けれど俊子の夫から、姦通罪で告訴され、
逮捕されてしまう。

輝く文壇から、
暗い牢屋の中へ、まっさかさま。

あとで示談が成立し、
二人は正式に結婚することになるが、
事件後の白秋は半狂乱になり、死まで考えたという。

 雨は降る降る 城ヶ島の礒に

白秋作詞の『城ヶ島の雨』は、
俊子との新生活を
三浦半島の三崎でおくっていたころのもの。

雨のなかで、
失意と希望が混じり合う。

白秋の心情が浮かぶ。




北原白秋 6

 君と見て
 一期の別れする時も
 ダリアは紅し
 ダリアは紅し

不倫スキャンダルの直後、
北原白秋は歌集『桐の花』で
再び評価をえる。

けれど、正式に結ばれた
松下俊子との結婚は長く続かなかった。

自分の情熱は
相手を破滅させてしまうものなのか。

いや自分のほうも
相手に疲れ果てていたのだった。

それは、相手にさめる
という破滅の1種。

もう、ダリアは紅くない。




北原白秋 7

二度失敗した北原白秋の
三度目の正直。

その相手が、
佐藤菊子だった。

童謡『ゆりかごのうた』は、
二人の間に生まれてくる
わが子を思って
作ったとされる。

数々の童謡の傑作をのこした白秋。

菊子夫人の温かい人柄や
2人のこどもに恵まれたことが
動機ともいわれている。




北原白秋 8

青より白。
春より秋。

北原青春より、北原白秋。

白秋とは、
青春の逆の方位、逆の境地を
意味するといわれる。

ものすごく早熟な中学生は、
青春まっただ中で、
自分のペンネームとして
白秋とつけたのだった。

そして晩年に、
青春前の
童謡をたくさん書いた白秋。

五十七歳という若さで亡くなったが、
最期の言葉は、

「ああ素晴らしい」

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佐藤理人 11年6月25日放送


タツィオ・ヌヴォラーリ① Who is Nuvolari?

ドリフト走行の発明者にして、
フェラーリの創始者エンツォ・フェラーリに、

 「史上最高のレーシングドライバー」

と言わしめた男、タツィオ・ジョルジオ・ヌヴォラーリ。

彼は1892年イタリアのマントヴァで生まれた。
162cmと小柄ながらその勇猛果敢なレーススタイルから
人は彼を生まれ故郷にちなんで「天翔るマントヴァ人」、
または

「悪魔と契約した男」

と呼んだ。

ヌヴォラーリがフェラーリにもたらした32勝という勝ち星は、
いまだ誰にも破られていない。




タツィオ・ヌヴォラーリ② 1924年 エンツォとのドリフト

ヌヴォラーリのドライビングは独特だった。
頭をハンドルに近付け肘を動かしながら操縦する姿は、

 速いが品がない

と評された。そんな彼の天性をいち早く見抜いたのが、
フェラーリの創始者エンツォ・フェラーリだ。

1924年のある日、
エンツォはヌヴォラーリに助手席に乗せるよう頼んだ。

ピンチは早くも最初のコーナーで訪れた。
速すぎて曲がれない。このままでは土手に落ちてしまう。
エンツォが最悪の事態を覚悟した瞬間、
テールがなめらかに滑り向きが変わり、車は再びまっすぐ走りだした。

今で言う「ドリフト走行」だが、
当時そんな走り方をするドライバーは誰もいなかった。

驚いたエンツォがヌヴォラーリを見ると、
その横顔は汗一つかいていなかったという。




タツィオ・ヌヴォラーリ③ 1930年 ミッレミリア

イタリア全土を1000マイルに渡って走破する伝説のレース「ミッレミリア」。

1930年、ヌヴォラーリはこのレースにアルファロメオチームとして参戦した。
しかしチームメイトには宿敵アキーレ・バルツィがいた。

資産家の息子、端正なルックス、几帳面で安定したドライビング。
自分とは全てが正反対なバルツィにヌヴォラーリはライバル心を燃やした。

レースは折り返し地点でバルツィがトップ。
チームの勝利を優先した監督はペースを抑え完走を目指すよう
ヌヴォラーリに指示を出す。
しかしそんな指示を素直に受け入れるヌヴォラーリではない。
タイムも完走も関係ない。彼の頭にはバルツィに勝つことしかなかった。

最終区、ついにバルツィを視界にとらえたヌヴォラーリは
スピードを上げ間隔を詰める。それに気づきペースを上げるバルツィ。
猛スピードで闇夜を切り裂いていく二台のヘッドライト。

その時突然、バックミラーからヌヴォラーリのヘッドライトが消えた。
戸惑うバルツィ。後ろを振り返っても何も見えず、
排気音も自分の車の音でかき消され聴こえない。
しめた、ヌヴォラーリのマシントラブルだ!
バルツィが油断してペースを落とした隙に、
その横をヘッドライトを消した車が鮮やかに走り抜けた。

