佐藤延夫 11年5月29日放送


幕末の人々/ヘボン

明治時代に、ヘボン式ローマ字を作った
アメリカ人宣教師、
ジェームス・カーティス・ヘボン。

医者でもあった彼は、
一切の報酬を受け取ることなく
私財を投じて患者の治療にあたった。
多いときでは一日で百人の診察をしたそうだ。

もともとヘボンの専門は、眼科。
それにもかかわらず、
直腸炎、脳水腫の手術まで
やってのけたというから恐れ入る。
のちに和英辞書の編纂も手掛けるヘボンだが、
彼が日本にやってきてすぐに覚えた言葉は、

   アブナイ
   コラ
   シカタガナイ

という3つの言葉だったという。
最後の一言は、いかにも日本人らしい。




幕末の人々/若尾逸平(わかおいっぺい)

財をなすには機を逃さぬこと。
そう教えてくれるのは、
幕末の商人、若尾逸平だ。

40里も離れた甲州と江戸を何度も往復し
桃、葉煙草、真綿を運んでいたが、
黒船来航の噂を聞くと、外国人との商売に目をつける。

生糸や真綿が売れるとわかれば真っ先に買い占め、
地元の鉱山で捨てられていた水晶の屑石も売り捌いた。
そして稼いだ1500両。
いつの間にか、水晶大尽と呼ばれるようになる。

ビジネスチャンスは、道端に転がっていた。




幕末の人々/岸田吟香(きしだぎんきょう)

幕末の横浜。
そこはまだ発展途上の街であり、
道は舗装などされていなかった。
風が吹くと土埃や馬糞が舞い上がり、
人々は目の病に苦しんだという。

幕末の事業家、岸田吟香もそのひとり。
横浜で名医と評判の宣教師、ヘボンの治療を受ける。
ところがヘボンは、吟香をひと目見るなり、
助手にならないかと持ちかけた。

のちにヘボンから与えられたのは、目薬の処方箋だった。
硫酸亜鉛を主成分とするこの薬を
「精錡水(せいきすい)」と名付け売り出したところ、
日本初の点眼薬として一躍評判になった。

岸田吟香は新聞の創始者として名を馳せたが、
商品を宣伝する方法にも創意工夫を見せた。
錦絵を用いたポスター広告、
新聞では初めてとなる連載広告、
架空の読者の質問に答える手法など、
広告プランナーとしても一流だったようだ。






幕末の人々/堤磯右衛門(つつみいそえもん)

人生の分岐点は、
どこで待ちかまえているかわからない。

江戸時代末期のこと。
堤磯右衛門という男の場合、
運命の瞬間は、油で汚れた手を洗っているときに訪れた。

フランス人の知り合いが渡してくれた四角い物体。
これを使うと、しつこい汚れが魔法のようによく落ちた。
さっそく作り方を聞き出し
磯右衛門は、石鹸の製造を決意する。

  大いに感慨する所あり、輸入を防ぎ国益を興すの一端

新たなビジネスを生む原動力は、感動にあり。




幕末の人々/中川嘉兵衛(なかがわかへえ)

商売の才能とは、
目先の金勘定だけではない。
時代の先を読むこと。
いつだってこの結論に達する。

幕末の商人、中川嘉兵衛は
廃品回収の仕事を足がかりに、
アメリカ人医師の助手、
牛乳販売、イギリス軍の食料調達などに精を出す。
そのうちに、外国人が大量の牛肉や牛乳を消費することに注目した。

そして始めた牛鍋屋は繁盛するのだが、
嘉兵衛はすぐに次の商売に切り替える。
それは、食品の保存用、医療用として必要不可欠な氷の調達だった。
函館、五稜郭の外堀に張られた天然の氷を買い付け、船で横浜に運ぶ。
もちろん港には貯蔵庫を用意し、
道行く人にもコップ一杯八文の値段で売り出した。
横浜の馬車道では、この水欲しさに2時間待ちの行列ができたという。
水の名前は、五稜郭の氷。
その味に感動した九代目市川団十郎は、こんな句を残している。

  身に染むや夏の氷のありがたき

ミネラルウォーターは、明治時代にもあった。




幕末の人々/田中平八

相場師というのは、
生まれたときから相場師のようだ。

信濃生まれの商人、田中平八は
わずか14歳で大坂の堂島に乗り込んで
米相場に手を出したという。

彼がのちに巨万の富を築いたのは、生糸相場。
市場で生糸の値が上昇する気配を見極め、
直ちに産地で買い占めを行った。

度胸があり、
駆け引きもうまく、
押し出しもきく。
田中平八が「天下の糸平」と呼ばれるのも
生まれたときから決まっていたみたいだ。




幕末の人々/大谷嘉兵衛(おおたにかへえ)

幕末から明治時代にかけて
多く輸出されたのが、緑茶だった。
横浜には多くの産地から茶葉が集まったが
なにしろ人馬や船で運ぶため、
種類も鮮度も入り乱れる。
うまく調合しないと売り物にはならなかった。

その点、大谷嘉兵衛という商人は、
製茶の技術に秀でていた。

のちに嘉兵衛はアメリカの商社に雇われ、
大坂で茶葉の大量仕入れを命じられる。
わずか3ヶ月で26万8千両。
今でいう百数十億円の買い付けに成功した。

芸は身を助く。そして財を生む。




幕末の人々/快楽亭ブラック

スコットランド生まれの実業家、
ジョン・レディー・ブラックは数々の事業に失敗し、
幕末の日本に流れ着く。

日本では新聞事業に乗り出すが、
商売としては上手くいかなかった。

彼の後を追って来日した息子は、
なぜか芸の世界に身を置いた。
名前は、快楽亭ブラック。
流暢な日本語で話題を集めたものの、
人気は長続きしなかった。

生まれてくる時代が、少し早かったのだろうか。

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渋谷三紀 11年5月28日放送


ある夫婦のおはなし「和田誠さんと平野レミさん」

一目惚れというものがあるとすれば、
一耳惚れというものがあっても、おかしくはない。

イラストレーターの和田誠さんは、
ラジオから聞こえてきた声の持ち主に、恋をした。
いちども姿も見ないうちに。

何とか約束をとり付け、初めて彼女に会いに行く途中、
「和田さん、どこに行くの?」
と聞かれ、
「僕のお嫁さんになる人に会いに行く。」
と答えたそうだ。

そのお嫁さんこそが、ご存じ料理愛好家の平野レミさん。

ちなみに和田さんは結婚して40年近くたった今でも
奥さんの絵を描いたことがない。


その理由を平野レミさんは笑ってこう答える。

「好きな人の絵は描けないんだって」




ある夫婦のおはなし「伊丹十三さんと宮本信子さん」

「一本でいから、映画を撮ってもらいたいの。」

妻で女優の宮本信子の言葉をきっかけに、
伊丹十三はメガホンをとった。

その後の伊丹映画すべてに主演した宮本。
それまでどちらかといえば脇役の女優だった彼女は、
夫の映画でその才能を大きく開花させた。

「タンポポ」では、寂れたラーメン屋の強くけなげな女主人。
「マルサの女」では、そばかすにおかっぱの憎めない女性。
スクリーンの中の愛くるしい宮本に、日本中が恋をした。