バルツィが気づいた時にはすでに手遅れだった。
彼の眼に映るのは再びヘッドライトを灯して
道路を煌々と照らしてゴールするヌヴォラーリの後ろ姿だった。







タツィオ・ヌヴォラーリ④ 1935年 ドイツグランプリ

1935年ドイツグランプリ。
会場のニュルブルクリンクは40万人の観客で埋め尽くされていた。

世界で最も長く、最も過酷なこのサーキットで優勝することは、
すなわち自国の工業技術の優位を全世界に誇示することである。
そう考えたドイツは膨大な資金を投入、モンスターマシンを開発してきた。

対するイタリアチームは技術力では全く歯が立たず、
マシンの能力差は歴然で、ドイツ勢の優勝を疑う者は一人もいなかった。

レースは終止メルセデスベンツがリード。
それでもヌヴォラーリはアクセルを踏み続け、
神業のようなドリフトを駆使し、全身全霊でハンドルを握り続けた。

残り1周の時点でついに2位にまで浮上するも、
1位のメルセデスのブラウチスチとはまだ30秒もの差があった。

猛烈に追い上げるヌヴォラーリ。必死で逃げるブラウチスチ。
ところが最終コーナー直前、無理なペースアップが災いし、
ブラウチスチのタイヤが破裂。
コーナーから先に飛び出しフィニッシュラインを越えたのは、
ヌヴォラーリの深紅のアルファロメオだった。

マシンを降りたヌヴォラーリは、

 イタリア国旗を買って来い!

と叫んだ。自国の勝利を確信していたドイツは、
国旗はおろか、
イタリア国歌のレコードすら用意していなかったのだ。

その日流れたイタリア国歌は
自らの勝利を信じ続けたヌヴォラーリが持参した
レコードによるものだった。




タツィオ・ヌヴォラーリ⑤ 1936年 ヴァンダービルトカップ

アメリカ最古の国際レース「ヴァンダービルトカップ」。
この1936年の参戦にあたりヌヴォラーリは迷っていた。
最愛の息子ジョルジュが長期入院中だったのだ。
悩んだ末彼は

これまでに無い大きな 優勝カップを持って帰ってくるよ

と旅立った。

結果、彼は2位に大差をつけて優勝を果たす。
優勝カップは体が丸ごと入るほど大きかったと言う。

翌年再び参戦の依頼を受けたが、ジョルジュの病は更に重くなっていた。
しかし父親が誰よりもレースを愛していることを知っている息子は、

 勝ってきて

と懇願。その最後の頼みを叶えるため
ヌヴォラーリはニューヨーク行きの船に乗る。

渡米後のある晩、食事中に小さな紙が差し出された。
ジョルジュが息を引き取ったとの連絡だった。




タツィオ・ヌヴォラーリ⑥ 1950年 最後のレース

ある日イタリアの自動車ライター、
ジョヴァンニ・カネストリーニがヌヴォラーリにこんなことを尋ねた。

君はいつレースから引退するつもりなんだい?

するとヌヴォラーリは怒って答えた。

俺がレースをやめるよりも、君がレースの記事を書かなくなる方が先さ

事実、彼は現代でも信じられない年齢で現役を続けていた。
1948年には56歳でフェラーリチームに起用、
1950年にはシシリーで行われたヒルクライムレースでクラス優勝を飾る。

しかしこの時すでに病が彼の体を蝕んでいた。

 どんな車でも意のままに操った私が、自分の体をコントロールできないとはな

激しい咳の発作や吐血に襲われ、
このレースを最後にヌヴォラーリが二度とコースを走ることはなかった。




タツィオ・ヌヴォラーリ⑦ 1953年 ベッドの上で

不世出の天才レーサータツィオ・ヌヴォラーリは、
1953年8月11日、自宅のベッドの上で

 ユニフォーム姿で埋めてくれ

と妻に言い残し息を引き取った。

「TN」のイニシャルの入った黄色いシャツと淡い青色のズボン、
襟には縁起をかついでつけていた亀のブローチ。

その裏には友人の詩人ガブリエーレ・ダヌンツィオから贈られた

 忠実な機械の力を極限まで駆使し、
勝利への道に横たわる死の陰に最後までその生命を与えぬ者

というメッセージが彫られていた。
また墓碑には牧師が新約聖書から引用した

 天国にあっても汝は速く走らん

の文字が彫られた。
文字通り人生を駆け抜けたヌヴォラーリらしいひと言であった。

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小野麻利江 11年6月19日放送


1 友達について パリス・ヒルトン

洋服を選ぶときに、
ダサいのとオシャレなのを2つ選ぶの。
それで、友だちに聞くのよ。
「どっちがいい?」って。
それで、ダサいほうを選んだ人とは、
関係を絶つの。

つねに世界を騒がせるセレブ・
パリス・ヒルトンが、
ある時、そんなことを言ったという。

(自分のセンスを疑わない。)
彼女の生き方は、ここまでくると、潔い。





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薄 景子 11年6月19日放送


2 友達について 糸井重里

わざわざ口にはしないけれど、
記憶のどこかにしまってある。
そういうことを、糸井重里さんは
風がふくように、さらりとついてくる。

彼のつぶやき本から、
こんな言葉を見つけた。

冬の教室の、日だまりでのむだ話を、
いまの時代でも、
中学生や高校生たちはやっているのだろうか?