しかし伊丹の演技指導の厳しさはよくしられたところ。
妻だからといって容赦はしない。
いや妻だからこそ余計に容赦はしない。

監督としての厳しさ、夫としての愛情、
それに懸命に応えた女性の歴史は、
日本映画史に残る名作として、愛され続けていくはずだ。




ある夫婦のおはなし「まどみちおさんと奥さん」

まどみちおさんの詩「トンチンカン夫婦」。
そこに描かれているのは、
91歳のまどさん自身と84歳の妻の日常。

左右の靴下を同じ足に履く。
米を入れずに炊飯器のスイッチを入れる。
いわゆる認知症の症状も
まどさんにかかれば、こうだ。

おかげでさくばくたる老夫婦の暮らしに

笑いはたえずこれぞ天の恵みと

図にのって二人ははしゃぎ

夫婦が老いていくことを、
嘆くでもなく美化するでもなく
愛をもって受け入れてしまおうと、
その詩は語りかける。

 明日はまたどんな珍しいトンチンカンを

お恵みいただけるかと胸ふくらませている

厚かましくも天まで仰ぎ見て…




ある夫婦のおはなし「谷川俊太郎さんと佐野洋子さん」

詩人 谷川俊太郎さんと画家 佐野洋子さん夫婦。

「それでも彼を愛していたのよ」

そう前置きをして佐野さんが話すのは、
こんな結婚生活のエピソード。

ある日、谷川さんがこんなことを言って来た。

「僕がキミに書いた手紙、雑誌に載せていい?」

ふたりだけの思い出を世間に公開するなんて。
さすがに佐野さんも驚く。
でもそこは、アーティストどうし。
詩人の彼には、ラブレターもひとつの作品だからと
自分に言い聞かせ、うなづいた。

「いいわよ。じゃ、もって来る。」

谷川さんはさらに言う。

「大丈夫。もうコピーとってあるから。」

あなたが凡人なら、
天才をすべて理解しようと思わないほうがいいし、
あなたがおんななら、
おとこをすべて理解しようと思わないほうがいい。




ある夫婦のおはなし「お龍と松兵衛」

幕末のヒーロー坂本竜馬
そしてその妻お龍

ふたりが夫婦として暮らしたのはわずか3年だった。
龍馬の死後、お龍は35歳で西村松兵衛と再婚し
66歳で死ぬまで松兵衛の妻だった。

松兵衛は呉服の行商人で
龍馬に較べれば当然ながら平凡な男だっただろう。
お龍は晩年酒びたりになり、
竜馬の名をつぶやきながら亡くなったと言われる。

お龍の墓は横須賀の信楽寺(しんぎょうじ)にある。
墓石には「坂本龍馬の妻」と刻まれている。

再婚しても龍馬の妻でいたかったお龍と
その世話をした松兵衛。
これも一途な夫婦のありかたかもしれない。






ある夫婦のおはなし「岡本太郎さんと敏子さん」

いつまでも恋人のような夫婦でいたい。
たとえば、岡本太郎さんと敏子さんみたいに。

ある日、太郎さんが書いた「男女」という文字を見て、
敏子さんが尋ねた。

「やっぱり男が上なのね。」

その言葉に、太郎さんはにっこり笑って答えた。

「そうだよ、いつだって女が支えてるんだ。」

たいていの恋は長く続かないというけれど、
何度も恋してしまう相手となら、
きっとずっと恋していられる。




ある夫婦のおはなし「庵野秀明さんと安野モヨ子さん」

漫画界のWアンノこと、
「エヴァンゲリオン」の庵野秀明、
「働きマン」の安野モヨ子夫婦。

妻の描いたエッセイ漫画「監督不行届」には
人気漫画家どうしのユニークな日常がつづられている。

自他共に認めるオタクの夫は、
大人になった今でも戦隊ヒーローを愛してやまない。

結婚式ではウェディングドレスの妻の横に、
仮面ライダーのコスプレで立ち、
ウルトラマンの「シュワッチ」ポーズを
所かまわずくりかえす。

戸惑いながらも、そんな夫の習性を受け入れ、
自らもオタク的生活を楽しんでしまう妻の姿は、
笑いをこえて、感動をよぶ。
そんな妻に対して、夫はこんなコメントをよせている。

「嫁さんは気丈な女性だと思われてますが
ものすごく繊細で脆い女性なんです。
だから全力で守りたいですね。この先もずっとです。」

地球を救うヒーローにはなれないかもしれないけど、
愛する妻を救うヒーローにはなれそうですね、庵野さん。

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三國菜恵 11年5月22日放送


生き物のはなし/いとうせいこう

ベランダで、花を育てている。
けれども、うまくいかず
ときには、枯らしてしまうこともある。

クリエイター・いとうせいこうは
そんな失敗を繰り返すひとり。

けれども彼はその失敗を、とても大事に考えている。

園芸は植物を支配することではないのだ。
むしろそれが出来ないことを教えてくれるのである。




生き物のはなし/高村光太郎

作家としてはもちろん、
彫刻家としても数多くの作品を残した
高村光太郎。

彼は、ある生き物のことが
特別好きだった。

それは、セミ。

彫刻のモチーフとして
すばらしい姿をしている
と考えていたようで、

セミを見つけにいくことを
「モデル漁り」、なんて言い方をしていた。

加えて、やかましく聞こえがちなあの声も
高村にとっては愛らしく聞こえていたらしい。

あの一心不乱な恋のよびかけには
同情せずにいられない。

まっすぐなセミの声は、
まっすぐな心をもつ高村に、心地よく聞こえていたようだ。

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三島邦彦 11年5月22日放送


生き物のはなし/コンラート・ローレンツ

卵からかえったひなは、
最初に見た生き物を母親だと思いこむ。

この、「刷り込み」理論の研究などで、
動物行動学をうちたてたノーベル賞学者、コンラート・ローレンツ。

従来の動物学の主流であった解剖による研究とは一線を画し、
生きた動物とともに暮らし、
徹底的に観察することによって、
その行動に隠された法則を発見した。

幼いころから家に様々な動物を引っ張り込んでは
熱心に観察していた彼。

一緒に暮らす両親や妻の忍耐が、
彼の生き生きとした発見を支えていた。
彼はそんな自らの研究生活への
家族の理解に深く感謝し、こう語った。


 ネズミを家の中で放し飼いにして、そいつが家じゅう勝手に走りまわり、
 敷物からきれいなまるい切れはしをくわえだして巣をつくっても
 我慢してくれ、といえる夫は、私のほかにはいそうもない。




生き物のはなし/ファーブル

「哲学者のように思索し、芸術家のように観察し、
詩人のように感覚し表現する偉大なる学者。」
と称えられた昆虫学者、ファーブル。

彼が人生をかけて何度も追加や修正を繰り返した『昆虫記』は、
単なる観察記録に終わらず、世界への発見に満ちている。

晩年、その『昆虫記』の決定版を完成させるにあたり、彼はこう語った。

 昆虫の世界は実にあらゆる種類の思索の糧に富んでいる。
 もしも私が生まれ変わり、また幾度か長い生涯を再び生き得るものとしても、
 私はその興味を汲みつくすことはないであろう。


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中村直史 11年5月22日放送


生き物のはなし/ルドルフ・シェーンハイマー

「私」という存在は何者なのか。
その難題に答えを出そうとしてきたのは
哲学者だけではない。

科学者もまた、
「私」が何者かを探し続けてきた。

その中でも
1930年代に活躍した生物化学者
ルドルフ・シェーンハイマーの研究は
「私」のとらえかたに大きな変革をもたらすものだった。

シェーンハイマーは体の中にとりこまれた食物が、
どのように体の一部となり、
どれくらいの期間とどまり続けるのかを解明した。

その結果、驚くべきことに、
動物の細胞はほんのわずかの期間に
どんどんいれかわっていることがわかった。

つまり、物質的な意味で言えば、
今日の「私」は、数ヵ月後にはもうまったく違う「私」になっている。
シェーンハイマーはこういった。

 生命とは代謝の持続的変化であり、この変化こそが、生命の真の姿である。

私という存在は
言ってみれば、移りゆく粒子のよどみ。
そう聞くと、少し世界が変わってみえませんか。




生き物のはなし/阿部宗明

その魚は、自分につけられた名前に
少しがっかりしているかもしれない。
その名も「ウッカリカサゴ」。

名づけ親と言われているのが、
魚類学者である阿部宗明(あべときはる)。

うっかりすると、カサゴと区別できない。
そして、日本の学者が毎日見慣れたカサゴが
別種だったことをロシアの学者に発表され、
「いやはやうっかりしていた」と、この名前がついた。