オレンジ色の光につつまれた放課後、
なんであんなに話すことがあったんだろうと
不思議なくらい、毎日だらだらしゃべっていた
あの頃がよみがえった。

糸井さんは言う。

大事なことは、ただひとつなのだ。
それは、「ともだちであること」だけなのだ。

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熊埜御堂由香 11年6月19日放送


3 友達について 山口瞳と向田邦子

1980年、直木賞、選考会。
はじめて選考委員になった、山口瞳は
先輩作家たちの前で思いきって、言った。

向田邦子はもう、51歳なんですよ。
そんなに長くは作家として
書き続けられないんですよ。

選考委員は一同、驚いた。
え?50代?もっと若く見えるぞ?

上手いけど、小味だ、
小説家としては、駆けだしだ、
という一部の反対がふっとゆらいで
向田は、直木賞を受賞した。

山口は受賞の記者会見で、
向田邦子さんは私より小説が上手です、
と笑いをとった。でも、本心だった。

その後も、彼女におせっかいなアドバイスを続けた。
例えばこんな風、「あ・うん?そんなのダメだ。
タイトルは一度でおぼえられる簡単なものにしろ」
そのたびに、向田は微笑みながら聞いていた。

向田邦子が、飛行機事故にあった通夜のあと
山口瞳は仲間と軍歌、「戦友」を歌った。
気づいたらひとりで、声をはりあげて歌っていた。
モノを書く、という戦いを生き抜く。
そういう覚悟でふたりは結ばれていたのだ。




4 友達について やなせたかし

アンパンマンの作者、
やなせたかしは言った。

ぼくらはしょせん
罪の子で
完全なひとはひとりもいない
もしいたとすれば友にしたくない

アンパンマンは、こげたマントで、
自分の顔を食べさせては、パワー不足で失速して、
なんだか、少しかっこわるい。
けれど、決してくじけない。
そうして、彼は
「子どもたちのヒ―ロ―」ではなくて、
ともだちになっていったんだ。

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石橋涼子 11年6月19日放送


5 友達について 金田一京助と石川啄木

言語学者・金田一京助と石川啄木は
10代の頃からともに文学の道を志した友人だった。
金田一が文学の道をあきらめたのは、
言語学に情熱が移った一方で、
啄木にかなわないと思ったためとも言われている。

なかなか売れない啄木のために
資金援助を続けた金田一だったが、
自分だってあまり裕福なわけではない。

あるときなどは、命の次に大切にしていた
愛蔵書をまるごと売り払って、啄木への援助金とした。
本当は、本への未練があったのだが、
その金で昼間から啄木といっしょにビールを飲み、
お互いの門出を陽気に祝ったのだという。

啄木は生来の我儘と浪費癖から、
多くの友人を失った。
金田一とももちろんケンカをした。
しかし啄木が亡くなる前に真っ先に枕元に呼んだのも、
真っ先に駆け付けてくれたのも、金田一京助だった。

金田一は、晩年、
啄木とのおかしな友情についてよく語った。
特に好んだのが、昼下がりにふたりで飲んだ
ビールの話しだったという。




6 友達について ジャイアン

お前のものは、俺のもの。
俺のものも、俺のもの。

この有名なセリフが生まれたときの話を
ご存知だろうか。

それは小学校の入学式の朝。
のび太がうっかり無くしてしまったランドセルを
ジャイアンは泥だらけになるのも構わず、
必死になって取り戻してくれた。
驚きと喜びで泣いてしまったのび太に
ジャイアンは照れ隠しであの名台詞を言ったのだった。

お前のものは、俺のもの。
俺のものも、俺のもの。だろ?

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薄 景子 11年6月19日放送


7 友達について ゲーテ

ドイツの文豪、ゲーテは言った。

空気と光と、そして友達の愛。
これだけが残っていれば、気を落とすことはない。

気づけばみんな、カタチがない。
気づけばみんな、お金で買えない。

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小野麻利江 11年6月19日放送


8 友達について 盛田昭夫

井深大(いぶかまさる)らとソニーを創業した、盛田昭夫。
人とのコミュニケーションを大切にし、
そのための努力を怠らなかった。


オフィスのコンピュータには、
7000人にものぼる友人や知人の
趣味や誕生日を、インプット。
何かあるたびに必ず、カードや礼状を送った。


またある時は、コミュニケーションの本質を、
「電波」にたとえて説明した。

相手の電波が何チャンネルに合っているかを知って
その電波を出せば、ちゃんと受信する。

いかにも「ソニーの父」らしい、行動や発言だ。


しかし、そんな盛田は、
友情について、こう語る。

友情とは、二つの肉体に宿れる一つの魂である。

盛田の「人づきあいのテクノロジー」の中には、
大きな大きな、ハートがあった。

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