ちなみに、カサゴは体の斑点が不明瞭なのに対して
ウッカリカサゴの斑点はくっきりしている。

このつぎ魚屋さんに行ったら
じっくり観察してみませんか?
うっかりしなければ、
きっと見分けることができるはず。

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三島邦彦 11年5月22日放送


生き物のはなし/大根常雄さん

海の命を恵みとして受け取る仕事。それが漁師。
石川県の漁師、大根常雄(おおね つねお)さんは、
無数の生き物たちを抱える能登の海について、こう語る。

 海はちゃんとうめえようになっとる。
 ここは恵まれたいい海よ。
 船を下りても、年寄りはみんな海を見に、毎日きとるわ。

人間もまた、海に育てられる生き物のひとつのようです。

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三國菜恵 11年5月22日放送


生き物のはなし/野毛山動物園の飼育員たち

横浜市にある野毛山動物園には
いっぷう変わった場所がある。
その名も、「しろくまの家」。


名前のとおり
しろくまが暮らしているのか、と思いきや
そこには何の姿もない。

そして入口には、こんな文字。

みなさんもホッキョクグマになったつもりで、
また飼育係になったつもりで探検してみましょう。

そう、ここはかつてしろくまが暮らしていた家。

飼育員さんたちはそこをお客さんに開放して、
自由に見てもらえるようにしたのだ。

しろくまがいたのと同じ場所に立って
景色を眺める人もいれば、写真を撮り合う人もいる。
それはとっても明るい光景。

飼育員さんたちのはからいで
「しろくまの家」は、今も変わらず
お客さんのいい顔であふれている。

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小山佳奈 11年5月21日放送


湯川秀樹の衝撃

1949年。
あるニュースに
日本中が狂喜した。

日本人の物理学者が初めて
ノーベル賞を受賞したという。

敗戦ですべてを失ったこの国に
彗星のごとく現れたニューヒーロー。

彼のもとに押し掛けた
信じられない数の報道陣の中から
一人の記者がたずねた。

「賞金で何を買いますか」

彼はにやりと笑ってこういった。

「まずは子どもにグローブでも
 買うてやりましょうか」

湯川秀樹。

その軽妙な受け答えはまぎれもなく
ニューヒーローの誕生であった。






少年、湯川秀樹

物理学者、湯川秀樹の
少年時代はというと。

内気で無口で
友だちはほぼいない。
算数が得意で鉄棒が苦手。
納得がいかないと「言わん」と
押し黙ってしまうその頑固さから、
ついたあだ名は「イワンちゃん」。

ノーベル賞のような晴れ舞台など
クラスの誰も想像しなかった。

それから30年。

スウェーデンでの授賞式、
壇上に立ち流暢な英語でスピーチをする彼は
もう内気で無口な少年ではなかった。

ただどんなに結果が出なくても
あきらめなかった頑固さは
「イワンちゃん」のままだった。




湯川秀樹と家系

湯川秀樹が中学生の頃。

湯川の父は息子の進路について
悩んでいた。

一家は代々学者の家系。
子供たちも当然学者にするべく育ててきた。

しかしこの三男、秀樹に関しては、
成績もぱっとせず、記憶力もよくない。
いっそのこと専門学校にやり
手に職をつけさせた方が
子どものためなのではないか。

河原町通りを悶々と歩いていると
秀樹の中学校の校長にばったり出会う。
校長は即座に言った。

「あの少年ほどの才能は滅多にない。
 わたしの養子にしたいくらいだ」

そしてめでたく秀樹は学者の道を歩む。

そのとき父が校長に会わなければ
危うく自動車工になっていたかもしれない。




湯川秀樹と奥さん

湯川秀樹の妻、スミさん。
彼女は研究室の誰もが手を焼く気難しい夫を
いとも簡単にあやつる術を身につけている。

研究が上手くいかず
いらいらして帰ってきた時には
だまって熱燗をさしだす。

かと思えば
「日本人はノーベル賞をとれないんですかね」
と無邪気に言ってみせ、夫の尻をたたく。

夫の力学はどの方程式より
単純で明快だということを
スミさんは知っている。




湯川秀樹とノルマ

ノーベル賞を受賞するほどの研究といえば
幾十年もの苦難を想像するが
湯川秀樹の場合はそうではなかった。

彼が何年もかかずらっていたテーマは
あまりに壮大で難解であったため
研究は遅々として進まず
担当教授から「論文はまだかね」と
催促される日々。

研究員という職業柄、
とにかく何か書かなければ
お給料がもらえない。

焦った湯川秀樹は
とりあえず別のテーマで一本書き
当座をしのごうと考えた。

それがまんまと
当たった。

だから人生はおもしろい。





湯川秀樹と学者

学者とはロマンチストな生き物である。

湯川秀樹はこう言う。

「わたしは学者として生きている限り、
 見知らぬ土地の遍歴者であり、
 荒野の開拓者でありたい。」

知識や才能はもちろんだが
夢を見続けられるかどうかが
もっとも大切。

学者とはロマンチストな生き物である。




湯川秀樹の研究所

1953年。
湯川秀樹のノーベル賞を記念して
京都大学に「基礎物理学研究所」が
つくられた。

もともと湯川のためだけの研究所だったが
せっかくなら若い研究者たちが集える場所にしたいと
湯川は考えた。

学外でも国外でも
湯川の考え方と反する者も
構わず受け入れる。
大腸菌を飼い始める者でさえ
にこにこと見守っていた。

「好きにやったらええ」

彼は本当に学問を愛していた。
学問を愛する人間を愛していた。

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蛭田瑞穂 11年5月15日放送


檀一雄の食卓

小説『家宅の人』で知られる作家、檀一雄。

世間には無頼派作家として通っていたが、
食生活に関しては規則正しく、ほとんどの食事は
自分の手でつくっていた。

その腕は文壇随一とも言われ、
『檀流クッキング』というエッセイも書いている。

買い物カゴを提げて商店街を歩くのが
日課だったという檀一雄はこんな言葉を残している。

この地上で、私は買い出しほど、好きな仕事はない。





寺山修司の食卓

寺山修司の食卓はいつも賑やかだった。

劇団「天井桟敷」を主宰していた彼のもとには、
陽が沈む頃になると、その日の夕飯にありつけなかった
劇団員たちが集まってきた。

家出してきた者が土産を持ってくることもあれば、
飲食店を営む劇団OBから、
不意に付届けが来ることもあった。

日ごとに違う人物が登場し、
日ごとに違う風景が繰り広げられた寺山修司の食卓。

彼は言う。

人生同様、食卓もまた劇場である。



澁澤龍彦の食卓

作家、澁澤龍彦。

ジャン・コクトーやマルキ・ド・サドの作品を日本に紹介し、
『高岳親王航海記』などの小説も執筆した。

百科事典的な博学の持ち主として知られ、
その著作は思想から美術、ヨーロッパ文化まで
幅広い範囲に渡った。

彼はまた美食家でもあった。

朝起きると「今日何を食おうか」というのが常で、
その日に捕れる相模湾の魚を心待ちにしていたという。

食に関して澁澤龍彦はこんな文章を記している。

アストロノミーは天文学のことだが、
この言葉の前にGをつけると、
ガストロノミーすなわち美食学となる。
アストロは星の意であるが、ガストロは胃の意である。
私はガストロノミーという言葉を聞くと、
自分の胃のなかで、無数の星が
軌道を描いて回転しているような気がしてくる。


まことに澁澤龍彦らしい表現である。


向田邦子の食卓

向田邦子の少女時代、向田家ではふたつの鍋で
カレーをつくっていた。

大きい鍋は家族用。小さい鍋は父親用。
父親のカレーは辛口で、肉も多かった。
早く大人になって、そのカレーが食べたい。
彼女はいつもそう思っていた。

カレーといえばもうひとつ、
向田邦子にはこんなエピソードがある。

人気ドラマ「寺内貫太郎」の脚本を執筆していた時、
彼女は寺内家の朝食として台本にこう書き加えた。

「ゆうべの残りのカレー」。

下町の家族の暮らしをわずか一行で表現した邦子の感性に
出演者もスタッフも感心したという。


井上ひさしの食卓

井上ひさしは歯医者が大の苦手だった。
虫歯ができても放置し続けたため、
やがて前歯を除くほとんどの歯が虫歯になった。

その痛みに耐えきれず、ある時彼は入院し、
重症の虫歯を一気に13本抜いた。

それ以来、井上ひさしは
やわらかいものしか食べられなくなった。

そんな彼のために、妻は歯に負担の少ない料理をつくった。

ハンバーグと揚げたチーズと
ニンジンを絞ったジュースを井上ひさしは特に好んだ。

彼は妻のつくる料理にこんな感想を述べている。

ただひとつのしあわせは、
家人が世にもまれな料理下手だったということだ。
彼女がもし料理上手だったら、
心をこめて作った料理に渋面を作る夫を、
やがて憎むようになっただろうから。

井上ひさしらしい感謝の仕方である。


遠藤周作の食卓

遠藤周作の家では
夕飯は漬物とあと一品と決まっていた。

毎日の献立を決めるのは妻の仕事で、
彼女には食事は質素をもって旨とすべし
という考えがあった。

周作はたまには贅沢をしたいと思うが仕方ない。
自分の仕事に口を出させないかわりに、
妻の仕事にも口を出さないというのが、
遠藤家のルールだったから。

そう思いながら、遠藤周作は明るく言う。

何はなくても家族みんなでたべる食卓はたのしい。
それはどこの家庭でも同じでしょう。
時々、夢で血のしたたるビフテキを食べている
自分の姿を見ますがね。



齋藤茂吉の食卓

歌人、齋藤茂吉は鰻に目がなかった。
その生涯で1000匹以上の鰻を食べたともいわれる。

太平洋戦争の最中、疎開先の山形で友人から鰻を送られた。

久しぶりに食べる極上の鰻に、茂吉はこんな句を詠んだ。

肉厚き
鰻もて来し
友の顔
しげしげと見む
いとまもあらず



田村隆一の食卓

詩人、田村隆一の晩年、朝食は決まって
妻のつくる弁当だった。

幼い頃から病弱で心臓の手術もした妻は朝が弱かった。

そのため、前の晩に弁当をつくり、
隆一の朝食として用意した。

目ざめると、隆一は弁当を持って2階に上がり、
窓の外を眺めながらそれを食べた。

朝早く、妻のつくった弁当をひとりで食べる。
その時間が隆一は好きだった。
窓の外には美しい鎌倉の海が見えた。

彼は妻の料理の味付けを気に入っていた。

家内の味つけは、
今風の料理屋より数段上です。


田村隆一はことあるごとに友人にそう吹聴していたという。

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小野麻利江 11年5月14日放送



希望のことば 「ショーシャンクの空に」のアンディ

希望とは、素晴らしいものだ。
たぶん、なによりも素晴らしい。
そして、それは決して、失われることがない・・・


アンディはそう言って、
決して希望を捨てようとしなかった。
冤罪をかけられ、
「終身刑2回」を言い渡されたにもかかわらず。

1994年に公開された映画、
「ショーシャンクの空に」の話である。

劇場公開時の興行収支は
赤字だったにもかかわらず、
この映画が、年を経るごとに
多くのファンを魅了しているのは、

希望を持ち続けたい。
私たちが無意識のうちに抱いているそんな願いを、
圧倒的なカタルシスとともに、
肯定してくれるから、かもしれない。




希望のことば アラン・ケイ

計算機科学者、アラン・ケイ。
コンピュータがまだ巨大かつ高価なマシンで、
そのため、複数の人間のあいだで「共有」するのが
当たり前だった時代に、
それを「個人ごとに利用する」という環境を構想した
通称「パソコンの父」。

「私たちはこれから、どうなるんだろう?」
そういった、将来に対する
不安や恐れに対しても、
天才的アイデアパーソンである彼が、
ありきたりな回答を、するはずもなく。

未来を予測する最善の方法は、
自らそれを創り出すことである。


こんなあざやかな「解」を
はじき出してしまうのだった。








希望のことば 山本一力

作家・山本一力の小説には、
一生懸命やっている人は、報われなくちゃね。
そんな、あたたかい眼差しがある。

バブル時代に億単位の借金を抱え、
その返済のために、小説を書いた。
しかし、新人賞を獲ってからも、
編集者にペケを出され続ける日々が続く。

そんな「しんどい」の連続の中で、
ずっと支えにしてきた言葉がある、と彼は言う。

『明日は味方』。
誰の言葉かは分かりませんが、
これは、一生の言葉です。
ひたむきにやっていれば、
必ず明日は、味方になる。

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